今日(9月8日)は「サンフランシスコ平和条約調印記念日」
1951(昭和26)年、サンフランシスコで対日講和会議(9月4日-8日)が開かれ、その最終日であるこの日、日本と連合国の間で「日本との平和条約(通称:サンフランシスコ平和条約)」と「日米安全保証条約」が調印された。日本を含めて59か国が調印したが、ソ連等3か国が調印を拒否し、中国は最初から招待されなかった。この時の日本の全権大使は吉田茂首相だった。
講和条約の締結は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を国際法的に終結させる意味を持つとともに、そこで決定される領土、賠償、国内措置などもろもろの条件が将来の日本のあり方を決定すると言う意味を持つものである。
この講和会議には日本を含めて59か国が参加したが、会議に招待されたが出席しなかった国、出席しても調印しなかった国がある。前者は、インド、ビルマなどのアジアの国であり、後者は、ソ連、チェコ、ポーランドなどの社会主義国である。そして、中国は会議に招待されなかった。それは、1049(昭和24)年10月に中華人民共和国が成立したが、台湾には国民政府があり、どちらの中国を招待すべきかについて、連合国間の調整がつかなかったからだと言われているが・・。こうして、講和条約は日本との交戦国全てとの「全面講和」ではなく、アジアと社会主義圏の幾つかの国を除いたものとなり、これらの国々とは、戦争の終結には個別の措置が必要となった。領土問題について、講和条約では、①朝鮮の独立の承認、②台湾と澎湖(ほうこ)諸島に対する全ての権利放棄、③千島列島とポーツマス条約で得た樺太の一部の全ての権利の放棄、④琉球諸島、小笠原群島等をアメリカ合衆国を唯一の施政権者とする国連の信託統治の下に置く等を規定していた。これによって、日本は、明治以降に獲得した植民地を手放し、沖縄県と小笠原諸島など東京との一部が「潜在主権」の下に残されたのである。また、賠償については、日本が戦争中に与えた損害や苦痛に対して賠償を支払う事が原則とされた。しかし、日本の資源は、完全な賠償を行うには十分にないとされ、また賠償は生産や沈船引き揚げ、その他の作業による日本人の役務で支払うこととされた。
戦争中に日本軍の侵略を受けたアジア・太平洋地域の諸国は特に賠償問題に大きな関心を持っていた。たとえば、フィリピンは講和条約に調印はしたものの賠償問題が終わるまで批准を延期したし、インドネシアは調印はしたが批准はせず別の条項を結ぶ事になった。講和条約には、東京軍事裁判その他の連合国の戦犯裁判を日本が受諾する旨の条文があるが、それ以上に日本の戦争責任や民主化の責任を明記したり再軍備を制限した条文はない。むしろ、日本が主権国として国連憲章五十一条の個別的または集団的自衛権をもつことと、日本が集団的安全保障の取り決めを自発的に締結することを許している。ソ連は講和会議で、この条約は日本の軍国主義の再現と日本の侵略国家への変質に備える保障がないと非難し、オーストラリアは日本軍国主義の復活に懸念を持つが、制限条約の中に入れることは多数意見に反するのでこれを尊重するとの演説をしていたといい、このようにサンフランシスコ講和は、敗戦国日本に過酷な条件と制限を課すものではなかった。講和会議が、日本にとって、寛大な内容のものとなった背景には、一言で言えば、戦後の米ソの冷戦の開始があり、その中で、アメリカが日本に対して期待する役割が変化したからである。戦後初期のアメリカの対日政策を支配した基本的な考え方は、戦争中の連合国が協力して、軍国主義日本を処罰し、将来日本で軍国主義が再現するのを阻止するためには、日本の政治・経済・社会の改革が必要であるとの思いであった。こうして、憲法の制定をはじめとする戦後改革が進められたのである。もし、このようなときに連合国が一致して対日講和を締結していたら、その内容は、後のサンフランシスコ講和と比較してもっと懲罰的なものとなっていただろうといわれている。しかし、1947(昭和22)年、アメリカの対外政策は対ソ封じ込めの冷戦政策が始まった。こうした状況の変化からアメリカの対日政策が変った。新たな対日政策の考え方は、日本を懲罰すべき敵国ではなく、冷戦の状況のなかでソ連に対抗するための協力国として位置づけようとするもので、日本の経済的安定が国内からの共産化を防ぐという観点に立って、改革よりも経済的復興を志向するものであった。そして、講和を締結以前に問題の処理を済ませる方針をとった。そして、日本での軍事基地の継続利用と日本に再軍備の問題を承認させることで動いた。そのような中で、吉田首相はこの機会を逃さず、主権と独立の回復と国際社会への復帰を獲得する事に勤めた。吉田は米軍の基地利用については積極的な姿勢を示したが、再軍備については、消極的な姿勢で臨んだ。しかし、時のダレスはこれを満足せず、吉田は、独立を回復するためには将来の再軍備を約束するほかはなかったようだ。そして、講和後の安全保障問題は、講和条約とは別個に日米間で安全保障条約を結ぶこととされた。そして、このことを前提に、アメリカはイギリスを始めとする同盟国と調整をし、こうした経過の下に出来た条約案をにサンフランシスコで調印したのである。そのため、この条約案を主導したアメリカの関心と力を反映するものとなっている。この講和条約については、日本国内でも、単独講和か全面講和かの論議を呼んでいたが、講和条約は全権委員によって署名された。しかし、日米安保条約についてはその内容を国内的にも明らかにしないまま、講和条約調印直後に吉田首相が1人で調印したことになっている。そのため、その後の国内では、右派左派の分裂と混乱が続く事になった。
兎に角、この条約は、ソ連・中国(当時支那)・インドと言った諸国の反対を無視する形で、米英中心の草案を作成し、会議も討議も一切認めない議事規則で強行したような結果となっている。が、この条約によって、正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した。なお、国際法上では、この条約が発効されるまでは「戦争状態」が続いていたとされており、ポツダム宣言の受諾を表明した1945(昭和20)年8月15日や、降伏文書に署名をした1945(昭和20)年9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとされている。1952年4月28日には条約が発効 され、この後、日本は、この条約を締結しなかった国々と個別の平和条約を締結したが、ソビエト連邦(現ロシア)とはいまだに平和条約を締結しておらず(法的には現在も関係不正常状態)、その結果,未だに、北方領土問題などを残したままになっている。
又、日米安全保障条約の問題は、今でも、沖縄などの米軍基地問題として残っている。
講和会議への中国招聘に対しては、代表政権についての米英の意見(中華民国か中華人民共和国か)が一致せず、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして、招請は見送られていたが、1952(昭和27)年4月28日、中華民国との間に日華平和条約が調印されているものの、未だに日本と中国の間には政治的に溝のある状態にある。
極東国際軍事裁判は東京裁判ともいい、第2次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判である。戦勝国が敗戦国を裁くという構図であったため、公平性などの点から裁判の有効性や評価については今も議論の対象になることが多い。今靖国神社への小泉首相などの参拝問題から東京裁判でのA級戦犯の扱いなどもマスコミを賑わしている。
しかし、日本国は、講和条約において、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾した(第11条)ことになっている(所謂、東京裁判の判決結果を受諾した)。もしこの問題を蒸し返すと、講和条約の内容そのものを否定する事にもなり大問題となる。そうなれば、日本は、まだ、連合国の諸国との間の戦争状態を国際法的に終結させられないことにもなってしまうのである。
戦後の経済発展により、日本は、もう、戦争の事など忘れてしまい、自由、自由と言っているが、今の日本が、、戦後、どのような状況下でどのような経過をたどって、今日の繁栄を築く事ができたのか・・・。日本は、戦後、正しく歴史教育をしてこなかった。この機会に、戦後の歴史を見直してみてもいいのではないか・・・。
(画像は、日本全権署名シーン・中央署名しているのが吉田首相。アサヒクロニクル。週刊20世紀より)
参考:
日本国との平和条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E8%AC%9B%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84
日本国との平和条約(中野文庫)
http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-5.htm
平和条約国籍離脱者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84%E5%9B%BD%E7%B1%8D%E9%9B%A2%E8%84%B1%E8%80%85
日本の戦後補償条約一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E8%A3%9C%E5%84%9F%E6%9D%A1%E7%B4%84%E4%B8%80%E8%A6%A7
1951(昭和26)年、サンフランシスコで対日講和会議(9月4日-8日)が開かれ、その最終日であるこの日、日本と連合国の間で「日本との平和条約(通称:サンフランシスコ平和条約)」と「日米安全保証条約」が調印された。日本を含めて59か国が調印したが、ソ連等3か国が調印を拒否し、中国は最初から招待されなかった。この時の日本の全権大使は吉田茂首相だった。
講和条約の締結は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を国際法的に終結させる意味を持つとともに、そこで決定される領土、賠償、国内措置などもろもろの条件が将来の日本のあり方を決定すると言う意味を持つものである。
この講和会議には日本を含めて59か国が参加したが、会議に招待されたが出席しなかった国、出席しても調印しなかった国がある。前者は、インド、ビルマなどのアジアの国であり、後者は、ソ連、チェコ、ポーランドなどの社会主義国である。そして、中国は会議に招待されなかった。それは、1049(昭和24)年10月に中華人民共和国が成立したが、台湾には国民政府があり、どちらの中国を招待すべきかについて、連合国間の調整がつかなかったからだと言われているが・・。こうして、講和条約は日本との交戦国全てとの「全面講和」ではなく、アジアと社会主義圏の幾つかの国を除いたものとなり、これらの国々とは、戦争の終結には個別の措置が必要となった。領土問題について、講和条約では、①朝鮮の独立の承認、②台湾と澎湖(ほうこ)諸島に対する全ての権利放棄、③千島列島とポーツマス条約で得た樺太の一部の全ての権利の放棄、④琉球諸島、小笠原群島等をアメリカ合衆国を唯一の施政権者とする国連の信託統治の下に置く等を規定していた。これによって、日本は、明治以降に獲得した植民地を手放し、沖縄県と小笠原諸島など東京との一部が「潜在主権」の下に残されたのである。また、賠償については、日本が戦争中に与えた損害や苦痛に対して賠償を支払う事が原則とされた。しかし、日本の資源は、完全な賠償を行うには十分にないとされ、また賠償は生産や沈船引き揚げ、その他の作業による日本人の役務で支払うこととされた。
戦争中に日本軍の侵略を受けたアジア・太平洋地域の諸国は特に賠償問題に大きな関心を持っていた。たとえば、フィリピンは講和条約に調印はしたものの賠償問題が終わるまで批准を延期したし、インドネシアは調印はしたが批准はせず別の条項を結ぶ事になった。講和条約には、東京軍事裁判その他の連合国の戦犯裁判を日本が受諾する旨の条文があるが、それ以上に日本の戦争責任や民主化の責任を明記したり再軍備を制限した条文はない。むしろ、日本が主権国として国連憲章五十一条の個別的または集団的自衛権をもつことと、日本が集団的安全保障の取り決めを自発的に締結することを許している。ソ連は講和会議で、この条約は日本の軍国主義の再現と日本の侵略国家への変質に備える保障がないと非難し、オーストラリアは日本軍国主義の復活に懸念を持つが、制限条約の中に入れることは多数意見に反するのでこれを尊重するとの演説をしていたといい、このようにサンフランシスコ講和は、敗戦国日本に過酷な条件と制限を課すものではなかった。講和会議が、日本にとって、寛大な内容のものとなった背景には、一言で言えば、戦後の米ソの冷戦の開始があり、その中で、アメリカが日本に対して期待する役割が変化したからである。戦後初期のアメリカの対日政策を支配した基本的な考え方は、戦争中の連合国が協力して、軍国主義日本を処罰し、将来日本で軍国主義が再現するのを阻止するためには、日本の政治・経済・社会の改革が必要であるとの思いであった。こうして、憲法の制定をはじめとする戦後改革が進められたのである。もし、このようなときに連合国が一致して対日講和を締結していたら、その内容は、後のサンフランシスコ講和と比較してもっと懲罰的なものとなっていただろうといわれている。しかし、1947(昭和22)年、アメリカの対外政策は対ソ封じ込めの冷戦政策が始まった。こうした状況の変化からアメリカの対日政策が変った。新たな対日政策の考え方は、日本を懲罰すべき敵国ではなく、冷戦の状況のなかでソ連に対抗するための協力国として位置づけようとするもので、日本の経済的安定が国内からの共産化を防ぐという観点に立って、改革よりも経済的復興を志向するものであった。そして、講和を締結以前に問題の処理を済ませる方針をとった。そして、日本での軍事基地の継続利用と日本に再軍備の問題を承認させることで動いた。そのような中で、吉田首相はこの機会を逃さず、主権と独立の回復と国際社会への復帰を獲得する事に勤めた。吉田は米軍の基地利用については積極的な姿勢を示したが、再軍備については、消極的な姿勢で臨んだ。しかし、時のダレスはこれを満足せず、吉田は、独立を回復するためには将来の再軍備を約束するほかはなかったようだ。そして、講和後の安全保障問題は、講和条約とは別個に日米間で安全保障条約を結ぶこととされた。そして、このことを前提に、アメリカはイギリスを始めとする同盟国と調整をし、こうした経過の下に出来た条約案をにサンフランシスコで調印したのである。そのため、この条約案を主導したアメリカの関心と力を反映するものとなっている。この講和条約については、日本国内でも、単独講和か全面講和かの論議を呼んでいたが、講和条約は全権委員によって署名された。しかし、日米安保条約についてはその内容を国内的にも明らかにしないまま、講和条約調印直後に吉田首相が1人で調印したことになっている。そのため、その後の国内では、右派左派の分裂と混乱が続く事になった。
兎に角、この条約は、ソ連・中国(当時支那)・インドと言った諸国の反対を無視する形で、米英中心の草案を作成し、会議も討議も一切認めない議事規則で強行したような結果となっている。が、この条約によって、正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した。なお、国際法上では、この条約が発効されるまでは「戦争状態」が続いていたとされており、ポツダム宣言の受諾を表明した1945(昭和20)年8月15日や、降伏文書に署名をした1945(昭和20)年9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとされている。1952年4月28日には条約が発効 され、この後、日本は、この条約を締結しなかった国々と個別の平和条約を締結したが、ソビエト連邦(現ロシア)とはいまだに平和条約を締結しておらず(法的には現在も関係不正常状態)、その結果,未だに、北方領土問題などを残したままになっている。
又、日米安全保障条約の問題は、今でも、沖縄などの米軍基地問題として残っている。
講和会議への中国招聘に対しては、代表政権についての米英の意見(中華民国か中華人民共和国か)が一致せず、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして、招請は見送られていたが、1952(昭和27)年4月28日、中華民国との間に日華平和条約が調印されているものの、未だに日本と中国の間には政治的に溝のある状態にある。
極東国際軍事裁判は東京裁判ともいい、第2次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判である。戦勝国が敗戦国を裁くという構図であったため、公平性などの点から裁判の有効性や評価については今も議論の対象になることが多い。今靖国神社への小泉首相などの参拝問題から東京裁判でのA級戦犯の扱いなどもマスコミを賑わしている。
しかし、日本国は、講和条約において、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾した(第11条)ことになっている(所謂、東京裁判の判決結果を受諾した)。もしこの問題を蒸し返すと、講和条約の内容そのものを否定する事にもなり大問題となる。そうなれば、日本は、まだ、連合国の諸国との間の戦争状態を国際法的に終結させられないことにもなってしまうのである。
戦後の経済発展により、日本は、もう、戦争の事など忘れてしまい、自由、自由と言っているが、今の日本が、、戦後、どのような状況下でどのような経過をたどって、今日の繁栄を築く事ができたのか・・・。日本は、戦後、正しく歴史教育をしてこなかった。この機会に、戦後の歴史を見直してみてもいいのではないか・・・。
(画像は、日本全権署名シーン・中央署名しているのが吉田首相。アサヒクロニクル。週刊20世紀より)
参考:
日本国との平和条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E8%AC%9B%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84
日本国との平和条約(中野文庫)
http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-5.htm
平和条約国籍離脱者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84%E5%9B%BD%E7%B1%8D%E9%9B%A2%E8%84%B1%E8%80%85
日本の戦後補償条約一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E8%A3%9C%E5%84%9F%E6%9D%A1%E7%B4%84%E4%B8%80%E8%A6%A7