今日(9月24日)は、「西郷隆盛」の忌日
西郷 隆盛(さいごう たかもり)は、1877(明治10)年9月24日、西南戦争に敗れ自決 した。<49歳> 西郷は1828(文政10年12月7日)薩摩国(現・鹿児島県)]に生まれる。江戸時代末期(幕末)から明治における日本の政治家。長州藩の木戸孝允(桂小五郎)、薩摩藩の大久保利通と並び「維新の三傑」と称される。
西南戦争(城山決戦)が大雨の中終わると、浄光明寺跡で参軍山県有朋・旅団長ら立ち会いのもと西郷 の検屍が行われ、浄光明寺跡(現在の南洲神社の鳥居附近)に埋葬(このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられていた)されていたが、1879(明治12)年、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。
1877(明治10)年2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが黒田清隆らの努力や明治天皇直々の働きがあって1889(明治22)年2月1日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位(位階)を追贈されている。 また、功により、子の寅太郎にも侯爵を賜っている。 鹿児島県鹿児島市の南洲墓地ある南洲公園内には、西郷隆盛を祀る南洲神社があるが、ほかにも、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にも南洲神社がある。
明治維新で第一の功臣として日本最初の陸軍大将となったが、1877(明治10)年の西南の役で、政府に対する反乱の首領として、城山決戦で非業の死を遂げた西郷隆盛 の銅像が、東京上野に建てられたのは、その死後も20年を経た1898(明治31)年のことであった。無造作な和服姿に犬を連れ、いかにも村夫子(そんぷうし=村の物知り。田舎の学者)然とした西郷の銅像は、他の明治の功臣たちの、軍服姿やフロックコート(男性の昼間用礼服。上着はダブルで丈はひざまであり、縞のズボンと組み合わせて着る)で、ことさらに威厳をとりつくろった銅像が多い中でひときわ異彩を放っているといっていいだろう。日本人が「西郷さん」また、鹿児島弁で「西郷どん」と広く敬意と親しみを込めて呼ぶ場合、そのイメージの原型はこの観光の名所にもなっている上野恩賜公園の西郷像にあるといってもいいのではないか。この西郷の着流し姿の銅像は、肖像画をもとに高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)によるものとされているが、この銅像の除幕式で、初めて亡夫の銅像を見た未亡人糸子が驚きの声を漏らすほど違和感を抱いたといわれている。
維新の立役者の写真が多数残っている中、自分の写真がないと明治天皇に明言しているといわれるほど」西郷は写真嫌いだったようで、事実、西郷の顔写真は一切残っていないのだそうだ。 西郷の死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった一枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであるという。(キヨッソーネは西郷との面識が一切なかったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。)
この西郷の評価は、殆ど信仰に近い感情で英傑の筆頭にあげる人もあれば、軍国主義的な反動政治家として、否定的に断ずる人もいたなど、これまで人により、時代により、様々に変ってきたが、いろいろな研究から、今では、茫洋とした風貌にかかわらず、極めて細心な人で、しかも、非常に精錬・潔癖な人としての評価が高いようである。
西郷の思想を表すものとして「敬天愛人 」がある。
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(『南洲翁遺訓』より)
日本史探訪(角川文庫)の中の西郷隆盛に、観音寺潮五郎氏(作家)の「月照事件」についての記載があり、そのなかに「敬天愛人 」について触れている。
1858(安政5)年11月、鹿児島の錦江湾に西郷と京都・清水寺の僧月照(げっしょう)の2人が身投げをするという事件があった。この年は安政の大獄の始まった年であり、一橋慶喜擁立派と尊王攘夷派とに対立する大老井伊直弼の過酷な弾圧が始まった。譲位討幕の志を抱いていた京都・清水寺の僧月照(げっしょう)も幕府に追われる身となった。西郷は、この月照を郷里薩摩に匿おうとしたが幕府の追求を恐れた薩摩藩はこれを拒んだため、困った西郷は、月照とともに自殺をしたのである。しかし、月照は死んだが、西郷は、程なく助けられ奇跡的に蘇ったのだそうだ。死に損なった、西郷は、自分だけが助けられ生き残った事に対して、当時の武士として、非常に悩み、生き恥を晒すぐらいならと後を追って死にたかったろうと思うが、西郷家の家族や彼の友人達は彼の目の届くところから刃物を隠したと伝えられているそうで、兎に角、西郷は、生き延びた。このとき、彼を落ち着かせてくれたのは、人間の運命は、全てこれ、天の賦与で、素直にそれにしたがって、しかも、十分に生かし切るものだということだった。彼の有名な「敬天愛人 」の思想は、この事件の中から生まれたのだろうという。「人間の運命は天の賦与であり、これを天と合致させることが、人間の完全な生き方である。全てを天に任せるきること。」そういう信仰に彼は達した。ならば、「その天とはなにか?。その本体は、仁であり、その用は愛である。人間は天を敬し、仁愛を身に体して行う。これが、即ち、天と合致することである。」という。そして、その方法はどうかと考え、そして、「天は無私無欲にして、その徳は愛情であり、人間も私欲を断ち切ることである。いっさいの私欲を断ち切ることによって、人間は天の心になることが出来る。そこで、仁愛が行えるし、行うべきである」と言うところまでに彼は達していると解説している。彼は陽明学の書物を読んだ形跡がないが、この思想は、陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」の境地に達しているという。この事件は西郷が32歳の時のことであり、自殺をはかったときの西郷には未熟さが見られるが、この事件以降、彼は、一つの悟りをひらいたようだ。しかし、入水事件で、西郷には、月照を保護しなければならない義理があったのだ。それは、前藩主斉彬の依頼を受けて月照は随分と働き、月照が幕府の追補を受けなくてはならなくなったのもそのことが大いにあったからで、それを、斉彬が死んで、藩の方針が変ったからというので、保護しようとしなかった。それを西郷が、せめて身をもって月照に殉じなければならないとしたのであり、それは、美しい立派な行為でもあった。薩摩藩の公式の調書では、このとき2人は死んだ事になっているそうで、薩摩藩は面倒な事態を恐れ、幕府の目をくらますべく、西郷に、奄美大島に身を潜めるよう命じている。その後、大久保利通ら西郷の僚友が、帰藩を藩主に嘆願しそれが、かなえられて、3年後に帰藩がゆるされている。その間に天下の情勢は大きく変化、再度の離島に囚われることもあったが、是非にとの帰藩を乞われ、西郷の活躍が始まるのであった。しかし、西郷は、33歳から38歳まで、5年もの間離島の憂き目にあっている。
明治維新において西郷は、勝海舟と会談し、江戸城は無血開城され、そのため、江戸は戦火をまぬがれた。その後、1871(明治4)年~6年の間は、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、近代日本の礎を作った。しかし、明治6年以降どうしたわけか新政府に積極的に係ろうとしなくなった。そして、主導権は西郷よりも僚友・大久保に移り、西郷は新政府に背を向けたかに見えるようになる。いよいよ新政府のもとに新しい政治体制を作るというときに、西郷よりも大久保の物事を合理的に判断し機能主義で進める方へ主導権が移っていったのであろう。西郷は、哲人的求道者であり、終生道を求める人であった。他の日本を天皇中心の国にし、西欧諸国と肩を並べられるような富国強兵の国にすることに抵抗があったのではないか。西郷には、国家は同義的でなければならないという主張があり、「西欧諸国は弱小国をいじめている。そんな国が文明国ではない」とまでいっていたという。その後の西南戦争にいたるもととなった、西郷の「征韓論」について、西郷を時代錯誤の交戦論者とする見方があるが、ここで、詳しい事は述べないが、西郷に朝鮮を征服しようなどと言う了見はなく、朝鮮は、地理的に日本にとって重要なところであり、そこに、悪意を持つ国が力をもっては困るので、自分が行って話しをまとめてこようといったものであったらしい。その後の歴史で、日本の韓国への侵略的なことが起こっているが、もし、西郷は、韓国へ行っていたなら、もっと、友好的な交渉が行われていたかもしれない。兎に角、西郷は、西南の役で悲劇の人生を終えたが、死後、20年経って、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈され、これに感激した旧友、吉井友実が、同士と共に追慕の情を表すべく建立したのが、西郷の銅像である。
その銅像の由来は以下を見るとよく分かる。↓
敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来→http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/866.html
又、西郷の思想を表す「敬天愛人 」は、『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』に書かれているが、南洲翁とは、西郷隆盛のことであるが、この『南洲翁遺訓』が、始めて世に出たのは、1890(明治23)年のことであり、この西郷の遺訓が地元鹿児島からではなく、山形県の庄内藩(今でいう山形県米沢)から著わされたことについてはある事情があった。その事情については、以下が詳しいので省略した。↓
西郷南洲翁遺訓 →http://shizennori.ftw.jp/u28615.html
西郷隆盛の歴史的な出来事などは、以下参考に記載のHPなどが詳しいので、 詳細を知りたい方はそちらで見られると良い。
(画像は、狩衣姿の西郷隆盛。西郷は、維新後初めての帰郷のときも明治6年政変後の帰郷のときも、好んで薩摩、大隈の各地に遊猟に出かけた。一つには壮士たちに担がれる事を避けたのだろうが、何よりも山野を狩猟して歩くことが最大の楽しみであり、幸せであったらしい。いつも、数頭の犬を連れていた。西南戦争の発端時にも猟に出かけていて、知らせを聞いて「しまった」と言ったそうだ。服部英龍画。鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
西郷隆盛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/index.htm
西郷隆盛に学ぶ会
http://www.sohrin.net/saigou/top.html
鹿児島県歴史資料センター黎明館
http://reimeikan.pref.kagoshima.jp/
西郷 隆盛(さいごう たかもり)は、1877(明治10)年9月24日、西南戦争に敗れ自決 した。<49歳> 西郷は1828(文政10年12月7日)薩摩国(現・鹿児島県)]に生まれる。江戸時代末期(幕末)から明治における日本の政治家。長州藩の木戸孝允(桂小五郎)、薩摩藩の大久保利通と並び「維新の三傑」と称される。
西南戦争(城山決戦)が大雨の中終わると、浄光明寺跡で参軍山県有朋・旅団長ら立ち会いのもと西郷 の検屍が行われ、浄光明寺跡(現在の南洲神社の鳥居附近)に埋葬(このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられていた)されていたが、1879(明治12)年、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。
1877(明治10)年2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが黒田清隆らの努力や明治天皇直々の働きがあって1889(明治22)年2月1日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位(位階)を追贈されている。 また、功により、子の寅太郎にも侯爵を賜っている。 鹿児島県鹿児島市の南洲墓地ある南洲公園内には、西郷隆盛を祀る南洲神社があるが、ほかにも、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にも南洲神社がある。
明治維新で第一の功臣として日本最初の陸軍大将となったが、1877(明治10)年の西南の役で、政府に対する反乱の首領として、城山決戦で非業の死を遂げた西郷隆盛 の銅像が、東京上野に建てられたのは、その死後も20年を経た1898(明治31)年のことであった。無造作な和服姿に犬を連れ、いかにも村夫子(そんぷうし=村の物知り。田舎の学者)然とした西郷の銅像は、他の明治の功臣たちの、軍服姿やフロックコート(男性の昼間用礼服。上着はダブルで丈はひざまであり、縞のズボンと組み合わせて着る)で、ことさらに威厳をとりつくろった銅像が多い中でひときわ異彩を放っているといっていいだろう。日本人が「西郷さん」また、鹿児島弁で「西郷どん」と広く敬意と親しみを込めて呼ぶ場合、そのイメージの原型はこの観光の名所にもなっている上野恩賜公園の西郷像にあるといってもいいのではないか。この西郷の着流し姿の銅像は、肖像画をもとに高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)によるものとされているが、この銅像の除幕式で、初めて亡夫の銅像を見た未亡人糸子が驚きの声を漏らすほど違和感を抱いたといわれている。
維新の立役者の写真が多数残っている中、自分の写真がないと明治天皇に明言しているといわれるほど」西郷は写真嫌いだったようで、事実、西郷の顔写真は一切残っていないのだそうだ。 西郷の死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった一枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであるという。(キヨッソーネは西郷との面識が一切なかったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。)
この西郷の評価は、殆ど信仰に近い感情で英傑の筆頭にあげる人もあれば、軍国主義的な反動政治家として、否定的に断ずる人もいたなど、これまで人により、時代により、様々に変ってきたが、いろいろな研究から、今では、茫洋とした風貌にかかわらず、極めて細心な人で、しかも、非常に精錬・潔癖な人としての評価が高いようである。
西郷の思想を表すものとして「敬天愛人 」がある。
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(『南洲翁遺訓』より)
日本史探訪(角川文庫)の中の西郷隆盛に、観音寺潮五郎氏(作家)の「月照事件」についての記載があり、そのなかに「敬天愛人 」について触れている。
1858(安政5)年11月、鹿児島の錦江湾に西郷と京都・清水寺の僧月照(げっしょう)の2人が身投げをするという事件があった。この年は安政の大獄の始まった年であり、一橋慶喜擁立派と尊王攘夷派とに対立する大老井伊直弼の過酷な弾圧が始まった。譲位討幕の志を抱いていた京都・清水寺の僧月照(げっしょう)も幕府に追われる身となった。西郷は、この月照を郷里薩摩に匿おうとしたが幕府の追求を恐れた薩摩藩はこれを拒んだため、困った西郷は、月照とともに自殺をしたのである。しかし、月照は死んだが、西郷は、程なく助けられ奇跡的に蘇ったのだそうだ。死に損なった、西郷は、自分だけが助けられ生き残った事に対して、当時の武士として、非常に悩み、生き恥を晒すぐらいならと後を追って死にたかったろうと思うが、西郷家の家族や彼の友人達は彼の目の届くところから刃物を隠したと伝えられているそうで、兎に角、西郷は、生き延びた。このとき、彼を落ち着かせてくれたのは、人間の運命は、全てこれ、天の賦与で、素直にそれにしたがって、しかも、十分に生かし切るものだということだった。彼の有名な「敬天愛人 」の思想は、この事件の中から生まれたのだろうという。「人間の運命は天の賦与であり、これを天と合致させることが、人間の完全な生き方である。全てを天に任せるきること。」そういう信仰に彼は達した。ならば、「その天とはなにか?。その本体は、仁であり、その用は愛である。人間は天を敬し、仁愛を身に体して行う。これが、即ち、天と合致することである。」という。そして、その方法はどうかと考え、そして、「天は無私無欲にして、その徳は愛情であり、人間も私欲を断ち切ることである。いっさいの私欲を断ち切ることによって、人間は天の心になることが出来る。そこで、仁愛が行えるし、行うべきである」と言うところまでに彼は達していると解説している。彼は陽明学の書物を読んだ形跡がないが、この思想は、陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」の境地に達しているという。この事件は西郷が32歳の時のことであり、自殺をはかったときの西郷には未熟さが見られるが、この事件以降、彼は、一つの悟りをひらいたようだ。しかし、入水事件で、西郷には、月照を保護しなければならない義理があったのだ。それは、前藩主斉彬の依頼を受けて月照は随分と働き、月照が幕府の追補を受けなくてはならなくなったのもそのことが大いにあったからで、それを、斉彬が死んで、藩の方針が変ったからというので、保護しようとしなかった。それを西郷が、せめて身をもって月照に殉じなければならないとしたのであり、それは、美しい立派な行為でもあった。薩摩藩の公式の調書では、このとき2人は死んだ事になっているそうで、薩摩藩は面倒な事態を恐れ、幕府の目をくらますべく、西郷に、奄美大島に身を潜めるよう命じている。その後、大久保利通ら西郷の僚友が、帰藩を藩主に嘆願しそれが、かなえられて、3年後に帰藩がゆるされている。その間に天下の情勢は大きく変化、再度の離島に囚われることもあったが、是非にとの帰藩を乞われ、西郷の活躍が始まるのであった。しかし、西郷は、33歳から38歳まで、5年もの間離島の憂き目にあっている。
明治維新において西郷は、勝海舟と会談し、江戸城は無血開城され、そのため、江戸は戦火をまぬがれた。その後、1871(明治4)年~6年の間は、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、近代日本の礎を作った。しかし、明治6年以降どうしたわけか新政府に積極的に係ろうとしなくなった。そして、主導権は西郷よりも僚友・大久保に移り、西郷は新政府に背を向けたかに見えるようになる。いよいよ新政府のもとに新しい政治体制を作るというときに、西郷よりも大久保の物事を合理的に判断し機能主義で進める方へ主導権が移っていったのであろう。西郷は、哲人的求道者であり、終生道を求める人であった。他の日本を天皇中心の国にし、西欧諸国と肩を並べられるような富国強兵の国にすることに抵抗があったのではないか。西郷には、国家は同義的でなければならないという主張があり、「西欧諸国は弱小国をいじめている。そんな国が文明国ではない」とまでいっていたという。その後の西南戦争にいたるもととなった、西郷の「征韓論」について、西郷を時代錯誤の交戦論者とする見方があるが、ここで、詳しい事は述べないが、西郷に朝鮮を征服しようなどと言う了見はなく、朝鮮は、地理的に日本にとって重要なところであり、そこに、悪意を持つ国が力をもっては困るので、自分が行って話しをまとめてこようといったものであったらしい。その後の歴史で、日本の韓国への侵略的なことが起こっているが、もし、西郷は、韓国へ行っていたなら、もっと、友好的な交渉が行われていたかもしれない。兎に角、西郷は、西南の役で悲劇の人生を終えたが、死後、20年経って、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈され、これに感激した旧友、吉井友実が、同士と共に追慕の情を表すべく建立したのが、西郷の銅像である。
その銅像の由来は以下を見るとよく分かる。↓
敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来→http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/866.html
又、西郷の思想を表す「敬天愛人 」は、『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』に書かれているが、南洲翁とは、西郷隆盛のことであるが、この『南洲翁遺訓』が、始めて世に出たのは、1890(明治23)年のことであり、この西郷の遺訓が地元鹿児島からではなく、山形県の庄内藩(今でいう山形県米沢)から著わされたことについてはある事情があった。その事情については、以下が詳しいので省略した。↓
西郷南洲翁遺訓 →http://shizennori.ftw.jp/u28615.html
西郷隆盛の歴史的な出来事などは、以下参考に記載のHPなどが詳しいので、 詳細を知りたい方はそちらで見られると良い。
(画像は、狩衣姿の西郷隆盛。西郷は、維新後初めての帰郷のときも明治6年政変後の帰郷のときも、好んで薩摩、大隈の各地に遊猟に出かけた。一つには壮士たちに担がれる事を避けたのだろうが、何よりも山野を狩猟して歩くことが最大の楽しみであり、幸せであったらしい。いつも、数頭の犬を連れていた。西南戦争の発端時にも猟に出かけていて、知らせを聞いて「しまった」と言ったそうだ。服部英龍画。鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
西郷隆盛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/index.htm
西郷隆盛に学ぶ会
http://www.sohrin.net/saigou/top.html
鹿児島県歴史資料センター黎明館
http://reimeikan.pref.kagoshima.jp/