今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「子規忌,糸瓜忌,獺祭忌」俳人・歌人の正岡子規の忌日

2006-09-19 | 人物
今日(9月19日)は、「子規忌,糸瓜忌,獺祭忌」
1902(明治35)年の今日(9月19日)は、俳人・歌人の正岡子規(まさおかしき)の忌日で、糸瓜忌、獺祭忌とも呼ばれている。
正岡子規(1867年10月14日[旧暦9月17日] ~1902年9月19日)の本名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。享年35。
子規についての詳細は以下参考の正岡子規 - Wikipediaで見て欲しい。
子規は、洋画の写生の精神を文章表現に応用して、俳句、短歌の革新を試みた。しかし、若くして結核を患い喀血をくりかえし、20代後半からは結核の骨髄感染(脊椎カリエス)のため歩くことすらできなくなり、 病に臥していた。病臥する子規の棲家であった東京・根岸の子規庵には多くの門下生が集い、明治以降の日本俳壇史にもっとも大きな影響を投げかけた場所となった。この“子規庵”には、日覆いかわりに、糸瓜(へちま)棚がしつらえてあり、彼の随筆や句集の中にたびたび登場する。この糸瓜の茎からは、「ヘチマ水」が採れ、この「へちま水」は「せきどめ、利尿剤の薬用もあるので、そのためにも植えられていたのであろう。
「痰(たん)一斗 糸瓜の水も 間に合はず」
「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
「をととひの へちまの水も 取らざりき」
自分の死期を悟った子規は、ちょうど死の前日の18日、この三句を仰臥(ぎょうが)したままで記したという。痰を切るのに効果のある糸瓜の水は陰暦の8月15日に取るとよいと言うが、もうとても自分には間に合わない。すでに仏同然と、病み呆けた自分を客観視しているのである。なんという強靭な精神力だろうか。忌日を「糸瓜忌(へちまひ)」とよぶのは、子規の辞世(絶筆)の句となった、上記3句による。
「獺祭忌」は、子規が、自分の部屋が本や反故(ほご=書画などをかきそこなったりして、いらなくなった紙)などで埋まっているのを、獺(うそ=かわうその別名)が捕った魚を巣に並べておくのに見たてて、「獺祭書屋」と称していことからこう呼ばれている。
「子規逝くや十七日の月明かりに」  (高浜虚子)
子規が亡くなった日は、陰暦8月17日で満月の2日後のことであった。虚子が18歳の時、ともに文学を志していた河東碧梧桐を介して子規(当時25歳)と知り合って以来、子規から最も信頼されていた虚子は、子規の臨終の晩も彼の傍らに付き添っていた。子規の亡くなった夜、宿直として子規庵に詰めていた虚子は、子規の逝去を同じく根岸に住む碧梧桐に知らせに行く途中、空を見上げると陰暦8月17日の月が、白々と射しているのに心奪われた。この月の光の中に、虚子は子規の魂が昇天していくさまを見出したのであろう。
亡くなる3日前の子規の口述を、虚子に頼んで記してもらったものが、以下である。
九月十四日の朝/病牀に於て ↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1902_17667.html
この日の「4、5日前より容態が急に變つて、今迄も殆ど動かす事の出來なかつた兩脚が俄に水を持つたやうに膨れ上つて一分も五厘も動かす事が出來なくなつた」とある。そして、「何だか苦痛極つて暫く病氣を感じ無いやうなのも不思議に思はれた」ので思ったことを口述で、虚子に頼んで記してもらったとあり、もう、この日には、死期を悟っただろうね。
俳聖と呼ばれる正岡子規と、文豪・夏目漱石は、東大で同窓となり、それ以降、生涯を通じての親友であった。漱石はロンドンに滞在の時、子規の病を慰める為めその地の模様をいろいろ書いて送っていたようである。子規はそれを読むのを楽しみのしていたようであるが、病床の子規がロンドンの漱石に多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかと催促をしているが、その手紙には「僕ハモウダメニナッタ」と書かれていたが、多忙のため子規の要望に応えられず、子規が亡くなってから、その事を思い起こして書かれているいるものが以下である。
我輩は猫である』中篇自序/漱石(青空文庫)↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2671_6498.html
又、子規死後に式の書いたものが、以下である。
正岡子規/夏目漱石(青空文庫) ↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1751_6496.html
これらを読むと、漱石と子規の関係、又、親友から見た子規のことがよく分かる。
「暁や白帆過ぎ行く蚊張の外」 (子規)
子規の句碑が神戸にある。子規は、1895(明治28)年7月22日より1か月間、神戸の現在、須磨浦公園みどりの塔付近にあった「須磨保養院」で寮養していた。この句は「須磨保養院」での寮養中の作といわれ、1934(昭和9)年9月、正岡子規33年忌に、弟子の1人、青木月斗により「須磨寺」境内に句碑が建立されたもの。又、「須磨保養院」のあった須磨浦公園には、子規・虚子師弟句碑も建立されており、以下の2句が刻まれている。
「虚子の東帰にことづてよ須磨の浦わに晝寝すと」 (子規) 
「子規50年忌 月を思い人を思ひて須磨にあり」 (虚子)
建立者は元県会議員酒井一雄氏。子規・虚子師弟の情誼に感激した同氏が、自分の名を刻まずに1953(昭和28)年4月建立。師弟碑というのは全国でも珍しく、碑面の字はそれぞれの直筆である。子規が須磨保養院で療養中には、多くの文人達が見舞いに訪れている。
私の8月19日のブログ「俳句の日」にも、子規のことを簡単に採りあげている。この日の記念日は、正岡子規研究家の坪内稔典氏らの発案で1991年(平成3年)に制定。「8」月「19」日を「は」「いく」の語呂合わせから。ブログはここ
子規は、大の野球好きで、日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、自身の幼名である「升(のぼる)」をベースボールにひっかけて、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともあるほど、1889(明治22)年に喀血してやめるまで、捕手として野球をしていた子規は野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したことが評価され、2002年野球殿堂入りを果たしていることを最後に付け加えておこう。
(画像は、「暁や白帆過ぎ行く蚊張の外」 子規 句碑。神戸・須磨寺)
参考:
松山市立「子規記念博物館」
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sikihaku/
正岡子規 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F
作家別作品リスト:No.305/正岡 子規(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person305.html#sakuhin_list_1