今日(9月15日)は、「シャウプ勧告の日」
1949(昭和24)年9月15日、シャウプ勧告が公表された。
シャウプ勧告)は、GHQの要請によって1949年に結成された、アメリカ・コロンビア大学のカール・シヤープを団長とする日本税制使節団(シャウプ使節団)の報告書の通称であり、1949年8月27日付と1950年9月21日付の2つの報告書からなり、日本の戦後の税制に大きな影響を与えた。
1945(昭和20)年、戦争が終わった時、日本経済は、惨憺たる状況であった。戦災によって、都市は焼け跡となり、住宅200万戸が焼失して、900万もの人々が焼け出されたといわれている。生産設備も被害を受け、繊維などの消費財の設備は戦前水準(1934=昭和9年~1936=昭和11年の平均)の3,4割に過ぎなかった。設備を動かそうにも原材料はない。鉱工業生産は終戦の8月に戦前水準の1割にまで激減し、その後2割程度で低迷していた。そこへ、旧軍人の復員者と旧領土からの引揚者が660万人も戻ってきた。しかも、敗戦の年は大凶作だった。1945年産米は平年の3分の2に落ち込んだ。悪性インフレが猛威を振るった。終戦の日から翌年2月中旬にかけて、小売物価は3倍に急騰し、ヤミ値は公定価格の30倍以上になるという異常さであった。そうした中で、GHQは日本の非軍事化と民主化を進めるための指令を次々に出した。経済関係では、財閥解体指令、農地改革指令、好ましからざる人物に対する公職追放指令など。これらは1945年~1949年にかけて実行され、その後の日本の基本的な制度を形づくった。
破局的なインフレ収束のためには「新円切り替え」なども行ったが効果は続かず国内原材料がそこを付いた事から生産が縮小し、それを打開のための「傾斜生産方式」が1946年暮れから導入され、1947年には石炭増産目的などをほぼ達成したもののインフレは再び燃え上がった。
その頃、世界では、ソ連と西側諸国の冷戦が始まった。それを受けて、アメリカの対日政策も変りだした。日本の足腰が立たないようにするよりは、工業国として復興させ、アメリカからの援助を減らすとともに、アジアに於ける反共の砦にしようと言う方向に変ったのである。このことは、9月8日の私のブログ今日は「「サンフランシスコ平和条約調印記念日」でも触れたので、詳しく書くことは、省略する。
これら経済面での立て直しに深くかかわったのが、ジョゼフ・ドッジとカール・シャープという2人のアメリカ人であった。
過去の日本の税制をふり返るとき、 最も重要で大がかりな税制改革として、 挙げられるのが、「シャウプ勧告」 であり、 これが戦後の日本税制の基礎となった。1945(昭和20)年の敗戦による 「戦後改革」 は、 多くの面で社会体制を一変させるものであったが、 「シャウプ勧告」も、 GHQによる経済・財政改革の一環として行われた。
先ず、1949(昭和24)年2月には、トルーマン大統領の特命 公使としてデトロイト銀行頭取であったドッジが来日し、日本経済安定化の方向を発表し、 吉田内閣の’49年度予算を徹底的に手直しし、 超均衡予算 が決定された。1ドル360円の単一為替レートを設定したのもドッジである。日本が本格的に始めるにはどうしても必要な措置であった。 ドッジ・ライン(ドッジの政策路線)と呼ばれた一連の政策によってインフレは一挙に収束した。しかし、同時に、不況が深刻になったが、幸いにも、この不況は、翌年の朝鮮戦争の勃発とそれによる特需によって救われた。もし、これらがなければ、どこまで深刻化していたかは創造できない。又、来日直後の5月10日には、 ドッジの政策に欠けていた税制について勧告するため、コロンビア大学教授カール・シャープ博士を団長とする使節団が来日し、8月に「日本税制報告書」 を発表した。 これがいわれるシャウプ勧告であるが、 翌年も博士は来日して、 第二次報告書を出している。 シャウプ博士等税制使節団一行の調査は徹底していたという。大倉省などから渡される官製資料は半ば無視、町工場や喫茶店、農家などを飛び込みで訪れては税制の悩みをとことん聴取したという。「聞き上手」というのはシャウプ博士のためにある言葉だとの同行記事もあるという。(週刊20世紀・朝日クロニクル)
勧告の理念は5つ。① 経済の安定に資すること 。② 長期的かつ安定した税制を樹立すること 。③ 均衡のとれた公平な税制を確立すること 。④ 地方自治確立のために地方財政を強化すること 。⑤ 税務行政を改善し強力な執行体制を整備すること 。・・・であり、勧告は、ドッジ・ラインによる日本経済の安定化を前提としながらも、 「恒久的で近代的な租税制度」 の立案を意図するものであった。
具体的には、直接税(特に所得税)中心の税制、申告納税中心の課税体系を定着させる。又、地方税を独立税/地方財政の強化などを勧告。なかでも国と地方の税源を分離することで、 府県に対しては付加価値税を、 市町村には住民税と固定資産税を設けるという改革を行った上で、 平衡交付金制度を勧告したことは画期的であったといえる。
「シャウプ勧告」 による税制改革は、’50年度から実施されたが、 ほぼ勧告の内容に沿ったものであったといえる。
しかし、「恒久的な税制」 を意図したシャープ税制ではあったが、 数年を経ずして修正・崩壊が始まった。 その理由として、50年代後半以降、 日本経済の成長・発展が政策上の最優先課題となり、 税・財政もこれをサポートする役割を担ったことがあげられるだろう。いろいろあるが中でも、以下の点は、特に、改革を要する問題である。
直接税、間接税では、ほぼ、シャープ勧告通りの税制改革が行われたが、その一方で地方税制の改革においては、シャウプ勧告の理想はほとんど挫折した。報告書では、国税の比率が高く、地方自治体の歳出は国からの補助金に頼っている点を問題としている。 このため、中央政府による地方財源の統制が過大であり、地方自治体の独立性が阻まれているとしていた。
しかし、平衡交付金は地方交付税に換骨奪胎(かんこつだったい)され、国庫補助金制度で補助金の使途が国によって定められ、「三割自治」と呼ばれるように地方自治の独立性が失われた。その後長いことこの状態が続き、地方自治の独立性の強化は、2001年の小泉政権の誕生による「三位一体の改革」でようやく議論されようとしかけているところである。
もう一つは、申告納税制度の定着である。
所得税は申告納税であるが、高額所得者が合法的に税金を安くするような「抜け道」がいくつもあり、 また帳簿等の不備による脱税も多かった。脱税は間接税や法人税においても多い、としている。 勧告では、これらの是正を目的とした。
その所得税はほぼ勧告の趣旨に近いかたちで是正されていたが、1940(昭和15)年に大改正され、 総合所得税による課税ベースの拡大、 給与所得の源泉徴収制度の新設などがあり、 法人税が独立した税となった。 法人税そのものは、基本的に勧告通りに行われていたが、有価証券譲渡益課税の廃止などで個人所得税との関連性が失われた上、政策的に「租税特別措置」によって多くの減税が行われた。そのため、所得税に比べて法人税が有利となり、個人事業主の「法人成り」が増え、結果として税負担の不公平を招くこととなった。
この申告納税制度は、本来、納税者自らが税務署に税を申告する制度である。しかし、大多数の人(サラリーマン)は、戦前に、戦費調達のために始まった源泉徴収制度が今なお生きており、源泉徴収される人の所得はガラス張りで殆どごまかしが利かない、まことに国にとっては効率的な制度である。その上、源泉徴収されているものは、毎月自動的に税をとられているため、納税者としての意識も薄れ税がどのように使われているかの関心もなくなってしまっている。これが、クロヨンなどと呼ばれる税の不公正を甘んじて受け入れているといってよいだろう。
さらに、これらの問題とは正確をことにするが、アメリカなどの国と違って、日本では、個人の寄付に対する意識が低い。本来、政治などに対しても、自分の支持する政党に対して、個人が献金をすべきであるが、税制上これらの献金を認めていない。そのため、法人である、企業が政治家に多額の献金をしている。企業は営利を目的にしている団体である。その団体が政治家に献金をして見返りを期待しないなどと言う事は考えられない。また、多額の政治献金を貰っている政治家が、その期待にこたえなくてはならなくなるのは当然である。
シャープ勧告が全て是とするわけでもないが、勧告の思想は、かなり、理想に近いものである。申告納税制度の国であることの自覚をもっていない。企業献金のあり方、政治資金規正法の見直しもしなくては、企業よりの政治から庶民よりの政治への流れは変らないだろう。間接税は、勧告の直接税中心主義に従って、ほぼ勧告通りとなった。その後、一部で間接税が新設されたが、いずれも大きなものではなく、1989(平成元)年に消費税が導入されるまで直接税中心主義は変わらなかった。しかし、今、徴収された税の不当な使われ方や管理のずさんさが問題になっており、日本の財政赤字は世界一となっている。、そこには、国民の徴収された税の使われ方に対する無関心さ、政治、行政、企業の癒着問題など、官公庁の者の公僕としての自覚のなさなどが、生んだものといえるだろう。任期中には消費税アップをしないといっていた、小泉首相は、約束どおり、自分の任期中は、消費税問題を先送りし、後任の首相に、消費税をたっぷりと上げてもらって、今までの付けを国民の犠牲のもとに解決しようとしている。今、後任の自民党総裁選を前にしているが、その中で、小泉首相の支持を受けている最有力候補者の阿部氏は、’08年度には消費税アップを予定していると自信たっぷりに話ていた。どのような増税策がとられるかお楽しみだね・・・。
これから、国民は、1人当り、約600万円の借金払いを税金の名でしなくてはならない。
(画像は、千葉県印旛郡の農村で農民から話を聞くシャウプ博士(右端)。週刊20世紀、アサヒクロニクルより。)
参考:
シャウプ勧告 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%83%97%E5%8B%A7%E5%91%8A
TOPPAGE>財政用語小辞典 /財政用語小辞典
http://www.zaiseijoho.com/deco/index.html
PDF] シャウプ勧告以降の税制改正の流れ(地方税関係)
http://www.soumu.go.jp/czaisei/czaisei_seido/pdf/ichiran02_17.pdf#search=%22%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%83%97%E5%8B%A7%E5%91%8A%22
税データベース:申告納税制度50年史
http://www.tabisland.ne.jp/zeidb/50year/index.htm
クロヨン/税- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%B3#.E3.82.AF.E3.83.AD.E3.83.A8.E3.83.B3
政治資金規正法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E8%B3%87%E9%87%91%E8%A6%8F%E6%AD%A3%E6%B3%95
20世紀をふりかえる》日本の税制
http://www.yuhikaku.co.jp/shosai/20c/20000602.html
1949(昭和24)年9月15日、シャウプ勧告が公表された。
シャウプ勧告)は、GHQの要請によって1949年に結成された、アメリカ・コロンビア大学のカール・シヤープを団長とする日本税制使節団(シャウプ使節団)の報告書の通称であり、1949年8月27日付と1950年9月21日付の2つの報告書からなり、日本の戦後の税制に大きな影響を与えた。
1945(昭和20)年、戦争が終わった時、日本経済は、惨憺たる状況であった。戦災によって、都市は焼け跡となり、住宅200万戸が焼失して、900万もの人々が焼け出されたといわれている。生産設備も被害を受け、繊維などの消費財の設備は戦前水準(1934=昭和9年~1936=昭和11年の平均)の3,4割に過ぎなかった。設備を動かそうにも原材料はない。鉱工業生産は終戦の8月に戦前水準の1割にまで激減し、その後2割程度で低迷していた。そこへ、旧軍人の復員者と旧領土からの引揚者が660万人も戻ってきた。しかも、敗戦の年は大凶作だった。1945年産米は平年の3分の2に落ち込んだ。悪性インフレが猛威を振るった。終戦の日から翌年2月中旬にかけて、小売物価は3倍に急騰し、ヤミ値は公定価格の30倍以上になるという異常さであった。そうした中で、GHQは日本の非軍事化と民主化を進めるための指令を次々に出した。経済関係では、財閥解体指令、農地改革指令、好ましからざる人物に対する公職追放指令など。これらは1945年~1949年にかけて実行され、その後の日本の基本的な制度を形づくった。
破局的なインフレ収束のためには「新円切り替え」なども行ったが効果は続かず国内原材料がそこを付いた事から生産が縮小し、それを打開のための「傾斜生産方式」が1946年暮れから導入され、1947年には石炭増産目的などをほぼ達成したもののインフレは再び燃え上がった。
その頃、世界では、ソ連と西側諸国の冷戦が始まった。それを受けて、アメリカの対日政策も変りだした。日本の足腰が立たないようにするよりは、工業国として復興させ、アメリカからの援助を減らすとともに、アジアに於ける反共の砦にしようと言う方向に変ったのである。このことは、9月8日の私のブログ今日は「「サンフランシスコ平和条約調印記念日」でも触れたので、詳しく書くことは、省略する。
これら経済面での立て直しに深くかかわったのが、ジョゼフ・ドッジとカール・シャープという2人のアメリカ人であった。
過去の日本の税制をふり返るとき、 最も重要で大がかりな税制改革として、 挙げられるのが、「シャウプ勧告」 であり、 これが戦後の日本税制の基礎となった。1945(昭和20)年の敗戦による 「戦後改革」 は、 多くの面で社会体制を一変させるものであったが、 「シャウプ勧告」も、 GHQによる経済・財政改革の一環として行われた。
先ず、1949(昭和24)年2月には、トルーマン大統領の特命 公使としてデトロイト銀行頭取であったドッジが来日し、日本経済安定化の方向を発表し、 吉田内閣の’49年度予算を徹底的に手直しし、 超均衡予算 が決定された。1ドル360円の単一為替レートを設定したのもドッジである。日本が本格的に始めるにはどうしても必要な措置であった。 ドッジ・ライン(ドッジの政策路線)と呼ばれた一連の政策によってインフレは一挙に収束した。しかし、同時に、不況が深刻になったが、幸いにも、この不況は、翌年の朝鮮戦争の勃発とそれによる特需によって救われた。もし、これらがなければ、どこまで深刻化していたかは創造できない。又、来日直後の5月10日には、 ドッジの政策に欠けていた税制について勧告するため、コロンビア大学教授カール・シャープ博士を団長とする使節団が来日し、8月に「日本税制報告書」 を発表した。 これがいわれるシャウプ勧告であるが、 翌年も博士は来日して、 第二次報告書を出している。 シャウプ博士等税制使節団一行の調査は徹底していたという。大倉省などから渡される官製資料は半ば無視、町工場や喫茶店、農家などを飛び込みで訪れては税制の悩みをとことん聴取したという。「聞き上手」というのはシャウプ博士のためにある言葉だとの同行記事もあるという。(週刊20世紀・朝日クロニクル)
勧告の理念は5つ。① 経済の安定に資すること 。② 長期的かつ安定した税制を樹立すること 。③ 均衡のとれた公平な税制を確立すること 。④ 地方自治確立のために地方財政を強化すること 。⑤ 税務行政を改善し強力な執行体制を整備すること 。・・・であり、勧告は、ドッジ・ラインによる日本経済の安定化を前提としながらも、 「恒久的で近代的な租税制度」 の立案を意図するものであった。
具体的には、直接税(特に所得税)中心の税制、申告納税中心の課税体系を定着させる。又、地方税を独立税/地方財政の強化などを勧告。なかでも国と地方の税源を分離することで、 府県に対しては付加価値税を、 市町村には住民税と固定資産税を設けるという改革を行った上で、 平衡交付金制度を勧告したことは画期的であったといえる。
「シャウプ勧告」 による税制改革は、’50年度から実施されたが、 ほぼ勧告の内容に沿ったものであったといえる。
しかし、「恒久的な税制」 を意図したシャープ税制ではあったが、 数年を経ずして修正・崩壊が始まった。 その理由として、50年代後半以降、 日本経済の成長・発展が政策上の最優先課題となり、 税・財政もこれをサポートする役割を担ったことがあげられるだろう。いろいろあるが中でも、以下の点は、特に、改革を要する問題である。
直接税、間接税では、ほぼ、シャープ勧告通りの税制改革が行われたが、その一方で地方税制の改革においては、シャウプ勧告の理想はほとんど挫折した。報告書では、国税の比率が高く、地方自治体の歳出は国からの補助金に頼っている点を問題としている。 このため、中央政府による地方財源の統制が過大であり、地方自治体の独立性が阻まれているとしていた。
しかし、平衡交付金は地方交付税に換骨奪胎(かんこつだったい)され、国庫補助金制度で補助金の使途が国によって定められ、「三割自治」と呼ばれるように地方自治の独立性が失われた。その後長いことこの状態が続き、地方自治の独立性の強化は、2001年の小泉政権の誕生による「三位一体の改革」でようやく議論されようとしかけているところである。
もう一つは、申告納税制度の定着である。
所得税は申告納税であるが、高額所得者が合法的に税金を安くするような「抜け道」がいくつもあり、 また帳簿等の不備による脱税も多かった。脱税は間接税や法人税においても多い、としている。 勧告では、これらの是正を目的とした。
その所得税はほぼ勧告の趣旨に近いかたちで是正されていたが、1940(昭和15)年に大改正され、 総合所得税による課税ベースの拡大、 給与所得の源泉徴収制度の新設などがあり、 法人税が独立した税となった。 法人税そのものは、基本的に勧告通りに行われていたが、有価証券譲渡益課税の廃止などで個人所得税との関連性が失われた上、政策的に「租税特別措置」によって多くの減税が行われた。そのため、所得税に比べて法人税が有利となり、個人事業主の「法人成り」が増え、結果として税負担の不公平を招くこととなった。
この申告納税制度は、本来、納税者自らが税務署に税を申告する制度である。しかし、大多数の人(サラリーマン)は、戦前に、戦費調達のために始まった源泉徴収制度が今なお生きており、源泉徴収される人の所得はガラス張りで殆どごまかしが利かない、まことに国にとっては効率的な制度である。その上、源泉徴収されているものは、毎月自動的に税をとられているため、納税者としての意識も薄れ税がどのように使われているかの関心もなくなってしまっている。これが、クロヨンなどと呼ばれる税の不公正を甘んじて受け入れているといってよいだろう。
さらに、これらの問題とは正確をことにするが、アメリカなどの国と違って、日本では、個人の寄付に対する意識が低い。本来、政治などに対しても、自分の支持する政党に対して、個人が献金をすべきであるが、税制上これらの献金を認めていない。そのため、法人である、企業が政治家に多額の献金をしている。企業は営利を目的にしている団体である。その団体が政治家に献金をして見返りを期待しないなどと言う事は考えられない。また、多額の政治献金を貰っている政治家が、その期待にこたえなくてはならなくなるのは当然である。
シャープ勧告が全て是とするわけでもないが、勧告の思想は、かなり、理想に近いものである。申告納税制度の国であることの自覚をもっていない。企業献金のあり方、政治資金規正法の見直しもしなくては、企業よりの政治から庶民よりの政治への流れは変らないだろう。間接税は、勧告の直接税中心主義に従って、ほぼ勧告通りとなった。その後、一部で間接税が新設されたが、いずれも大きなものではなく、1989(平成元)年に消費税が導入されるまで直接税中心主義は変わらなかった。しかし、今、徴収された税の不当な使われ方や管理のずさんさが問題になっており、日本の財政赤字は世界一となっている。、そこには、国民の徴収された税の使われ方に対する無関心さ、政治、行政、企業の癒着問題など、官公庁の者の公僕としての自覚のなさなどが、生んだものといえるだろう。任期中には消費税アップをしないといっていた、小泉首相は、約束どおり、自分の任期中は、消費税問題を先送りし、後任の首相に、消費税をたっぷりと上げてもらって、今までの付けを国民の犠牲のもとに解決しようとしている。今、後任の自民党総裁選を前にしているが、その中で、小泉首相の支持を受けている最有力候補者の阿部氏は、’08年度には消費税アップを予定していると自信たっぷりに話ていた。どのような増税策がとられるかお楽しみだね・・・。
これから、国民は、1人当り、約600万円の借金払いを税金の名でしなくてはならない。
(画像は、千葉県印旛郡の農村で農民から話を聞くシャウプ博士(右端)。週刊20世紀、アサヒクロニクルより。)
参考:
シャウプ勧告 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%83%97%E5%8B%A7%E5%91%8A
TOPPAGE>財政用語小辞典 /財政用語小辞典
http://www.zaiseijoho.com/deco/index.html
PDF] シャウプ勧告以降の税制改正の流れ(地方税関係)
http://www.soumu.go.jp/czaisei/czaisei_seido/pdf/ichiran02_17.pdf#search=%22%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%83%97%E5%8B%A7%E5%91%8A%22
税データベース:申告納税制度50年史
http://www.tabisland.ne.jp/zeidb/50year/index.htm
クロヨン/税- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%B3#.E3.82.AF.E3.83.AD.E3.83.A8.E3.83.B3
政治資金規正法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E8%B3%87%E9%87%91%E8%A6%8F%E6%AD%A3%E6%B3%95
20世紀をふりかえる》日本の税制
http://www.yuhikaku.co.jp/shosai/20c/20000602.html