1971年 の今日(9月27日)は、昭和天皇・皇后両陛下が初の訪欧に出発された日。7か国を訪問。
日本の第124代天皇・昭和天皇は、生没年が確認されている歴代天皇の中で、神話上の天皇を除き、在位期間および享年が最長である。1901(明治34)年4月29日、大正天皇と貞明皇后の第一皇子として青山の東宮御所に誕生。1916(大正5)年、皇太子となる。1919年(大正8年)成年式を迎えられるが、大正天皇は病弱で公務にしばしば支障をきたしていたので早くから天皇の名代として活動することになり、1921(大正10)年11月25日、20歳で正式に摂政に就任されるが、就任前の、同年3月3日から9月3日まで、半年間の長期にわたり、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどヨーロッパ諸国を公式訪問されている。これは史上初の皇太子の外遊であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現したもだという。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、ジョージ5世国王やロイド・ジョージ首相らと会見。又、ロンドンにおいては、ロバート・ベーデン・パウエル卿と謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章も贈呈されている。 イタリアではヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べておられるという。
1924(大正13)年に久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)と結婚。 1926(大正15)年12月25日、大正天皇の崩御(死去)により践祚し、昭和に改元。第124代天皇及び陸海軍大元帥となる。そして、天皇は就任早々軍部の独走に悩まされる。昭和3年の張作霖爆殺事件。昭和6年の軍事クーデター未遂、(3月事件・10月事件)、同年9月18日満州事変。昭和7年5・15事件、昭和11年2・26事件。昭和12年7月7日盧溝橋(ろこうきょう)事件。昭和14年5月11日ノモンハン事件。そして昭和16年12月8日真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争に突入することとなった。
そして、1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇の中で初めて国民に天皇の声を聞かせる(敗戦を告げる)こととなった。
又、昭和天皇は1945(昭和21)年1月1日の『年頭の詔書』 にて『人間宣言』をおこない、その2月から1951(昭和26)年にかけて戦争の傷跡の残る全国を行脚して国民を励ます旅を始めた。。(北海道は昭和29年。沖縄は結局行けなかった)。
そして、1971(昭和46)年の今日(9月27日)から、皇后両陛下とご一緒にイギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問したのだが、退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。
また、1975(昭和50)年9月30日から同年10月14日まで皇后とともに、アメリカ合衆国を公式訪問し、ワシントンD.C.やロサンゼルスを訪問した。
香淳皇后は、戦争中は昭和天皇とともに東京に残り、心労の多かった夫をよく支えたといわれる。戦後、皇室のありかたが一変してのちは、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行われ、戦後の1971(昭和49)年の訪欧、1975(昭和50)年の訪米も天皇と行をともにされ、国際親善の大役も果たされた。1974(昭和49)年の 記者会見で金婚式のご感想を聞かれた時に「(一番楽しかったのは)ヨーロッパにお供できたことですね。(苦しかったことも)ないとは言えません」と答えたれたそうである。
戦後、昭和天皇の外国訪問は1971(昭和49)年の欧州と1975(昭和50)年の米国だけだったが、継宮明仁親王に代替わり後は、天皇の外国訪問は、東南アジア(1991年)、中国(1992年)、イタリア・ベルギー・ドイツ(1993年)、米国(1994年)、フランス・スペイン(同)、ブラジル・アルゼンチン(1997年)、英国・デンマーク(1998年)、オランダ・スウェーデン(2000年)、ポーランド・ハンガリー(2002年)、アイルランド・ノルウェー(2005年)と続いている。
俗に「皇室外交」という言葉があるが、歴代の天皇皇后両陛下をはじめとする皇室がたびたび諸外国を訪問され、或いは日本で諸外国の賓客をお迎えしてこられた。
外交とは、国家が代表を通じて諸外国との関係を処理する活動。内政の対義語であり、日本においては、日本国憲法第73条により内閣が外交関係を処理すると規定しており、実際の対外的事務は外務省設置法により、外務大臣を長とする外務省が所掌することとなっている。
したがって、戦後の象徴天皇としては、憲法上(憲法第7条=天皇の国事行為)国政に関与しないことになっているので、正式には、皇室が外交をする事はなく、「皇室外交」の用語は避けており、これは、あくまで、皇室の外国との親善交際の範疇ということになっている。そのため、戦後60年にあたる昨・2005(平成17)年6月のサイパン島訪問による「戦場での慰霊」は、これまでの「友好親善のための儀礼的訪問」という政治的枠組みを初めて踏み越えた形といえなくもない。
戦後、平和国家宣言をしている日本は、途上国の経済社会の発展を通じて地域の安定化や世界の平和に貢献する活動を一貫して推進してきた。日本が軍事力を使わないで平和に貢献しようとして様々な活動を活発に展開していることは、諸外国からも十分に知られて評価されているだろう。そのような中で、日本の「顔」としての、皇室による、外国との親善交際は日本の国に大いに貢献しているとは思う。
ただ、雅子皇太子妃殿下が、ご結婚なさる前の外交官であった経歴を生かして、「皇室外交」を希望されていたようで、それがかなわないためにストレスが溜まり、体調を崩されていたとの報道があったように記憶しているが、それが真実であれば、それは、少し、認識上に問題があるといえるのではないか。
憲法第6条、第7条に規定されている国事行為のほかにも天皇の公的行為が認められるか否か?、具体的には、外国元首の接受(憲法上国事行為とされているのは「外国の大使及び公使を接受すること」)などについての法的位置付けが議論されており、この点に関しては、「象徴としての地位に基づく公的行為」として容認する考え方、第7条第10号の「儀式を行ふこと」に該当するとする考え方、そもそもそのような行為は認められないとする考え方などが示されているなど玉虫色の状態である。少なくとも、、積極的に皇室外交をする事は認められていないのであり、それが出来ないから、ストレスを感じるといったような事には少々違和感を感じる。
しかし、日本の俗に言われる皇室外交が、外交官の行う外交とは、違った面で、日本の平和外交には、貢献していると思うので、これからも、そのような機会は、いくらでも出てくるであろうから、早く体調をよくされて、その時に国民の期待にこたえて戴けたらと願っている。
(画像は、「1971年 昭和天皇皇后訪欧」15円記念切手。)
参考:
昭和天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
クーデター - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC
ノモンハン事件- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
第二次世界大戦- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
天皇「人間宣言」 | 日本国憲法の誕生
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056shoshi.html
外交- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4
日本の第124代天皇・昭和天皇は、生没年が確認されている歴代天皇の中で、神話上の天皇を除き、在位期間および享年が最長である。1901(明治34)年4月29日、大正天皇と貞明皇后の第一皇子として青山の東宮御所に誕生。1916(大正5)年、皇太子となる。1919年(大正8年)成年式を迎えられるが、大正天皇は病弱で公務にしばしば支障をきたしていたので早くから天皇の名代として活動することになり、1921(大正10)年11月25日、20歳で正式に摂政に就任されるが、就任前の、同年3月3日から9月3日まで、半年間の長期にわたり、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどヨーロッパ諸国を公式訪問されている。これは史上初の皇太子の外遊であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現したもだという。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、ジョージ5世国王やロイド・ジョージ首相らと会見。又、ロンドンにおいては、ロバート・ベーデン・パウエル卿と謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章も贈呈されている。 イタリアではヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べておられるという。
1924(大正13)年に久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)と結婚。 1926(大正15)年12月25日、大正天皇の崩御(死去)により践祚し、昭和に改元。第124代天皇及び陸海軍大元帥となる。そして、天皇は就任早々軍部の独走に悩まされる。昭和3年の張作霖爆殺事件。昭和6年の軍事クーデター未遂、(3月事件・10月事件)、同年9月18日満州事変。昭和7年5・15事件、昭和11年2・26事件。昭和12年7月7日盧溝橋(ろこうきょう)事件。昭和14年5月11日ノモンハン事件。そして昭和16年12月8日真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争に突入することとなった。
そして、1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇の中で初めて国民に天皇の声を聞かせる(敗戦を告げる)こととなった。
又、昭和天皇は1945(昭和21)年1月1日の『年頭の詔書』 にて『人間宣言』をおこない、その2月から1951(昭和26)年にかけて戦争の傷跡の残る全国を行脚して国民を励ます旅を始めた。。(北海道は昭和29年。沖縄は結局行けなかった)。
そして、1971(昭和46)年の今日(9月27日)から、皇后両陛下とご一緒にイギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問したのだが、退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。
また、1975(昭和50)年9月30日から同年10月14日まで皇后とともに、アメリカ合衆国を公式訪問し、ワシントンD.C.やロサンゼルスを訪問した。
香淳皇后は、戦争中は昭和天皇とともに東京に残り、心労の多かった夫をよく支えたといわれる。戦後、皇室のありかたが一変してのちは、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行われ、戦後の1971(昭和49)年の訪欧、1975(昭和50)年の訪米も天皇と行をともにされ、国際親善の大役も果たされた。1974(昭和49)年の 記者会見で金婚式のご感想を聞かれた時に「(一番楽しかったのは)ヨーロッパにお供できたことですね。(苦しかったことも)ないとは言えません」と答えたれたそうである。
戦後、昭和天皇の外国訪問は1971(昭和49)年の欧州と1975(昭和50)年の米国だけだったが、継宮明仁親王に代替わり後は、天皇の外国訪問は、東南アジア(1991年)、中国(1992年)、イタリア・ベルギー・ドイツ(1993年)、米国(1994年)、フランス・スペイン(同)、ブラジル・アルゼンチン(1997年)、英国・デンマーク(1998年)、オランダ・スウェーデン(2000年)、ポーランド・ハンガリー(2002年)、アイルランド・ノルウェー(2005年)と続いている。
俗に「皇室外交」という言葉があるが、歴代の天皇皇后両陛下をはじめとする皇室がたびたび諸外国を訪問され、或いは日本で諸外国の賓客をお迎えしてこられた。
外交とは、国家が代表を通じて諸外国との関係を処理する活動。内政の対義語であり、日本においては、日本国憲法第73条により内閣が外交関係を処理すると規定しており、実際の対外的事務は外務省設置法により、外務大臣を長とする外務省が所掌することとなっている。
したがって、戦後の象徴天皇としては、憲法上(憲法第7条=天皇の国事行為)国政に関与しないことになっているので、正式には、皇室が外交をする事はなく、「皇室外交」の用語は避けており、これは、あくまで、皇室の外国との親善交際の範疇ということになっている。そのため、戦後60年にあたる昨・2005(平成17)年6月のサイパン島訪問による「戦場での慰霊」は、これまでの「友好親善のための儀礼的訪問」という政治的枠組みを初めて踏み越えた形といえなくもない。
戦後、平和国家宣言をしている日本は、途上国の経済社会の発展を通じて地域の安定化や世界の平和に貢献する活動を一貫して推進してきた。日本が軍事力を使わないで平和に貢献しようとして様々な活動を活発に展開していることは、諸外国からも十分に知られて評価されているだろう。そのような中で、日本の「顔」としての、皇室による、外国との親善交際は日本の国に大いに貢献しているとは思う。
ただ、雅子皇太子妃殿下が、ご結婚なさる前の外交官であった経歴を生かして、「皇室外交」を希望されていたようで、それがかなわないためにストレスが溜まり、体調を崩されていたとの報道があったように記憶しているが、それが真実であれば、それは、少し、認識上に問題があるといえるのではないか。
憲法第6条、第7条に規定されている国事行為のほかにも天皇の公的行為が認められるか否か?、具体的には、外国元首の接受(憲法上国事行為とされているのは「外国の大使及び公使を接受すること」)などについての法的位置付けが議論されており、この点に関しては、「象徴としての地位に基づく公的行為」として容認する考え方、第7条第10号の「儀式を行ふこと」に該当するとする考え方、そもそもそのような行為は認められないとする考え方などが示されているなど玉虫色の状態である。少なくとも、、積極的に皇室外交をする事は認められていないのであり、それが出来ないから、ストレスを感じるといったような事には少々違和感を感じる。
しかし、日本の俗に言われる皇室外交が、外交官の行う外交とは、違った面で、日本の平和外交には、貢献していると思うので、これからも、そのような機会は、いくらでも出てくるであろうから、早く体調をよくされて、その時に国民の期待にこたえて戴けたらと願っている。
(画像は、「1971年 昭和天皇皇后訪欧」15円記念切手。)
参考:
昭和天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
クーデター - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC
ノモンハン事件- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
第二次世界大戦- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
天皇「人間宣言」 | 日本国憲法の誕生
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056shoshi.html
外交- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4