今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

天覧試合の日

2005-06-25 | 記念日
今日(6月25日)は「天覧試合の日」。
1959(昭和34)年6月25日、昭和天皇・皇后両陛下が初めてプロ野球の試合を球場でご覧になった日。試合は後楽園球場で行われた巨人対阪神戦。2転3転し、4対4の同点で迎えた9回裏、巨人の長嶋茂雄が阪神の村山実投手からサヨナラ・ホームランを放ち、初の天覧試合は巨人軍が5対4で勝利を収め、劇的な幕を閉じた。本当に歴史に残るいい試合だった。
長嶋茂雄は、立教時代、神宮で当時としては大記録の8ホームランを放ち、ゴールデンルーキーとして1958(昭和33)年、巨人に入団、金田投手に対して、4打席連続三振でプロデビュー。しかし、徐々に力を出し、その年の日本シリーズに新人でありながら出場し2ホームランを放つ。そして、シーズンが終わってみれば、新人王、ホームラン王、打点王を獲得するといった華々しいデビューであった。そして、その翌年の展覧試合では、見事、両陛下の目の前でホームランを打ち巨人を勝利に導き、その後、ミスタージャイアンツとして、17年間スター街道をあゆみ続け、生涯打率3割5厘。公式戦、日本シリーズ、オールスター戦と3大舞台すべて通算3割以上というすばらしい成績を残し、1974(昭和49)年 現役を引退。夕暮れ迫る後楽園球場で、ファンへの挨拶で、満員のスタンドに向かっての「私は今日ここに引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」の名台詞は有名。長嶋の選手としての記録には、併殺打最多打者(5回)、通算併殺打257個(歴代4位)といった不名誉な記録も持っているが、兎に角、明るくて、さわやかなイメージ、なおかつ、チャンスに滅法強いバッティングで日本プロ野球史上最高の人気を博した 選手、正に、「ミスタープロ野球」である。1988年(昭和63)年日本プロ野球の野球殿堂入りを果たした。
この天覧試合のあった頃は巨人も阪神も強かった。長嶋も偉大な選手で大好きな選手ではあったが、阪神の村山実投手も「ザトペック投法」などと言われた闘志ある投げ方は、どんな相手からも逃げず攻めてゆく男らしい投法で大好きであった。この頃の野球に比べると、今の野球は、なんとなく、小細工が多く、スケールが小さくなり、ちまちました野球をしているように思えるのは、これは、単なる私の当時への郷愁からだろうか・・・。
それにしても、野球界をリードし、長嶋に我が巨人軍は永久に不滅ですといわせてきた巨人軍の今期の成績はどうしたことか・・・。阪神も、長い間、優勝とは縁のないだらしない試合をしてきたが、2003年救世主星野監督により、リーグ優勝を果たし、去年は、優勝できなかったが、今年は、今のところ、首位をキープしている。最近は、野球人気が落ち、去年はパリーグ球団の買収問題などでごたごたし、今年は人気回復の為に、セ・パ交流戦などを行っているが、TVの視聴率は上がっていないようである。それは、巨人の低迷による。早く、長嶋のようなスーパースターが、TVのようなマス媒体の前で活躍をしないと野球が今までのような人気を獲得するのは困難だろう・・・。今、私は個人的に巨人のファンではないが、野球界全体を考えれば、マス媒体を持っている巨人にがんばってもらわないといけないだろう。
※2009年5月25日、「天覧試合」のことを歴史の観点から書いたページを作りました。興味のある人は、見てください。以下です。
日本プロ野球史上初の天覧試合が行なわれた日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20090625
(画像は、展覧試合で長嶋選手がホームランを打った瞬間。朝日クロニカル、週刊20世紀より)
参考:
日本プロ野球名球界
http://www.meikyukai.co.jp/index.htm



美空ひばり忌/林檎忌

2005-06-24 | 人物
今日(6月24日)は「美空ひばり忌」「「林檎忌」である。
1989年(平成元年)の6月24日は美空ひばり(本 名:加藤 和枝)の逝去した日。美空ひばりは、言うまでもなく、戦後最大の歴史的スーパースターであった。彼女の存在は昭和歌謡史にとてつもなく大きな足跡を残したと同時に、激動の時代を生き抜いた日本国民の数少ない心のよりどころであった。少なくとも、同じ世代を生きた私にとっては、美空ひばりの歌が、そして映画が自分の生きた時代の証でもある。
1946(昭和21)年に9歳で初舞台、1948(昭和23)年に歌手デビューし、その翌1949(昭和24)年、早くも公開された初主演映画『悲しき口笛』の同名テーマ曲が爆発的ヒットを記録し、一躍スターダムへとのし上がり、続いて「東京キッド」「越後獅子の唄」「私は街の子」「りんご追分」など、歌に映画に立て続けに大ヒットを放った。以降、演歌界の女王として活躍してきたが、彼女の歌は単に従来の演歌歌謡をそのまま歌うだけでなく、その中に、ジャズ、マンボ、ロック、ブルースなどの洋楽を巧に取り入れて新しい歌謡の世界を開いていった。又、映画界でも活躍し、独特の歌謡映画を作り上げた。これは,まさに、今のミュージカルのはしりではないだろうか。6月24日は ヒット曲の『りんご追分』にちなんで「林檎忌」と命名されているそうだ。私が大の映画好きになったのも、幼少の時代から自分と同じ年代のひばりが銀幕で活躍しているのを見続けてきたからだろう。
美空ひばりは、戦後の40年をめいっぱいに生き、そして、「戦後」は美空ひばりの「歌」の中に生き続けてきたと言える。ひばりの歌をつなげると昭和の風景が蘇ってくるのである。
今年は亡くなられて17年目と言うことでテレビ各局で、追悼番組が放送され、懐かしい映画「悲しき口笛」や「東京キッド」なども再放映された。ただ懐かしく見るだけでは惜しいので、以前にも、ビデをで撮ってあったが、再度、ビデオを撮りなおしておいた。
女優の森光子さんが、故美空ひばりさんの命日である今日、東京・日本武道館で行われる17回忌追悼コンサート「歌声はひばりとともに」で、ひばりさんの代表曲「東京キッド」を歌うらしい。

歌も楽しや 東京キッド いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チュウインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド 泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール

美空ひばりの歌『東京キッド』(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)
東京だけでなく、私の街神戸も、戦争で焼け野原と化していた。そのようななかからの復興に、国民は、映画や歌に一途な希望の光を求めていた。そのようなものの中にこの歌や映画があった。右のポッケには、自由が、明日の夢が・・・そして、左のポッケには昭和20年代の物質的な豊かさが・・・、この歌の歌詞の生まれた時代の日本があり、我々は、そんな時代に、美空ひばりと同じ様な年代を過ごしたのである。荒廃した時代、絶望感に陥りそうになった時に、前向きに強く生きてゆこうと励まされ、なぐさめられた。当時の歌謡番組の司会者は、「歌は世につれ、夜は歌につれ」といっていたが、その時代の世相を反映し、人々に希望を与えてくれる歌であった。この『東京キッド』の歌には、いつの時代にも決して忘れてはならない歌の原点といえるものがあると思う。
又、あの「悲しき口笛」も同様である。残念ながら、「東京キッド」のMIDIは見つからなかったが、「悲しき口笛」は見つかった。
「丘のホテルの 赤い灯(ひ)も・・・」
では、みなさんも、彼女を偲んで、あの懐かしい、「悲しき口笛」でも聞いてみませんか。
悲しき口笛
又、
津軽のふるさと
は、昭和28年(1953)発表。 同年公開の新芸術プロ・松竹製作映画『リンゴ園の少女』の挿入歌である。これもいい歌だ。いずれも、歌詞付きMIDIだよ。(二木紘三のMIDI歌声喫茶HP)
それと、他にも以下のMIDIが見つかったので紹介しておこう。
MIDI
昭和25年越後獅子の唄 
昭和29年ひばりのマドロスさん
昭和32年港町十三番地
昭和61年愛燦燦
昭和62年みだれ髪
昭和64年川の流れのように
(上画像は、永久保存版「平凡」表紙)
参考:
美空ひばり公式サイト
http://www.misorahibari.com/intro.html
京都 嵐山 美空ひばり館
http://www.misora-hibari.com/
美空ひばりさんのすべてを紹介する記念館です。映像、音響を充実。

オリンピックデー

2005-06-23 | 記念日
今日(6月23日)は「オリンピックデー」。1894年(明治27年)のこの日、国際オリンピック委員会(IOC)がパリで創立したことを記念したもの。
去年の8月に「アテネ2004オリンピック競技大会」が、オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで開催された。2700年以上前にギリシャのオリンピア地方で古代オリンピックが始まり、1896年にアテネで復活した近代オリンピック。去年は、そのオリンピック発祥の地へオリンピックの聖なる火が帰ったことになった。
しかし、オリンピックと言えば、私たちにとっては、あの、1964年に開かれた第18回夏季オリンピック(東京オリンピック)が思い出される。皆さんの中にもあの時の感動が忘れられない人が多いと思う・・?開会式は、10月10日、閉会式は、10月24日であった。
東京オリンピの様子は、翌1965(昭和40)年、東京オリンピック映画協会作品「東京オリンピック」(総監督、市川崑)で再現された。
カメラは、ギリシャで点火された聖火が、「始めて」アジアで開かれるオリンピックのために通過する国々の様子を映し出す。やがて聖火は、戦争で一度中止され、戦後、一度参加を拒否された極東の小国、日本へ…。同映画では、超望遠レンズなど当時の撮影技術を見事に駆使して、実際の中継をテレビなどで見るより以上の躍動感を映し出し、素晴らしい感動をわれわれに与えてくれた。この、アジアで初めて行われた東京オリンピックは、戦争で、消えた幻の東京大会から24年・・・、当時の日本にとっては、単に世界のスポーツの祭典と言うよりは、第二次世界大戦後の荒廃から立ち直り、復興を遂げた日本が、取り組んだ国家的イベントであり、日本が再び国際社会に復帰したことを世界に宣言するものであった。
兎に角、この東京オリンピックにかける日本人の熱意と努力はすさまじいものであった。国立競技場の拡張、オリンピックプールをはじめ、各競技施設、選手村の新設。高速道路の建設や路面電車の撤去。東京の市街は瞬く間に姿を変えた。そして、日本の国力の示威の格好のスター・東海道新幹線まで、五輪関連施設に含まれ、総費用は1兆800億円とされている。1964年度の国の一般会計予算が3兆4000億円であるから、正に国力を傾けてのイベントであった。
このオリンピックでの、大国の面目をかけての金メダル獲得争いは、前回のローマ大会と逆転し、ソ連の30個を押さえて、アメリカが36個を獲得し時代の流れを象徴した。大会中は日本中の人たちが日本がいくつのメダルをとれるか固唾をのんで「金メダル星取表」を見つめていた。日本は選手強化費に当時で、20億円の巨費を投入したといわれており、この東京大会からは、競技にバレーボールと柔道が加わり、20種目となったこともあり、金メダルは16個を獲得3位の検討振りであった。いろいろ、思い出に残る試合があるが、無差別級では神永昭夫選手がオランダアントン・ヘーシンクに寝技に持ち込まれ左袈裟固めで一本負けした試合。柔道の本家日本が、全4階級制覇の柔道ではあったが、無差別級では、日本の技が外国人の力の前に通用しなかったのが悔しかった。しかし、東京大会より正式種目となった、女子バレーでは「東洋の魔女」といわれた日紡貝塚を中心とした日本チームが、最終戦、強敵ソ連チームを相手に、回転レシーブを武器に3-0で圧勝し、彼岸の金メダルを獲得。このときの試合の視聴率は85%の記録を持っているという。この年、所得倍増計画を発表した池田勇人氏が首相を退陣し、佐藤栄作氏の時代となるが、日本の経済成長は止まるどこではなかった。正に、日本の最も輝いている時代であった。
今中国(中華人民共和国)の経済発展が目覚しい。2008年には、この中国の首都北京で第29回夏季オリンピックが開催される。中国も、日本と同様、このオリンピックを中国の目覚しい経済発展と国力の示威の格好場にしようと頑張っている。正に今では、これまで東洋の代表国であった日本は、その地位を中国に譲らなければならない時代になった。
正に、オリンピックの開催は、単にスポーツの開催だけではないのである。
東京オリンピックの開会式のあった10月10日は、1966(昭和41)年から、国民の祝日「体育の日」として親しまれてきたが、(2000(平成12)年からは10月の第2月曜日が体育の日となった。
写真は、わたしのコレクションの中から11月6日号の「アサヒグラフ・東京オリンピック終わる」。表紙写真は、女子バレー涙の表彰台。)
参考:
Yahoo!ニュース- 2008北京オリンピック
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/2008_summer_olympic_games_in_baijing/

ボーリングの日

2005-06-22 | 記念日
今日(6月22日)は、「ボーリングの日」
日本ボウリング場協会 が1972(昭和47)年に制定。
日本で最初にボウリングが伝わったのは1861(文久元)年6月22日で、長崎だそうだ。当時長崎で発行された英字新聞"The Nagasaki Shoping List and Advertiser"紙の広告紙面に、社交サロン店主ヘンリーギブソンが新装開店を告知した広告を6月22日付で掲載した記録が残っており、これが日本で最初のボウリング場であるとされている。そのボウリング場は長崎出島の唐人屋敷波止場広馬場に「インターナショナル・ボウリングサロン」が開業、我が国初のボウリングレーン付社交サロンで、場内にはプレーの合間に軽飲食もできるスナックバー風の設備も整っていて、外国人達の社交とレクリェーションの場となっていたようである。そして、当時のボウルは大中小の3種類があり、ピンは9本。指穴はなく抱えるようにして投げていたそうだ。レーンの長さは現在の3分の2程度で、ボウルを投げ、倒れたピンをピンボーイが元の位置に並べ、ボウルを運んで返却したという。
「日本ボウリング史料館」の資料を見ると、 木で出来たボールとピン状のものが、紀元前3000~5000年と思われるエジプトの墳墓から発掘され、ロンドンの博物館に展示されており、ボウリングの原型と思われる柱を倒す遊びは、古代からあったものと推測されている。もともとは農耕儀礼に行われていたようで、中世のヨーロッパでは木柱を邪悪なものとみなしてそれを石を転がして退治する宗教的な儀式から発展し、ボウリングの前身といえる「九柱戯(ナインピンズ。木柱が9本)」が行われていたそうだ。
そのボウリングが、アメリカにに渡り、人々が九柱儀に夢中になり、賭博行為なども行われた為に、19世紀半ばには一部州で禁止令が出されたが、ジョセフ・サムという人が、9ピンでなく10ピンならば禁止令に反しないだろうと考え、現在のようなテンピン・ボウリングが生まれた、と言う説があると言う。
このボウリング、江戸幕府が鎖国政策をとるなど西洋文明を拒み続けてきたこともあり、世界に比べ日本における歴史は浅く、唯一海外の文化を受け入れた長崎出島に幕末の頃やっと、ボウリング場が初開場したわけである。
そして、文明開化の明治時代にはいると、ボウリングも着実に根づいていった。そして、1869(明治2)年4月20日には、神戸・外国人居留地に会員制クラブ「ユニオンクラブ」が誕生している。のちに「神戸クラブ」の名で親しまれたこのクラブにはボウリングレーンの設備があったそうだ。初物の多い神戸だが、ボーリングが出来たのは、日本で2番目と言うことになる。それが、その後、どうなったのかは、知らないが、最近、三宮(雲井通)によく似た名前の「神戸ボウリング倶楽部」が出来ている。あの、古きよきボウリングの魅力を、現代の感性にマッチした形で蘇らせたのだとか。ゲームの後、みんなで愉しめるパーティールームやビリヤード・ダーツコーナーもあるそうだ。我が家から、近ければ行くんだけどな~。
22日は毎月「夫婦の日」でもある。ボーリングは、歳をとった人でも、比較的簡単に出来るスポーツ。夫婦で、出かけてその後、ゆっくり昼食でもとりながらの団欒も良いね~。
そういえば、ボーリングブームの頃には、よく行ったが、その後、長いこと、ボーリングには行っていないな~。
(画像は、三宮東遊園地にあるボーリング発祥の地の碑|)
参考:
日本ボウリング振興協議会
http://www.bowling.or.jp/nbcj/index.html
長崎年表〈江戸時代(11)〉
http://www4.cncm.ne.jp/~makuramoto/01.nenpyo/02-11.e.html

勝新太郎の忌日

2005-06-21 | 人物
1997年の今日(6月21日)は、 勝新太郎 (本名奥村利夫・俳優) の忌日<65歳> 。
1931(昭和6)年11月29日、東京。長唄の師匠の次男として生まれる。若山富三郎(故人)は兄。1962年、女優の中村玉緒と結婚。
1954(昭和29)年、「花の白虎隊」で映画デビュー。暫くヒットはなかったが、その後1961(昭和36)年からの「悪名」シリーズ、1962年からの「座頭市物語」シリーズが大ヒット。その後の「兵隊やくざ」もヒットし、勝新の”第三”のシリーズものとなった。
勝新太郎は、初めは、白塗りの二枚目役であったがヒットせず、同じ、「花の白虎隊」で映画デビューした市川雷蔵が先にスターの座を獲得した。暫くは目立たぬ存在であったが、1960(昭和35)年、「不知火検校」(森一生監督)で、盲目の按摩杉の市が、師の「不知火検校」を殺し二代目を襲名、悪行を重ねた上についには捕らえられるという悪党役を演じ、新芸域を開拓。「悪名」シリーズの浅吉役、「座頭市物語」シリーズでの剣のめっぽう強い盲目の市役など、その後、このような路線に沿った役を演じてきた。中でも、一番の当たり役は、「座頭市物語」のシリーズで、1962年~1973年まで、25本が製作されている。しかし、晩年は、1978年にアヘン所持で逮捕されてから、1990年、麻薬関係で逮捕。1992年帰国後日本でも逮捕され、懲役2年6月執行猶予4年の判決(東京地裁)を受けることとなる。また、この時、大麻をパンツの中に隠しもっていたことから、「もうパンツはかない」という名言?が話題にもなった。
「座頭市」、「悪名」、「兵隊やくざ」と、勝新の代表的シリーズものの主人公の多くはアウトローの世界に生きる男、一匹狼的な男を演じてきたが、彼は私生活も、役と同様自由奔放な気ままな生き方をしてきたといえる。そのため、元女優であった妻・中村玉緒は相当な苦労をしてきたと思うが、男として、本当に魅力があったのであろう、爪の先も悪く言っているのを聞かない。
「座頭市」の映画で、足元を杖で確かめてへっぴり腰で橋を渡る座頭市。最初の頃は、暗くてちょっと切ない日陰者として生きるしかない主人公として描かれていた市であるが、シリーズ化し、作品本数が増えていくと、主人公も次第に、超人的になり、茶目っ気もあり、女性や子供にやさしい、人間臭さのある人物として描かれ、大衆受けする娯楽作品になっていった。それが、25本も製作されてきた所以であろう。私も最初の頃のいい男を演じていた時の勝新は好きではなかったが、アウトローを演じるようになってからファンになった。最近は、ああいう男臭いスケールの大きな俳優がいなくなったな~。
(画像は、大阪・新歌舞伎座「勝新太郎特別公演」チラシ)
参考:
勝新太郎 (カツシンタロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/77448/
勝新太郎(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/勝新太郎