今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

難民の日

2005-06-20 | 記念日
今日(6月20日)は「難民の日」
2000(平成12)年12月14日、国連総会で、6月20日を国連「難民の日」とすることが決議された。この日は、もともとOAU(アフリカ統一機構)難民条約の発効を記念する「アフリカ難民の日」であったが、改めて、難民の保護と援助に対する世界的な関心を高め、UNHCR(国連難民高等弁務官)をはじめとする国連機関やNGO(非政府組織)による活動に理解と支援を深める日にしようというものである。1991年2月18日、国連難民高等弁務官に就任し、2000年12月までの長きにわたり努力をされてきた第8代国連難民高等弁務官 緒方貞子さんのあとを受けて、第9代国連難民高等弁務官となったルード・ルベルス(元オランダ首相)は、最初の「世界難民の日」へ寄せたメッセージの中で、「私たちすべて――特に世界中で政治に携わる人々が――ほんの少しの間、数多くの難民が感じている孤独や絶望感に思いをはせ、私たち自身に何ができるのかを自問する日とする必要があるのではないでしょうか」と述べている。
私も、日ごろ余り難民問題への意識が高いとはいえないが、日本人全般に、この難民問題への関心が高いと言えないのではないだろうか。今日のこの「難民の日」を機会に、難民問題、特に国内の難民の問題などにいくらかでも関心が高まるといいな~と思う。
陸続きの大陸と違い、東洋の島国日本には、今まで、余り難民が来る機会も少なく、どうしても、関心が、薄くなるのだろう。
日本では、ただ単に困っている人たちのことを「なんみん」と読んでいる場合があるが、難民とは単に困っている人達ではなく特殊な理由によって、自分の国に住んでいない人たちであり、その、特殊な理由とは、「人種や宗教、国籍、政治的な意見などが違うことによって、危害を加えられる。しかも、自分の国の政府には十分に保護してもらえない。しかし、人種や宗教、政治的意見も簡単に変えるわけには行かない。それで、人々は、迫害を逃れるために住んでいた町や村、国を出て安全に暮らせる国に行っている人たち」のことを難民と呼ぶと難民条約では規定している。
そして、現在、アフリカの難民(ソマリア、ブルンジ、コンゴ民主協和国、シェラレオネ、リベリア、コートジボワール、アンゴラ)、西アジアの難民(アフガニスタン)、アジアの難民(ブータン、スリランカ)、ヨーロッパの難民、国内避難民(バルカン地域=旧ユーゴスラビア)、コーカサスの避難民(チェチェン)、南米の避難民(コロンビア)など、世界には2000万人以上とも言われる難民の方々が安全を保障されない毎日を送っているという。ここのところ、昨今の報道関係を見ても、ミャンマー人の父親をもつ家族、タイ人の少女、そして難民不認定のクルド人2家族の国連大学ビル前で座り込み事件など、日本に滞在している難民の問題が続いている。
UNHCR駐日地域事務所では、この日を、「私たちに何ができるのか」を考える機会にしようと、「世界難民の日」をはさんだ約1か月間、UNハウス(国連大学ビル)のギャラリーにて、写真展を開催しているほか、各地で色々な講演会なども行われているが、それらに参加できない人も以下参考のHPなど見て、一度このことに関心を寄せてみてもらいたい。
過去の日本人で難民問題に係わった人物としては、難民に「命のビザ」を与えた外交官として有名な、杉原千畝(すぎはらちう、1900年~1986年)がいる。彼は、第二次世界大戦中にバトル3国の一つリトアニアの日本領事館に副領事として勤務中、ナチスドイツからの迫害を受けていたユダヤ人達に日本を通過できるビザを発行して多くの命を救い「日本のシンドラー」と呼ばれた外交官である。ナチスドイツの迫害を逃れるために、日本を経由してアメリカなどに行こうとしていたが、ビザ発行要件を満たさない為本来ならビザの発行が出来ない多くの人たちに対して、国の規則と良心の狭間で悩んだ末、独自の判断でビザを発行し、そのために救われたユダヤ人は6000人に上ると推定され、1996年、彼はイスラエルから勲章を授けられた。
帝国日本の時代に、人道上の見地から、自分の良心に照らして、独断でビザを発行した勇気ある日本人がいたのである。それに比し、ここのところの報道で見られる、日本の政府高官などの難民問題に対する頑なな規則一辺倒の対応は、少々、寂しい気持ちがする。又、反面、もし、北朝鮮などに異変があると、どのくらいのボートピープルが日本に押し寄せて来るかも判らない不安もある。難民問題では、その難民が、条約に基づく難民か、それとも単なる経済難民かの判断なども微妙で、色々難しい問題も多くある。この機会に、みんなで考えてみよう。
《画像は2004年『世界難民の日」ポスター(英語)》
参考:
Japan for UNHCR - 日本国連HCR協会 -
http://www.japanforunhcr.org/
「難民」外務省:難民問題と日本
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/nanmin/index.html
在日アフガニスタン難民問題の現在
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/index1.html
入国管理センター・入管収容所での在日難民、在日外国人医療実態
http://comcom.jca.apc.org/amnesty31g/31g/member/hana_nyuukan.html




朗読の日

2005-06-19 | 記念日
今日(6月19日)は、「朗読の日」
日本朗読文化協会が制定。「ろう(6)ど(十)く(9)」の語呂合せ。
NPO日本朗読文化協会は、「人間の声による朗読」を文化・文芸活動として復権させ、一般参加型の文化事業に育て、社会に認知させる。 既存の枠にとらわれず自由な発想のもとに、教育・人材育成、エンターテイメント、朗読ライブラリーなどのさまざまなプロジェクトを立ち上げ、多岐にわたる朗読活動を支援し、朗読の活性化と振興、地域社会や福祉への貢献を推進することを目的として設立されたそうだ。初代名誉会長は瀬戸内寂聴さん。
現日本朗読文化協会会長の小田久榮門 さんは、「いま、なぜ、朗読か」について、以下のようなことを言っておられる。
現代という時代では、人は映像文化の中に生まれ、育ち、成長する。映像は、空気のように、現代人にとって不可欠の養分、それなしには生きられない最大の文化的栄養素であるという確信があった。しかし、かって、ラジオしかなく、音質の良くないラジオにかじりついて、スピーカーから流れ出す、さまざまな文化的情報をむさぼるように吸収しつつ成長した、そんな時代への回帰現象が、今、起きつつあるのではないかという。それは、昔の方がよかったというのではなく、今の文化的状況は、どこかしら、原点を見失い、座標軸が曖昧になっている。現在の文化的状況は、映像文化をも含めて、全体的に言葉を失った状態が続いている。そして、最近、日本語を見直す本が売れ、朗読に人々の関心が集まっている。それもこれも、失われつつある言葉を恢複したいという、文化の自立的運動なのではなかろうか・・・と。そして、名文を声に出して読み、聞かせることによってコトバの持つ深い力を改めて知ろうと言うのである。
私も、本当にそうだと思う。今の世の中は映像中心の世の中になっており、次第に、良い言葉が失われている。若者言葉に始まる日本語の乱れは、酷いと思う。中には、それも時代の流れなどと悟ったような評論をしている人たちも多いが、良い文章、いい言葉は、心を癒し、健康的にしてくれる。
そういえば、ここ2~3年前より、新聞でも、よく、文学や民話、詩を吹き込んだ朗読CDの広告が掲載されており、よく売れているようだ。静かな「朗読ブーム」が起こっているのではないか。
書物(文章、詩文など)を声を出して読む(音読)。そしてさらに人間の複雑な感情表現を付加して、そこにドラマティックな世界を創る・・・それが「朗読」であるが、この朗読ブームがきっかけとなり、日本人の日常生活の中に朗読が溶け込み、他の人の朗読を聞いたり、他の人に読んで聞かせたりして楽しむことが、映画や演劇・音楽と同じレベルで楽しめる朗読文化が出来ると本当にすばらしいと思う。
そういえば、洋画などでは劇中よく詩の朗読場面がでてくるし、特に、洋画などの劇中劇などで、詩人が舞台に立ち大勢の前で、シェークスピアの一説などを朗々と朗読している場面では、その映画以上の感動を受けたことを思い出す。又、最近、テレビなどで、吉永小百合やその他映画俳優などの朗読シーンを見ることがあるが、プロの俳優達の豊かな表現による朗読には本当に感動させられる。
フランスやイギリス、ロシアなどの国々では朗読が、普通の習慣になっているという。そして、これらの国々では文化として、朗読をとおして国語を大切にする教育が行われているそうだ。日本では、どこかの劇団の駄洒落などは知らない人がいないほど認知されたりしているが、もし、日本に、朗読文化が定着し、素敵な詩や文章の一説が、日常の会話の中で交わされるようになったりすると、どんなに心豊かな社会が実現するだろう。「朗読の日」を機会に、先ずは、自分の家庭で、小さなお子様相手に、楽しい、夢のある「絵本」など感情をこめて読んで聞かせることから始めるのも良いのではないだろうか。若い人なら、愛の詩を彼氏、彼女を相手に朗読してみるのも一興だと思いませんか・・・?
(画像は、朗読力―心に伝わる「ポエトリー・リーディング」 PHPエル新書)
参考:
日本朗読文化協会
http://www.rodoku.org/
音読・朗読・表現読みの学校
ここには、各学年教材もあるよ・・・。
http://www16.ocn.ne.jp/~ondoku/index.html
[PDF] 日本語ブックレット 2002
http://www.kokken.go.jp/katsudo/kanko/nihongo_bt/nihongo-bt.pdf

海外移住の日

2005-06-18 | 記念日
1908(明治41)年の今日(6月18日)は「海外移住の日」
総理府(現在の内閣府)が1966(昭和41)年に制定。国際協力事業団移住事業部が実施。この日、第1回ブラジル移民の家族、781人が笠戸丸でサントス港に上陸した。
この第1回ブラジル移民船「笠戸丸」が神戸港を出航したのは1908(明治41)年4月28日のことである。
海岸通、元町通りなどの移民宿に分宿していた移住者は、人数が多いため、出港の前日から笠戸丸に乗船した。それも、出発日、移民宿より徒歩でメリケン波止場へ移動し、普通乗客を乗せる通船では間に合わないため、貨物の輸送に使われる「はしけ」に乗り込み、沖に停泊している笠戸丸へ運ばれたという。そして、50日もの日数をかけて、サントス港に到着したのである。しかし、ブラジルに到着した彼等を待ちうけていたものは、コーヒーの凶作だった。 この移民船は、民営の移民会社が募集したが、ブラジルの現実は厳しかった。ブラジル移民の背景には「移民に関する日米紳士協定」で、北米などへの移民制限と、イタリアがブラジル移民を禁じたための、ブラジルでの労働力不足があった。日露戦争(1904年=明治37年~1905年=明治38年)前後から特にカリフォルニアを中心に日本人移民の排斥運動が起こっていたからである。日本人の低賃金労働者がアメリカ人の職場を奪うことや、集団で日本人街を作る日本人への蔑視などが原因である。
船の出たメリケン波止場のあった所、今のメリケンパークには、「神戸港移民船乗船記念碑」(「希望の船出の銅像)が建っている。碑には、「この碑は今まさに希望に燃えて世界に旅立とうとする海外移住者の家族像である。子供が指をさす彼方は移住する国である」とあるが・・・・、実際には、希望に燃えてというより、生活の為に異国の地へ移住せねばならなかった人達であり、どれほど不安な気持ちであったろうか。察して余りある。
神戸港は、我が国を代表する国際貿易港であるが、同時に、多くの海外への移住者が出発前に日本で最後の日々を過ごしたところであり,海外日系人にとり心の故郷とも言われている。日本から世界に,100万人を超える移住者が新天地を目指して海外に雄飛されたが,神戸は、1868(慶応3)年の開港以降1971年までの間、その約4割にあたる海外移住者を送り出した日本の移住基地でもあった。1928(昭和3年)年には、移住者保護と移民研修のための施設として、我が国初の「国立神戸移民収容所(後に「神戸移住センター」と改称)が諏訪山の麓に設立されている。1930年作家石川達三は、「らぶらた丸」で、この「神戸移民収容所」を経てブラジルへ渡航、その体験に基づいた「蒼氓(そうぼう)」で、1935年、第1回芥川賞を受賞している。『蒼氓』の冒頭で以下のようにかかれている。
「一九三〇年三月八日。神戸港は雨である。(中略)三ノ宮から山ノ手に向かう赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。(中略)この道が丘につきあたって行き詰まったところに(中略)大きなビルディングが建っている。(中略)「国立海外移民収容所」である」とあるが、今では、三宮ではなく、当時の収容所は、現在の元町駅から鯉川筋を経て真っ直ぐ山手へ続く坂道の突き当たりの高台に、当時のままの姿でそびえたっている。
理由は、当時の三ノ宮駅は1874(明治7)年に、現在のJR元町駅付近に開業したが、その三ノ宮駅は、1929(昭和4)年3月、神戸市内の鉄道を高架にする工事施工に伴い、現在の三ノ宮駅付近に移転した為である。
1972(昭和47)年、神戸市が内務省所管の土地、建物を買取り「市立高等看護学院」、「神戸市医師会准看護婦学校」、「看護婦宿舎諏訪山寮」などに使用していたが、これも1990(平成2)年には閉鎖。1995年(平成7)年7月、この建物は阪神大震災で損壊した神戸海洋気象台の仮庁舎となったが、1999(平成11)年9月の移転に伴い閉鎖された。神戸市では、わが国移住史に残る貴重なこの建物を保存するとともに,その1階東側部分に「移住資料室」を設け,海外移住者の功績を歴史に残し後世に伝えていくことにした。
メリケン波止場にある「神戸港移民船乗船記念碑」は1990(平成2)年のブラジル日系5団体からの神戸市への陳情書により建てられたものという。今、「神戸まつり」のパレードなどで人気の高いサンバはブラジルの音楽であるが、神戸市とブラジルとはとても縁が深いのである。
(画像は、メリケンパークの「希望の船出」像)
参考:
独立行政法人 国際協力機構(もと国際協力事業団)
http://www.jica.go.jp/Index-j.html
移住坂―神戸と海外移住(コロニア ニッケイ社会 ニュース・ニッケイ新聞。)
http://www.nikkeyshimbun.com.br/030618-62colonia.html
※ブラジル移民の100年
http://www.ndl.go.jp/brasil/index.html
※印のものは2010年8月17日追加。

おまわりさんの日

2005-06-17 | 記念日
今日(6月17日)は「おまわりさんの日」
1874(明治7)年6月17日に、巡査制度が誕生し、同じ年に東京では交番制度も誕生した。当時の交番には建物はなく、3人が1組の当番員が特定の場所に出向き、100歩の範囲内で歩きながら立番を1時間ずつしていたことから、「交替で番をする所」という意味で「交番所」と呼ばれていた。明治14年から交番の建物が建てられ、「派出所」と呼ばれたが、平成6年に正式に「交番」という名で統一された。
警視庁創設の時の状況などは、私の1月15日のBlog「警視庁創設記念日」に書いてあるのでそこでご覧ください。
この日本の交番制度が治安維持に大きな効果を発揮しているとの判断から、シンガポール、マレーシア、タイ また、犯罪の多かった米国・ニューヨークなどでも日本の交番制度に倣った制度を導入されるなど、世界的に広まっている。そして、この交番が、日本独自の「KOBANシステム」として米国大学教授によって紹介されたほか、他の英語文献にも「KOBAN」の表記が見られるようになり、国際語としての市民権を得るようになったため、警察庁が、現在では、交番の案内表示板などには、外国人にも分かりやすいようにローマ字で「KOBAN」と表記されるようにまでなった。
日本ではこの交番の他に駐在所(家族とともに1名の警察官が地域に駐在しているところ)がある。交番が設置されて100年以上が経過した今日、全国には約6500ケ所の交番と、約7900ケ所の駐在所があるという。
交番や駐在所で勤務する警察官のことを地域警察官と呼んでいるようであるが、これら地域警察官の仕事は大きく分けて4つ、(1)交番・駐在所の内外での警戒(2)地域のパトロールと住民への巡回連絡(3)事件、事故などの対応(4)地域住民からの相談受けつけや落とし物の届け出を受理する業務などであるらしいが、年々悪質な犯罪が増加する中、警察庁が行った国民調査の「今後強化してほしい活動」という項目では62.3%の人が「パトロール」と回答したといい。警察庁でもパトロールを強化しているようであるが、その結果、地域警察官の数が少ない交番では、交番内に誰もいなくなることが多くなる・・・「空き交番」が増えているそうだ。現に、私の住んでいる家の近くの交番も、めったに警察官のいるところを見なくなっていたが、今年からは、正式に「詰め所」と言う名前になったという。説明を聞くと、もう、たまには警察官が詰めていることもあるが、普段は、人のいない無人の詰め所となり、電話など自由に使えるようにしてあるので、急な用件があれば、電話で連絡して欲しいというのである。近所の人たちも、不安を抱えているのだが、先ほど挙げた国民調査でも、空き交番を減らしてほしいという要求が多くなっているといい、同じ様なところが増えているのだろう。地域を巡回パトロールすることと、交番に駐在することの両立は相矛盾する問題でもあるが、何か対応策を早く講じて欲しいものである。
それと、気になることが1つある。昔は、交番の警察官が、定期的に地域の家庭を巡回し、家の家族構成その他色々調べ、どのような住民が住んでいるかを把握していた。それが、最近は、しなくなったので、どうしてかと思っていると、色々個人の家庭のことを調べるのは「プライバシーの侵害」に当たるということで、出来なくなったというのである。だから、最近は、近くにマンションなどが出来、人の出入りが激しくなっていても、その地域に、一体どのような素性の人が住んでいるのか、警察すら把握できていないのである。私の知人に大阪府警の人がいたが、あの森永事件の時でも、一体大阪に住んでいる人が何人いるのか、その正確な人数すら把握できないと嘆いていた。だから、しらみつぶしに戸別訪問しても、完全に、どこまで、面接できたかわからないと言うのである。こんなことで、犯罪捜査が出来るだろうか。個人間や商業目的の企業ではない。国の治安を維持する機関にまでプライバシーをどうのと言うのはおかしいのではないか。今でも、犯罪は地域警察官の検挙率が80.9%に達しているといわれているが、いくら、交番があっても、パトロールだけで、地域住民の把握が出来なくて、成果を挙げうるのだろうか・・・?私には、国の治安維持をする機関に対してまで、プライバシーをとやかく言っている人の、「知られて困るプライバシー」ってなんだろう・・・。その人がどんな人なのか凄く怖い!・・・のだが・・・。
それにしても、最近は、警察官(おまわりさん)の弱体化、モラルの低下などもあり、人に信用されないおなわりさんも増えてきた。先ずは、おまわりさんの信頼回復に力を入れて欲しいものだ・・・。
参考:
キッズ・コーナー・警察ってどんなところ?警察って何をするの?そんなb疑問をバッチリ解決!
http://www.police.pref.chiba.jp/publicity/kids_corner/index.html


和菓子の日

2005-06-16 | 記念日
1842年の今日(6月16日)は、「和菓子の日」
全国和菓子協会 が1979(昭和54)年に制定。
同協会の「和菓子の日」の由来を見てみると、平安時代848年頃、当時国内に疫病が蔓延(まんえん)したことから仁明天皇が元号を「嘉祥」とあらため6月16日に16の数に因んだ菓子、餅を神に供えて疫病除け、健康招福を祈った古例に始り、その後、後嵯峨天皇(1220~1271年)が吉例として行ったのをはじめ室町時代には年中行事として行われるようになったそうだ。
これが、江戸時代になると、町方でも嘉祥喰といって、嘉定通宝16枚で菓子を求めて食す、また、米1升6合と菓子を交換して食べるなどし、疫病退散健康招福を祈願する行事として盛んに行われたという。そして、徳川幕府では「嘉祥頂戴」と称して御目見得以上の諸士に大広間で菓子を賜る行事が催されたそうだ。この儀式は、明治以降は廃れてしまったが、東京和生菓子協会が、形を変えて「和菓子の日」として復活させた。この嘉祥の日に東京和生菓子協会主催の献菓式が赤坂日枝神社で行われており、この日、境内に拝服席を設け嘉祥菓子を用意して参拝者に分けてくれるらしい。
この、十六という数は、「十六羅漢」などがあるように、仏教の数字へのこだわりがあるものと思われる。徳川十六神将と言うのがあるらしいが、これは、徳川家康の側近に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰して呼んだものだそうで、ここでも16の数字が出てくる。嘉祥菓子も後、16種から7種へと変って来ているが、これは、十六の十を一で代表させ、六を足して七としたものだそうだ。和菓子の日にちょっと洒落て、「祝い七つ菓子」にちなんだ【室 礼(しつらい)】をするのもいいかも・・・。「祝い七つ菓子」とはおめでたい時に、身近にあるお菓子七種を盛ってお祝いすることをいい。七の数は、東西南北に天と地、行事を実行する人の心を加えた数とされているんだそうだ。
(画像は嘉祥菓子。参考室礼より借用)
参考:
歴史上の人物と和菓子 -井原西鶴と嘉祥の菓子-|株式会社 虎屋
http://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_029.html
嘉祥菓子|株式会社 虎屋
カーラチャクラの魔法陣:仏法の16の数は・・・
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/Mahojin.html
-裏千家ホームページ 日枝神社 献茶式
http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/kencha/ken15a/ken15a-22/ken15a-22.html
【室 礼】しつらい
http://www.shitsurai.com/