今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

信用金庫の日

2005-06-15 | 記念日
今日(6月15日)は、「信用金庫の日」
1951年(昭和26年)6月15日、信用金庫法が制定されたことにちなんで制定された。
信用金庫とは、日本において預金の受け入れ、資金の移動や貸し出し(融資、ローン)、手形の発行などを行う金融機関の一つである。法律的には、小切手法により銀行と同視されており、基本的には銀行と同様の業務を行っているが、銀行との相違点としては、非営利組織であることや、信用金庫の所在する地域の会員中小企業(従業員数300人以下、あるいは資本金9億円以下)に融資先が限られるなどの点がある。金融業務以外の信用金庫固有の業務として、スポーツ振興くじ(サッカーくじ、toto)の当せん金の支払いを一部の店舗で行っている。以下参考の「販売店・払戻店情報」であなたの家の近くの払い戻し店がわかるよ。
写真は、私のコレクションの関西信用金庫の貯金箱。関西信用金庫は今「 関西西宮信用金庫」と名前が変わっている。このネーミング変だと思わない?西宮は関西にあるんだからこんな名前付けなくても・・・・・?。これは1994年に、関西信用金庫と西宮信用金庫が合併してできたものだから、こんな名前が付いているのだが、お互いの面子なんだろうね~。優秀な企業は、合併すると、新しい会社に生まれ変わるために、新しいCIを作りイメージチェンジを図るものだがね~。古い体質のところは、古臭い名前を捨てられないのだろう~ね。どこかの銀行みたいに「とまと」なんて洒落られないのかな~。しかし、ユニークな信用金庫もあり、関西では、尼崎にある尼崎信用金庫の「世界の貯金箱博物館」が有名。凄いコレクションだよ。入館料は無料で訪問すると記念に同信用金庫の貯金箱がもらえる。近くの人は一度覗いてみては・・・。
ついでに、私のHPのCMを・・・。私のコレクションの中に銀行関係の貯金箱がある。「よーさんの我楽多部屋」の別館であるコレクションルームに展示してる。興味のある人、ちょっと、覗いてみて・・・。
ここです。
(画像は)
参考:
しんきんふれ愛ネット
http://www.fureainet.shinkin.co.jp/index.htm
販売店・払戻店情報
スポーツ振興くじtoto(トト)の払戻店情報。(払戻しを行う販売店も検索できます。)
http://www.toto-dream.com/shop/totoShopRefundMenu.html

フラッグデー (アメリカ合衆国)

2005-06-14 | 記念日
今日(6月14日)は、「フラッグデー (アメリカ合衆国)」
1777年、「星条旗」を正式にアメリカ合衆国の国旗と定めた。
アメリカが独立宣言を行った頃の旗にはイギリスの国旗が入っていた。しかし、独立戦争で戦った相手の国の国旗が旗に入っていては国民の士気に影響するということで、ワシントンらがフィラデルフィアの旗作り職人ベッツイ・ロスに依頼し、星条旗を完成させた。第28代大統領ウィルソンがこの日を国民の祝日とした。
日本では、毎年4月頃になると、「国旗」掲揚問題で、世間を騒がせる人達がいる。概ね公立学校の教員達である。
思想信条の自由は憲法でも保障された権利であり、誰であろうと、自分の考えを主張するのは結構である。しかし、それは、あくまでも、その人の個人的立場でやられると良い。そのような、個人的な思想・信条を、公の学校の中でやられるのは困る。自分の思想を、どうしても、これからの子供達に訴えたいという強い信念があるのであれば、公の立場を退いて、あなた自身で私立の学校でも塾でも設立して、そこでやられると良い。それを、とやかく言う人はいないだろう。大いにやられると良い。しかし、自分の個人的な思想を公のそれも教育の場に持ち込むなどと言うことは、とんでもない行為である。
アメリカ合衆国が自国の国旗を定めたのも、自国民の誇りと自尊心の為である。どこの国でも国旗・国歌を尊重するのは、ごくごく自然なことであり、国民としての義務でもある。それは、単に自国の国旗だけではなく、他国の国旗・国歌についても然り。敬意を表するのが礼儀であろう。
最近、日本の近隣のどこかの国で、その国のことが気に入らないといって、その国の国旗を焼いたり、引き裂いたりしている野蛮な行為が見られたが、そのような行為をするということは、自らの低俗な国民性を証明しているものである。しかし、世界のなかに、自分の国の国旗掲揚や国歌斉唱に反発する人間のいる国はあるのだろうか・・・?私は、世界中の国を知っているわけではないが、推測として、恐らく日本ぐらいのものであろうと思っている。
世界の国のいろいろな国旗、国歌と日本の国旗、国歌を比較してみると良い。いずれも、日本の伝統に基づいたいいものですよ。HPを検索していると、中には、日本の国旗、国歌のよさを理解し、子供達に指導されているらしい公立の教員も発見し、少しは救われた気になったが・・・。
(画像は、日本の国旗)
参照:
外務省: 世界の国旗
http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kokki/
世界の国旗・国歌
http://www.h3.dion.ne.jp/~pekochan/kokkikokka/kokkikokka.htm
国旗及び国歌に関する法律
http://www.ron.gr.jp/law/law/kokki_ko.htm
国旗・国家の意義を教える(上)
http://www.jiyuu-shikan.org/teachers/hattori/kokki.html
国旗・国歌の意義を教える(下)
http://www.jiyuu-shikan.org/teachers/hattori/kokki2.html

小さな親切の日

2005-06-13 | 記念日
今日(6月13日)は「小さな親切の日」
1963(昭和38)年、「小さな親切」運動本部 が発足した。
その年の東京大学の卒業式の告辞の中で、茅誠司総長が「小さな親切を勇気をもってやってほしい」と言ったことがきっかけとなって、6月13日に茅氏を始めとする8名の提唱者が、運動を発足させた。“できる親切はみんなでしよう それが社会の習慣となるように”、“人を信じ、人を愛し、人に尽くす”をスローガンに運動が進められている。
茅誠司さんは、やろうと思えば出来る親切をやって下さい。「おはよう」と言ってあいさつする人もいないのではないですか。会ったら、「おはよう」と言うぐらい何のことはない。皆で言おうじゃないか・・・。といっている。
本当に、最近は、隣近所に住んで、顔見知りの若者でも、すれ違っても挨拶一つできない人が増えている。
私は、家人と、運動を兼ねて、裏の山に週2~3回登っている。神戸地方では、山登りをしているもの同士は、例え、見ず知らずのものであっても、すれ違えば、「おはよう」また、「こんにちわ」と挨拶するのが一般的となっている。しかし、最近は、全く挨拶しない人が増えてきている。
よく、幼稚園や小学校低学年の子供達を引率した学校の先生や付き添いの家族とも出会う。しかし、そのうちの子供達の3分の1くらいは、挨拶をしない。子供達だけでなく、先生もしなければ付き添いの親もしない。挨拶をする子供達の場合は、先生も、付き添いの親もしている。当然である。先生や親が挨拶もせづ、することを指導していない子供達が挨拶などするはずがない。このような、学校の先生や親達は、一体何を教育と考えているのだろうと思う。
挨拶をすると、凄く気分が晴れるし、その場の雰囲気が明るくさわやかになる。そして、相互に、親しみを感じるようになる。私が、現役で仕事をしていた会社も、あいさつ運動は徹底していた。朝は、必ず大きな声で、「おはよう」と声をかけるように徹底した指導をしていた。
挨拶は、生活していく上での最低のマナー・基本であろう。人と出合って、気持ちよく、挨拶が出来ない人に、「小さな親切」もあったものではない。誰にでもしようと思ったら出来る「ちいさな親切」運動の前に、挨拶をする習慣ぐらいは身につけて欲しいものである。
因みに、この運動での、「小さな親切」八か条を以下にあげておこう。
1、朝夕のあいさつを必ずしましょう。
2、はっきりした声で返事をしましょう。
3、他人からの親切を受け入れ、「ありがとう」といいましょう。
4、人から「ありがとう」といわれたら、「どういたしまして」といいましょう。
5、紙くずなどをやたらに捨てないようにしましょう。
6、電車やバスの中でお年寄りやあかちゃんをだいたお母さんには席をゆずりましょう。
7、人が困っているのをみたら、てつだってあげましょう。
8、他人の迷惑になることは止めましょう。
本当に、難しいことは何一つない。やっろうと思えばできることばかり。先ずは、挨拶から、始めよう!
(画像は、「涙がでるほどいい話」小さな親切運動本部 著。「まわりで起こった小さな親切」をテーマに全国から寄せられたものを一冊に。今、8部まで出版されているようだ。)
参考:
はてなダイアリー - 茅誠司とは
>http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%FD%C0%BF%BB%CA?kid=53930





日記の日

2005-06-12 | 記念日
今日(6月12日)は、「日記の日」
1942(昭和17)年、ユダヤ人の少女アンネ・フランクによって「アンネの日記」が書き始められた。
アンネの家族は、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を逃れて、オランダのアムステルダムの隠れ家に身を隠した。日記は、隠れ家に入る少し前の13歳の誕生日に父から贈られたものだった。
今も残るこの最初の日記には、冒頭にこう記されている・・。
「あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、
なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、
大きな心の支えと慰めになってくださいね。」
1942年年6月12日のこの文面からもわかるように、アンネは自分自身に当てた手紙のように日記を書き続けていく。
1944(昭和19)年8月1日、アンネらは隠れ家から連れ出されて、ポーランドのアウシュビッツに送られた。日記は、この日の記述で終わっている。その後、1945(昭和20)年3月31日にドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所で病死。15歳の短い生涯を終えた。それは、収容所が開放される1ヶ月前のことであった。彼女が隠れ家で書き続けたこの日記は、自ら冒頭に書いているように、当初は、私的な記録として思春期の少女らしい心のたけをぶちまける場だったが、1944年春からは、いずれ戦争が終わったら、この手記を発表したいと考えるようになり、それまでに書いた日記の書き直しを始める。彼女等が連行された後、《隠れ家》の床に散乱していたこれら2種類の手記は、潜行生活を助けてきたオランダ女性ミープ・ヒースの手で救われ、戦後、強制収用所からただ一人生還した父親のオットーに渡され、オットーは、1946年6月、この手記を当時の社会情勢にあわせて、適宜、縮約・編集して「後ろの家」(邦訳では「光のほかに」後、「アンネの日記)の題で出版した。初版は、わずかに1500部だったというが、たちまち評判を呼んで各国で翻訳本が出版され、のちに、オランダ語で書かれた本でもっとも多くの言語に翻訳された本となった。そして、60年以上たった今日でも世界中の人々に読みつがれ、感動を与え続けている。
当初、この手記が「後ろの家」と題して出版されたのは、オランダは、ナチスドイツの占領下にあり、ユダヤ人への締めつけが日増しに厳しくなって来たため、アンネ一家が急遽、市内の隠れ家に移ったが、この家は、同市プリンセンフラハト263番地、アンネの父オットーの経営する会社の裏側、オランダ独特の建築様式である”後ろの家”にあったためである。この独特の建築様式である”後ろの家”は、外部からは目に付かない仕組みになっていたそうだ。それで、手記のタイトルに隠れ家である「後ろの家」の題がつけられたようである。そして、ついに秘密が発覚して連行され強制収容所で病死したというのだが・・・。
このようにナチスに連行されて犠牲者となった人たちは600万人に及ぶといわれている。また、これらの犠牲者はあの有名なアウシュビッツなどでの毒殺のようにいわれているが、実際には、餓死とか病死(特にチフス)で死んだのだそうである、だから、犠牲者の写真を見ると皆、痩せこけているのだという。毒殺ではなく、連行された人たちは、食事も与えず餓死や病死で死ぬまで放置されていたとすれば、これらの人たちは、毎日がどのような思いであったろうか・・・。又、このような強制収容所はアウシュビッツだけでなく、他に5箇所もあったという。アウシュビッツが有名になったのは、他の殆どすべてがナチスによって完全に破壊、証拠隠滅されたのに対して、そこだけが撤収時に破壊されなかったことによる。また、アウシュビッツも本来の収容所に加えて、ビルケナウ、モノビッツという2ヶ所があり、都合3ヶ所の収容所で構成されていたのだという。本当に惨いことをしたものだ。最近、小泉首相の靖国神社参拝問題から、日本の戦争責任問題がドイツと比較して隣国からとやかく言われているが、日本は、こんな酷いことはしていない。色々と日本側にも、言い分はあるものの、大陸への侵略は事実としてあったのだし、それによって、戦争の結果としての多くの犠牲者が出たことも事実であろう。だからといって、ドイツと比較して語られてはたまったものではない。
(画像は、「アンネの日記」米国版、チラシ)
参考:
回想のアンネ・フランク・ハウス(大越哲仁)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/ohkoshitetsuji02.html
マイクロライフ :Anne Frank の隠れ家
http://plaza.rakuten.co.jp/wageningen/diary/200505210000/
アウシュビッツ平和博物館
http://www.am-j.or.jp/exhibition/002_auschuwitz.htm


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国立銀行設立の日

2005-06-11 | 記念日
今日(6月11日)は、「国立銀行設立の日」
1873(明治6)年6月11日、日本初の銀行、第一国立銀行(後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)が設立された。
長く続いた武士政権が崩壊し、明治政府はこれまでの封建時代の諸制度を変革し、近代的な諸制度の整備をはかり、富国強兵・殖産興業を合言葉に先進諸国に追いつこうとしていた。そして、維新後、政府が発行した多額の国債や不換紙幣(金貨と交換できない紙幣)の整理などのために、近代的な金融機関の必要性を考えていた。そこで、1872(明治5)年、渋沢栄一らの働きかけにより、「国立銀行条例」が制定され、第一国立銀行など4行が誕生した。渋沢栄一はちゃっかりと第一国立銀行初代頭取の座についている。名前は国立銀行と言うものの、国が設立した銀行ではなく、アメリカのNational Bankを直訳したもので、実際には、兌換紙幣(実物の金(gold)との交換を保証する紙幣)を発行することが許された民間銀行であった。しかし、「金」という裏づけを持っていないと紙幣が発行できないため、相当な資産家でないと「国立」銀行を開設できず、それ以上の銀行はできなかったため、1876(明治9)年に「国立銀行条例」は改正され、金貨との交換義務が廃止されて、銀行券の発行限度も拡充された結果、全国的に銀行設立ブームが起こり、153行もの国立銀行が誕生した。
初期の国立銀行紙幣(旧券)は、アメリカに製造を依頼したため、アメリカ紙幣の様式(グリ-ンバック)に非常に良く似ている。1882(明治15)年に日本銀行が開業すると、これらの国立銀行は普通銀行に転換し、国立銀行紙幣も明治32年(1899)末に通用停止となった。
国立銀行はすべて第○○国立銀行のような名前になっていたことから、ナンバー銀行と呼ばれた。今でも第四銀行、七十七銀行等当時のナンバーをそのままの名称で使っている銀行が残っている。ナンバー銀行については、以下参考の「全国ナンバー銀行リスト」が詳しく、面白い話も載っているよ。現在は、多くの銀行は地方銀行になっており、中には都市銀行と合併、またはその母体となったものもあり,たとえば、八十二銀行ように第十九銀行と第六十三銀行の足し算で出来たナンバー銀行もあり、では、もともとの第八十二国立銀行はどこに?・・・と、調べると元の第八十二銀行は、富士銀行が継続銀行になっているとか・・・。
その後、日本の経済発展に、銀行の果たした役割は、大きかったが、バブル経済の崩壊後、多くの銀行はこれからのあり方が、問われている。極端な言い方をすれば、今まで、担保を取ってお金を貸すことしか能のなかった銀行であるが、今や、大手の企業は、資金を、証券市場で調達しているし、トヨタ他超優良企業になると銀行からお金を借りるどころか、その企業自体が銀行の役割を果たしており、その企業の関連する企業などに逆に資金を融資さえしている。バブル経済がはじけ、破綻寸前の今の銀行は、再生の為に、預金者に対して、まともな金利を払うことすら出来ず、今や、これを不満とする大口預金者は、徐々に、証券市場や外債などの方へ資金移動させるなど、銀行離れが進んでいる。この流れはこれからもどんどん加速していくだろう。どちらにしても、単に、お金を貸すだけの銀行の役割は低下しており、これからも淘汰が進むものと考えられる。ペイオフが実施されたということは、いずれ、少なからぬ銀行が破綻をするという前提であることは間違いない。
(画像は、国立銀行紙幣1873年発行。貨幣博物館 より)
参考:
日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
全国ナンバー銀行リスト
http://www.dik.co.jp/seken/GOGEN/ginko.html
七十七銀行・金融資料館
http://www.77bank.co.jp/museum/history/index.htm
第一銀行(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%8A%80%E8%A1%8C