今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

10円カレーの日

2006-09-25 | 記念日
今日(9月25日)は、「10円カレーの日」
1983(昭和58)年から、日比谷公園の中にあるレストラン「松本楼」では、この日に、普段は700円のカレーを10円以上募金した人に提供しているという。
日比谷松本楼HPを見ると、10円カレーチャリティーセールのはじまりは、1971(昭和48)年の秋、沖縄返還協定反対の過激派学生グループにより、火炎瓶を投げられ松本楼は炎上、全焼した。これは、関東大震災以来、2度目の悲しい炎上事件であった。この炎上から2年後の1973(昭和48)年9月25日に再オープンすることが出来た。そのときの感謝の心をこめた記念行事として始まったのがこの「10円カレーチャリティーセール」だそうである。毎年、9月25日に先着1500名にサービスし、売り上げは震災の義援金や交通遺児育英会、ユニセフなどに松本楼からの寄付金も加えて全額寄付しているのだという。 
昨・2005年で、33回目になるが、2004(平成16)年までの32年間の総入場者数は、76,398名、寄付金総額は、15,470,815円に上るという。何でも、30名のスタッフが1年に1度のこの日のために最高のカレーを賞味して頂こうと、下準備に2日、煮込みに4日、そして最後の1日はじっくり寝かせて味をなじませるなど、1週間がかりで入念な支度をしてのものだとか。
日比谷の秋の風物詩→http://www.matsumotoro.co.jp/10yencurry1.htm
10円カレーは現代俳句の秋の季語となっているほどだという。それは、評判を呼ぶだろうね。一流のレストランがこんな値段で、奉仕するのだから、恐らく、ものすごい列が出来ているのだろう。しかし、ここにも書いてあるように、普段は700円のカレーを「10円以上募金した人」に提供しているのだが、皆さん、どのくらい募金しているのだろうね。私など、営業をしていたものは、すぐに計算したくなるが、もし、総入場者数が76,398人と言うから、1人平均100円寄付したとすると、これで、7、639、800円だから、これに松本楼も寄付金を加えるというのだから、そうすると、やはり1人当り、100円少々と言う事になるのだろうね~。上記、「日比谷の秋の風物詩」を見ると、”お土産に勝沼ぶどう、カルピス製品、UCC製品のプレゼントがつく”と言うのだから、凄い。プレゼントに貰うものだけでも100円ではすまないよね・・・。一応、店側は、商売抜きで、チャリティーとしてやっているのだから、お客として、サービスを受ける側も、もう少し、寄付額を増やしてもいいのではないだろうかね~。安ければよい、10円で良いと言うのだから、10円しか払わない人も大勢いるから、このような額になるのだろうけれどもね・・。私は、その目的が何であれ、「松本楼」のように、商業をしているものが、年に1度でも、本当に感謝の気持ちを込めて奉仕するという気持ちが嬉しいし、是非、どこのサービス業もやってもらえたらいいな~と思っている。
商業の世界では、「お客様(消費者)は神様」だと口先では皆言っている。又、昔から、商売の世界では、「損をして得をとれ」とも言われている。先ず、お金を儲ける事を考えるよりも、神様であるい客様(消費者)に、喜んで貰える事をして、そのお客様のご贔屓を戴いて、儲けさせて貰うのが、商売の常道である。
私は、もう現役を退いたが、現役時代は、色んな会社と関係をし、営業・管理畑ともに歩んできたが、商社やメーカー、問屋業だけでなく、小売店、専門店、百貨店からスーパーまで、いろいろな職業を確り見てきた。特に、小売業など、その店を覗いただけで、よい店か悪い店か、売れる店か売れない店かなどすぐ分かる。先ず、売れる店、よい店といわれるところは、非常に店の雰囲気が明るいし、従業員も教育がよくされいて、素直で、明るい子が多い。これは、そこの事業主の性格や信条がそのまま店作りや従業員の態度などにも出ているのだろう。そして、ガツガツしたところがなく、共通して、何よりも、先ず、お客様へのサービスを考えている。そして、お客様のお蔭で自分達が儲けさせてもらっているとの自覚を持っている。逆に、流行らない店は、もう、飢えているというか、売ること、儲けることばかりを考えている。売れない・儲からない原因は、消費者が欲していない店だからである。どこにでもある何の変哲もないものを、安くもなく、消費者へのサービスもせず売れたり・儲かったりするはずがない。どうして売れないのだろう・儲からないのだろうなどと考える前に自分の店に魅力がないのは何故かを考えるべきだろう。
私は、東京に5年間ほど住んでいたが、松本楼へ行ったことがない。ただ、松本楼は、1903(明治36)に、日比谷公園の開園とともに園内に開店。静かな佇(たたず)まいの中、しゃれた洋館づくりのお店は当時からたいへんな評判になっていたようであり、当時のモダンボーイやモダンガールの間では松本楼でカレーをたべてコーヒーを飲むのがハイカラな習慣となっていたようだ。大正元年の高村光太郎の詩『涙』には、”松本楼の庭前に氷菓を味へば 人はみな、いみじき事の噂に眉をひそめ かすかに耳なれたる鈴の音す”。と智恵子と一緒にアイスクリーム(氷菓)を食べたことが描かれている。また、夏目漱石の小説『野分』にも松本楼は「公園の真ん中の西洋料理屋」として登場している。今でも、1階のグリルルームでは昔ながらのオリジナルな味のビーフカレーやオムライスをはじめ、懐かしい味わいのハイカラ料理がたっぷりと楽しめるそうだが、東京にいた5年間、飲んだくれの私は、夜の街ばかりさまよい歩き、このような洒落た店などには関心を持っていなかった。今、思えば残念である。最も、私が東京にいたのは、1962(昭和37)年~1967(昭和42)年頃であるから、「10円カレー」の恩恵は受けられなかったが・・・。
(画像は日比谷・松本楼。下記参考の日比谷 松本楼/観光-じゃらんnetより)
参考:
日比谷松本楼
http://www.matsumotoro.co.jp/
<松本楼>で漱石のステーキ、智恵子のアイスクリーム 都会の森でクラシックメニューを
http://allabout.co.jp/travel/traveltokyo/closeup/CU20031029/index.htm?FM=cukj&GS=frenchcuisine
カレー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC
智恵子抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E6%81%B5%E5%AD%90%E6%8A%84
智恵子の空
http://www.minyu.co.jp/chieko/chieko6.html
夏目 漱石「野分 (のわき)」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card791.html
日比谷 松本楼/観光-じゃらんnet
http://www.jalan.net/kanko/SPT_151736.html

「西郷隆盛」の忌日

2006-09-24 | 人物
今日(9月24日)は、「西郷隆盛」の忌日
西郷 隆盛(さいごう たかもり)は、1877(明治10)年9月24日、西南戦争に敗れ自決 した。<49歳> 西郷は1828(文政10年12月7日)薩摩国(現・鹿児島県)]に生まれる。江戸時代末期(幕末)から明治における日本の政治家。長州藩木戸孝允(桂小五郎)、薩摩藩の大久保利通と並び「維新の三傑」と称される。
西南戦争(城山決戦)が大雨の中終わると、浄光明寺跡で参軍山県有朋・旅団長ら立ち会いのもと西郷 の検屍が行われ、浄光明寺跡(現在の南洲神社の鳥居附近)に埋葬(このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられていた)されていたが、1879(明治12)年、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。
1877(明治10)年2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが黒田清隆らの努力や明治天皇直々の働きがあって1889(明治22)年2月1日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位(位階)を追贈されている。 また、功により、子の寅太郎にも侯爵を賜っている。 鹿児島県鹿児島市の南洲墓地ある南洲公園内には、西郷隆盛を祀る南洲神社があるが、ほかにも、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にも南洲神社がある。
明治維新で第一の功臣として日本最初の陸軍大将となったが、1877(明治10)年の西南の役で、政府に対する反乱の首領として、城山決戦で非業の死を遂げた西郷隆盛 の銅像が、東京上野に建てられたのは、その死後も20年を経た1898(明治31)年のことであった。無造作な和服姿に犬を連れ、いかにも村夫子(そんぷうし=村の物知り。田舎の学者)然とした西郷の銅像は、他の明治の功臣たちの、軍服姿やフロックコート(男性の昼間用礼服。上着はダブルで丈はひざまであり、縞のズボンと組み合わせて着る)で、ことさらに威厳をとりつくろった銅像が多い中でひときわ異彩を放っているといっていいだろう。日本人が「西郷さん」また、鹿児島弁で「西郷どん」と広く敬意と親しみを込めて呼ぶ場合、そのイメージの原型はこの観光の名所にもなっている上野恩賜公園の西郷像にあるといってもいいのではないか。この西郷の着流し姿の銅像は、肖像画をもとに高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)によるものとされているが、この銅像の除幕式で、初めて亡夫の銅像を見た未亡人糸子が驚きの声を漏らすほど違和感を抱いたといわれている。
維新の立役者の写真が多数残っている中、自分の写真がないと明治天皇に明言しているといわれるほど」西郷は写真嫌いだったようで、事実、西郷の顔写真は一切残っていないのだそうだ。 西郷の死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった一枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであるという。(キヨッソーネは西郷との面識が一切なかったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。)
この西郷の評価は、殆ど信仰に近い感情で英傑の筆頭にあげる人もあれば、軍国主義的な反動政治家として、否定的に断ずる人もいたなど、これまで人により、時代により、様々に変ってきたが、いろいろな研究から、今では、茫洋とした風貌にかかわらず、極めて細心な人で、しかも、非常に精錬・潔癖な人としての評価が高いようである。
西郷の思想を表すものとして「敬天愛人 」がある。
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(『南洲翁遺訓』より)
日本史探訪(角川文庫)の中の西郷隆盛に、観音寺潮五郎氏(作家)の「月照事件」についての記載があり、そのなかに「敬天愛人 」について触れている。
1858(安政5)年11月、鹿児島の錦江湾に西郷と京都・清水寺の僧月照(げっしょう)の2人が身投げをするという事件があった。この年は安政の大獄の始まった年であり、一橋慶喜擁立派と尊王攘夷派とに対立する大老井伊直弼の過酷な弾圧が始まった。譲位討幕の志を抱いていた京都・清水寺の僧月照(げっしょう)も幕府に追われる身となった。西郷は、この月照を郷里薩摩に匿おうとしたが幕府の追求を恐れた薩摩藩はこれを拒んだため、困った西郷は、月照とともに自殺をしたのである。しかし、月照は死んだが、西郷は、程なく助けられ奇跡的に蘇ったのだそうだ。死に損なった、西郷は、自分だけが助けられ生き残った事に対して、当時の武士として、非常に悩み、生き恥を晒すぐらいならと後を追って死にたかったろうと思うが、西郷家の家族や彼の友人達は彼の目の届くところから刃物を隠したと伝えられているそうで、兎に角、西郷は、生き延びた。このとき、彼を落ち着かせてくれたのは、人間の運命は、全てこれ、天の賦与で、素直にそれにしたがって、しかも、十分に生かし切るものだということだった。彼の有名な「敬天愛人 」の思想は、この事件の中から生まれたのだろうという。「人間の運命は天の賦与であり、これを天と合致させることが、人間の完全な生き方である。全てを天に任せるきること。」そういう信仰に彼は達した。ならば、「その天とはなにか?。その本体は、仁であり、その用は愛である。人間は天を敬し、仁愛を身に体して行う。これが、即ち、天と合致することである。」という。そして、その方法はどうかと考え、そして、「天は無私無欲にして、その徳は愛情であり、人間も私欲を断ち切ることである。いっさいの私欲を断ち切ることによって、人間は天の心になることが出来る。そこで、仁愛が行えるし、行うべきである」と言うところまでに彼は達していると解説している。彼は陽明学の書物を読んだ形跡がないが、この思想は、陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」の境地に達しているという。この事件は西郷が32歳の時のことであり、自殺をはかったときの西郷には未熟さが見られるが、この事件以降、彼は、一つの悟りをひらいたようだ。しかし、入水事件で、西郷には、月照を保護しなければならない義理があったのだ。それは、前藩主斉彬の依頼を受けて月照は随分と働き、月照が幕府の追補を受けなくてはならなくなったのもそのことが大いにあったからで、それを、斉彬が死んで、藩の方針が変ったからというので、保護しようとしなかった。それを西郷が、せめて身をもって月照に殉じなければならないとしたのであり、それは、美しい立派な行為でもあった。薩摩藩の公式の調書では、このとき2人は死んだ事になっているそうで、薩摩藩は面倒な事態を恐れ、幕府の目をくらますべく、西郷に、奄美大島に身を潜めるよう命じている。その後、大久保利通ら西郷の僚友が、帰藩を藩主に嘆願しそれが、かなえられて、3年後に帰藩がゆるされている。その間に天下の情勢は大きく変化、再度の離島に囚われることもあったが、是非にとの帰藩を乞われ、西郷の活躍が始まるのであった。しかし、西郷は、33歳から38歳まで、5年もの間離島の憂き目にあっている。
明治維新において西郷は、勝海舟と会談し、江戸城は無血開城され、そのため、江戸は戦火をまぬがれた。その後、1871(明治4)年~6年の間は、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、近代日本の礎を作った。しかし、明治6年以降どうしたわけか新政府に積極的に係ろうとしなくなった。そして、主導権は西郷よりも僚友・大久保に移り、西郷は新政府に背を向けたかに見えるようになる。いよいよ新政府のもとに新しい政治体制を作るというときに、西郷よりも大久保の物事を合理的に判断し機能主義で進める方へ主導権が移っていったのであろう。西郷は、哲人的求道者であり、終生道を求める人であった。他の日本を天皇中心の国にし、西欧諸国と肩を並べられるような富国強兵の国にすることに抵抗があったのではないか。西郷には、国家は同義的でなければならないという主張があり、「西欧諸国は弱小国をいじめている。そんな国が文明国ではない」とまでいっていたという。その後の西南戦争にいたるもととなった、西郷の「征韓論」について、西郷を時代錯誤の交戦論者とする見方があるが、ここで、詳しい事は述べないが、西郷に朝鮮を征服しようなどと言う了見はなく、朝鮮は、地理的に日本にとって重要なところであり、そこに、悪意を持つ国が力をもっては困るので、自分が行って話しをまとめてこようといったものであったらしい。その後の歴史で、日本の韓国への侵略的なことが起こっているが、もし、西郷は、韓国へ行っていたなら、もっと、友好的な交渉が行われていたかもしれない。兎に角、西郷は、西南の役で悲劇の人生を終えたが、死後、20年経って、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈され、これに感激した旧友、吉井友実が、同士と共に追慕の情を表すべく建立したのが、西郷の銅像である。
その銅像の由来は以下を見るとよく分かる。↓
敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来→http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/866.html
又、西郷の思想を表す「敬天愛人 」は、『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』に書かれているが、南洲翁とは、西郷隆盛のことであるが、この『南洲翁遺訓』が、始めて世に出たのは、1890(明治23)年のことであり、この西郷の遺訓が地元鹿児島からではなく、山形県の庄内藩(今でいう山形県米沢)から著わされたことについてはある事情があった。その事情については、以下が詳しいので省略した。↓
西郷南洲翁遺訓 →http://shizennori.ftw.jp/u28615.html
西郷隆盛の歴史的な出来事などは、以下参考に記載のHPなどが詳しいので、 詳細を知りたい方はそちらで見られると良い。
(画像は、狩衣姿の西郷隆盛。西郷は、維新後初めての帰郷のときも明治6年政変後の帰郷のときも、好んで薩摩、大隈の各地に遊猟に出かけた。一つには壮士たちに担がれる事を避けたのだろうが、何よりも山野を狩猟して歩くことが最大の楽しみであり、幸せであったらしい。いつも、数頭の犬を連れていた。西南戦争の発端時にも猟に出かけていて、知らせを聞いて「しまった」と言ったそうだ。服部英龍画。鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
西郷隆盛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/index.htm
西郷隆盛に学ぶ会
http://www.sohrin.net/saigou/top.html
鹿児島県歴史資料センター黎明館
http://reimeikan.pref.kagoshima.jp/

不動産の日

2006-09-23 | 記念日
今日(9月23日)は、「不動産の日」
全国宅地建物取引業協会連合会(全宅連)が1984(昭和59)年に制定。
秋は不動産取引が活発になる時期であることと、「ふ(2)どう(十)さん(3)」の語呂合せから。この日には、各地で不動産フェアなどが行われているそうだ。
「不動産 」というのは、goo国語辞書には”土地およびその定着物(家屋・立木など)。海面下の土地についても不動産として土地所有権の成立が可能な場合がある。また、移動できるものでも、工場内の機械・船舶・自動車など、場合により不動産として扱われるものもある”・・・とある。逆に「動産」とは、”土地、およびその定着物である建物・立ち木などを除いた一切の有体物。不動産以外の物。ただし、船舶は不動産、無記名債権は動産とみなされ、強制執行においては、不動産や財産権も含む。”
普通、財(ざい)・財産といわれるものは所有している価値のあるものの総称であり、会社などのように利益をあげるための資本として利用されるものは資産という。
我々のような、個人が所有するものを私有財産・私財、国が所有するものを国有財産、地方公共団体が所有するものを公有財産という。次世代に引き継がれるものを遺産という。
容易に移動可能なものを動産、移動できないものを不動産固定資産というわけだ。
我々のような個人では、不動産(ふどうさん)とと言えば、通常自分達が住んでいる建物(家)や、その土地を指して言う事が多い。
普通のサラリーマンなどにとって、「貴方の夢は?」と聞かれると、「マイホームを持つこと」と答える人が多いほど、日本では、自分の生活の場である家やその土地を持つことが難しいということであり、それだけ、高額だという事である。そのため、家を手に入れるために殆どの人は、ローンをかかえているのが実情だろう。ローンと言えば格好がいいが、簿記会計上の資産区分で言えば、それは借入金(借金)であり、負の債務(負債)である。そして、そのローンを返済のために、家庭を犠牲にしてまで、夫婦が共働きをし、今では、定年後になってもまだ借金が返済できない人も多くいるようだ。家とか土地といった不動産の売買には、それだけ、多額なお金が動くのであるから、その金目当てにいろいろな人が絡んでくるのは当然であり、悪質な業者も多くいることは確かだろう。
昔は、個人の資産は、先ず、病気や怪我など急な事に備えての「現金・預金」などの流動資産、つまりいつでも現金化できるものへ。そして次に、土地や、家屋などの不動産へ。又、余裕のあるお金は、株や金などへの投資へとバランスよく配分しておくこと・・・と言われていた。今、家などが高い原因は、先ず、その敷地となっている土地が高い事が影響している。戦後間無しくらいまでは、土地は安いものであった。土地や家などそれ程財産価値があるとはいえなかった。日本は国土の狭い国ではあるが、日本全体から見れば、人が住むだけの土地は十分にあり、だから、土地の値段など非常に安く、それ程財産価値としては見ていなかった。家にしても、日本の家屋は木造建築であり、家屋の平均寿命は20年位と言われていたので、住宅は、建築直後が最高の価格であり、それ以後どんどん価値が下るからである。このことは、住宅の耐用年数が伸びた現状でもそう変るものではないだろう。マンションなど鉄筋だから価値が下がらないと思うのは大間違い。個人の家であれば、改築するとかできるが、マンションの場合、古くなったものは、どうしようもない。共同で、やるとしても、居住者の同意が必要だし、メンテナンスを十分にしようと思ったら、凄く高額の管理費などの費用を積み立てておかなければならないだろう)
ただ、戦後、高度経済成長とともに、都市への人口の集中化。核家族化などから、都市部の土地の価格が急騰し、需要が増加したことなどから、家の家格も高騰してきた。そしてそのような土地の高騰から、資産を作るためには土地・家屋を所有するといった土地神話が出来上がり、不動産への投資が過熱し、異常な土地価格となった。神戸の我が家でも、高い時には坪200万以上の値がついていた。その土地神話が崩壊したのが、今から十数年前である。バブルが弾けたのである。当然、そんな土地建物に投資をして金を儲けていた不動産業、金融業、生命保険会社などを中心に倒産、大不況路となった。当然、高騰していたか株式も下落。日本経済は、どん底に落ちていった。今、官公庁が我々の税金を自分達の天下り先用として、日本各地に作っている保養地や施設が問題になっているが、これらも同じ様な時期に出来たものである。要するに、金の亡者が、不動産投資に走った付けを払わされたが、その付けが払えず、倒産したのである。しかし、時の政府は、本来つぶれなくてはならない銀行などを救済するために、国民の税金を投入し、いま、やっと、銀行が息を付き始めたというところである。
世界の国から金持ち日本などとおだてらられ、世界中の国に、国民の税金から資金援助などしているが、その、金持ち日本は、気がついてみれば、世界で一番の財政赤字の国なのである。そして、国民の多くのサラリーマンが、寝起きするなど生活するために最低必要な住居を手に入れるために、その一生をローンで縛られ、拘束されている状態なのである。これが、本当に豊かな国と言えるだろうか。あの阪神淡路大震災のあった神戸市民には、ローンの残っている住居を地震でなくし、ローンが払い終えていない(借金)の上に、又、生活の場である住居の確保のため、借金をし、その返済で苦しんでいる。また、最近は、耐震構造に問題のある設計をしたり、問題のあるマンションを承知して販売した悪質な業者が社会問題となっていたが、そのようなマンションを購入した人達は、折角の夢を手に入れた途端、転居をさせられ、残ったのは借金だけと言うような事にもなっている。私の弟はある大手ゼネコンに勤めていた。神戸の震災の時、参考にと倒壊したビルを見て回っていたが、本当に、手抜き工事の多い建物の多さに関心していた。弟は、「建物など安く仕上げろといわれれば、目に見えないところで、いくらでも手を抜ける。」と前々から言っていた。それが、この建築業界の常識のようだ。
昔から、不動産にかかわる人のことを「千三屋」といわれていたように、不動産にかかわる人のなかには、いい加減な人も多いのである。又、「安物買いの銭失い」と言う言葉も昔からあるように、安いものには、必ずと言っていいほどその理由があるのである。一生の夢とまで言われる高額なものを買うには、買う方も、それだけの注意が必要だし、買う相手先も十分信用のおけるところを選ぶようにすべきだろう。高額なもの、甘い汁には、必ず、とんでもないものが絡んでくることを肝に銘じておく必要がある。
先進諸国の人の目から見れば、日本の住居は今でも本当にお粗末に見えるそうだが、そんな、お粗末な住居を手に入れるために、どれだけの日本人が苦労しているのか。苦労して、手に入れたマンションなども5年以上住んでいると半額近くになるという。借金をしてまで手に入れた住宅。もし売却した時に、残るのは、(資産?or負債?)。
(画像は、チラシに掲載されていたあるマンション)
全国宅地建物取引業協会連合会
http://www.zentaku.or.jp/
財産 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E7%94%A3
Yahoo!不動産 - 不動産用語集
http://dict.realestate.yahoo.co.jp/
マンション - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

国際ビーチクリーンアップデー

2006-09-22 | 記念日
9月22日「国際ビーチクリーンアップデー」
アメリカ・サンフランシスコに本部のある海洋自然保護センターが1985(昭和60)年から実施。
日本ではクリーンアップ全国事務局(JEAN)が1990(平成2)年から実施。JEAN のクリーンアップ・キャンペーンは、アメリカの環境NGO「オーシャン・コンサーバンシー」の呼びかけに応えて、ひとつに繋がっている海のゴミ問題解決のための国際環境保護活動としてスタートしたという。
このクリーンアップ・キャンペーンは、全国各地で一斉に行われるゴミ拾い運動ではあるが、ただ拾ってそこをきれいにするだけのゴミ拾いではなく、美しい海を次の世紀へ残してゆくために、海でつながる世界の仲間と共に行う国際的なキャンペーンだそうだ。
毎年春のアースデイ(地球の日・4月22日)は日本国内の一斉調査。秋の国際海岸クリーンアップデイを中心(9月22日に近い週末)に世界で一斉に散乱ゴミの調査が行われ、その数量・種類等を調べることによって、海洋のゴミの発生元や、地球環境への影響を調査し、「ゴミを出さないための行動や社会づくり」に結びつけるための環境行動だそうである。
JEAN クリーンアップ全国事務局のHPで、「海ゴミの問題点」を見ると、①ゴミ自体の量が多く、発生源も多岐にわたっていること。②生物や生態系への被害といった環境への影響が多くあること。そして、③水産資源への多大なダメージを与えていること。また④日本のものは太平洋などに流出し他国へと流出漂着するなど越境するゴミと法令の問題がある。
詳しくは同Hで・・・→海ゴミの問題点
自然地の散乱ゴミは景観を汚すだけでなく、さまざまなことに深刻な被害を与えていることがよく分かる。
みんながクリーンアップキャンペーンを通じて、ゴミを収集し集めたデータは、アメリカのCMC(海洋自然保護センター)に送られ、国際ビーチクリーンアップの結果としてまとめられているそうだ。そして、川や海のゴミが地球環境にどのような影響をおよぼしているのか調査を行って実態を知り、結果を広く伝え、根本的なところからゴミを出さないための対策をたててゆく活動をしている。つまり、目的は、「拾ってきれいにすることからゴミを出さない社会づくり」にあるといえる。
周りを海に囲まれた日本の海岸線は、3万4千キロにも及ぶというが、人が陸路から簡単に行かれる海岸は、そのなかのごく一部に過ぎず、海からのゴミは、確かに、人が行かない島や他の国の海岸にも容赦なく流れ着く。
流れ着く・・・と言えば・・・、
「♪名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ ・・・♪」。
これは、島崎藤村:作詞、大中寅二:作曲の唱歌「椰子の実」であるが、島崎藤村が友人の柳田國男が愛知県南東部、渥美(あつみ)半島先端の伊良湖に滞在していたときに、浜辺に漂着していた椰子の実を見つけて感動した話を聞き、作ったものであるが、遠くの島からながれつくのは椰子のみ一つではなく、今では様々な工業製品なども流れ着いてくる。 
私は、神戸っ子であるから、小さい子どもの頃から海には親しんできた。子どもの頃泳ぎに行った須磨の海には浮遊物も少なく、白砂の浜辺が美しかった。しかし、私も成人し、経済成長を遂げた後の須磨の浜辺には、色んなゴミ類が打ち上げられ、海上にも浮遊物が漂流し、かなり、汚い海となっていた。毎年汚染度チェックが行われ、年によっては、海水浴に不適と宣告された時もある。それが、数年前の夏、久しぶりに、須磨の海へ行って驚いた。本当に、砂浜にはゴミもなくきれいになっているのである。恐らく、ボランティアの人達が、海水浴の時期の前に、ゴミを拾い、清掃をしてくれているのだろう。人間は、周りが汚いと余計にゴミを捨てたり汚したりするものだ。あんなに、きれいにしてもらうと、ゴミを出すのを躊躇うようになる。正に、このクリーンアップ・キャンペーンの目的通りの「拾ってきれいにすることからゴミを出さない社会づくり」・・・の成果が出ているだろう。ボランティアの人達に、感謝の気持ちが一杯である。山と海の街神戸だけのことではないだろうが、山や、街で発生したゴミは、雨に流され、川を通じ海に達する。ゴミを出さない事が大前提ではあるが、海の清掃によって、美しい海を次の世紀へ残してゆくのが我々世代の責任でもあろう。
知らなかったが、EAN関西事務局主催の、今年(2006年)9月17日にも、「須磨海岸クリーンアップ!」が行われた模様。参加者の方に頭が下がります。私達は、定期的に裏山への登山をしているが、山でも、ビニール袋を持って、山のゴミを拾いながら、登山をしている人達がいる。私達も、せめて、普段から、山に登ったときなど大きなゴミは拾って歩くように心がけよう。そうした、普段からの小さな行動が、街を海をきれいにし、少しでも環境問題へ貢献することにつながるのだろうから。
皆さんも、環境問題について、「何から始めたらいいのか?」・・・といったことを、頭の中で考えるだけでなく、、クリーンアップキャンペーンに参加するもよし、又、それが大変な人は、身近な、ところでのゴミ広いから始めるのが良いかもしれないね。
(画像は須磨海浜公園)
参考:
JEAN クリーンアップ全国事務局
http://www.jean.jp/
「椰子の実」(作曲 大中寅二 作詞 島崎藤村)/二木紘三「MIDI歌声喫茶」
http://www.duarbo.jp/versoj/v-folksong/yashinomi.htm

ファッションショーの日

2006-09-21 | 記念日
今日(9月21日)は、「ファッションショーの日」
1927(昭和2)年9月21日、銀座の三越呉服店で日本初のファッションショーが行われた。
ファッションショーとは、ファッションデザイナー及びファッションブランドが自らの服飾作品を公開、発表する場である。多くの場合、ファッションショーにはファッションデザイナーと契約を結んだファッションモデルが、そのデザイナーの作品を身に纏い、どのように着こなせば良いか、どのように発展させられるか、などデザイナーの理想を動くマネキンとして衣服で表現する。
、銀座の三越呉服店でのファッションショーは、9月21日~23日まで開催された。モデルには初代水谷八重子など女優が勤めたが、これは、一般よりデザインを募ったファッションショーであった。又、ファッションショーの言葉からは、洋装だけが想像されるが、実際には、和服にショールや日傘などが多いが、こうしたショーを通して、デパートが一般的な庶民のものとなっていった。
昭和初期は、不思議な時代であった。世界的な不況で、日本でも銀行の取り付けが続出、自殺者が相次ぐ一方で、不況などどこ吹く風の華やかな動きも、あちこちで見られた。後者の代表的なケースがモボ・モガの流行であり、呉服店から脱却したデパートの商法である。「モボ」・「モガ」は「モダンボーイ」、「モダンガール」の略で、「モボ」はシャツにネクタイ、山高帽子にロイド眼鏡にラッパズボン、白、茶などのエナメルシューズというスタイルで町を闊歩した。 特に「モガ」の登場はそれまでの女性観を一変させた。彼女等の装いは、ワンピースやツーピースの洋服に帽子が定番で、ヘアスタールはアーセル・ウエーブと呼ばれた耳隠し、そして、最大のポイントは膝上3~5センチにスカートやワンピースで、スタイルは、アメリカ映画などから取り入れ銀座などの街を誇らしげに歩いた。そんな姿に世間は大きなショックを受けた。当時日本女性の洋装率は1%前後、洋服自体も奇抜だったが、日本女性が人前でひざ小僧をさらすのは初めてだったからである。
一方、1928(昭和3)年には、三越、大丸、白木屋がいっせいに呉服店からデパートに衣替え、それと相前後して、商戦も本格化した。その中心になったのは、三越で、1927(昭和2)年4月、大増築を行って、牛肉、豚肉、石炭など日用品を扱い始めた。今までのように贅沢さを売り物にするだけでは、発展は望めないという思いの表れだったが、それに対抗して白木屋は無料送迎バスを導入、まだ珍しかった車の魅力で集客を図った。そんな中で、三越が、1927(昭和2)年9月に、日本で初めてのファッションショーを開いて、その言葉を定着させると、高島屋では、1928(昭和3)年3月の御大礼記念博覧会に初めてマネキンを登場させ、圧倒的な人気を集めた。更に同年三越が、フランス家具展を開催して欧風家具のブームを起こすと、松阪屋が国風(和風)家具の一代セールを実施して、日本回帰の流れを作るといった風だった。当時まだ、主流だった、着物の柄も、大正時代から昭和初期にかけて大柄で斬新な色使いのモダンなものが流行した。この当時、大阪市営バスの女性車掌の服装となった帽子、ネクタイ、ズボンにブーツというスタイルはモダンだと評判を呼んだそうだ。又、警視庁は1928(昭和3)年11月20日にダンスホール取締令を実施して、出入りのモボ・モガの風俗規制をしているが、モガたち出現の背景には、女性の職場進出などがあった。
モボ、モガなどの新風俗については、識者の反応も様々であった。世相を鋭く評論した評論家の大宅壮一は1929(昭和4)年の「中央公論」誌上で、「モダン・ガールの存在理由は、因習的な婦人道徳や男女関係や生活様式を思ひ切って破壊したところにある」と評価したという。清沢冽は、「新しい女」などと比較して、「今までの婦人運動などと違うところは、思想団体やいわゆる先覚者などの限られた、ものではない事である」と「モダンガール研究」の中で述べているという。モボやモガ・・・ダンスホールやカフェに出入するその服装が、流行をリードした。最先端の華やかさは、当時の銀座・丸の内・心斎橋など、街のイメージをかえていった。それは、新しい考え方を象徴するスタイルでもあったのだ。とにかく、当時のこれらの現象は、いわゆる”大正ロマンチシズム”の一つの成果でもあったのだ。まだ、この時代には、第一次世界大戦前にはなかったゆとりがあり、それぞれの個性やものを見る目を養った時であったようだ。因みに、戦後初めてのファッションショーは、1948(昭和23)年4月26日、東京・共立講堂で行われた。共立講堂とは、共立女子大学の講堂で、一般に神田共立講堂と良く呼ばれていたところ。(共立講堂は1938(昭和13)年にオープンし、当時としては日比谷公会堂と並ぶ大ホールで、戦前戦後を通じ音楽や演劇などに良く利用されていたそうだが、1956(昭和31)年に火災のため焼失、現在の建物は翌昭和32年に再建されたものだそうである。)戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカなど連合国からの援助に頼ることになった。食料など様々な物資不足はもとより、衣服も不足し闇市でも入手できない立場の大衆は、1948年からGHQの放出衣料による古洋服の着用を始める。戦争からの開放感もあり、おしゃれへの関心も高まり、洋裁学校が各地に開校したが、肝心の服地は不足していた。和服の生地(反物)を利用した洋服(ニュースタイル)が登場した。1ヵ月後に同じ場所で、全国コンクールがおこなわれたそうだ。
大正ロマンチシズム、大正モダニズムなどと言う言葉を聞くと、ただそれだけで、何とも言えない洒落た感じを受けるが、そこには現代文化の源流を感じるからだろうね。西洋と日本が混じり合った新しい文化 が登場したのがこの時代。絵画の面でも竹久夢二や、高畠華宵の絵は今見ても古さを感じない本当にシャレた絵だものね~。
そういえば、榎本健一があのだみ声で歌っていたモダンな歌があったよな~。確か、「おーれーは村 中で一番~ モボだーと言われーた男~~」ってな感じだったが、歌の題は,「洒落男」ではなかったかな?。その後は、確か「山高~帽子~でー・・・」と続くのだったと思うよ。榎本健一ことエノケンは、1929(昭和4)年に「カジノ・フォーリー」で一躍人気者となったコメディアン。当時の歌を歌っていたのだろうが、子どもの頃よくこの歌を聞いたが、何で聞いたのかよく覚えていない・・・この歌自身がモダンで明るく楽しい歌だ。懐かしいよな~。
大正~昭和初期の大正モダニズム全盛時代に、浅草を中心に大流行した「オペラ」は、娯楽の少なかった時代の大人気イベントとして、モボやモガだけでなく、大勢の老若男女までもが劇場に押しかけたという。ビゼーの『カルメン』、ロッシーニの『セビリヤの理髪師』、ヴェルディの『椿姫』『リゴレット』、それにスッペの『ボッカチオ』などが日本語で上演され、押すな押すなの大盛況だったという。しかも、それらのオペラは、「正統的なオペラ」として上演されることもあったが、多くは、日本風にアレンジされたり、パロディ化されたりしたうえ、フランス風のショウである“レビュー”や、ドタバタ喜劇、今の宝塚歌劇につながる少女歌劇などと同列に扱われ、観衆の大喝采を博したという。本当に、皆がモダニズムに酔っていたのだよね。でも、今の時代の流行とかファッションからいうとその中にはロマンが感じられるからいいよ。今の時代の女性のファッションなどは、ひざ小僧どころかこれ見よがしに「おへそまで」出してるからね~。ちょっと、出しすぎじゃない?それに、吉本に代表されるお笑いの世界でも、ギャグの連発でしゃれっ気がないよね~。
モダニズムのモダンは本来、現代的、近代的という意味だが、当時はそんな男性や女性をモガ・モボと呼び、またちょっと不良っぽい若者のことを言った。しかし、今時の「モダン」を見ていると、今では、多少レトロなかっての大正モダンの方が、逆に新鮮に感じられるよ。
現在、ファッションショーの中でも「コレクション」と呼ばれ、定期的に開かれる大規模なショーは、オートクチュールに関してはフランスのパリ、イタリアのローマで開催されるオートクチュール(フランス語で「特注の仕立て服」の意)・コレクションがある。プレタポルテ(通常、一流のデザイナーがデザインを手掛け、仕立てた既製品)に関しては、ニューヨーク・ロンドン・ミラノ・パリ・東京で開催される「世界 五大コレクション」と呼ばれているものがある。
それに、最近は、ファッション都市宣言をしている神戸市の「神戸ファッション」が注目されているよ。
「神戸コレクション」とはどんなものか?ここを見てね。↓
http://kobe-collection.com/about/index.html
(画像は、「ニューファッション」。戦後初めてのファッションショー。着物地を利用した洋服が登場。東京・共立講堂。アサヒクロニクル『週刊20世紀』より)
参考:
ファッション-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
三井広報委員会|三越の歴史
http://www.mitsuipr.com/history/mitsukoshi.html
水谷八重子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%AD%90
モボ・モガ闊歩
http://park.org/Japan/NTT/MUSEUM/html_ht/KA005700_j.html
誰か昭和を想わざる 不良外人とモダンガール
http://www.geocities.jp/showahistory/history1/04c.html
昭和モダニズム
http://homepage2.nifty.com/wave1936/
モダニズム
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S142C200.HTM
大正ロマンチカ
http://www.romantica.jp/
榎本健一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E5%81%A5%E4%B8%80
高畠華宵大正ロマン館
http://www.kasho.org/
竹久夢二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B9%85%E5%A4%A2%E4%BA%8C