今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が大隅国へ配流された日

2007-09-25 | 歴史
奈良時代の神護景雲3年(769年)の今日(9月25日)は、弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が、稱徳女帝(孝謙天皇)の怒りを買い大隅国配流された日である。(「宇佐八幡宮神託事件」
平安時代の備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)の豪族出身である清麻呂は、この事件「宇佐八幡宮神託事件」のあと、名誉回復されて京に戻されたものの、程なく地方官へと転出させられて不遇の時代を過ごすが、桓武天皇の信任を得て、藤原北家房前の孫藤原小黒麻呂(おぐろまろ)没後、長岡平安京遷都をりーどした有能なで実務官僚であった。明治時代になって、道鏡即位の野望を阻止した皇室の忠臣として、清麻呂の評価はことに高まり、国定教科書を通しても忠臣清麻呂像は民衆に教化され、1890(明治23)年、紙幣に使われた肖像画の第1号も清麻呂であった。
姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、日本初の孤児救済事業を行ったことで知られる。嘉永4年(1851年)、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて「護王大明神」の神号を贈った。明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神和気神社が鎮座し、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。(以下参考に記載の和気清麻呂公生誕の地「和氣神社」参照)
話は、また元へ戻るが、清麻呂が、大隅国へ配流された神護景雲4年(770年)稱徳女帝(上皇)が没し、これと同時に女帝の寵愛を利用して政界に君臨し皇帝さえ狙った道鏡も失脚した。この道鏡をめぐる事件は、日本の巫女(ふじょ)の歴史においても象徴的な事件であった。
弓削道鏡は、法相(ほっそう)僧であり、物部氏の一族の弓削氏の出自で、青年時代に大和国(奈良県)の葛城山に篭り苦行を積み、諸毒・厄災を払うとされる「孔雀明王呪教」(呪術関係)をはじめとする密教経典や東大寺別当良弁(ろうべん)に学び梵語(サンスクリット語)を習得したとも言われ、彼は当時しきりに禁令がだされている淫祀(いんし=いかがわしいものを神としてまつること)邪教つまり民間のシャーマン(巫師)(シャーマニズム参照) の活動や道教系の呪術である左道(以下参考に記載の※左道参照)にも明るかったようだ。
8世紀の中葉、第45代の聖武天皇光明皇后の間にはついに男子が育たず、娘である阿倍内親王(後の光明皇后)の立太子(史上唯一の女性皇太子)とした。その後聖武天皇亡き後、天平勝宝元年(749年)阿倍内親王が第46代孝謙天皇として即位したことによって、光明皇后は天皇の後見として実権を握っていた。その後、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により立太子された大炊王(おおいおう)が、淳仁天皇として第47代を継承するが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后が強い影響力を持っていた。
光明皇太后が死去した翌・天平宝字5年(761年)、道教が、保良宮(以下参考に記載の※保良宮跡(へそ石)参照)において、看病禅師(かんびょうぜんじ)として女帝(孝謙上皇)に近づき病気を治して以後女帝の寵を得て政界に君臨したため、淳仁天皇と孝謙上皇の不和をきたし、天平宝字8年(764年)、上皇の専制政治に焦りを感じた藤原仲麻呂が挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。この称徳女帝の下で、道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には法王に就くが、政敵だった惠美押勝がいなくなってから、道鏡はますます権力を持つようになりひいては、稱徳天皇を操るようになったとさえ言われる。
この時代は東大寺の大仏を建立したり、僧鑑眞などが来日し、仏教が、盛んになった時代であり、巫女の神懸(かみがか)りによる託宣によって国家の方針が左右される時代は殆ど終わっていたが天皇や貴族たちの間には未だ巫女の託宣に頼ろうとする心性が残っており、特に九州の豊前にあった宇佐の八幡神に対しては特別な信仰心をいだいていたようだ。過去聖武天皇時代に八幡神が巫女の要求に対して偽託するといった疑いのある事件などがあり、巫女の託宣の真偽への疑惑も高まり、そのような行為への弾圧が強化されていた。にもかかわらず、道鏡は、皇位を望む余り、中央政権に諂(へつら)う宇佐八幡宮の道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神・習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)の『道鏡をして皇位に即(つ)かしめれば、天下泰平ならむ』との八幡神の偽託を女帝に奏上する。そして、道鏡を皇位につけたい女帝も、その奏上に狂喜するが、さすがに、この託宣をにわかには信じかねたらしく、その神託の確認に八幡神の使いは法均尼の派遣をさせようとしたが、姉に代わって弟である和気清麻呂が派遣された。そして、宇佐の八幡宮に赴いた清麻呂に対して、「我が国家開闢以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すこと未だこれ有らず。天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ、皇族)を立てよ」との託宣が下ったことを伝える。道教は、この託宣に女帝と道鏡は激怒し、清麻呂と法均尼を流罪に処したが、これによって、道鏡の皇位への野望も絶たれることになる。
この事件には道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もあり、称徳女帝と道鏡、大神社女(おおがのもりめ)と大神田麻呂(おおがのたまろ)、法均尼と清麻呂といった対の男女関係があり、神意を伝えるものとして、女性が存在している。つまり、霊夢の受け取り手としての称徳女帝、降神すべき巫女として大神社女や法均尼がいる。このことは律令体制になって以降もなお、巫女の神がかりによる託宣に対する信仰が根強く残っていたことを物語っており、それを道鏡が利用したのであろう。また、法均尼と清麻呂の姉弟関係、つまり日本の古代国家が成立する過程で徐々に消滅していったヒメ・ヒコ制の影響がみられる。ヒメ・ヒコ制とは、姉・弟または兄・妹を原則とする二王により統治され、ヒメが祭祀を、ヒコが政治・軍事を司る制度であり、代表的なものが邪馬台国を治めた女王卑弥呼と男弟の関係である。上古においては多く、狭穂姫・狭穂彦のように対となる名称で見られる。権威としてはヒメのほうが上位であった。 采女としてヤマト朝廷に各地の豪族が貢進した姉妹や娘は地方の高級巫女であり、巫女をたてまつることは地方の神を中央に服属させることであったという。 ここにも根強いシャーマニズムの考え方が残っていたことが見られる。
ともかく、これだけをみていると道教が悪で清麻呂が正義のように見られるが、必ずしもそうとは言い切れない面も見られる。
道鏡が皇位を狙っていたと言う具体的な証拠も乏しく、むしろ、称徳朝の道鏡をめぐる一連の動きはすべて、称徳天皇の思惑に始まっている節がある。道鏡を皇位につけるためには、先ず、有力な候補を追放し、その上に、何か即位の正当性の論理が必要であった。そのため、前者については、和気王〔以下参考に記載の※【萬葉人物列伝】和気王 参照)を謀反の嫌疑で処刑し、塩焼王の子・氷上志計志麻呂(ひかみしけしまろ。以下参考に記載の※【萬葉人物列伝】氷上塩焼参照)を流罪に処し、天皇の異母妹である不破内親王(ふわないしんのう)の皇籍剥奪などして解決した。しかし、皇統への正当性の論理を必要とするのは難しく、道鏡即位の正当性には仏教の”結縁”に頼るほか無く、道鏡と出会い保良宮から帰京した後、上皇が急遽法華寺で仏門に入りとなったのも1つはここに大きな理由があったのではないかともいわれている。そして、天皇は道鏡を法王につけ、皇位につけるための正統性を準備し、そこに、八幡神社の神託も称徳の意向でなされたものであろうし、清麻呂に対しても天皇の意に沿う神託をせよと暗示したものを、藤原百川が、藤原永手らがバックになって清麻呂が表で動き称徳・道鏡の目的を阻止させたのではないか。
このことは、宝亀元年(770年)に称徳天皇が死去すると、皇太子は白壁王となり、道鏡は下野国の薬師寺へ配流されているが、もし、道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにも関わらず刑があまりにも軽く、道鏡の弟浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたといわれるこのような俗説は称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活していることからも、天智天皇系の皇位継承を正当化するための「後付」であり、称徳天皇と道鏡を不当に貶めているのではないかという指摘もある。
中国の歴史書でも日本の歴史書でも、それを書くのは、その時代以降の人である。今の時代の人を正当化するためには、その前の人は悪くかかれるというのが一般的である。
(画像は、明治32年発行の10円紙幣。肖像は和氣清麻呂。1890年~1939年まで流通。日本銀行貨幣博物館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
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9月25日和氣清麻呂大隅国へ配流:参考

2007-09-25 | 記念日
9月25日和氣清麻呂大隅国へ配流 :参考
和気清麻呂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E6%B8%85%E9%BA%BB%E5%91%82
和気清麻呂公生誕の地「和氣神社」
http://ww36.tiki.ne.jp/~wakeasomi/index.html
七十七銀行・金融資料館・お金の中の人物
http://www.77bank.co.jp/museum/okane/02.htm
「土木資料館」歴史日報・08世紀
http://www.sakai11.jp/rr_08seiki.htm
巫女 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3
シャーマニズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
大和葛城山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%B1%B1
※左道
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sadouhidari.html
※保良宮跡(へそ石)|歴史事典|大津市歴史博物館
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/jiten/data/137.html
女性天皇・女系天皇論争
http://www.geocities.jp/rekishi_chips/zyotei1.htm
波流能由技・大友家持の世界・伝記・付・人物辞典・道鏡
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/doukyou.html
大分歴史事典[う]宇佐八幡宮④ ( うさはちまんぐう④) 八幡神の大菩薩への転進
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n52.htm
第Ⅱ部歴史との照合/Ⅱ-1 日本の諸氏興亡/2章 藤原氏の興亡
http://www.mb.ccnw.ne.jp/hisao11/page.8.html
※【萬葉人物列伝】
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/mret06.htm

丹波哲郎(俳優)の2006年の忌日

2007-09-24 | 人物
今日(9月24日)は、丹波哲郎(俳優)の2006(平成18)年の忌日。
私にとって、丹波哲郎と言えば、先ず、テレビドラマシリーズ「Gメン’75」の黒木警視役が思い出されるが、それと、彼は死後の世界の霊界に深い関心を持っており、1989(平成11)年にはベストセラーになった著書を「丹波哲郎の大霊界」として映画化していたことが思い出される。
丹波正三郎(本名)は、東京・大久保の名家の三男で、祖父敬三は大正時代を代表する薬学者として知られ、系図を遡ると平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着くのだという。
在学中に学徒出陣し、戦後GHQ通訳のアルバイトを経験。卒業後は団体職員となるも俳優を志し、創芸小劇場、文化座を経て、1952(昭和27)年「殺人容疑者」(新東宝)にて主演級の役でデビュー。その後は脇役ばかりの日々を過ごすが、敵役・悪役としては主役俳優を圧倒してしまうほどの強烈な個性で存在感を見せた。1960(昭和35)年より新東宝を離れフリーに。1961(昭和35)年のニュー東映(昭和35年、時代劇全盛の東映の中に第二東映が生まれ、1年後にニュー東映と改称)で「霧と影」(goo映画参照)や「白昼の無頼漢」(goo映画参照)に主演し重厚な演技が徐々に注目を集める。1963(昭和38)年に始まるフジテレビのドラマ「三匹の侍」でスターダムにのし上がった。
新東宝は設立当時にはヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞した『西鶴一代女』 (溝口健二監督) のような傑作も生み出していたものの、1955(昭和30)年、大蔵貢が社長に迎えられて以降、金のかからないイージーで安上がりの映画が製作されるようになり、日本映画黄金期の1950年代後半でも新東宝の映画館だけは閑古鳥が鳴いていたと言われる。
私は、子供の頃から時代劇映画が好きなのでよく映画を見たが、当時、映画館は、2本立てで興行していたので、レコードで言えばA面が大映映画であればそのB面的な映画が新東宝のものであったので、私などにとっては、新東宝の映画は見たいので特別に見に行ったのではなく、大映の映画などを見たついでに見たといった感じ。だから、新東宝の映画も沢山見ている割りには、どんな映画を見たのかも余り記憶には残っていない。だから、役者である丹波にしても、思い出してみると、なにか、影のある独特な個性で、厭な感じの役回りをしていたなと言った印象だけが残っている。兎に角、当時まだ若かったころの丹波に良い印象は残っていない。1960(昭和35)年12月には、大蔵は辞任に追い込まれ、テレビ時代の到来に伴い、その後の再建策も空しく翌・1961(昭和36)年8月末日、新東宝は倒産。
この時代、テレビ界は役者不足に悩んでいたが、1961(昭和36)年の新東宝倒産からは「映画界のテレビ対策」目的も加わり、同年10月1日には、五社によるテレビへの劇映画提供が打ち切られ、五社専属俳優達のテレビドラマ出演も制限された。(五社協定参照)このため、テレビ局はドラマなどに新劇俳優を多く起用するようになり、また、倒産した新東宝の俳優たちがテレビ界へ転進した。テレビドラマ「三匹の侍」の主役:柴左近役の丹波哲郎(第1シリーズ) もその1人であった。その後、1967(昭和42)年には「007は二度死ぬ」に出演し、日本の情報機関のボスとしてほぼ全編に渡り登場し注目を集める。代表作と言われる1974(昭和49)年の松本清張の長編小説を映画化した「砂の器」では、捜査第一課の今西警部補役の重厚な演技が高く評価されている。また、翌・1975(昭和50)年より始まるTVドラマシリーズ「Gメン75」では渋く黒木警視役をえんじている。私は「三匹の侍」の頃は、まだ余り丹波を好きではなかったが、「Gメン75」の黒木警視役のころから貫禄が出てきていい役者になったと思うようになった。
彼は、霊界に深い関心を持ち、昨・2006年9月に入院した後も、「現世以上に素晴らしい世界」へ帰ることが「楽しみ」と周囲に語り、笑みさえ浮かべていたそうだが、24日肺炎で死去。享年84歳であった。兎に角、いつも役作りと言うよりも彼自身の個性がにじみ出ていた。ふてぶてしい感じのちょっと変わったところのある俳優ではあった。彼に言わせれば、死んで「霊界」にいくと年をとるのではなく若返るらしいので、今年は、83歳になったということであろうか・・・・。
彼が、何故、「俳優になったのか」「霊界研究をはじめたきっかけ」などは、以下参考に記載の「丹波哲郎の霊界サロン」に詳しく書いてあるので、そこで見られると良い。
(画像はTBS「Gメン75」から。中央男性が丹波。2006・9・26朝日新聞より)
丹波哲郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%93%B2%E9%83%8E
丹波哲郎の霊界サロン
http://www.tamba.ne.jp/kaiindex.htm
霊界-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%95%8C
日本心霊科学協会
http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/shinrei.html
心霊主義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E9%9C%8A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
丹波哲郎 (タンバテツロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/85730/index.html
五社協定- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A4%BE%E5%8D%94%E5%AE%9A



柄井川柳 (川柳の祖)の 忌日

2007-09-23 | 人物
今日(9月23日) は川柳の祖・柄井川柳 (からい せんりゅう)の寛政2年(1790年) の 忌日<数え73歳>
川柳は、俳句と違って、難しい制約がないので、誰にでも作れることから、今でも、よくつくられているよね。中でも、第一生命主催で行われている「サラリーマン川柳コンクール」が有名になっている。日常に起きる何気ない出来事をユーモアと風刺のセンスで表現した作品を、毎年全国で大募集しているが、この「サラリーマン川柳コンクール」は1987(昭和62)年に始まり、昨・2006(平成18)年で第20回を迎えている。応募作品総数は第1回から第20回までで、実に774683句にもなるという。「以下参考に記載の 第20回「私が選ぶサラ川ベスト10」
には100句が選ばれているが、その1位が「脳年齢 年金すでに もらえます」(満33歳)となっているが、これは面白いね~。でも、社会保険庁へ行ってよく調べておかないと、年齢的にもらえる時期になってももらえないかも知れないよ。そんなときになって「年とって もらえるはずが もらえない」じゃ~、笑い話にもならないよ。(^0^)
第20回第一生命「私が選ぶサラ川ベスト10」
http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/2007_best100.html#TOP
親しんでいる『川柳』が、人の名前が元になっていたというのは知らない人も多いだろうね~。川柳の祖とされているのが柄井川柳(からい・せんりゅう)で、享保3年(1718年)10月、東京・浅草に生まれる。名は正道。幼名勇之助。通称は八右衛門。その俳名が『川柳』の由来 となった。柄井家は代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で、宝暦5年(1755年)家を継ぎ名主となったという。
家康が江戸に入府したのは天正18年(1590年)である。江戸は、それまで、関東の一小城下町であった。家康が入府以来、人工的に作られた一種の政治センター江戸は、それまでに見られなかったさまざまな文化現象が現れた。その第一は、武士の上層が半ば貴族化したことであった。もはや、戦を生業としなくなった武士たちの嗜みとして、武術が盛んに行われるようになり、また、古田織部小堀遠州らによる茶道や四座一流による能楽も教養の1つとして武士文化を形作った。第二は、その上流階級を中心に、全国から集まってきた人たちの一種の共通語としての江戸言葉が形成されてゆく。第三は、江戸には幕末に至るまで”地方”があった。つまり、江戸に常駐した家臣団とその家族は次第に都会化していったが、参勤交代などで、国許から藩主に従って江戸藩に詰める者、また、商家でも江戸店(えどだな)に勤める者は、主家のある地方からの出身者が多かったため、地方と都会の共存した江戸ではさまざまな生活や文化が混沌とし独特の生活文化が現れるが、18世紀の後半になると、このことから、昔から江戸に住んでいた町人の間に江戸根生い(ねおい)の江戸町人を顕在化させ、鮮明化させることになる。つまり、江戸っ子の誕生である。彼等は、蔵前の札差であり、魚河岸の旦那であり、木場の霊岸島(れいがんじま)の商人であり、日本橋、神田界隈の職人であり歌舞伎役者や町火消し仲間だった。彼等は大金を投じて初鰹を買い求めるなど宵越しの金を持たぬ気風を誇った。
一方で江戸の地方も主張をしていた。今と違って、江戸時代は小藩といえども独立国に近い主体性を持っており、それぞれの藩に、歌や踊りや楽器や音楽など地方色豊かな高度な文化があった。江戸は、各藩が寄り集まったインターナショナルな世界であり、地方色豊かなものこそが評価に耐え、万人に愛されたといえる。このように地方と都会が相互に補完し、共同で作り上げたのが元禄以降の浮世絵や俳諧、教本、洒落本などの江戸文化である。(週刊朝日百貨「日本の歴史)。
川柳は、同じ音数律を持つ俳句とともに俳諧すなわち俳諧連歌を源とする。「俳諧」の元の意味は「滑稽」「戯れ」といった意味がある。室町時代に、和歌連歌の表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が、「俳諧連歌」、もしくは「俳諧の連歌」と呼ばれ、俳諧連歌は江戸時代に入ると松永貞徳によって大成された。貞徳の一門による俳諧連歌は「貞門派」と呼ばれ一時代を築き、堅苦しい正統の連歌をしのぐ程の人気を誇っていたそうだ、やがて貞徳らによるそれまでの「古風」に対して新しい表現「新風」が現れそのの地位を奪った。新風は「談林派」と呼ばれ、連歌師でもあった西山宗因を筆頭に、浮世草子を成立させた井原西鶴らが参画していた。
「川柳」は付け句からあらかじめ用意された七七を省略し、五・七・五、十七文字として独立したもので、さまざまな人間模様を理知で鋭く突いた極度に洗練された都市文化である、はじめ柄井は、先に述べた談林派俳諧の点者であったといわれるが、宝暦7年8月25日(1757年10月7日)、前句付(まえくづけ)の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合(まんくあわせ)を興行している。選者が『前句』つまり同じ言葉を2回繰り返した題を出す。その『前句』に対して、この題に合う『付句(つけく)』の五・七・五の言葉を考えて句料(入花料)を添えて応募する。入選者には句料の何十倍という賞金が出たそうだ。
宗匠(和歌・連歌・俳諧など文芸・技芸の道の師匠)達が1年のうち夏から秋にかけて半年の間、十日ごとに投句を集めた万句合興業には、毎回1万から2万句が集まったというから膨大な愛好者いたことになる。
投句の大部分は町人であったが山の手では武士たちもかなり投句していたという。この川柳の名を高めたのは、句集『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる)で、世の中の様子から人情まで軽妙に諷する川柳風狂句を生み出した。「役人の子はにぎにぎを能(よく)覚え」などのように、自由で批判精神に満ちた発想から生まれた川柳、やがて、政治的圧力に封じられていく。しかし、昔も今もお役人のすることは変わらないんだね~・・・と、言うよりも、そんなことに生きがいを感じてる人がお役人になるということなのだろうか???
「川柳」も長い年月のうちに次第に下ネタ・言葉遊びと下品になり、「狂句」と呼ばれるようになっていった。今では、江戸時代の川柳は『古川柳』と呼び明治以降、現代の川柳とは区別している。「親孝行したい時分に親はなし」など、現代では諺のように扱われているが、これは江戸時代の川柳だったのだよね。
川柳と俳句との大きな違いは、季語(季節を表す語句)や切れ字(や、かな、けり)などの制約がまったくないことで、、誰でもが、何でも自由に詠む事ができること。今の政治家やお役人を見ていれば、いくらでも句ができそうだね~。
川柳の菩提寺(ぼだいじ)である台東区の天台宗龍宝寺にある句碑の辞世の句は、「木枯や跡で芽を吹け川柳(かわやなぎ)」だそうだが、本人の作ったものかどうかは定かではないという。
川柳のことについては以下参考に記載の「川柳博物館」が詳しい。
(画像は、柄井川柳 『柳多留』国立国会図書館蔵)
柄井川柳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%84%E4%BA%95%E5%B7%9D%E6%9F%B3
柄井川柳 からいせんりゅう
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/107720.htm
川柳博物館
http://www.doctor-senryu.com/01_museum/
PDF] 浅 草 橋
http://www.taitocity.com/kanko/asakusa_ueno/pdf/asakusabashi_j_f.pdf
第一生命保険HP、サラリーマン川柳
http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/
Category:江戸時代の文化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96

淡谷のり子 (歌手「ブルースの女王」)の忌日

2007-09-22 | 人物
今日(9月22日)は、淡谷のり子 (歌手「ブルースの女王」)の1999(平成11)年 の忌日。 <92歳>
日本のシャンソン界の先駆者であり、「別れのブルース」「雨のブルース」などの代表曲から「ブルースの女王」と呼ばれた。
淡谷 のり子(本名:淡谷 のり)は、1907(明治40)年8月12日、青森県青森市の豪商の長女として生まれるが、10代の頃には実家が破産し、1923(大正12)年に母と妹と共に上京。声楽家を目指し、東洋音楽学校(東洋音楽大学、現・東京音楽大学)に入学、クラシックの基礎を学ぶ。しかし、生活は、食うや食わずの状態であり、家が貧しく、学校を1年間休学して画家のヌードモデルをして糊口(ここう=ほそぼそと生)をしのいだ。その後、復学し、在学中の新人演奏会では 「魔弾の謝射手」のアリアを歌い「10年に1人のソプラノ」と絶賛されたという。世界恐慌が始まる1929(昭和4)年に、6年かかったが主席で卒業したという。卒業後、母校の期待もあり声楽家として歩み始めたが、経済事情から家計を支えるため同年ポリドールに入社、流行歌の世界に入った。デビュー曲は同社から発売された1939(昭和5)年1月の新譜の「久慈浜音頭」である。当時、佐藤千夜子の活躍以来声楽家の流行歌の進出が目立つようになるが、流行歌を歌ったことで母校の卒業生名簿から除籍(後年復籍)される悲哀を味わったが、1931(昭和 6)年、コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。この曲を初め1930年代の初め淡谷は初期の古賀メロディーを多く歌っている。(以下参考に記載の「古賀メロディー情報館」参照。)
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソング(タンゴ、シャンソン、ジャズ)などを邦訳歌詞にして多くレコードを吹込んだ。これら、クラシックを基本にした繊細かつ豊饒な歌唱は昭和モダンの哀愁を妖艶に歌っているといわれているが、残念ながら、正直、私は、あまり、この時代の歌は知らない。
1935(昭和10)年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。そして、日中戦争が勃発した1937(昭和12)年、「別れのブルース」が大ヒット。この時、30歳だった。
♪窓をあければ港が見える メリケン波止場の灯が見える
  夜風汐風 恋風乗せて 今日の出船は何処へ行く
  むせぶ心よ はかない恋よ 踊るブルースの切なさよ
「別れのブルース」作詞:藤浦洸、作曲:服部良一
淡谷は、元来ソプラノ歌手であるが、「別れのブルース」は音域が低かった。そのため、淡谷は、ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌い、昭和モダンの哀愁に満ちたメロディーで人々の心をとらえた。この曲は今日でも名曲として、大勢の人に愛され歌い継がれている。
その後も彼女は、数々の名曲を世に送り出し「ブルースの女王」として、「淡谷のり子」の名を轟かせた。先ずは、この曲を聴いてみてください。以下、(A)では、曲と歌詞、そしてその解説が見れる。また、(B)では、懐かしい淡谷の歌声が聞けるよ。
(A)、二木紘三のうた物語: 別れのブルース
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_4d61.html
(B)、YouTube - 別れのブルース
http://www.youtube.com/watch?v=mkflP_LtP8E
しかし、この曲について、彼女は後に、「あの歌、難しい曲だから余り好きじゃない。昔のレコードを聴くと下手で下手で、それに女王なんて呼ばれるのも嫌」。軍歌の響きの高まる時代の中でレコードは半年で15万枚の大ヒットとなるが、やがて、「好ましからざる歌」として発売禁止になった。「あのころは、軍歌が大流行。でも私は軍歌は歌わなかった。命は粗末にするものではないもの」といっていたという。(朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
彼女は、「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、戦時中に部隊の慰問に、回ったとき、ハイヒールにアイシャドー、マニキュアをつけ、ブルース、タンゴ、ジャズ、シャンソンを、そして、リクエストがあれば平気で歌うことを禁止されている「別れのブルース」などを歌ったという。そのため、軍部への始末書は山になったという。本当に腹の座った人である。
実力派の彼女は、歯に絹着せぬ辛口の発言が多かったことでも知られている。例えば、1965(昭和40)年のNHK紅白歌合戦では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」、「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となる。だが実力のある歌手や作品は高く評価し、晩年、五輪真弓の『恋人よ』をレパートリーに入れていた。
5年間の闘病生活の後、1999(平成11)年 の今日92歳でなくなったが、昭和を代表する歌手がもういなくくなってしまったのが、私たちの年代のものには非常に寂しい。
(画像は、淡谷のり子 。1928〔昭和 3〕年撮影のものというから、東洋音楽学校時代のものか。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
淡谷のり子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E3%82%8A%E5%AD%90
古賀政男- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7
古賀メロディー情報館
http://www.koga.or.jp/melody/index.html
Category:ポピュラーソング- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0
銀巴里前史
http://www.chansonkame.com/p21_f.htm
二木紘三のうた物語: 別れのブルース
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_4d61.html
nikkansports.com訃報 :淡谷のり子さん 
http://www.nikkansports.com/jinji/1999/seikyo990926.html