奈良時代の神護景雲3年(769年)の今日(9月25日)は、弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が、稱徳女帝(孝謙天皇)の怒りを買い大隅国へ配流された日である。(「宇佐八幡宮神託事件」)
平安時代の備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)の豪族出身である清麻呂は、この事件「宇佐八幡宮神託事件」のあと、名誉回復されて京に戻されたものの、程なく地方官へと転出させられて不遇の時代を過ごすが、桓武天皇の信任を得て、藤原北家・房前の孫藤原小黒麻呂(おぐろまろ)没後、長岡・平安京・遷都をりーどした有能なで実務官僚であった。明治時代になって、道鏡即位の野望を阻止した皇室の忠臣として、清麻呂の評価はことに高まり、国定教科書を通しても忠臣清麻呂像は民衆に教化され、1890(明治23)年、紙幣に使われた肖像画の第1号も清麻呂であった。
姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、日本初の孤児救済事業を行ったことで知られる。嘉永4年(1851年)、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて「護王大明神」の神号を贈った。明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所・蛤御門前に遷座した。また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神和気神社が鎮座し、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。(以下参考に記載の和気清麻呂公生誕の地「和氣神社」参照)
話は、また元へ戻るが、清麻呂が、大隅国へ配流された神護景雲4年(770年)稱徳女帝(上皇)が没し、これと同時に女帝の寵愛を利用して政界に君臨し皇帝さえ狙った道鏡も失脚した。この道鏡をめぐる事件は、日本の巫女(ふじょ)の歴史においても象徴的な事件であった。
弓削道鏡は、法相(ほっそう)僧であり、物部氏の一族の弓削氏の出自で、青年時代に大和国(奈良県)の葛城山に篭り苦行を積み、諸毒・厄災を払うとされる「孔雀明王呪教」(呪術関係)をはじめとする密教経典や東大寺の別当・良弁(ろうべん)に学び梵語(サンスクリット語)を習得したとも言われ、彼は当時しきりに禁令がだされている淫祀(いんし=いかがわしいものを神としてまつること)邪教つまり民間のシャーマン(巫師)(シャーマニズム参照) の活動や道教系の呪術である左道(以下参考に記載の※左道参照)にも明るかったようだ。
8世紀の中葉、第45代の聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、娘である阿倍内親王(後の光明皇后)の立太子(史上唯一の女性皇太子)とした。その後聖武天皇亡き後、天平勝宝元年(749年)阿倍内親王が第46代孝謙天皇として即位したことによって、光明皇后は天皇の後見として実権を握っていた。その後、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により立太子された大炊王(おおいおう)が、淳仁天皇として第47代を継承するが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后が強い影響力を持っていた。
光明皇太后が死去した翌・天平宝字5年(761年)、道教が、保良宮(以下参考に記載の※保良宮跡(へそ石)参照)において、看病禅師(かんびょうぜんじ)として女帝(孝謙上皇)に近づき病気を治して以後女帝の寵を得て政界に君臨したため、淳仁天皇と孝謙上皇の不和をきたし、天平宝字8年(764年)、上皇の専制政治に焦りを感じた藤原仲麻呂が挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。この称徳女帝の下で、道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には法王に就くが、政敵だった惠美押勝がいなくなってから、道鏡はますます権力を持つようになりひいては、稱徳天皇を操るようになったとさえ言われる。
この時代は東大寺の大仏を建立したり、僧鑑眞などが来日し、仏教が、盛んになった時代であり、巫女の神懸(かみがか)りによる託宣によって国家の方針が左右される時代は殆ど終わっていたが天皇や貴族たちの間には未だ巫女の託宣に頼ろうとする心性が残っており、特に九州の豊前にあった宇佐の八幡神に対しては特別な信仰心をいだいていたようだ。過去聖武天皇時代に八幡神が巫女の要求に対して偽託するといった疑いのある事件などがあり、巫女の託宣の真偽への疑惑も高まり、そのような行為への弾圧が強化されていた。にもかかわらず、道鏡は、皇位を望む余り、中央政権に諂(へつら)う宇佐八幡宮の道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神・習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)の『道鏡をして皇位に即(つ)かしめれば、天下泰平ならむ』との八幡神の偽託を女帝に奏上する。そして、道鏡を皇位につけたい女帝も、その奏上に狂喜するが、さすがに、この託宣をにわかには信じかねたらしく、その神託の確認に八幡神の使いは法均尼の派遣をさせようとしたが、姉に代わって弟である和気清麻呂が派遣された。そして、宇佐の八幡宮に赴いた清麻呂に対して、「我が国家開闢以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すこと未だこれ有らず。天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ、皇族)を立てよ」との託宣が下ったことを伝える。道教は、この託宣に女帝と道鏡は激怒し、清麻呂と法均尼を流罪に処したが、これによって、道鏡の皇位への野望も絶たれることになる。
この事件には道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もあり、称徳女帝と道鏡、大神社女(おおがのもりめ)と大神田麻呂(おおがのたまろ)、法均尼と清麻呂といった対の男女関係があり、神意を伝えるものとして、女性が存在している。つまり、霊夢の受け取り手としての称徳女帝、降神すべき巫女として大神社女や法均尼がいる。このことは律令体制になって以降もなお、巫女の神がかりによる託宣に対する信仰が根強く残っていたことを物語っており、それを道鏡が利用したのであろう。また、法均尼と清麻呂の姉弟関係、つまり日本の古代国家が成立する過程で徐々に消滅していったヒメ・ヒコ制の影響がみられる。ヒメ・ヒコ制とは、姉・弟または兄・妹を原則とする二王により統治され、ヒメが祭祀を、ヒコが政治・軍事を司る制度であり、代表的なものが邪馬台国を治めた女王卑弥呼と男弟の関係である。上古においては多く、狭穂姫・狭穂彦のように対となる名称で見られる。権威としてはヒメのほうが上位であった。 采女としてヤマト朝廷に各地の豪族が貢進した姉妹や娘は地方の高級巫女であり、巫女をたてまつることは地方の神を中央に服属させることであったという。 ここにも根強いシャーマニズムの考え方が残っていたことが見られる。
ともかく、これだけをみていると道教が悪で清麻呂が正義のように見られるが、必ずしもそうとは言い切れない面も見られる。
道鏡が皇位を狙っていたと言う具体的な証拠も乏しく、むしろ、称徳朝の道鏡をめぐる一連の動きはすべて、称徳天皇の思惑に始まっている節がある。道鏡を皇位につけるためには、先ず、有力な候補を追放し、その上に、何か即位の正当性の論理が必要であった。そのため、前者については、和気王〔以下参考に記載の※【萬葉人物列伝】和気王 参照)を謀反の嫌疑で処刑し、塩焼王の子・氷上志計志麻呂(ひかみしけしまろ。以下参考に記載の※【萬葉人物列伝】氷上塩焼参照)を流罪に処し、天皇の異母妹である不破内親王(ふわないしんのう)の皇籍剥奪などして解決した。しかし、皇統への正当性の論理を必要とするのは難しく、道鏡即位の正当性には仏教の”結縁”に頼るほか無く、道鏡と出会い保良宮から帰京した後、上皇が急遽法華寺で仏門に入り尼となったのも1つはここに大きな理由があったのではないかともいわれている。そして、天皇は道鏡を法王につけ、皇位につけるための正統性を準備し、そこに、八幡神社の神託も称徳の意向でなされたものであろうし、清麻呂に対しても天皇の意に沿う神託をせよと暗示したものを、藤原百川が、藤原永手らがバックになって清麻呂が表で動き称徳・道鏡の目的を阻止させたのではないか。
このことは、宝亀元年(770年)に称徳天皇が死去すると、皇太子は白壁王となり、道鏡は下野国の薬師寺へ配流されているが、もし、道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにも関わらず刑があまりにも軽く、道鏡の弟浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたといわれるこのような俗説は称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活していることからも、天智天皇系の皇位継承を正当化するための「後付」であり、称徳天皇と道鏡を不当に貶めているのではないかという指摘もある。
中国の歴史書でも日本の歴史書でも、それを書くのは、その時代以降の人である。今の時代の人を正当化するためには、その前の人は悪くかかれるというのが一般的である。
(画像は、明治32年発行の10円紙幣。肖像は和氣清麻呂。1890年~1939年まで流通。日本銀行貨幣博物館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
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平安時代の備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)の豪族出身である清麻呂は、この事件「宇佐八幡宮神託事件」のあと、名誉回復されて京に戻されたものの、程なく地方官へと転出させられて不遇の時代を過ごすが、桓武天皇の信任を得て、藤原北家・房前の孫藤原小黒麻呂(おぐろまろ)没後、長岡・平安京・遷都をりーどした有能なで実務官僚であった。明治時代になって、道鏡即位の野望を阻止した皇室の忠臣として、清麻呂の評価はことに高まり、国定教科書を通しても忠臣清麻呂像は民衆に教化され、1890(明治23)年、紙幣に使われた肖像画の第1号も清麻呂であった。
姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、日本初の孤児救済事業を行ったことで知られる。嘉永4年(1851年)、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて「護王大明神」の神号を贈った。明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所・蛤御門前に遷座した。また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神和気神社が鎮座し、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。(以下参考に記載の和気清麻呂公生誕の地「和氣神社」参照)
話は、また元へ戻るが、清麻呂が、大隅国へ配流された神護景雲4年(770年)稱徳女帝(上皇)が没し、これと同時に女帝の寵愛を利用して政界に君臨し皇帝さえ狙った道鏡も失脚した。この道鏡をめぐる事件は、日本の巫女(ふじょ)の歴史においても象徴的な事件であった。
弓削道鏡は、法相(ほっそう)僧であり、物部氏の一族の弓削氏の出自で、青年時代に大和国(奈良県)の葛城山に篭り苦行を積み、諸毒・厄災を払うとされる「孔雀明王呪教」(呪術関係)をはじめとする密教経典や東大寺の別当・良弁(ろうべん)に学び梵語(サンスクリット語)を習得したとも言われ、彼は当時しきりに禁令がだされている淫祀(いんし=いかがわしいものを神としてまつること)邪教つまり民間のシャーマン(巫師)(シャーマニズム参照) の活動や道教系の呪術である左道(以下参考に記載の※左道参照)にも明るかったようだ。
8世紀の中葉、第45代の聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、娘である阿倍内親王(後の光明皇后)の立太子(史上唯一の女性皇太子)とした。その後聖武天皇亡き後、天平勝宝元年(749年)阿倍内親王が第46代孝謙天皇として即位したことによって、光明皇后は天皇の後見として実権を握っていた。その後、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により立太子された大炊王(おおいおう)が、淳仁天皇として第47代を継承するが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后が強い影響力を持っていた。
光明皇太后が死去した翌・天平宝字5年(761年)、道教が、保良宮(以下参考に記載の※保良宮跡(へそ石)参照)において、看病禅師(かんびょうぜんじ)として女帝(孝謙上皇)に近づき病気を治して以後女帝の寵を得て政界に君臨したため、淳仁天皇と孝謙上皇の不和をきたし、天平宝字8年(764年)、上皇の専制政治に焦りを感じた藤原仲麻呂が挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。この称徳女帝の下で、道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には法王に就くが、政敵だった惠美押勝がいなくなってから、道鏡はますます権力を持つようになりひいては、稱徳天皇を操るようになったとさえ言われる。
この時代は東大寺の大仏を建立したり、僧鑑眞などが来日し、仏教が、盛んになった時代であり、巫女の神懸(かみがか)りによる託宣によって国家の方針が左右される時代は殆ど終わっていたが天皇や貴族たちの間には未だ巫女の託宣に頼ろうとする心性が残っており、特に九州の豊前にあった宇佐の八幡神に対しては特別な信仰心をいだいていたようだ。過去聖武天皇時代に八幡神が巫女の要求に対して偽託するといった疑いのある事件などがあり、巫女の託宣の真偽への疑惑も高まり、そのような行為への弾圧が強化されていた。にもかかわらず、道鏡は、皇位を望む余り、中央政権に諂(へつら)う宇佐八幡宮の道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神・習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)の『道鏡をして皇位に即(つ)かしめれば、天下泰平ならむ』との八幡神の偽託を女帝に奏上する。そして、道鏡を皇位につけたい女帝も、その奏上に狂喜するが、さすがに、この託宣をにわかには信じかねたらしく、その神託の確認に八幡神の使いは法均尼の派遣をさせようとしたが、姉に代わって弟である和気清麻呂が派遣された。そして、宇佐の八幡宮に赴いた清麻呂に対して、「我が国家開闢以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すこと未だこれ有らず。天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ、皇族)を立てよ」との託宣が下ったことを伝える。道教は、この託宣に女帝と道鏡は激怒し、清麻呂と法均尼を流罪に処したが、これによって、道鏡の皇位への野望も絶たれることになる。
この事件には道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もあり、称徳女帝と道鏡、大神社女(おおがのもりめ)と大神田麻呂(おおがのたまろ)、法均尼と清麻呂といった対の男女関係があり、神意を伝えるものとして、女性が存在している。つまり、霊夢の受け取り手としての称徳女帝、降神すべき巫女として大神社女や法均尼がいる。このことは律令体制になって以降もなお、巫女の神がかりによる託宣に対する信仰が根強く残っていたことを物語っており、それを道鏡が利用したのであろう。また、法均尼と清麻呂の姉弟関係、つまり日本の古代国家が成立する過程で徐々に消滅していったヒメ・ヒコ制の影響がみられる。ヒメ・ヒコ制とは、姉・弟または兄・妹を原則とする二王により統治され、ヒメが祭祀を、ヒコが政治・軍事を司る制度であり、代表的なものが邪馬台国を治めた女王卑弥呼と男弟の関係である。上古においては多く、狭穂姫・狭穂彦のように対となる名称で見られる。権威としてはヒメのほうが上位であった。 采女としてヤマト朝廷に各地の豪族が貢進した姉妹や娘は地方の高級巫女であり、巫女をたてまつることは地方の神を中央に服属させることであったという。 ここにも根強いシャーマニズムの考え方が残っていたことが見られる。
ともかく、これだけをみていると道教が悪で清麻呂が正義のように見られるが、必ずしもそうとは言い切れない面も見られる。
道鏡が皇位を狙っていたと言う具体的な証拠も乏しく、むしろ、称徳朝の道鏡をめぐる一連の動きはすべて、称徳天皇の思惑に始まっている節がある。道鏡を皇位につけるためには、先ず、有力な候補を追放し、その上に、何か即位の正当性の論理が必要であった。そのため、前者については、和気王〔以下参考に記載の※【萬葉人物列伝】和気王 参照)を謀反の嫌疑で処刑し、塩焼王の子・氷上志計志麻呂(ひかみしけしまろ。以下参考に記載の※【萬葉人物列伝】氷上塩焼参照)を流罪に処し、天皇の異母妹である不破内親王(ふわないしんのう)の皇籍剥奪などして解決した。しかし、皇統への正当性の論理を必要とするのは難しく、道鏡即位の正当性には仏教の”結縁”に頼るほか無く、道鏡と出会い保良宮から帰京した後、上皇が急遽法華寺で仏門に入り尼となったのも1つはここに大きな理由があったのではないかともいわれている。そして、天皇は道鏡を法王につけ、皇位につけるための正統性を準備し、そこに、八幡神社の神託も称徳の意向でなされたものであろうし、清麻呂に対しても天皇の意に沿う神託をせよと暗示したものを、藤原百川が、藤原永手らがバックになって清麻呂が表で動き称徳・道鏡の目的を阻止させたのではないか。
このことは、宝亀元年(770年)に称徳天皇が死去すると、皇太子は白壁王となり、道鏡は下野国の薬師寺へ配流されているが、もし、道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにも関わらず刑があまりにも軽く、道鏡の弟浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたといわれるこのような俗説は称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活していることからも、天智天皇系の皇位継承を正当化するための「後付」であり、称徳天皇と道鏡を不当に貶めているのではないかという指摘もある。
中国の歴史書でも日本の歴史書でも、それを書くのは、その時代以降の人である。今の時代の人を正当化するためには、その前の人は悪くかかれるというのが一般的である。
(画像は、明治32年発行の10円紙幣。肖像は和氣清麻呂。1890年~1939年まで流通。日本銀行貨幣博物館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
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