今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

真珠王・御木本幸吉の忌日

2007-09-21 | 人物
今日(9月21日)は、「真珠王」と呼ばれる、御木本真珠店(現 ミキモト)創業者である御木本幸吉の 1954(昭和29)年の忌日。
日本の特許庁のロビーには日本の十大発明家のレリーフが飾られている。日本の工業所有権制度は、1985(昭和60)年4月18日で、100年が立ち、特許庁では、これを機に、これら発明・考案(以下参考に記載の産学連携キーワード辞典「考案」参照)をした歴史的な発明者の中から10名が選定されたもの。御木本は、養殖真珠法の発明(特許第2670号)によって、その十大発明家の1人に選ばれているのである。(十大発明家)
前に、このブログで7月11日「真珠記念日」で真珠の発明のことについては書いた。
御木本の養殖真珠法の発明はのことは特許庁HPの十大発明家・御木本幸吉でも書かれているので、ここでは、真珠の発明について書くことは省略する。
フリー百科事典『ウィキペディア』によると、御木本幸吉は、1858年3月10日(安政5年1月25日)、志摩国鳥羽浦の大里町で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれ、幼名は吉松と名付けられたそうだ。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881(明治14)年には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け、賞金100円を授与されているそうで、祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていて、大伝馬船(おおてんません=大型の木造和船「伝馬船」 )を10艘も持ち、石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられており、幸吉が晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐しているそうだ。明治維新によって職を失った失業士族らに読み書きソロバン、読書などを習ったが正規の教育は受けていないという。
彼は、早くから一杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物(あおもの=野菜の総称)の行商を始める。大きな目標を掲げる事で、自分自身に課題を与え、自らを鼓舞するところがあったようで、時として大法螺吹きといわれたそうだ。彼は、1875(明治8)年、17歳の時。イギリス測量船シルバー号が来航した際、足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、青果や卵を売り込むのに成功したという。また、マスコミを利用する点では今で言うヤラセにあたるような事も考え出し実行するような勇み足もあったようだ。1876(明治9)年の地租改正で納税が米納から金納に変わったのを機会に、米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換、1878(明治11) 年この年、父が亡くなると家督相続により御木本幸吉と改名 。この時20歳である。同年3月東京・横浜視察旅行に出発。この旅により、天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、伝来の仕事を拡げて地元海産物を幸吉自ら販売もするようにもなったが、その海産物の中に、地元志摩名物の天然の真珠もあった。ところが志摩の真珠貝(アコヤガイ)は、乱獲によって年々絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して、1888(明治21)年,、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦(やなぎ ならよし)を訪ね、柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉(みつくり かきち)より真珠の養殖が学理的に可能であることを助言され、1890(明治23)年、神明浦と相島(おじま、現在の真珠島)の二箇所で眞珠貝の養殖を試みることに没頭し始めたのが32才の時であった。そして、見事養殖真珠に成功し、真珠のミキモト、世界のミキモトと言われるようになるのであるが、私が、一番興味を持ったのは、冒頭に書いたように、かれは、うどん屋の倅であり、明治維新によって職を失った失業士族らに「読み書きソロバン」を習ったが正規の教育は受けていないのである。これは、十大発明家の一人豊田佐吉 も同様であり、昔の人には、正規の教育を受けていなくても成功者と成っている人が多い。
日本では古くから寺子屋などでこの「読み書きソロバン」の教育がされていた。また、寺子屋に行けなくても独力で身につけるように努力がされていた。この「読み書きソロバン」は知性の原点ともなるものである。先ず、文字を読む能力がないと、書を読むことが出来ないので知識を習得しずらいし、書く力がなければ、口頭以外に自分伝えたいことを相手に伝えることもできない。ソロバン、すなわち計算能力がないと、商いが出来ない。読み書きソロバンは人間の生きていくための原点であり、これをしっかりと身につけることが、その人の「生きる力」を育むとも言えるのであるが、最近の幼少時の教育では、「ゆとり教育」などと言ってこの面の教育がf不十分であったため、最近の日本の子供たちの学力低下が問題視されている。
以下参考に記載の格言集などで、御木本幸吉の格言・名言を見ると以下のようなものがある。
・常識なんかをありがたがっていて偉くなれるか。
・真珠は首飾りや指輪に加工するからキズが見えぬ様に穴を開けたり手をいろいろ加えれば、そのキズは無いものにできる。人間を選ぶときも同じことですよ。
・誰もやったことのない仕事こそやり甲斐がある。
・人はなにか一つのことに気狂いにならなければ、とうてい人並み以上にはなれない。
・・・やはり、偉い人はいい事をいうよね~。
最近は、殆どの人が大学を出るような時代になっているが、一体何を勉強しているのだろう。知識ばかり身につけても、その活かし方を知らなければ何もならない。それに、何かを成功している人は、必ず、目標に向かって突進しており、周りから見ると、何を馬鹿なことをしているのかと見られるくらいだろう。上記にあげた名言の中でも私は、最後のものが一番気に入っている。それに、3番目のものもいい。誰もやったことのない仕事こそやり甲斐がある。・・・その通りである。最近は、「何をしてよいか判らない」「やりたいことがない」とかいった情けない言葉をよく聞く。それに、何かあると「環境が悪い」「社会が悪い」などという。・・・・そう思うのであれば、その環境を、社会を良くするように自分が頑張ればいいじゃ~ないかといいたくなる。それこそ、誰かの言葉ではないが「青年よ大志をいだけ」といいたいよね~。それは地位のためではない、名誉のためでもない、ましてや富のためでもない、それは魂の高揚のためにである ・・・・が、そのためには、日本では、今の政治家や官僚の姿は見ない方が良いよ。成功した、優良企業の経営者たちや科(化)学者、技術者、音楽・芸能家たちの中にはモデルとしたい人物が沢山いるのでその姿を良く見ておくとよい。
(画像は、アコヤガイに核を挿入する御木本幸吉。昭和20年代の写真。 Wikipediaより。)
参考:
御木本幸吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A8%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E5%90%89
御木本幸吉 記念館
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/king/kinenkan.html
特許庁ホームページ
http://www.jpo.go.jp/indexj.htm
発明と特許教育用祖父とウエアー後紹介)通商産業省特許庁HP)
http://www.cec.or.jp/tokkyo/index.html
目標による管理 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E6%A8%99%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%AE%A1%E7%90%86
目標管理の考え方
http://home.att.ne.jp/sigma/nike/mokuhyo.html
目標管理制度が現場で機能しない理由
http://www.president.co.jp/pre/20030818/002.html
産学連携キーワード辞典
http://www.avice.co.jp/sangaku/index.html
7月11日「真珠記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%B8%E6%CC%DA%CB%DC%B9%AC%B5%C8
6月18日「考古学出発の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%BA%B4%A1%B9%CC%DA%C3%E9%BC%A1
豊田佐吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E4%BD%90%E5%90%89
ゆとり教育 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2
21世紀に残したい世界の名言・格言集
http://www.melma.com/backnumber_163748_3637822/
世界の名言・癒しの言葉・ジョーク[御木本幸吉  の名言・格言]
http://becom-net.com/wise/mikimotokoukiti.shtml
格言集「み」(半熟)
http://www.enjyuku.com/w/words72.html
ウィリアム・スミス・クラーク - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF


林家三平 (落語家) 忌日

2007-09-20 | 人物
今日(9月20日)は、 3代目林家三平 (落語家)の1980(昭和55)年の忌日<54歳>
林家三平は、本名、海老名泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎〔えいざぶろう〕)。1925(大正14)年11月30日、東京都台東区根岸出身。7代目林家正蔵の実子で、長女海老名美どり(俳優峰竜太の妻)は、女優、美容研究家として、次女泰葉春風亭小朝の妻)は元シンガーソングライターそして、今はタレントとして、長男は2005(平成17)年3月9代目林家正蔵(前名・林家こぶ平)を襲名、次男林家いっ平も落語家として落語協会に、タレントとしてホリプロに所属し、活躍している。 妻は海老名香葉子で、今もエッセイスト、絵本作家として作家活動をしている。
1947(昭和22)年、林家甘蔵として入門。後に父の前座名柳家三平から三平を貰い林家三平となる。春風亭枝女好も三平(2代目柳家三平)を名乗っていたそうで、3代目と間違えられる事が多いようだが、正しくは三平の名を前座から大看板にのし上げ、「初代林家三平」とするのが正しいようだ。
1949(昭和24)年に父死去後は、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。
父の死の11ヶ月後の1950(昭和25)年、一門の人間ですらない5代目蝶花楼馬楽に「一代限り」という約束で名跡(林家正蔵〔8代目〕)を貸与しなければならない事件が起こったが、話が長くなるので、このことは、またの機会にでも書くことにしよう。
結果的に、三平は、正蔵を名乗る事は遂に叶わず、馬楽よりも先に死去してしまう事になるが、三平死去後、馬楽は正蔵の名跡を海老名家に返上し、林家彦六に改名した。そして、9代目正蔵は、三平の実子こぶ平が、2005(平成17)年3月21日襲名した。これで、目出度し、目出度しと言ったところか。
林家三平は、テレビ時代の申し子と言われ、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役であり、また昭和の爆笑王と呼ばれた。
しかし、その芸風は?・・・ナンセンスそのもの。「よし子さん」「どうもすいません」「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」などの数々のギャグと仕種で人気を博したが、十年一日のマンネリズムを絵に描いたような、明るいだけが取り柄のただ即物的ななだけの笑いをふりまいて高度経済成長真っ盛りの時代を駆け抜けていった感じである。
一部識者などからは「あんものは落語ではない」と顰蹙を買いながらも多くの寄席のファンを喜ばせたには、やはり、7代目林家正蔵の子という芸人の血がもたらした私を捨てた旺盛なサービス精神にあったのだろう。
売れる前は父である7代正蔵と同じく古典落語を演じていたらしいが、私は、そんな真面目な落語を語っているのは聞いたことが無い。何でも、絶句するわ、人物の名を忘れるわで、仲間内からも大変な下手な奴だと馬鹿にされていたそうだが、3代目三遊亭金馬だけは「あいつはいつか大化けする」とその素質を感じ、予言していたそうだ。小話を繋ぐ落語が多かった為、本格的な古典は苦手と受け取られがちだが、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っていた噺家(はなしか)であり、弟子入りした長男の泰孝(こぶ平=後の9代目林家正蔵)は、古典の稽古をつけてもらった際、出来ない度にゲンコツを喰らっていたという。
三平の芸風はナンセンスそのものであるが、下ネタを「外道の芸」「芸を腐らせる」として徹底的に嫌い、ネタには一切使わなかったといわれているが、そういえば、私も、聞いた覚えはない。
昭和の落語が著しく文学性に傾いていったとき、見事なくらい「物語」に背を向けつづけ、寄席という空間が、名人上手だけで支えられていたのではない事実を身をもって証して見せたというべきだろうか。いま、その寄席が、崩壊の道をたどっているのではないか。本来、落語はパーソナルな芸であり、落語家のキャラクターが何より重視されるといった今日の情況を暗示していたのかも知れない。関西でも、人気の高かった3代目桂米朝門下の2代目桂枝雀が 1999(平成11)年3月に自殺を図り、意識が回復する事なく(59歳で死去した。何か、私には、現実の世界では独特のキャラクターで人を笑わせることで人気を得ているが、古典的な落語、芸術としての落語の間で悩んでのものと思われたがそうではないのだろうか?。古典落語を踏襲しながらも人一倍の努力と類稀な天才的センスにより、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓し、関西の噺家で独演会を行いいつでも客を大入りにできるのは桂米朝と桂枝雀だけといわれていたが、その枝雀は亡くなり、米朝は年齢的にもう講座に上ることも無くなり、人を呼べる噺家がいなくなってしまったように思う。関西には、戦後寄席の常設小屋も亡くなってしまい落語家を育てる場もなかったが、昨・2006(平成18)年9月に「天満天神繁盛亭」が開館した。林家三平 や桂枝雀のような噺家が育ってくれるとよいのだが・・・。
5代目柳家小さんの率いる落語協会から、同協会顧問で落語会の大看板である6代目三遊亭圓生が、一門の弟子たちを引き連れて脱退、新しい会派「落語三友協会」を発足させたのが、1978(昭和53)年5月のことであった。
その理由は、「芸の至らないものを、年数が経ったからと言って誰でも真打昇進させていたのでは、落語の将来が危うい」と、「真打乱造反対」のためであった。このような落語会の分裂騒ぎは、春風亭柳橋(6代目)や故柳家金語楼 らとともに落語協会を抜けて日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成して以来のこと。圓生らの新しい会派「落語三友協会」は、既存の落語協会、落語芸術協会と並ぶ第三勢力の誕生を予期させたが、いろいろな思惑も絡み合い、圓生一門、志ん朝一門、圓蔵一門のみとなり行動を共にすると見られていた志ん朝の実兄馬生一門(小さんに慰留された事と年齢の為)、小さん一門の談志一門(狙っていた落語三遊協会次期会長の座を志ん朝に奪われた為)、圓蔵一門の林家三平一門(師匠圓蔵に誘われたが圓生とは仲が悪い)は落語協会側に留まってしまった。東京上野の本牧亭での開演と同時に満員札止めとなる賑わいであったようだが、その後、都内の寄席から締め出され、落語協会に復帰するものが相次ぎ、翌年9月圓生死後は、三遊亭圓楽だけが、第三の道を行くこととなった。三遊協会が当初の予定通りいっていればどうなっていたかは知らないが、今とは、少し違った情況になっていたのだろうか???。
(画像は、林家三平。鈴木演芸場で。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
林家三平 (3代目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AE%B6%E4%B8%89%E5%B9%B3_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
Category:落語の名跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E8%90%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%B7%A1
東西落語家系図(キャッシュ)
http://72.14.235.104/search?q=cache:HvyMuEyfimUJ:www.cyborg.ne.jp/~akio01/rakugo/keizu/karaku.html+%E6%98%A5%E9%A2%A8%E4%BA%AD%E3%80%80%E6%9E%9D%E5%A5%B3%E5%A5%BD&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp
日本お笑い史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8A%E7%AC%91%E3%81%84%E5%8F%B2
桂枝雀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%9E%9D%E9%9B%80
寄席の人たち(SOBISHA.Inc)
http://sobisha.shueisha.co.jp/yomimono/yose/01_sekitei/
御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B9%B1%E5%BF%83_%E8%90%BD%E8%AA%9E%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%88%86%E8%A3%82%E3%81%A8%E3%80%81%E5%86%86%E7%94%9F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%81%9F%E3%81%A1

苗字の日

2007-09-19 | 記念日
1870(明治3)年の今日(9月19日)、戸籍整理のため、太政官布告により平民も苗字を持つことが許されたことから、この日が「苗字の日」となっている。
この日に対して、 2月13日 が「苗字制定記念日 」となっている。この日のことは一度、このブログで書いた。(以下参考に記載の、2月13日「苗字制定記念日」参照)
そこでもかい書いたように、明治維新直後の1870(明治3)年今日(9月19日)に出された「平民苗字許可令」により、平民も苗字を持つことが許された。しかし、当時国民は明治新政府を信用しておらず、税金を課し徴収するために、苗字を附けられるのだと警戒し、なかなか苗字を名乗ろうとしなかった。そこで明治政府は、1875(明治8)年「平民苗字必称義務令」を布告。この年平民に苗字を附けることの義務化を断行したのである。そのため国民があわてて急に適当な名前をつけたので、このとき一度に日本の苗字の数が、世界の中でも最高クラスと非常に多い国となった。以下参考に記載の「日本の苗字7000傑」によると、世界一は多民族国家のアメリカで、姓の数は100万以上と言われており、日本は約30万で第2位、フィンランドが約6万で3位、英国が1万数千で4位、中国が10,129(中華姓氏書法大詞典)で5位っだという。
「苗字」(みょうじ)は、名字(みょうじ)と同じで、元々「名字」(なあざな)と呼ばれ、中国から入ってきた(あざな)の一種であったようであり、近世に発生した語彙(ごい)であり、古代氏族集団の(うじ)と階級を表す(カバネ)が複合されて使用されていた。
中世・平安時代末期あたりから、貴族は居住地などの称号、武家は名田の名字などを称して、古代の氏は姓または氏と混称されるようになる。
例えば、徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」となり、「徳川」が名字(苗字)、「次郎三郎」が通称、「源」が氏(「姓」、本姓とも呼ばれる)、「朝臣」が古代の(カバネ、古代に存在した家の家格)、「家康」が(いみな)、つまり本名)になる。
近世に入ると源平藤橘(げんぺいとうきつ。藤原という代表的な四姓のこと)などの氏は公式文書のみに使われ、日常は名字が一般的となり苗字と呼ばれるようになる。
江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになり、一般庶民は、公の場所で名字を名乗ることを禁じられてしまう。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」と語られることが多く、私もそのような書き方をしたことがあるが、「名字」とは本来、主にその人が住んでいる土地に関連して名付けられた名前を指していたとされており、自分の住む小地名、屋敷名を名乗ったり、世襲の個人名、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもしていた。例えば、浪曲や映画などで有名な「清水次郎長(しみずの じろちょう)」や、「森の石松」(もりのいしまつ)などのように、次郎長は、駿河国有渡郡清水湊(後の静岡県静岡市清水区)の、また、石松は遠州森町村(後の静岡県周智郡森町)の出である土地の名を名乗ったり、幡随院 長兵衛 のように江戸の幡随院の裏に住んでいたため幡随院の名を名乗って区別していた。
以下参考に記載の「漢字Q&A」によると、漢字の「苗」には名前に関係する意味はないが、「子孫」という意味があるそうだ。そこで「苗字」とは、共通の祖先から分かれた子孫たちが共有している名前、という意味合いがあると考えられ、名字を名乗ることが支配階級の特権となっていった時代に、同族意識の強い「苗字」という書き方が広まっていったというのは、意味深い感があるよね~。
そして、明治以降の国民皆称の時代に入ると、氏は廃されて「苗字」が日常的な呼称となった。現代日本の人名つまり、人の名前は姓(せい)と名(めい)からなるため「姓名」とも呼ばれるが、この「姓」(せい)は、今日、「苗字」「名字」、「氏」などと同じ意味で用いられている。
学校では、「名字」とならい、「苗字」という書き方はこの頃あまり使われなくなったが、お堅い日本の法務省では、「氏」(うじ)を正式呼称とし、法律上は、「氏名」・「氏」を使っている。
日本では、戦後、今までの「家」制度が崩壊し、夫婦別姓などが問題となっていることは、前の2月13日「苗字制定記念日」でも書いた。先にも、苗字の数が日本が30万位あり世界第2位であるが、日本の人口の10倍もある「中国の苗字の数が、10,129(中華姓氏書法大詞典)で5位」っだという事を書いたが、そのことで、今、中国では、同姓同名が社会問題になっているそうだ。以下参照。
【CRI】中国、同姓同名が社会問題に 2007/08/23(木) 19:32:04 [中国 ]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0823&f=national_0823_003.shtml
ここに書いてある記事によると”公安部門の統計によると、中国では現在、約4100個の名字が存在し、・・・”とあり、「日本の苗字7000傑」に書いてある数とは大分違うので、どこがどこまで本当なのかは知らないが、どちらにしても、人口の割りには苗字数が少なすぎると思うので、これからの戸籍管理、郵便、銀行預金、医療保険など様々な領域で不都合が生じてくるであろうことは、感じるよね~。これで、日本の年金問題のような、いい加減な、コンピューターへの入力時に漢字の読み違いなどがあったとする・・・・ほんとにどうなるのだろうかね~。今、ものすごい勢いで、経済発展しているが、このようなことの管理面でも大きな問題が出てきそうだね~。
以下参考に記載の「苗字の博物館」を覗いてみたら、「表札にあったら不思議な苗字」として、「留守」(るす 宮城県)や、「家出 」(いえで、石川県)なんかも有るという。 ちょっとね~・・・。
また、早口言葉、あるいは言葉遊びとして知られる古典的なネタであり、有名な落語の前座話に「寿限無<」があるが、この話し、子供の長命を願って無量寿経にちなんで縁起のよい名前をつけたはいいが、その子供が水におぼれてしまい、周りの子供が助けを呼ぶためにその子供の名前を繰り返して言ううちに、時間が長々とかかってかえって助けるのが遅れ、結局溺れ死んでしまったという内容の話。・・・これは、名前といっても「氏名」の名の方の話だが、余り、親の都合で変な名は付けない方がいいよね~。
人名- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%8D
名字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E5%AD%97
2月13日「苗字制定記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/97fb02a2a60294dd7640d6d1f26995a2
日本の姓の全国順位データーベース(静岡大学人文学部言語文化学科)※データーベースの読み込みにかなりの時間がかかる、
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/kensaku.html
日本の苗字7000傑
http://www.myj7000.jp-biz.net/
漢字Q&A
http://www.taishukan.co.jp/kanji/qa_top.html
清水次郎長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AC%A1%E9%83%8E%E9%95%B7
幡随院長兵衛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A1%E9%9A%8F%E9%99%A2%E9%95%B7%E5%85%B5%E8%A1%9B
幡随院 長兵衛 / 全国名前辞典
http://fine-vn.com/cat_39/ent_88.html
【CRI】中国、同姓同名が社会問題に 2007/08/23(木) 19:32:04 [中国
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0823&f=national_0823_003.shtml
凄い苗字の大集合
http://homepage3.nifty.com/giboshi/name.htm
寿限無 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E9%99%90%E7%84%A1
東西落語特選 寿限無
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/jugemu.html
苗字の博物館 
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/2255/index.html

芹澤鴨 (水戸藩浪士,新選組局長)の忌日

2007-09-18 | 人物
今日(9月18日)は、芹澤鴨 (水戸藩浪士,新選組局長) の1863年 の忌日。近藤方により粛清される。 <数え37歳>
新選組(新撰組と表記される)は、江戸時代後期の幕末期に、主に京都の治安維持を目的に活動したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った組織である。当時の京都守護職であった会津藩主の松平容保の配下に置かれ、池田屋事件などで、京都に潜伏する過激派尊皇攘夷論者の取り締まりにあたった。
新選組をテーマにした数々の映画やドラマなどが製作されいるが、近藤勇土方歳三を中心に描かれていることが多く、芹沢鴨(せりざわ かも)については、それと対比させるかのように多くは粗暴な悪役で、大柄な人相の悪い俳優が演じており、暗殺事件で殺されるシーンが序盤でごく短く扱われる程度であることが多い。確かに新選組を最終的に束ねるのは近藤であるが、新選組結成当初において芹沢鴨はなくてはならない重要な人物であり、2004(平成16)年に放送されたNHKの43作目の大河ドラマ新選組!」では、芹沢鴨は佐藤浩市が演じ、悪人というよりは・・・ピカレスク(picaresque)的な悪人(ピカレスク小説参照)といった性格付けであり、剣の腕前に加えて人望と学問も備えた一廉の人物として描かれている。主人公の近藤勇(香取慎吾)が越えなければならない壁とされ、ドラマの前半を支える重要な役柄となっている。「大河ドラマ史上最高の悪役」を狙ったという作・脚本を担当した三谷幸喜は、佐藤の好演を評価して芹沢の出番を数話伸ばしているそうだ。暗殺場面ではすべてを察して土方、沖田、山南、原田を待ち構え、4人を相手に大立ち回りを演じる。その他の水戸派の面々も、ただの悪人ではない個性的な人物像で丁寧に描かれた珍しいドラマであった。
芹沢家は、常陸国芹沢村(現茨城県にあった玉造町)の芹沢城主の流れを汲む名門で、幕臣を経て、のちに水戸藩郷士となった芹沢家の当主、芹沢外記貞幹の三男・玄太として生まれたそうだ。以下参考に記載の「新選組を創った男(玉造町観光協会HP)」によると、父外記貞幹は、勤皇の志が厚く、当時の水戸藩主、徳川斉昭公に忠誠を誓い、天保15年(1844年)、水戸藩の洋式調練に、彼が豪族時代に従えた家臣団とともに参加し、その功を労われ、斉昭公は自らの烏帽子を渡され、酒を酌まれたと伝わているそうだ。そのエリートの血筋として生まれた玄太も、自然と斉昭公の尊王攘夷思想に触発され、幼少の項、すでに剣術や学問の基本を修めていたという。玄太はその後、元服すると、今の北茨城市の神官、下村祐斉義次の娘と結婚し、名を「下村継次」と改めた。継次は神官時代に尊皇攘夷の精神を学び、剣も当時、水戸の剣術師範であった神道無念流剣術戸ケ崎熊太郎から学び、免許皆伝を受け師範代を務めていたそうだ。
その継次の交友と知識を深めた影には、近在に住む親友、野口哲太郎正安がいただろうという。この野口は、水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者藤田東湖や、長州藩士の吉田松陰などとも交流があったそうだ。
尊王攘夷の運動は水戸藩から始まった。その具体的な行動が桜田門外の変であり、水戸藩を一躍天下に轟かせた。水戸藩の尊皇攘夷運動の指導者は、徳川斉昭。具体的な推進者は、藤田東湖や戸田銀次郎らを中心とする斉昭の軽輩出身の側近たちであった。藤田一派は反対派から天狗派とよばれていた。彼等は斉昭に学識と実力を買われて下級武士から抜擢された者が殆どであり、中には農民出身も含まれていた。成り上がり者が権力を握り鼻を高くしているので天狗になったというのである。
安政5年(1858年)、幕府では井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約の締結、紀伊藩の徳川慶福(徳川家茂)を将軍後継に決定して将軍継嗣問題の解決を図るなど朝廷の意向を無視した強硬政治を行い、公武合体を求める孝明天皇は水戸藩はじめ御三家などに対して、戊午の密勅を下す。(幕府への勅書は水戸藩の2日後)。これに対して井伊は密勅が倒幕を画策するものであると捉え、水戸藩に対して勅書の幕府への引渡しを命じる。
先の「新選組を創った男(玉造町観光協会HP)によると、それを承伏できぬと、水戸藩の下級武士、郷士、神官等、約300名が長岡に屯集し、返還阻止行動を起こす。その際、継次の直接参加の記録はないが、近在の野口正安がその事件に関与しており、継次も家族に何も言わずに突然出て行ってしまった時期がこの頃とされており参加していたのだろうという。また、この参加した同志の中には、のちの壬生浪士組の初期メンバーである粕谷新五郎や、のちに近藤勇を千葉県流山で捕らえた香川敬三(旧名、鯉沼 伊織)がいた。
安政の大獄」を行い一橋(一橋慶喜)派や尊皇攘夷派の弾圧を行っていた井伊が、翌・安政7年(1860年)3月、水戸藩の浪士により、江戸城桜田門で暗殺された(桜田門外の変)ことにより、本懐を遂げたとして、彼らは水戸領内各所に散らばっていたが、その年の夏、盟主・斉昭公の急死を契機に、攘夷実行の方法論で彼らは二派に別れたそうだ。その結果、粕谷新五郎等、37名は攘夷の実行を促すため、薩摩藩邸に駆け込み、野口正安らの派閥「玉造勢」は横浜で攘夷を実行するため、玉造郷校(現玉造町)に集まり、挙兵の資金を集めることとなり、仲間とともに潮来、佐原辺の豪商を巡り、金策を行なう。その中に下村継次もメンバーとして入っていたそうで、香取神宮の太鼓を破ったと伝えられ、また、佐原の豪商の態度に立腹して鉄扇で暴れたとする記録が残されているという。このメンバーが玉造組結党へと発展し、継次は幹部になっていたそうだが、そのころになると素行の悪い者も増え、偽者も横行し、勝手に金策する者も出、その暴虐行為が幕府の耳にも逐一入るようになり、継次もそのため、部下を三人を斬ったと伝えられているという。この間、水戸藩の政権は天狗派から諸生派に変り、一連の騒動を収拾すべく、玉造党の弾圧を開始。継次も、芹沢家に隠れているところを捕縛され細谷獄に送られた。しかし、その後、幕府も弱体化し、代わりに長州、薩摩、土佐の勤皇党の勢力が朝廷内に強まると、水戸藩内でも再度、人事異動が行われ、武田耕雲斉(のちの天狗党幹部)等の謹慎が解かれ、藩家老に復職し、諸生派を一掃。武田らの奔走により、細谷獄に囚われていた政治犯はすべて釈放され、継次も引廻しの上、斬罪の所、大赦によって釈放されたのだそうだ。
その後、下村継次は、何も告げずに去った養家下村家には帰らず、芹沢家に戻ると、名を「芹沢鴨光幹」と改め、その際妻を貰ったようだ。身を落ち着けさせようとする芹沢家の考えであったようだが、彼の気持ちは尊皇攘夷に燃えており、獄中で聞いた、幕府が有為な浪士を集め、「浪士組」(、清河八郎が発案)を結成し、将軍徳川家茂の供として警護をさせるという話に心動かされていた。
そして、結局、年明けの文久3年(1863年)、芹沢家に鴨と一緒に行動するよう命令された 平間重助 とともに江戸に向かったという。そして、浪士組に平間重助を伴い参加六番組小頭に任命された。のちに江戸の剣術道場試衛館の近藤勇、土方歳三らも加わって、将軍上洛に先がけ、京都まで行動をともにする。(浪士取締役には鵜殿鳩翁清河八郎山岡鉄太郎など)
京に到着後、芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士八木源之丞の屋敷に分宿した。
そのころ将軍の警固のため上洛した幕府の浪士組を、我が物とした清河はこれを尊王攘夷の先鋒とするため、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることを画策。新徳寺に同志を集め攘夷決行のため江戸帰還を宣言するが、これに、最初に異議を唱えたのは芹沢であったという。そして、浪士取締役協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。しかし、芹沢・新見錦ら水戸派と、近藤、土方を中心とする試衛館派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張し浪士組を脱退。この時に京への残留を決めたのは芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だけだった。これに殿内義雄根岸友山らも合流する。そして、同年3月10日、芹沢、近藤ら17人(24人とも)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木家を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)、このとき、後の新選組の前身ともなる「壬生浪士組」を結成した。その際、内部抗争が起き、殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになる。のちに芹沢、近藤、新見が局長となり、その内で芹沢が筆頭となった。ただ、会津藩御預かりとはなっていたが、給金の提供がなかったため、芹沢、近藤らが大坂に下って商家から資金の提供を受けたことから、会津藩の体面上、のちに藩より手当が支給されるようになったという。この「壬生浪士組」の誕生は、単なる田舎剣客にすぎない近藤勇たちだけが京都守護職会津藩主松平容保に嘆願しても出来るものではなく、芹沢の尊王攘夷浪士としての実績と顔、そして、教養があったからこそできたものだろう。
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続・芹澤鴨 の忌日

2007-09-18 | 人物
同・文久3年(1863年)年8月18日、「八月十八日の政変」に際して御所の警備のために芹沢は、近藤、新見とともに隊士を率いて出動するが、この時の芹沢の剛胆さに人々は驚いたという。この出動を機に会津藩は壬生浪士組に「新選組」の隊名を与えた。
この後、9月13日、近藤らは芹沢派の新見錦に乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた。また、9月16日夜、水戸藩川瀬家文書によると(『新選組遺聞』によると18日)、新選組は島原角屋で芸妓総揚の宴会を開いた。芹沢は平山五郎平間重助、土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと同衾(どうきん)して寝た。大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に切りつけた。驚いた芹沢が飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに切りつけ、芹沢を殺すと刺客たちは立ち去ったという。平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。
『新選組遺聞』では、八木為三郎の母おまさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを目撃しており、刺客には沖田総司原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記しているという。他にもこの芹沢を襲った事件については諸説あるが、この事件に近藤や土方が関係していたかいなかったかの確たることはよく判らないものの、その後の「新撰組」の転回などを見ていると、彼等が関わっていたものと考えるのが自然だろう。近藤たちも思想的には芹沢たちと同じ尊王攘夷であったはずであるが、芹沢らが粛正された理由として、通説では商家を相手に強請りまがいの強引な金策や島原での乱行(角屋での暴挙参照)が理由であったといわれており、たまりかねた会津藩が近藤一派に芹沢を取り除くように指令したといわれている。
確かに、芹沢は酒癖が悪く粗暴なところもあったようだが、実際のところは、乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸学、天狗党(天狗党の乱参照)の強烈な尊王攘夷思想の流れをくむ芹沢を危険視したという説もあり、私などは、こちらの方が真実に近いのではないかと思われる。
芹沢は上洛後、北野天満宮に参拝し、以下の句を記した額を献じている。
「雪霜に 色よく花の魁(さきが)て 散りても後に 匂う 梅が香」
尊皇攘夷の念の強くかった当時の芹沢の気持ちを伝えている句である。
しかし、上京後、朝廷や幕府の政情は次第に佐幕化していった。特に「新撰組」の土方らが、そうであり、次第に近藤一派の勢力が強まっていく。隊内でも尊王攘夷思想が強く、過激派とも親交のあった芹沢の心は、きっと、佐幕と開国の間で揺れ動いていたのではないだろうか。それを察し、大河ドラマ「新選組!」の中で、三谷は芹沢暗殺の晩、それを知らせようとする近藤に、芹沢には.「近藤さんよ、鬼になれよ。鬼になって俺を食っちまえ。」・・と言わしめている。この台詞1つで、いつも悪役扱いされている芹澤鴨 の顔は十分に立ったのではないだろうか・・・。
芹沢の墓所は京都市中京区の壬生寺にある。
(画像は、「新撰組局長首座 芹沢鴨」 〔集英社文庫)〕 峰 隆一郎著)
参考:
Wikipedia - 芹沢鴨
http://ja.wikipedia.org/wiki/芹沢鴨
新選組を創った男(玉造町観光協会HP)
http://www.tamatsukuri.or.jp/shinsen-hp/index.htm
新撰組(都っくす)
http://www.kyotox.com/sinsengumi/sinsengumi.htm
新選組!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84!
なるほど!幕末
http://bakumatu.727.net/top.htm
新選組 水戸志士
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/4774/index.html
壬生寺
http://www.kyotox.com/sinsengumi/mibu/mibudera.htm
北野天満宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
壬生界隈
http://www.bbweb-arena.com/users/mnaokun/%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E9%81%93_002.htm