山野颯想

山野走、山野歩、山野逍遥など、山野にかかわる事柄を中心に記載しています。

僕の葬儀時の曲(ペール・ギュント組曲)

2017年06月29日 | 音楽
2017年5月17日(水)
『僕の葬儀時の曲』
<ペール・ギュント組曲>
義兄が望み、兄さんの通夜と告別式の開始前に繰り返し流れた「マーラー交響曲 第5番 4楽章」、そして出棺時に繰り返し流したのは「ベートーベン 7番3楽章」。兄さんが何ゆえ、これらの2曲を選択したのかはやはり分からないのだが、この2曲を、昨年12月に聴いたときに上さんが、「兄のように、私も死んだときに流してもらう曲を決めなあかん」と語ったのを覚えている。そのとき僕は何とも思わなかったのだが、先日、グリーグ作曲<ペール・ギュント組曲>を聴いていて、僕の葬儀時に流してもらうとすれば、この「ペール・ギュント」組曲中の[オーゼの死]と[ソルヴェイグの歌]がよいのかも知れないと考えた。特段深い理由がある訳ではない、何れの曲も葬儀時としてふさわしいもののように思っただけだ。旋律が何処となくよかったのと、何れの曲も「死」にかかわる事柄が主題となっている様子だからだ。通夜と告別式の開始前には[オーゼの死]を、出棺時には[ソルヴェイグの歌]を流してもらおうと思う。
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ハイドン(ハイドン最後のシンフォニーにふさわしいかも)

2017年02月25日 | 音楽
2017年1月8日(日)
『ハイドン』
<ハイドン最後のシンフォニーにふさわしいかも>
義兄所有の数多レコード盤からコピーしたと思われるCD(クラシック)3枚の二つ目には、「Haydn:Complete Symphony[Disc30]/Adam Fi…」と記載されている。その中には、①から⑫までがあって、それぞれに[①Haydn:Symphony#96 In D,H1/96,〝Miracle″-1.Adagio,Allegro]などとあるのだが、僕には如何なることが書かれているのか分からない。その内、⑤から⑧を赤線で囲み、「97番は なかなかすばらしい」と、兄さんが書き添えている。
また、三つ目には、「Haydn:Complete Symphony[Disc33]/Adam]/Adam Fi…」と記載されている。その中には、①から⑧までがあって、それぞれに[①Haydn:Symphony#103 In E, Flat,H1/103,〝Drumroll″-1.Adagio]などとあるのだが、これも何たる意味なのか分からない。その内、⑤から⑧を赤線で囲み、「ハイドン最後のシンフォニーにふさわしいかも」と、兄さんが書き添えている。
これら2枚のCDを大晦日から聴き始め、今日まで、食事時の殆どの時間を聴き続けたが、兄さんがいう「97番は なかなかすばらしい」「ハイドン最後のシンフォニーにふさわしいかも」の理由が何であるかを聞かせてほしいと思ったが、兄さんはもうこの世に居ない。
2010年10月10日に、M御母さん、兄さん他、大人18名、子供7名のT家総勢27名による一泊二日の小旅行があった。「皆にありがとう」と言いたい、またM御父さんやM御母さんがつくり上げたT家面々の繋がりを今後も大切にしてほしいという兄さんの発案で兄さん自身が企画実施した小旅行であったと僕は認識しているのだが、そのときに僕が撮った兄さんの横顔の写真をラジカセ上手に置いていて、更にその上手に、兄さんの50枚余りのCDを並べている。
今日は、近くに住み毎日の如くやって来る孫達家族も、そして我が上さんも、一泊で旅行に出掛けたので、我が家に居るのは僕だけだし、朝9時頃より雨がしっかりと降り続いたので、近場の山野へも出掛けられない。もっとも、正月の大峰山行で痛めた右足腰の状態が芳しくないということもあり、それゆえ、正月山行時のツエルトやシュラフ、衣類などの洗濯を台所の流し台を利用し行ない、山道具の整理も行なったのだが、その間も含めて数時間、三つ目のCDを聴き続けた。
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義兄の葬儀(クラッシックが流れる)

2017年02月04日 | 音楽
2016年12月25日(日)
『義兄の葬儀』
<クラッシックが流れる>
上さんが二度に亘り、実家より持ち帰ったK兄さんのクラッシクCDが50枚余りとなった。それらCD中にコピーをしたものが3枚存在する。「レコード盤は残しておいてほしい」と甥が言ったゆえ、レコード盤は頂戴していない。もっとも頂戴しても我が家には今、プレーヤーが無いので聴くことが出来ない。それら3枚のコピーCDの内1枚は、兄さんが闘病中に数多あるレコード盤から自身の葬儀用にとコピーしたものだろうと思われる。
その1枚には「①マーラー交響曲 第5番 4楽章 アダージョ 通夜・告別式の開始前に繰り返し流す」「②ベートーベン 7番3楽章 出棺時 繰り返す」と、兄さんが鉛筆で記している。これらの2曲が、兄さんの希望により、兄さんの葬儀の時に流れた筈なのだが、音楽に造詣が無い僕はその時の旋律を覚えていない。そして今日、葬儀から6年を経てその2曲を聴く機会を得た。
「②ベートーベン 7番3楽章」が流れるときに部屋にやって来た上さんに、「この曲、兄さんの出棺時に流れていた曲だよ」と告げると、「分かっていた。この部分だけだけど」と応えた。僕と違って、敬慕する兄を送らねばならない上さんの心中には、あの日から6年経った今でも、流れていた曲の旋律がしっかりと刻まれていたことに、僕は驚くばかりであった。2010年11月10日午後2時過ぎに兄さんは亡くなった。それは殆どの家族が揃う中での最期であった。その11月10日は、奇しくも上さんの誕生日でもあった。
兄さんは遺書を残していたという。僕はそれを見ていないゆえ如何なることが書かれていたのか詳細は分からないが、そのなかの一つに、「家族の香典は不要、その分、花を供えてほしい。」というのがあったようだ。これには兄さんの如何なる想いがあったのだろうか。通夜に二百人を軽く超える弔問客が訪れた。告別式にも通夜同様多くの方々がお参りしてくださり、300名から400名くらいの参列者数になったと記憶している。なかでも印象的であったのが、小学校同窓の六二会の皆さんが“高校三年生”を歌ったことであった。
今日は、[マーラー交響曲 第5番 4楽章 ]と[ベートーベン 7番3楽章]を繰り返し繰り返し聴いた。[マーラー交響曲 第5番 4楽章 アダージョ]が何ゆえ「通夜・告別式の開始前」なのか、[ベートーベン 7番3楽章]が何ゆえ「出棺時」なのか、と思考しながら何度も聴いた。
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美空ひばり(ひばりの佐渡情話)

2016年10月19日 | 音楽
2016年9月16日(金) 
『美空ひばり』
<ひばりの佐渡情話>
先日、亡き義兄のクラッシックCDを20枚近く、上さんが実家から持ち帰った。今日はその中から「シューベルト作曲・ピアノ五重奏曲 イ長調 作品114 ≪ます≫」を聴いた。食事時のみだが相変わらずほぼ毎日、クラシックを、朝、昼、夕、と3度聴いている。小学校と保育園に通う近くに住む孫達(一男二女)は、朝食と夕食を我が家で済ませるので、嫌でも聴かされ、食事時には好きなテレビを見させてもらえない彼等は、どのように思っているのだろうか。
美空ひばりが逝ったときに、美空ひばりファンであった僕が購入した「今日の我れに明日は勝つ、美空ひばり大全集・~さよなら、そしてありがとう…~」というタイトルのCD(35枚組)も久し振りに毎日欠かさず聴いている。それを聴くのは食事時ではなく、我が部屋で独り居るときに楽しむのが常だ。「ひばりの佐渡情話」などは如何にも美空ひばりらしく、心に沁み入り懐旧の情に浸ってしまうのだが、ひばりの若い歌声が流れる「すてきな今夜」「落葉」「東京は恋する街」「東京デイト」などにも聴き入ってしまった。そのとき僕の脳裏に映ったのは、雪村いずみと江利チエミの姿だ。
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クラッシックを聴く(造詣が深いわけではない)

2013年10月20日 | 音楽

P7140057

◆撮影:2013年7月16日、八ヶ岳(大同心ルンゼ)

(オヤマノエンドウ)

20131020日(日)

 

『クラッシックを聴く』

<造詣が深いわけではない>

僕の60年余りの人生において、一般的な歌謡曲以外の音楽は無縁であったと言っても過言ではない。なかでも、クラッシック音楽は中学時代に授業で聞かされたくらいであったゆえ、クラッシックに造詣が深いわけではない。ところが、ここ二年余りの間、我が日々の生活の中でクラッシック曲がラジカセより流れない日が無かったのではないだろうか。

20101110日に上さんの長兄が亡くなった。それは僅か63歳での悲しみ溢れる別れであったのだが、兄さんはクラシックを中心にレコードやCDを数多保有していて、その中から形見分けとして、ラジカセで聴くことが可能なCDを20113月ころに幾らかを頂戴することとなった。それを切っ掛けとして、僕はクラッシックや歌曲を聴き始めた。もっとも僕と違って上さんはクラッシックはじめ、様々な曲や歌詞を器用に口ずさむのだが、それはTJ家のDNAなのだろう。またそれ以降暫くして、娘婿が親元に残っていた、今、聴き手が居ないCD(クラシック)を持ってきてくれ、今その枚数は6070枚くらいに達している。

ところで、商いを営む僕は、テレビを見ながら食事をするのが常であった。朝食時も昼食時も、夕食時もそうであったのだが、一昨年の春ごろより、食事の時間にクラッシックを聴き始めて以降、テレビを観ることが殆ど無くなった。かと言って曲や作曲者の想いを理解して聴けているのかといえばけっしてそうではない。義兄から頂戴したCDには、ミニ解説書が入っているものが多数あるのだが、娘婿から頂戴したものには解説書がまったく添えられていない。また、音楽の基礎意識が絶対的に不足している僕は、例えば、「変ロ長調」や「Scherzo」などという言葉が、如何なることなのかも理解できていないという有様なのだから。

滑落事故後、一ヶ月余り聴くことがなかったのだが、体調が戻り始めた数日前よりまた聴き始めた。今朝、食事時に楽しんだのは、「ヨハネス・ブラームス作曲 交響曲 1 ハ短調 作品68」だ。今朝はその中でも、第一楽章「Un poco sostenuto ? Allegro」を繰り返し聴いたのだが、導入部に「ダン、ダン、ダン…」という打楽器らしき音が聴こえてくる。しかし、その打楽器が如何なるそれなのかが分からないというのも現実である。

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