◆写真撮影:2012年9月15日、富士山頂より
2013年11月3日(日)
『脳梗塞』
<水を飲むことが脳梗塞の予防になる>
僕は予てより、水を飲むよう心掛けている。事務所で坐るときには机横に、車に乗るときには車に魔法瓶を持ち込み、夜、眠るときには、水が入った容器を枕元に常に置いていて、夜中であっても目が覚めると飲むようにしていた。その理由は、将来、脳梗塞になるかもしれないという親爺のDNAをもらっていると考えていたからだ。2012年4月に89歳で逝った親爺が、脳梗塞を病んでいたからだが、水を摂ることが、血液をサラサラにするために効果があると、僕は信じて疑わない。
親爺が何歳のときに一回目の脳梗塞に陥ったのかを正確には記憶していないのだが、70歳が廻っていたのは間違いがない。そのときの症状は軽微であったのだろうと思う。それは、親爺がお袋と二人で城崎温泉へと車で一泊二日の旅行に行ったときのことであった。「海岸を歩いているとき、お父ちゃんの様子がちょっとおかしいと思ったんや」と、帰宅後お袋は語った。しかし、そのおかしいと思われる体調の下で、城崎から大阪まで、車の運転がよく出来たものだと当時は感心すること頻りであった。
そのときの症状は、例えば、計算を電卓で行なおうとしたときに、指で「1」の数字を押そうとしても指が「1」の処を押すことが出来ず、「4」の処を押してしまうという、嘘みたいことが現実に生じていた。それ以外にも様々な症状があったのだろうが、親爺もお袋もそれらについて語ろうとはしなかった。
大正生まれの頑固一徹の仕事人間である親爺は、「周囲の人間には自身の病を知られたくない」「仕事が出来ない自身の姿を見られたくない」という気持ちが強かったのだろう。お袋の話によると、上手く扱えない電卓を懸命に押し続けるなど、親爺は僕達の目が届かないところで懸命にリハビリに励んだらしい。そしてその甲斐あって、間も無く脳梗塞の後遺症から脱出したのだ。発病後、血液をさらさらにする薬を呑んでいたはずだが、そのような話も親爺はすることはなかった。
次に、2000年5月から、脳挫傷で二ヶ月間の入院生活を送った。それは、親爺が青信号で横断歩道を歩くときに左折する車にはねられたのだ。それが原因で読み書き、算盤を頭脳より失った。しかしそれでも親爺は復活し車の運転を行なった。仕事からは離れはしたが、今、考えると至極恐ろしいことなのだが、歩くことが好きではないお袋のために、自身が車の運転をしなければならないと念じていたのだろう。
ところが、原因が脳挫傷にあるのか二度の脳梗塞にあるのかは分からないのだが、2007年の夏季頃より認知症が顕著になり始めたのだ。夜中の徘徊もあった。布団中での排便もあった。お風呂に這入るのを嫌がる親爺と一緒に、50数年振りに親爺とお風呂にも這入った。その他様々なことがあって、2009年の秋には、お袋や僕達子供のことも、解らなくなってしまった。
実に淋しいことではあるが、自身の配偶者の存在も、自身の子供達の存在も、自身の脳裏から消滅してしまったのだ。これが脳梗塞や脳挫傷を病んだ人間の近未来の姿だと僕は考えている。だから僕は水を飲み続ける。