山野颯想

山野走、山野歩、山野逍遥など、山野にかかわる事柄を中心に記載しています。

霊仙山(花の多い山か、僕も行きたいな)

2013年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

P7140093

◆撮影:2013年7月14日、八ヶ岳

(大同心)

20131030日(水) 

霊仙山

<花の多い山か、僕も行きたいな>

112日~3日の計画で、歩荷を兼ねて鈴鹿山脈最北の山、霊仙山(1094m)へABちゃん達中高年三名が行くという。そのときに、僕の処にあるラジオと天気図、そして9月の御在所山行時の残っている食糧が欲しいのだという。

ABちゃんは、僕が大阪市内まで出て行くことに申し訳ないという様子であったが、「リハビリを兼ねて」「駅から近い処まで」という僕の言葉で了承した。そこでABちゃんの提案で待ち合わせ場所は、淀屋橋駅と決まり、僕はそれらを携え淀屋橋駅まで行くこととなった。改札口で13時に待ち合わせ、ABちゃんの案内で大阪中央公会堂内の中之島倶楽部で昼食にした。そこはレトロな雰囲気を残すリッチな食堂で、13時が廻っていて、しかも平日であったにもかかわらずかなりの混み具合であった。

滑落事故後、僕にとっては初めての外食であった。麻痺症状が顕著に残る左顔で、「上手く咀嚼できるのだろうか」「音を立てずに食べられるのだろうか」などと少々不安であったが、洋食も珈琲も、零すことなく巧みに食べられ安堵する。

ABちゃんは職場に15時に這入る必要があったゆえ、ゆっくりとはできなかったが、御在所や霊仙山、そしてここの処、彼が陥っているという腰痛の話に花が咲いた。「三人とも初めて行く山」「滑落の心配は無い所」「頂上でテント泊」「一人4㍑の水を持って上がる」「花が多いらしいんや」「フクジュソウが有名らしい」「今後、山の会として、クライミングだけではなく花を愛でる山行も考えてゆこうという話もあるんや」などと、霊仙山山行の説明をしてくれた。「花の多い山か、僕も行きたいな」と僕は返したが、しかし霊仙山は、今の僕にはけっして歩くことが可能な標高の山ではないことは間違いがない。

霊仙山山行も含めて今年末や、来年の1月~5月の雪山において、僕はUMさんの身体力に不安があることをABちゃんに伝えた。「UMさんのこと、気を付けたらんとあかんと思うで」「ABちゃんとMOくんに付いて行こうとするとき、UMさんは身体的にかなり無理をする時があるんちゃうかな」「事故は今回の僕のような滑落とは限らへん」「どんな事態が生じるか分からへん」と。その意見にABちゃんもよく分かっているという様子で納得した。

ところで、今日の僕はそれなりの距離を歩いたのではないだろうか。自宅から駅までの往復20分ほど、そして淀屋橋駅から中央公会堂までの往復の距離、そしてだ、駅の階段もしっかりと自身の脚で歩き切った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンパス・STYLUS SH-50(優れ物のデジタルカメラ)

2013年10月29日 | 写真

P7140090

◆撮影:2013年7月14日、八ヶ岳(大同心稜)にて

(ミヤマキンバイ)

20131029日(火)

『オリンパス・STYLUS SH50

<優れ物のデジタルカメラ>

滑落事故後、今日になって初めてカメラを触った。滑落時、カメラを身に付けていたのか、それともサブザックの中に入れていたのかをまったく覚えていないのだが、山仲間が御在所岳より持ち帰ってくれていて、山道具と一緒に僕の部屋前に並んでいた。

過日、山道具を整理したときにカメラのみを机上へと移動させたのだが、そのときも、カメラ内に残っている映像をみることがなかった。カメラは壊れているのだろうと思っていたし、もし万が一壊れていなくても、滑落事故を起こすほんの暫く前までの映像が残っている訳だから、なんとなく見る気がしなかったのだ。

ところが、カメラを布袋より取り出すと傷んでいる気配が無い。「藤内壁前尾根登攀時に10枚以上はシャッターを切ったはずだ」また、「それ以前に撮った写真も残っているはずだ」と思い、ボタンを押してみたが映像が一枚も現れない。壊れているのだろうかと思いシャッターを切ってみると、カメラは正常に作動し映像は保存された。さすれば、何ゆえ映像が残っていないのだろうか。我が身体が20m滑落する衝撃で、また、我が身体は2度バウンドしたというのだが、それらの激しい衝撃で映像が消滅してしまったのだろうか。とも考えたが、何れにしてもカメラは壊れていないのだから不思議であった。

従前僕は、何十年という間、フイルムカメラ(一眼レフ)を使用してきた。花を撮るためにマクロレンズ、遠景を撮るためにズームレンズと使い分け、必ず携帯三脚を持ち歩いたものだが、しかし60歳台の僕にとって、山に持って行くときにその重量と嵩は至極負担になっていた。その回避のために購入したのが、オリンパス製品のSTYLUS SH50というデジタルカメラで、それは、7月の八ヶ岳山行前にヨドバシカメラで手に入れた。

それは、269グラムという、信じられないくらいの重量と掌におさまるくらいの嵩の品であった。そのデジタルカメラで撮った写真をまだプリントしたことがないゆえ、その性能のほどは分からないが、パソコンで見るだけなら、スキャナーで取り込んだフイルムカメラ(一眼レフ)の映像と比してまったく遜色がないという優れ物だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠近両用眼鏡(滑落事故の原因)

2013年10月24日 | 健康・病気

P7140078

◆2013年7月14日、八ヶ岳(大同心ルンゼ)にて

(チョウノスケソウ)

20131024日(木)

 

滑落事故の原因

遠近両用眼鏡

929日、山の会の皆が見舞いに来てくれたときに、僕が滑落した原因として、MOくんが、「遠近両用眼鏡の所為やと思った」と呟いたと記憶するのだが、そのときも、またその後も僕は、「眼鏡が原因だ」とはまったく考えなかった。

また、先日日記に記しているように、滑落の原因として、「我が身体の老齢化に対する認識不足」「自身が山岳事故を起こすことは絶対にあり得ないという慢心の気持ち」「自然への畏敬の念の絶対的な不足」などを掲げていて、「眼鏡が原因だ」とは、そのときもまったく考えなかった。しかし、今朝、サングラスも含めると、6種類の眼鏡を使い分ける上さんと「眼鏡に係わる話」をするなかで、僕の滑落事故の原因として遠近両用眼鏡があるのではないだろうかと考え始めた。そのとき、僕の脳裏に蘇ったのはMOくんの「遠近両用眼鏡の所為やと思った」という呟きであった。

そのときに使用していた遠近両用眼鏡は今、僕の手元には無い。壊れた状態で前尾根辺りの何処かに眠っているのだろうと思うのだが、その眼鏡を購入したのが82日。一刻も早くその眼鏡に慣れたいと考え、日常生活の中で眠るとき以外は毎日掛け続けた。しかし、山で使用したのは811日の「比良山系・鵜川左俣」遡行時のみで、そのときの印象を山日記に記しているのだが、沢中で再三バランスを崩す僕を見て、僕の後ろを歩くMOくんが心配して「眼鏡を外した方がええんとちゃう」と僕に声をかけたのを覚えている。

また、「遠近両用眼鏡では歩かれへん」という上さんの言葉も思い出した。もっとも上さんの眼は至極悪化しているゆえ、「仕方がないのだろう」ぐらいにしか当時は考えていなかったのだが、それは上さんの視力の所為ではなかったのかもしれない。そう言えば、僕が遠近両用眼鏡を掛け始めた8月、眼前の景色が微妙に揺れたり歪んで見えたりしたのを覚えている。もしかすれば、遠近両用眼鏡は、足元に凹凸が頻繁に現れる処では不向きなのかもしれない。なかでもその最たる場面が山中であって、山歩きでは「遠近両用眼鏡を絶対に使用すべきでない」のかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山岳事故(漫然とした精神で自然と対峙)

2013年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

P7140060

◆撮影:2013年7月14日、八ヶ岳(大同心ルンゼ)にて

(イワベンケイ)

20131021日(月)

『山岳事故』

<漫然とした精神で自然と対峙>

何ゆえ山岳事故を起こしてしまったのだろうと思考するとき、「我が身体の老齢化に対する認識不足」「自身が山岳事故を起こすことは絶対にあり得ないという慢心の気持ち」「自然への畏敬の念の絶対的な不足」などを掲げることができるのではないだろうか。

今夏毎朝6時台に6.4kmを約40分程で懸命に走った後に、前屈姿勢ができないくらいに腰が痛んだことを、またその後に、疲労の所為で眠たくなり、PC前での僅かな事務作業に集中できない時間があったことなどを思い出す。今になって考えるとそれらはまさに、64歳という年齢が発していた警鐘だったのかもしれない。

また、私市の森中を疲労困憊の態で遮二無二走っていたのも事実で、森中を駆けることを自身の精神的愉楽と心身を鍛えることを目的としているつもりであった筈が、実はそれはもしかすれば、ただ身体を傷めつけていたに過ぎないのではないかと思えてならない。そしてそれらの警鐘に気付かない儘に山に行き、起こすべくして滑落事故を起こしてしまったのではないだろうか。

自身の年齢を考えるとき、如何なる山中であっても危険と紙一重の処に自身が居るということを常に念頭に置き、体力面でも時間面でも、そして天候面でも、十分なる余力を持って行動しなければならない。従前僕は、自然への想いに甘さがあり漫然とした精神で自然と対峙していたのだろう。

一旦事故を起こしてしまうと、数多の人々に迷惑を掛けてしまうということを、今回の滑落事故で僕は認識することとなった。今後山に行くことが出来るようになった暁には、あらゆることに注意を払い、常に慎重に行動しなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラッシックを聴く(造詣が深いわけではない)

2013年10月20日 | 音楽

P7140057

◆撮影:2013年7月16日、八ヶ岳(大同心ルンゼ)

(オヤマノエンドウ)

20131020日(日)

 

『クラッシックを聴く』

<造詣が深いわけではない>

僕の60年余りの人生において、一般的な歌謡曲以外の音楽は無縁であったと言っても過言ではない。なかでも、クラッシック音楽は中学時代に授業で聞かされたくらいであったゆえ、クラッシックに造詣が深いわけではない。ところが、ここ二年余りの間、我が日々の生活の中でクラッシック曲がラジカセより流れない日が無かったのではないだろうか。

20101110日に上さんの長兄が亡くなった。それは僅か63歳での悲しみ溢れる別れであったのだが、兄さんはクラシックを中心にレコードやCDを数多保有していて、その中から形見分けとして、ラジカセで聴くことが可能なCDを20113月ころに幾らかを頂戴することとなった。それを切っ掛けとして、僕はクラッシックや歌曲を聴き始めた。もっとも僕と違って上さんはクラッシックはじめ、様々な曲や歌詞を器用に口ずさむのだが、それはTJ家のDNAなのだろう。またそれ以降暫くして、娘婿が親元に残っていた、今、聴き手が居ないCD(クラシック)を持ってきてくれ、今その枚数は6070枚くらいに達している。

ところで、商いを営む僕は、テレビを見ながら食事をするのが常であった。朝食時も昼食時も、夕食時もそうであったのだが、一昨年の春ごろより、食事の時間にクラッシックを聴き始めて以降、テレビを観ることが殆ど無くなった。かと言って曲や作曲者の想いを理解して聴けているのかといえばけっしてそうではない。義兄から頂戴したCDには、ミニ解説書が入っているものが多数あるのだが、娘婿から頂戴したものには解説書がまったく添えられていない。また、音楽の基礎意識が絶対的に不足している僕は、例えば、「変ロ長調」や「Scherzo」などという言葉が、如何なることなのかも理解できていないという有様なのだから。

滑落事故後、一ヶ月余り聴くことがなかったのだが、体調が戻り始めた数日前よりまた聴き始めた。今朝、食事時に楽しんだのは、「ヨハネス・ブラームス作曲 交響曲 1 ハ短調 作品68」だ。今朝はその中でも、第一楽章「Un poco sostenuto ? Allegro」を繰り返し聴いたのだが、導入部に「ダン、ダン、ダン…」という打楽器らしき音が聴こえてくる。しかし、その打楽器が如何なるそれなのかが分からないというのも現実である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンベルの山用品(丈夫なズボンとサブザック)

2013年10月19日 | 山道具

P7130024

◆撮影:2013年7月3日、八ヶ岳(大同心稜)にて

(シロバナヘビイチゴ)

20131019日(土)

『モンベルの山用品』

<丈夫なズボンとサブザック>

自身の不注意で滑落事故を起こしてしまい、多くの人々に迷惑を掛けてしまう結果となった。申し訳ないことをしてしまったと心中より念じて止まない。

ところで、山仲間のABちゃんが事故後に記した報告書に「前尾根前壁ルンゼ下降中、約20m落下し、2回バウンドして大岩陰でやっと止まる」とある。その滑落前後の記憶が我が脳裏より完全に喪失しているゆえ、その滑落の衝撃が如何なるものであったのかを僕は理解できていないが、ヘルメットを被っていたにもかかわらず、「後頭部脳内出血」や「左耳の裂傷」「左耳奥骨の骨折」「鼓膜内に血液が溜まっている」「左顔の硬化麻痺症状」などを考えるとき、それはかなりの衝撃であったのだろうと想像できる。

山仲間が揃って929日に見舞いに来てくれたのだが、そのときに「止まった処より、その下部へと落ちてしまうと命が危うかった」とも聞いたようにも記憶するのだが、先日、山具の後片付けをするなかで、そのとき身に着けていたズボンとサブザックを見て、殆ど損傷していないことに驚かされた。

それら二品は何れも偶然、「モンベル」で購入した山用品であった。長袖上着(美津濃製)は、治療時に切り裂かれたらしいのだが、滑落時に僕の背中や脚を保護してくれたに違いないサブザックやズボンには、まったくに近いくらいに損傷が無かったのである。サブザックやズボンは「裂けているに違いない」と考えていたのだが、今年7月に購入したばかりの、事故後上さんが洗濯してくれ物干し台に残っていたトレッキングパンツは無傷、また、昨年の春山の為に購入したサブザックは、血痕は残っていたが、やはり殆ど傷んでいなかった。いずれも至極丈夫なのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

持病の腰痛(滑落事故で異変が生じる)

2013年10月18日 | 健康・病気

P7140056_2

◆撮影:2013年7月14日、八ヶ岳(大同心ルンゼ)にて

(ウルップソウ)

20131018日(金)

『持病の腰痛』

<滑落事故で異変が生じる>

滑落事故後一ヶ月間、怠惰な生活を送るなかで、長年悩み続けていた持病である「腰痛」の症状がまったく無いということに最近になって気付いた。不思議なことなのだが、事故後その症状を瞬時であっても感じたことが無い。

30歳に到達したころより、少なくても一年に一度くらいの回数で症状が出現していた。症状は、「歩くだけでも違和感があり痛みが生じる」から、「椅子に坐り続けるときや、椅子から立ち上がるときに痛みがあり、また立ち上がるときに直ぐに腰が伸びてくれない」「前屈みになるときに痛む」「重量物(30kgぐらいの物)を足下より10cmでさえも持ち上げることができない」などと、その時々で様々である。

ところが、60歳に達したころよりここ数年間は腰痛が常態化しまい、毎朝起床時に症状は出現した。なかでも、靴下やズボンを穿く為に前傾姿勢をとったときには殊に僕を悩ませた。その症状より脱出したいと、「毎早朝30分以上に亘るストレッチを一年間継続」を実践したときもあった。また、「毎週一度以上、私市の森中を二時間近く駆ける」などもやってみたが、改善することはなかった。

今年の5月で長年従事して来た重量物を持つ仕事から離れ、それ以降はPC相手の机前の僅かな事務的な仕事のみとなり、酷くて辛い腰痛に陥ることは幸い無くなったが、それでも前記のような様々な腰痛は生じ続けた。

ところで、何ゆえ腰痛が消滅してしまったのかと考えるとき、「重量物を持ち上げることがない」「身体を動かすことがない」「ベッド上で横になっている時間が長い」などとその理由を掲げてみたが、不謹慎な話だが、「約20mも滑落したことで、我が腰に何らかの異変が生じたのだろうか」とも考えた。そんなことってあり得るのだろうか。もし今後腰痛から離れることができるのなら、ほんとうに嬉しい限りだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

処方薬(左顔、神経麻痺に効果は?)

2013年10月17日 | 健康・病気

P7150100

◆撮影:2013年9月16日、八ヶ岳山荘前付近にて

(白花オダマキ)

20131017日(木)

『処方薬』

<左顔、神経麻痺に効果は?>

自宅に戻って以降、薬の管理は上さんがやってくれているゆえ、呑んでいる薬が如何なる名称の薬なのか、また何を目的にその薬を呑んでいるのかなどを、僕はまったく理解していない。ところで、退院して自宅に戻って来て、地元の病院に通院し始めたころと比して、その量はかなり減少した。三重県立総合医療センターで頂戴した薬は暫く以前に無くなり、地元の病院で頂戴する薬の量も漸次減り、今昼呑んだのは、3錠のみとなった。

ところで、僕が管理している薬が一種類のみ存在する。それは、「センノサイド錠12mg」というもので、排便を助けてくれるという薬なのだが、これを就寝前に2錠服用する。104日から呑み始めて、5日、6日と呑み、7日なって便通があった。次に8日から毎日呑み続けて、次に便通があったのは13日、こんなものなのだろうか。「排便時、気張ったらあきません。耳に影響がありますから。」と医師が語りこの薬を処方してくださった。因みに事故後の9月中の排便は、20日と28日のみなのだが、事故以前までは毎朝、快食快便という状況だったゆえ、事故後、我が消化器官は如何なってしまっているのだろうか。

914日の滑落事故時、左顔面や左耳辺りを強打してしまった所為で、左耳中で骨折があり、また左顔に神経麻痺が生じてしまい、左目だけを閉じようとしても上手くいかない。また、食事時の咀嚼も儘ならないし、飲料をコップに口を付けて飲むことが難しくストローを使用している。今はその治療の為の薬が処方されているのだろうと思っているのだが、先日、「顔のリハビリを行なってください」と耳鼻科の先生は、マッサージの方法を身振り手振りで教えてくださった。

そして今日は一週間振りの耳鼻科における診察。医療機器による前回同様の耳や顔、舌などの検査を行なったのだが、優しくて明確に答弁してくださる信頼感溢れる井野医師から「耳は血が流れている」「左顔神経の反応が右側と比して鈍い」「しかし、自然治癒すると思います」などの、嬉しい言葉を頂戴し、次回の診察は二週間後の1031日と決まった。

ところで、一週間前に行なった脳外科でのMRI検査の結果報告が昨日あって、事故直後にあった脳内出血は自然治癒しているらしく「異常無し」というこれまた嬉しい言葉を医師より頂戴した。左後頭部に腫れがあり痛みが僅かに残っているが、これは時間の経過の中で治ってゆくのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶の消滅(何ゆえ生じるのか?)

2013年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

P7130013

◆撮影:2013年7月13日、八ヶ岳(大同心稜)にて

(ハクサンシャクナゲ)

20131016日(水) 

『記憶の消滅』

<何ゆえ生じるのか?>

昨夕食時、上さんと話すなかで、新事実が判明した。それは、僕が滑落事故を起こしたのが914日の夕刻。病院へ搬送されたのが15日未明であったのだが、その日の内に、僕がまだ救急病棟に居るときに、台風の影響で風雨が強まる中、大阪より車で上さんと次女が幼い孫二人を乗せて駆けつけてくれたというのだ。頭部や身体が動かないように固定されていたという僕は、「頭が痛い、お腹が痛い」などと唸り、二人や周囲の方々と話をしていたらしいのだが、その時の記憶が今、我が脳裏中にはまったく存在しない。次に二人がやって来たのは台風の影響が治まった二日後の18日だそうで、僕が一般病棟へと移動済みのときであったそうだ。その時に二人が現れたのは微かに覚えていて、僅かにしろ言葉を交わした筈なのだが、そのときの言葉も記憶に残っていない。二人が二度も四日市まで足を運んでくれたことを、昨日まで僕は理解していなかった。

併しだ、何れにしても、タンカーに乗せられて下山するときの微かな僅かな記憶を除くと、滑落事故前後の記憶も含めて、滑落後、ルンゼを自身の足で下降した記憶も、救急車で搬送され病院に到着した記憶、治療を受けた記憶も、我が脳裏にはまったく残っていない。それゆえ、様々な事柄が記憶から消滅してしまっているという事実は開違いがないことなのだが、しかしそういうことは如何なる時に生じるのだろうか。不思議だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滑落事故から丁度一ヶ月(山具の整理を行なう)

2013年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

P7140042

◆撮影:2013年7月14日、八ヶ岳(大同心取付)にて

(ハクサンイチゲ)

20131015日(火)

 

『滑落事故から丁度一ヶ月』

<山具の整理を行なう>

滑落事故から丁度一ヶ月が過ぎた今朝、部屋前に並べられていた御在所岳から持ち帰ってくれた山具の整理を行なった。ここ数日間の我が体調から、それが可能だろうと思ったゆえ行なうことにしたのだが、その間しっかりと立ち続けられたし、余り疲れなかったようにも思う。それらのなかで、滑落するときに身に着けていたサブザックには血液が明確に付着していたし、僕を下ろすために確保用に使ったロープにも付いているように思えたのだが、今の僕には洗濯する心身の余裕は無いに等しい。

昼食時、「こんなに見えへんかったかなと思った」と上さんは言った。それは昨日次女に連れられてアルプラザに買物に行ったそうなのだが、眼にかかる霧が以前よりも濃くなったように感じたそうで、自身でも意外なほどに見えなかったらしい。そのような眼で、915日(或いは16日)に三重より持ち帰ってくれた僕が身に着けていたヘルメットや衣類を洗濯してくれていたのだが、「カッパやヘルメットには血がいっぱい付いていた」と上さんは言った。「血の色は判るの」と僕が尋ねると、「血の色は判らへんけど、洗っても洗っても、別の色が滲み出て来るのが判った。」と上さんは返した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする