きままに・・ 風便り

気の向くまま、足の向くままに日々を綴ります。

三河 大給城址

2021年07月08日 22時40分10秒 | 城跡巡り
「 主郭の石塁 」

7月4日(日曜日)
☆ 大給(おぎゅう)城址について
徳川家のルーツである松平郷と共に愛知県高原国定公園に指定されています。
形態:標高240mに建つ大給松平家の山城。
城主:第一代城主、松平乗元。
築城:1510年 松平家第二代城主の松平典正が城の大修復を成す。
廃城:1590年 徳川家康の関東への国替えに伴って、大給松平家は群馬県へ移る。
遺構:堀切・虎口・土塁・石塁・帯曲輪曲輪・水の手曲輪(ダム)。


↑ 登城口


↑ 坂道


↑ 更なる案内看板
登城口から山道を進むとT字路に突き当たります。
左手に進むと城址へ、右手へ進むと初代松平乗元の墓所。


↑ 大給城 縄張り図(赤い点線は今日の足跡です)
黄色〇と青〇は未踏の地であります。

1:主郭  2:二の曲輪  3:屋敷跡
A:堀切
C:虎口・・・・玄関
F:物見岩・・・眼下に九久平、中景は豊田市街地、遠景は尾張の国と鈴鹿山脈が見える。
D:水の手曲輪・貯水池またはダム。
E:水の手曲輪・貯水池またはダム。(現在は進入禁止域)


↑ 松平氏遺跡の石碑と堀切(A)
ここから城内へ入っていきます。(縄張り図の「現在地」)


↑ 虎口 Ⅽ
自然の巨石と手積みの石を組み合わせて造っています。


↑ 二の曲輪(2)


↑ 櫓台の石垣


↑ 城郭から二の曲輪に届く石垣


↑ 城郭を護る石塁
石垣と言えるほどの頑強さはないけど、現代にまで手付かずで残っています。


↑ 城郭(1)
背伸びして石塁越しに平らな城郭内を覗き見しました。


↑ 城郭への入り口


↑ 石塁
城郭に入り石塁を眺めました。
城郭内の石塁は大半が崩れ落ち、土が剥き出しになり苔類がはびこっています。
これを見ると、まず土塁を作り、それに石を積み重ねて造ってあるようです。


↑ 城址の石碑


☆ 休 憩
城郭の西の端に東屋が建っています。
  
ベンチに座り休憩しました。
お弁当はとうもろこしご飯と作り置きの総菜。


↑ 物見岩からの一枚

薄暗い山道を歩いて来てますので、物見岩からの開けた明るい眺望にビックリします。
深呼吸して、、、しばしのまったりタイム^^。
遺構の他に、こんな景色が待っているのなら登りがいのある城址です。


↑ 物見岩(F)
大きいでしょ~~~ 
測量していないので、ただ大きいとしか言えません。すみません~
お近くにお住まいで実感したいかたは、どうぞ登城してみてください^^。
花崗岩だと思います。

さて、山頂まで登り切りましたから、あとは下るだけです。
上りと別ルートで下りました。

野の花など見ながら歩いていると、遠目に何か、自然のものではない工作物が見えました。
戦国時代の遺構なのに、きちんと整備された設備らしきものです。
興味津々で近づいてみると「水の手曲輪」と看板がありました。


↑ 水の手曲輪(D)

帰宅してWeb検索してみると、現代のダムのようなものだと分かりました。
これも凄い遺構だなと思います、興奮しますね~^^。
縄張り図のDとEは2つで一つの遺構なのですが、Eは進入禁止域。

Eをあきらめ、水の手曲輪を左手に見て、先きに進みますが、先きへ行く道が見当たりなくなりました。
キョロキョロ周りを見渡してみると、、、
在りました~、、、崖の縁に細い獣道のような下り坂。


↑ Dからの細い通り道
下りてから振り返ると、わずかな石塁が確認できました。 
残骸のようなものでも当時に思いを馳せてしまいます。


↑ 城址の東の端の道
濡れた枯れ葉が敷き詰められた道です。


↑ 登城口の虎口の巨岩
途中から道なき道を歩いていましたので、現在地が分かりほっと安堵しました。
城址の入り口に戻り、その後はゆっくり下山。
久しぶりに城址巡りを堪能できました^^。

※ 反省点
勉強が足らず館跡(3)を確認できませんでした。

☆ 三河 大給城跡 植物編に続きます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八幡宮の蓮 | トップ | 三河 大給城址 植物編 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

城跡巡り」カテゴリの最新記事