元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

ドン ベントレー「シリア・サンクション」

2024-05-19 06:08:51 | 読書感想文

 原題は“WITHOUT SANCTION”。本国アメリカでの出版は2020年で、日本翻訳版が刊行されたのが2021年だ。題名通り舞台はシリアで、元米陸軍レンジャー部隊の主人公の活躍を追うスパイ・アクションである。文庫本版で約560ページもある長尺ながらスラスラと読めたが、中身はやや大味。とはいえ著者にとってはこれがデビュー作であり、何より現時点でまた緊張の度を増してきた中東情勢をネタにした小説なので、読んで損はしないと思う。

 内戦下のシリアで極秘任務に当たっていたCIAのチームがテロリストの新型化学兵器の攻撃に遭い、多大な被害を受ける。そしてあろうことか、その兵器を開発した科学者が米国に接触してきた。何でも、アメリカ側のエージェントが現地に捕らわれているらしい。事態の収拾のため国防情報局のマット・ドレイクは、シリアに潜入して武装勢力とのバトルを繰り広げる。一方、ホワイトハウスでは大統領選を間近に控え、首席補佐官とCIA長官との鍔迫り合いが展開されていた。

 死と隣り合わせのミッションに過去何度も挑み、そのため心身共に満身創痍になった主人公が、それでも国と名誉のために戦いに挑むという設定は、常道ながら納得出来るものだ。また、マットの妻や親友との関係性もよく練られている。敵は一枚岩ではなく、ISはもちろんロシア軍も主人公たちの前に立ちはだかる。さらに正体不明の“死の商人”みたいなのも登場し、ストーリーは賑々しく進んでゆく。

 また、首都ワシントンでの勢力争いを平行して描いているのも面白く、いかに国際情勢が自由や平和などの御題目ではなく、欲得ずくの思惑で進んでいくのかをあからさまに見せる。何より現職大統領がラテン系だというのが興味深く、この点は現実をリードしていると言って良いだろう。

 だが、マットの任務後の様相こそ具体的に描写はされているが、その他のキャラクターの去就はハッキリしない。おかげで大雑把な印象を受けてしまったが、本書はシリーズ第一作であり、それらは次作以降に語られていくのだろう。

 作者のベントレーは陸軍のヘリコプターのパイロットとして約10年の経験を積み、アフガニスタンにも派遣されて手柄を立てている。退役後はFBI特別捜査官として対外情報収集と防諜に従事し、SWATチームにも加わったことがあるという、かなりの経歴の持ち主だ。こういう人材が小説を書いているのだから、読み応えがあるのは当然か。機会があれば別の作品も目を通してみたい。
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「ゴッドランド GODLAND」

2024-05-18 06:08:12 | 映画の感想(か行)
 (原題:VANSKABTE LAND)映像の喚起力は素晴らしいものがあるが、肝心の映画の中身は密度が低い。物語の設定自体に無理があるし、加えて主人公の造型が説得力を欠く。撮影には2年が費やされ、たぶんそのプロセスも困難を極めたと思われるが、製作時の苦労の度合いは作品の出来に直接影響しないという定説を再確認することになった。

 19世紀後半のアイスランドに、デンマーク国教会の命を受けて布教の旅に赴いた若い牧師ルーカスは、現地の過酷な自然環境と通じない言語、そして慣れない異文化に直面して疲労困憊する。ようやく目的地の村に到着するものの、住民との確執を克服出来る見通しも立たない。やがて彼は、捨て鉢な行動に出る。



 当初、国教会の指令はアイスランドでキリスト教(ルター派)の布教を進め、それを踏まえて年内に教会を建てろというものだったはずだ。ところが、すでに彼の地では教会は建設中であり、ルーカスはその“開館時の担当者”として行っただけなのである。まったくもってこれは、単なる茶番ではないか。

 また、村の者からは“船で来た方がもっと行程は短くて楽だったはず”と言われてしまう。つまりルーカスは早くて安全なルートをあえて拒否して、わざわざ危険な道を選んだのである。しかも、無理に行程を急いだ挙げ句に通訳を事故死させてしまう。そのおかげで彼は難儀するのだが、かくもバカバカしい筋書きには呆れるしかない。

 村に着いてからのルーカスの奇行と住民たちとの軋轢に関しても、観ている側との心情的な接点が存在せず、どうでもいい感想しか持てない。監督のフリーヌル・パルマソンは脚本も担当しているが、その出来映えをチェックするスタッフはいなかったのだろうか。

 とはいえ、マリア・フォン・ハウスボルフのカメラがとらえたアイスランドの大自然は圧巻だ。絶景に次ぐ絶景で、これが果たして地球上の風景なのだろうかと驚くしかない。四隅が丸い変型のスタンダードサイズの画面も効果的だ。しかし、それしか売り物が無いのならば自然の風景のみを紹介したドキュメンタリーでも良かったわけで、ヘタなドラマをそれに載せる必然性など見出せない。

 主演のエリオット・クロセット・ホーブをはじめ、イングバール・E・シーグルズソン、ヴィクトリア・カルメン・ソンネ、ヤコブ・ローマンなどのキャストは熱演だが、その健闘が報われたとは言い難い。なお、似たような設定のドラマとして、私はローランド・ジョフィ監督の「ミッション」(86年)を思い出した。あれも作劇には幾分無理はあったが、全編を覆う強烈な求心力に感じ入ったものだ。もっとも、あれはカトリックの伝道師の話だったので、プロテスタントの聖職者を主人公とした本作とは勝手が違うのかもしれない。
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「CODE8 コード・エイト」

2024-05-17 06:08:01 | 映画の感想(英数)
 (原題:CODE 8)2019年カナダ作品。日本では劇場公開されておらず、私はネット配信にて鑑賞した。取り立てて出来の良い映画では無いが、硬派なテイストが適宜挿入されていることもあり、あまり退屈せずに最後まで付き合えるSFスリラーだ。もちろん、映画館でカネ払って観たら不満が残ると思うが、テレビ画面では丁度良い。

 人口の約4%が何らかの超能力を持って生まれるようになった近未来世界。彼らは当初は効率の良い労働力として持て囃されたが、機械化・システム化が進んだことにより実業界では不要の存在になっていった。それどころか差別や迫害を受け、犯罪に走る者も少なくない。しかも、超能力者の髄液から抽出される強力な麻薬が高値で取引され、警察は厳しい取り締まりを断行する。そんな中、超能力を持つコナー・リードは、難病を患う母親の治療費を稼ぐため、違法薬物の売買を営むギャレットの一味に参加して犯罪に手を染めることになる。



 社会から邪魔者扱いされた超能力者たちが違法行為をやらかすというネタは、大して新味は無い。舞台になる都市(ロケ地はトロント)が殺伐とした抑圧的な造型を伴っているのも、まあ想定の範囲内だ。しかし、LGBTQなどのマイノリティの権利がクローズアップされる現時点で接すると、けっこう緊迫感が嵩上げされる。

 また、各エスパーはそれぞれ能力が異なっており、ドラマ全体に意外性が醸し出される。警察サイドにも強硬派もいればリベラル派もいて、そのあたりの葛藤が紹介されるのも悪くない。モチーフとしては警察が装備している攻撃型ドローンと、アンドロイド型の実戦型マシンのエクステリアが面白く、市民生活の隣にこんなメカが跋扈している光景は興味を惹かれる。

 ジェフ・チャンの演出は特段才気走った点は無いが、安全運転に徹していてストーリーが停滞することは無い。主演のロビー・アメルは健闘しており、切迫した主人公の内面は過不足無く表現出来ていたと思う。スティーヴン・アメルにサン・カン、カリ・マチェット、グレッグ・ブリック、カイラ・ケイン、ピーター・アウターブリッジらその他のキャストにも演技に難のある者がいないのも気持ちが良い。なお、続編がNetflixから配信されており、近々チェックする予定である。
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「美と殺戮のすべて」

2024-05-13 06:07:07 | 映画の感想(は行)
 (原題:ALL THE BEAUTY AND THE BLOODSHED)強烈な印象を受けるドキュメンタリー映画だ。題材の深刻さといい、主人公役のキャラクターの破天荒さといい、問題提起の大きさといい、全てがA級仕様である。第79回ヴェネツィア国際映画祭で大賞を獲得しているが、有名アワードに輝いた作品が必ずしも良い映画とは限らないものの、この受賞は十分頷ける。個人的にも今年度のベストテン入りは確実だ。

 本作がクローズアップする人物は、首都ワシントン出身の写真家ナン・ゴールディンだ。彼女は最愛の姉が18歳で自死したのを切っ掛けに、フォトグラファーを志すようになる。テーマは自身のセクシュアリティをはじめ、家族や友人の切迫した状況、ジェンダーに関する問題など、かなり“攻めた”ものばかりだ。しかも、ドラッグの過剰摂取やHIVウイルスの感染などで、作品に登場するほとんどの被写体が世を去っているという。



 そんな彼女が、手術時にオピオイド系の鎮痛剤オキシコンチンを投与され、危うく命を落としそうになる。実はこの薬は中毒性があり、処方を間違えると重篤な事態に陥るのだ。ところがオキシコンチンを販売するパーデュー・ファーマ社は、この薬を野放図にばら撒いて被害を大きくしている。彼女は2017年にこの問題の支援団体P.A.I.Nを創設し、パーデュー・ファーマ社とそのオーナーである大富豪サックラー家の責任を追及する。

 私は不勉強にも、かくも重大な薬害が起こっていることを知らなかった。そしてもちろんP.A.I.Nの存在も心当たりは無い。だが、パーデュー・ファーマ社の所業がいかに悪質なものかを本作は鮮明に描き出し、映画本来の社会的役割という側面を強調する。さらに、この会社が芸術界に多額の寄付をしているという、偽善的な行為も糾弾する。ゴールディンはアートに携わる者として、サックラー家との全面対決に身を投じるのだ。

 芸術家として血を吐くような苦悩に苛まれ、家族や友人を失い、その結果先鋭的な作品に結実させるゴールディンと、儲け主義の権化みたいなパーデュー・ファーマ社との対比は、悲痛な現実の暴露と共に、目を見張るような高揚感を観る者にもたらす。そして、芸術の何たるかを端的に見せつけられた衝撃を受けるのである。

 ローラ・ポイトラスの演出は力強く、対象から一時たりとも目を離さない。今後もその仕事を追ってみたくなる人材だ。なお、この薬害事件の犠牲者は全米で50万人を数えるという。それにも関わらず、サックラー家は勝手に会社を解散させて責任の回避に余念が無い。この世界にはかくも不条理な事柄が頻発しているが、それを真正面から捉える映画作家の存在は、観る者の意識をこれからも少しずつシフトアップさせ続けるのだろう。
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「地獄門」

2024-05-12 06:07:15 | 映画の感想(さ行)

 1953年作品。大映の第一回カラー映画で、第7回カンヌ国際映画祭では大賞を獲得している。今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。映像の喚起力はかなりのもので、この時代にこれだけのものを撮り上げたスタッフの力量には感嘆するしかない。ただし、内容は現時点で接してもアピールできるかどうかは意見の分かれるところだろう。

 平安時代末期に勃発した平治の乱において、焼討をうけた御所から上皇と御妹上西門院を救うため、警備役の平康忠は身替りを立てて敵を欺こうとする。上西門院の身替りになった袈裟の牛車を守るのは、豪腕として知られた遠藤盛遠だった。彼は大挙して襲ってくる二条親政派の者たちを撃退して彼女を彼の兄盛忠の家に届けたが、あろうことか袈裟に一目惚れしてしまう。しかし彼女は御所の侍である渡辺渡の妻だった。それでも諦めきれない盛遠は、しつこく袈裟を付け回す。菊池小説「袈裟の良人」の映画化だ。

 盛遠の言動は、たちの悪いストーカーそのものだ。普通ならば、旦那の渡か盛遠の“上司”である平清盛に申告して、盛遠を処断してもらうのが常道だろう。ところが袈裟は、事を荒立てるのを潔しとせず、自身でケリを付けようとする。これを“袈裟の貞淑さが泣かせる”とばかりに認めれば本作は評価出来るだろうし、製作当時はそれが通用していたのだろう。だが、今観るとやっぱり違和感を覚える。さらに、ラストの処理も綺麗事に過ぎると思う。

 とはいえ、和田三造による衣装デザインをはじめとする美術は素晴らしく、これを見届けるだけでも鑑賞する価値がある。また、名匠として知られた衣笠貞之助の演出は骨太で、一時たりともドラマが停滞しない。アクションシーンは圧倒的で、後年「眠狂四郎シリーズ」を手掛ける三隅研次が助監督として参画しているのも大きいだろう。杉山公平のカメラによる流麗な映像も言うことなし。

 主役の長谷川一夫は悪役を楽しそうに演じ、山形勲に黒川弥太郎、田崎潤、千田是也、石黒達也、植村謙二郎、殿山泰司などの顔ぶれも確かなものだ。そして袈裟に扮する京マチ子の魅力はただ事ではない。盛遠ならずとも、ゾッコンになってしまうだろう(笑)。

 名物プロデューサーだった永田雅一のワンマン体制で作られたシャシンらしいが、こういう独走ぷりを見せる製作者は毀誉褒貶はあるにせよ、映画界を活性化させるものなのだろう。ひるがえって現在はそんな人材が見当たらないのは、ある意味残念だと思う。
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「プリシラ」

2024-05-11 06:08:17 | 映画の感想(は行)
 (原題:PRISCILLA )これは酷い。まったく、何も描けていないのだ。脚本も担当した監督のソフィア・コッポラには元々才能に乏しいと私は思っており、映画を撮り続けていられるのは親の七光り以外の何物でもないと踏んでいたが、今回はいつにも増してその素地の無さを見せつける結果になった。一部では賞賛する声はあるものの、少なくとも個人的には存在価値を微塵も見出せない映画だ。

 1959年、父親の仕事の関係で西ドイツの中西部ヘッセン州に住んでいた14歳のプリシラは、そこで兵役中のエルヴィス・プレスリーとパーティー会場で出会い、恋に落ちる。やがて彼女は両親の反対を押し切って退役後に帰国したエルヴィスと一緒に暮らすようになり、1967年に結婚。彼女はこれまで経験したことのない魅惑的な世界に足を踏み入れて、しばらくは夢のような生活を送るが、いつしか夫との仲が上手くいかなくなり、1973年には別れてしまう。



 若くして世を去り、すでに“伝説”になっているエルヴィスに対し、プリシラは現時点で健在だ。本作も彼女が85年に出版した自伝「私のエルヴィス」を元にしている。だから映画としてはプリシラの側から描くしかないのだが、本人が生存している手前、突っ込んだ描写は憚られる。加えて監督の腕前が推して知るべしなので、極めて微温的で薄っぺらい展開に終始しているのも仕方がない。

 十代前半にして思いがけずスーパースターと知り合ってしまったヒロインの戸惑いや苦悩、そしてそれらを上回るほどの胸のときめきなどは、全然深く描かれていない。エルヴィスや周りのスタッフに良いようにあしらわれ、まるで着せ替え人形のような存在になるプリシラだが、それに対する屈託や反感もスクリーンの中からはあまり窺えない。こんな状態で終盤に夫と離婚しても、観ている側としては“だから何?”としか言いようがないのだ。

 映像は美しくもなく、思い切った仕掛けも無し。時代背景も十分に描けていない。特に、音楽界の大物としてのキャラクターが脇に控えていながら、エルヴィスの楽曲が一向に流れてこないのには参った。これでは、ヒロインが一体彼のどこに惚れたのか分からないではないか。しかも、エルヴィスのナンバーだけではなく時代を彩るヒット曲の数々も紹介されていない。

 主演のケイリー・スピーニーは十代を演じる時点では可愛さが際立つが、後半は精彩を欠く。第一、あまりにも小柄過ぎないか(身長は155センチとのこと)。実在のプリシラ本人も決して長身ではないが、スピーニーよりも背が高い。エルヴィス役のジェイコブ・エロルディにはカリスマ性は見当たらず、ダグマーラ・ドミンスクにアリ・コーエン、ティム・ポストといった脇のキャストにも目立つ面子はいない。正直、さっぱり盛り上がらないまま2時間弱を過ごしてしまった感じだ。
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Jリーグの試合に足を運んでみた。

2024-05-10 06:07:23 | その他
 去る5月6日(月)に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(ベスト電器スタジアム)にて、ほぼ一年ぶりにサッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡と川崎フロンターレである。

 当日は午後から雨模様になるとの予報だったが、実際には時折小雨がぱらつく程度だったのでホッとした。とはいえ、蒸し暑さを感じたと思ったら突然冷たい風が吹き渡ったりと、天候は安定しない。油断していると風邪を引いてしまいそうな状況だったが、それを忘れさせてくれそうな試合内容だった。



 序盤こそアビスパが押し気味だったが、すぐにフロンターレが攻め込む展開が連続する。何とか前半は凌いだが、後半が始まってもビリッとせず30分を過ぎたあたりで失点してしまう。このままズルズルと試合終了までいくのかと思っていたら、後半40分に何とか同点に追いつくことが出来た。そこからの試合は白熱して一進一退の攻防が続き、結果として同点のまま試合終了となった。

 フロンターレは今期は下位に低迷しているとはいえ、本来は過去4回の優勝を誇る強豪だ。アビスパが負けなかっただけでも有り難いと思う。そして驚いたのは、途中出場した今期からの新戦力シャハブ・ザヘディの身体能力だ。とにかく強力なフィジカルで、見ているだけで楽しい。今後の活躍を期待したいものだ。



 それにしても、このスタジアムのロケーションは不便である。都心から離れていて“気軽に足を運ぶ”ということが出来ない。それでも以前は遠距離をものともせずに観戦に出掛けていたものだが、最近はトシのせいか億劫になってきた。この点に限って言えば、最寄りの駅から近い競技場をフランチャイズにしているギラヴァンツ北九州やサガン鳥栖が実に羨ましい。
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「アイアンクロー」

2024-05-06 06:09:30 | 映画の感想(あ行)
 (原題:THE IRON CLAW )本作を観て、評論家の下重暁子による著書「家族という病」を思い出した。断っておくが、私はこの本を読んでいない。どういう中身であるのか、ネット上に紹介されているアウトラインしか知らない。だが、このタイトルが妙に“刺さる”鑑賞後の感触ではある。ともあれスポーツを題材とした映画としては、かなりの異色作として記憶に残る内容だ。

 70年代までは強豪プロレスラーとして知られたフリッツ・フォン・エリックは、80年代になるとケヴィンとケリー、デイヴィッド、マイクら息子たちを跡継ぎとして育て上げようとしていた。父親の期待に応えて兄弟は次々とプロデビューするが、世界ヘビー級王座戦への指名を受けた三男のデイヴィッドが日本遠征中に急死したのを皮切りに、フォン・エリック家には次々と悲劇が降りかかる。そしていつしか、彼らは“呪われた一家”と呼ばれるようになっていく。



 私が子供の頃は、テレビのゴールデンタイムにプロレスの中継が放映されていた。そこでジャイアント馬場やアントニオ猪木らを苦しめていた外人レスラーの一人が、フリッツ・フォン・エリックだった。その必殺技“アイアンクロー”は見るからに相手にダメージを与えそうで、強烈な印象を受けたものだ。しかし、彼の家族が不幸に見舞われていたことは、この映画を観るまで知らなかった。

 フリッツは確かにカリスマ性を持ったレスラーだったが、何も息子たちに過度なスパルタ教育を施したわけではなく、理不尽な家庭内暴力が罷り通っていたわけでもない。単に父親が有名レスラーだったから、そんな父親の背中を見て育ったから、自分たちもレスラーになるのが当然だと思って精進していただけなのだ。

 そういう、既成事実化した家父長制の元では無意識的に不幸を呼び込むことがあるのだろう。もしも、フリッツが別の生き方を知っていたなら、そしてそれを息子たちに提示していたなら、事態は大きく変わっていたかもしれない。そういう“家族の肖像”を平易なタッチで描いたショーン・ダーキン(脚本も担当)の演出は、大いに納得出来るものがある。

 テキサスの田舎町にあるフォン・エリック家の佇まいは、素朴で野趣に富んではいるが、やはり一般世間からは隔絶した感がある。あえて35ミリフィルムで撮り上げた荒いタッチの映像(撮影監督はエルデーイ・マーチャーシュ)が抜群の効果だ。

 ケヴィン役のザック・エフロンの肉体改造ぶりには驚いた。ジェレミー・アレン・ホワイトにハリス・ディキンソン、スタンリー・シモンズら兄弟に扮した面々の偉丈夫にも感心した。フリッツを演じるホルト・マッキャラニー、実質的なヒロイン役のリリー・ジェームズもイイ味を出している。もちろん試合のシーンもよく練られていて、プロレス好きにもアピールできるだろう。
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「壁の向こうのあなた」

2024-05-05 06:08:23 | 映画の感想(か行)
 (原題:PARED CON PARED )2024年4月よりNetflixから配信された、スペイン製のラブコメ編。この手の映画にありがちの、有り得ない設定と現実離れした筋書きが横溢して、そのあたりは苦笑するしかないのだが、どうしても嫌いにはなれない作品だ。それは憎めないキャラクターばかりが出てくること、そして観る者の感情を逆撫でするような苦々しいモチーフが見当たらないことだ。ロマコメとしての立場をわきまえた上で、好感触に徹している。その割り切り方が良い。

 ピアニスト志望のヴァレンティナは、マドリードの下町でアパートを借りて練習に励みつつ、昼はカフェでバイトしながら生活費を工面していた。ところが隣の部屋にいたのが、ほぼ引きこもりの男性ゲームデザイナーのデイヴィッド。しかも、両者を隔てる壁は限りなく薄く、ゲーム用の効果音を作成するための爆音が遠慮会釈無くヴァレンティナの生活を圧迫する。何でもアパートの所有形式がイレギュラーで、2つの部屋は別物件扱いであるため改善工事は不可らしい。ヴァレンティナは閉口しながらも、壁越しにデイヴィッドと話し合いつつ、事態を打開しようとする。



 通常、困った隣人がいたならば直接談判するか不動産屋に掛け合うのが筋なのだが、何かと理由を並べてこの2人が顔を合わせることは無い。また、デイヴィッドが意外と良い奴だと知った彼女が、別の男を彼だと勘違いして仲良くなろうとしたりと、随分と無理な展開が目に付く。しかしながら、この2人はとことん人生に前向きで、彼らを取り巻く面子もナイスなキャラクターばかりだ。

 ヴァレンティナの従姉のカルメンや、カフェの店長シーバス、果ては元カレのオスカーでさえヒロインをサポートする。デイヴィッドにもナチョという頼りになる友人がいて、何かと気に掛けてくれる。それらがまったくワザとらしくなく配置されているので、観ていて気分が良い。物語の最後は、まあ収まるところに収まるのだが、監督のパトリシア・フォントの腕前は手堅く、無理なく話をまとめている。

 ヴァレンティナに扮するアイタナ・オカーニャは人気歌手らしいが、ピアノの腕前はともかく(笑)、終盤に披露する歌声には聴き入ってしまった。とびきりの美人ではないものの、表情が豊かでチャーミングだ。デイヴィッド役のフェルナンド・ワヤールも絵に描いたような好漢。この2人ならば恋仲になってもおかしくないと思わせる。ナタリア・ロドリゲスにアダム・イェジェルスキ、パコ・トウス、ミゲル・アンヘル・ムニョスといった脇のキャストも万全だ。マドリードの明るくカラフルな町並みをとらえた映像も、観ていて楽しい。
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「稲妻」

2024-05-04 06:07:26 | 映画の感想(あ行)
 1952年大映作品。往年の名監督、成瀬巳喜男の代表作と呼ばれている映画だが、今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。登場人物たちの設定は随分と無理筋だとは思うものの、この時代ならあり得そうだし、タイトルの“稲妻”が鳴り響くタイミングも秀逸。異色のホームドラマとして記憶に残る作品だ。

 はとバスのガイドをしている小森清子には光子と縫子という二人の姉、そして兄の嘉助がいるが、実はそれぞれ父親が違う。姉たちは結婚しており、清子は独身。嘉助は甲斐性無しのプータローだ。縫子が清子に両国のパン屋の綱吉との縁談を持って来るが、それは遣り手の綱吉の財力をアテにした政略結婚みたいなもので、清子は話に乗る気はまったく無い。さらに光子の夫の呂平が急死し、その後に呂平には妾のリツと子供が残されていたことが分かる。いよいよ嫌気がさした清子は、家を出る決心をする。林芙美子の同名小説の映画化だ。



 昭和初期には(戦役などで)相方に次々と先立たれて再婚を重ねた結果、父親の違う子供を複数持つことになった女性がけっこういたことは想像に難くない。だからこの映画の御膳立ても違和感は少ないと言える。それよりも、複雑な家庭の事情にもめげずに自分たちで人生を切り開こうとした姉妹たちのバイタリティを賞賛すべきであろう。

 そんな状況にあって“自分だけは違う!”とばかりに独り暮らしを始めた清子は、隣家に住む垢抜けた兄妹に憧れるものの、波瀾万丈の人生を送った母親の影響から逃れることが出来ず、改めて自身の生き方を問い直す。その筋書きには無理はなく観る者の共感を呼ぶ。成瀬の演出は達者なもので、登場人物たちの微妙な屈託を巧みに掬い上げる。

 清子役の高峰秀子の魅力は圧倒的で、彼女一人でこの混迷した世の中を引き受けてしまうようなスケールの大きさを感じさせる。母親役の浦辺粂子の存在感も特筆もの。他にも三浦光子に村田知栄子、丸山修、小沢栄太郎、根上淳、香川京子などの手練れが顔を揃える。峰重義のカメラがとらえた高度成長時代前夜の東京の風景は、ゴミゴミとしていながらノスタルジアに溢れていて、(私が生まれるずっと前の話ながら)観るほどに心にしみてくる。
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