つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

想い出の写真「島田正吾氏」

2024年06月10日 | 芸能

 島田正吾氏との想い出の写真

 新国劇の座長を長い間務めていた島田正吾氏。
 昭和62年9月に70年の歴史のある新国劇の看板を下ろした後も、一人芝居に出演をしておりました。

 当時、毎年5月29日、30日の二日間、新橋演舞場で上演される島田正吾一人芝居には、演劇、芸能関係者も多く来場しており、チケットが取れないとの現象も起こした名物公演でした。

 島田正吾氏は98歳で亡くなりましたが、その3年前には「95歳の誕生会」が開催され参加しました。日本演劇界で最高齢となる誕生会には緒形拳夫妻や芸能関係者も多く出席されていました。

 重鎮の俳優として存在感のある島田正吾氏は、スピーチの内容も素晴らしいものであり、貫禄に満ち溢れておりました。
 とても素晴らしい誕生会に参加できたことを喜んでおります。

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活弁付き映画

2024年06月03日 | 芸能
 活動写真弁士は最盛期には8000人もいたそうです。活動写真すなわち無声映画を上映中に、傍らで その内容を解説する専任の解説者のことです。映画がトーキーの時代になると活動写真弁士は仕事場が無くなり減少していきました。

 その活動写真弁士による上映会が池袋の新文芸坐で開催されていましたので鑑賞にいきました。名匠稲垣浩、再発見「映画界に入って100年」の特別企画です。長谷川伸原作 稲垣浩監督「番場の忠太郎・瞼の母」(1931年)片岡千恵蔵主演。

 活動弁士は、澤登翠さんです。弁士の第一人者として国内外の公演を通して幅広い世代に活弁の魅力を伝えています。1972年松田春翠氏に入門しここまで50年の実績があります。

 映像に合わせて台詞を入れていきます。出演者に合わせて声を変えています。スクリーンに映っている俳優が話しているように錯覚をしてしまう。自然と映画に見入ってしまうほど巧みな弁士の解説でした。

 観客は年配者が多くおりましたが、若い人も来場しておりました。終演後には会場からは割れんばかりの大きな拍手が弁士に贈られていました。

 活動弁士 澤登 翠(さわと みどり)プロフィール
 東京都出身 法政大学文学部哲学科卒業。故松田春翠門下。
 第一線で活躍する弁士として国内はもとよりフランス、アメリカ他の海外公演を通じて、“弁士”の存在をアピールし高い評価を得ています。「伝統話芸・活弁」の継承者として“活弁”を現代のエンターティメントとして甦らせ文化庁芸術祭優秀賞他数々の賞を受賞しています。

 適確な作品解釈による多彩な語り口でいままでに500本以上の様々なジャンルの無声映画の活弁を務めています。
 著書は『活動弁士 世界を駆ける』(1973年)

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懐かしの映画看板

2024年05月18日 | 芸能

 映画「キューポラのある街」

 青梅には懐かしい映画文化が残っております。それが映画看板です。昔の映画館は映画のタイトルに合わせた看板を手書きで描いており掲げておりました。

 吉永小百合の「キューポロのある街」、嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、月形龍之介の「水戸黄門」、片岡千恵蔵の「大菩薩峠」、三船敏郎の「用心棒」など往年のスターたち。

 その他にも「月光仮面」、「赤銅鈴之助」など子供のころに馴染みのあったもの。現代劇の「東京物語」、「新しき土」、「旅路」など・・・。映画ファンにとっては昔の映画を懐かしく思い出します。

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劇団ムジカフォンテミュージカルを観賞

2024年03月24日 | 芸能
 劇団ムジカフォンテ(知久晴美代表)による豊島区ミュージカルを観賞しました。会場はあうるすぽっとです。

 豊島区ミュージカルは、豊島区の歴史や文化の魅力を伝えています。今までに公演したものは、豊島区の花ソメイヨシノ、すすきみみずく、富士塚、谷端川、トキワ荘と雑司が谷隧道などをテーマにしたものがありました。

 今公演は、巣鴨プリズン~サンシャインシティで東池袋をテーマにした作品で「IKEBUKURO EASTSIDE STORY」です。

 二部構成となっていて、第1部は戦中・戦後の東池袋物語(根津山、空襲、巣鴨プリズン)。第2部はサンシャインシティ、イケサンパーク、キッズパーク、水族館、プラネタリウム、南池袋公園などを歌と踊りでつないでゆくレビューであり、華やかなミュージカルが披露されました。

 会場のロビーでは、根津山と巣鴨プリズンの歴史パネルや東池袋案内、そして毎公演に観覧に来ていた高野之夫前豊島区長の絵画作品集などの展示もありました。

 ミュージカルのラストは(第九交響曲「合唱」)を出演者全員で披露されていて、来場者を魅了しておりました。
 いつもながら劇団ムジカフォンテの豊島区ミュージカルの素晴らしさに賛辞を送ります。


根津山と巣鴨プリズンの歴史を展示


高野之夫前豊島区長の絵画作品の手はがき
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思い出の写真「緒形拳氏」

2024年03月21日 | 芸能

 竹早高校の先輩「緒形拳氏」

 緒形拳氏は、東京都立竹早高校では私の七年先輩にあたる方です。国語の時間に国広教諭から緒形拳氏についてのエピソードをたくさん聞いておりました。秋の文化祭を迎えるころになると授業を抜け出して出演する演劇の稽古に熱中していた。


 憧れの新国劇に入団するとNHKの大河ドラマの「太閤記」の主演に抜擢されて名声を得るとともに人気俳優となった。国広教諭の話に影響されて緒形拳先輩の所属する新国劇をよく観劇するようになりました。

 劇団若獅子(新国劇の継承劇団)の「国定忠治」公演に客演として出演をしていた緒形拳先輩に打ち上げパーティーで一緒になったときに、「緒形拳先輩、母校である竹早高校同窓会(篁会)の会長になってくれませんか?」と話をすると、緒形拳先輩はにっこりと笑いながら「俳優を引退した時に考えてみるか」との回答でした。


 後からよく考えてみると俳優には引退はなく、緒形拳先輩も最後まで映画やドラマに出演をしていて亡くなってしまいました。相手を気遣う見事な返事であったことを後から認識しました。
 

 緒形拳氏は、日本の男優の中では5本の指に数え上げられる名優であると思っております。(2000.11.25)



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映画「シェアの法則」

2024年01月18日 | 芸能
 映画「シェアの法則」(久方真路監督)を観賞しました。終演後、ロビーでは映画の作者であります岩瀬顕子さんがおり、観客と懇談しながら質問に応えておりました。

 映画のロケ―ションは、豊島区の雑司が谷近辺が多く出てきました。鬼子母神、雑司が谷ケヤキ並木、大鳥神社、都電と高層マンション、豊島区役所、雑司が谷公園など日頃散歩をしているところなので親近感を感じて観ていました。

 小野武彦が初の主演を務めた作品。共演者は宮崎美子、貫地谷かおり、浅香航大、鷲尾真知子ら。

 ストーリーは、自宅を改装してシェアハウスをスタートする春山夫妻。年齢も職業も国籍もバラバラで個性的な住人たちは共同生活を営んでいる。管理人を務める妻は不慮の事故に遭い入院する。夫が妻の代わりに管理人を務めることとなる。自分の価値観でのみ物事を判断し、誰とも打ち解けようとしない。さまざまな境遇の人たちとの交流から、少しずつ相手を思いやることを学んでいく。

 物語の中には小説家の名前や脚本家の存在が組み込まれていて不思議さを表出している。とても面白い作品でありました。

 この映画は、豊島区も後援をしており、劇中に出てくる絵画は、前高野之夫豊島区長が描いたものでありました。
 

「シェアの法則」主演の小野武彦


「シェアの法則」のスチール写真


鬼子母神参道ケヤキ並木


鬼子母神境内
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小林一三生誕150年展

2023年11月06日 | 芸能
 小林一三生誕150年展が日比谷シャンテで開催されていました。

 小林一三は宝塚歌劇と東宝を創った男として名を残しています。
 朗らかな日本社会を作り出そうとした。阪急阪神東宝グループの創業者の東京での活躍を紹介したイベントです。

 宝塚歌劇を創り今年で110年となります。
 東京では、東京宝塚や東宝映画、新宿コマ劇場、日本劇場(現有楽町マリオン)などを創設して発展に貢献をしました。東宝映画では、「ゴジラ」を発表して大きな反響を得て続編が次々と上映をされました。当時のポスターが飾ってありました。

 また政界では、昭和20年に戦災復興国務大臣という要職を担当しておりました。小林一三語録も「朗らかに、清く 正しく 美しく」をはじめ5つほど掲示されていました。

 
 宝塚歌劇は、110年目を迎えました。
 
 
 戦災復興国務大臣を拝命される
 

映画「ゴジラ」のポスター。
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ことのは縁日ライブ

2023年10月09日 | 芸能
 「ことのは縁日エリア」が豊島区民センター8階多目的ホールで開催されていましたので観覧してきました。

 このイベントは、ことのは殺陣道場の指導者であります宗像拓郎先生が主催したものです。

 劇団ムジカフォンテ(知久晴美代表)の劇団による踊りと歌の披露に続いて、宗像先生に指導を受けていた殺陣の発表もありました。

 ことのは殺陣道場生による殺陣の演武は迫力がありました。基本の型から初めて、殺陣を組み入れた芝居も演じてくれました。流石に上手い剣さばきでした。如何に相手をきれいに切るか、また切られる方は如何にうまく倒れるかにより見せ場を高揚させます。

 津軽三味線は、澤田一咲さんとそのお弟子さんによる合奏です。津軽三味線の歴史と意義について説明があり、お馴染みの「津軽じょんがら節」からスタートしました。次には唄入りの「東京音頭」や津軽三味線のお馴染みの演奏が続きました。

 やはり目の前でライブ鑑賞をすることは、親近感も持てます。自分の出来ない芸事はなるべく見て楽しむようにしております。


劇団ムジカフォンテの殺陣発表


ことのは殺陣道場生の演技


切られるところの殺陣演技


澤田一咲さんによる津軽三味線
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新国劇の想い出 辰巳柳太郎氏のこと

2023年09月24日 | 芸能

 辰巳柳太郎さんの死去報道記事

◎辰巳柳太郎氏について
 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら、1926年(大正15年)に旅回りの一座に入り長野で初舞台を経験する。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団、東伍作の名で舞台に立つ。

 その後、新国劇の沢田正二郎の魅力に引かれ1927年(昭和2年)、道頓堀の浪花座で公演中の沢田を楽屋に訪ね弟子入りを直談判し新国劇への入団を許される。新国劇での初舞台では『国定忠治』の駕篭かき役を演じた。

 
 芸名を「辰巳柳太郎」と改める。芸名は師匠の沢田が辰年、柳太郎が巳年生まれだったことに由来する。1929年(昭和4年)、沢田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田正吾とともに沢田の後継者に大抜擢される。抜擢の理由は沈着冷静な島田と明るく奔放な柳太郎を合わせると沢田の芸風に似たものが出来るだろうという考えからであった。

 その後『大菩薩峠』の「机龍之介」や『宮本武蔵』、『無法松の一生』、『王将』の「坂田三吉」などの主人公を豪放磊落に演じきり島田正吾と共に二本柱として新国劇を支える。

 戦後になると映画界に進出し1949年(昭和24年)に『どぶろくの辰』で初出演、以降は映画でも島田とたびたび共演したのをはじめ1954年(昭和29年)には日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約、映画界においても「辰巳・島田ブーム」が巻き起こした。

 しかし大衆演劇の衰退と共に新国劇の観客数は減少、1987年(昭和62年)、70周年記念公演終了後、新国劇は解散することになる。解散の2年後、1989年(平成元年)に辰巳は世を去った。

 弟子に大友柳太朗、緒形拳、笠原章らがいる。


島田正吾・辰巳柳太郎の手形顕彰

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新国劇の想い出 島田正吾ひとり芝居

2023年09月23日 | 芸能
 島田正吾ひとり芝居の案内パンフレット

 島田正吾氏は、新国劇を解散した後は、芝居に、テレビに出演をしていた。

 晩年は、自分本来のできるものとして新国劇の財産演目を採り出してひとり芝居を演じていました。

 ひとり芝居「白野弁十郎」を演じたことが基礎となっている。
 この島田正吾の「白野弁十郎」は、早稲田大学の大隈講堂、池袋芸術劇場、新橋演舞場、そしてテレビ放映で何回も観劇した。

 その後、島田正吾氏は新橋演舞場で毎年演目を変えて5月29日と30日の二日間ひとり芝居を公演してきました。
 このチケットは貴重であり、芸能関係者でもなかなか手に入れることは困難であると聞いていました。
 自分は運よく毎年チケットを手に入れてひとり芝居を観劇してきました。

 観劇者には、小渕恵三首相や美智子皇后陛下なども来場していた。
 演劇関係者や大俳優などの姿も多く見かけた。

 また、会場内からは往年の新国劇ファンが芝居のいいところで「島田!」「新国劇!」「大島田!」などの声掛けが出てくるから芝居はさらに盛り上がっていきます。

 島田正吾氏は、公演が終了すると舞台から観客へ感謝のスピーチをする。
 「私は99歳までひとり芝居を演じていく。100歳になったら新作に挑戦をしたい。いつまでも青年の志を持ち続けたい」と語ると会場内からは万雷の拍手が沸き起こっていました。

◆島田正吾ひとり芝居公演記録
平成3年「白野弁十郎」(85歳)からスタート。
平成4年「白野弁十郎」(86歳)
平成5年「人生劇場」(87歳)
平成6年「伊豆の夜叉王」(88歳)
平成6年「番場の忠太郎」(88歳)
平成7年「一本刀土俵入り」(89歳)
平成8年「殺陣師段平」(90歳)
平成9年「霧の音」(91歳)
平成10年「沓掛時次郎」(92歳)
平成11年「王将」(93歳)
平成12年「荒川の佐吉」(94歳)
平成13年「司法権」(95歳)
平成14年「夜もすがら検校」(96歳)

 96歳までひとり芝居を公演してきたことは凄いことです。


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妖怪魔混(まぜまぜ)大百科原画展

2023年09月22日 | 芸能
 女優の東ちづるさんが出版した「妖怪魔混大百科原画展」を観賞しました。

 会場は日比谷OKUROJI(奥路地)です。

 原画展には、東ちづるさんが在廊していて、希望者に妖怪に関する似顔絵を画いていました。出版本の空欄を利用して素早くしっかりと描いております。最後には自分のサインを記載しています。

 モデルとなった母親と赤ちゃんは、完成した作画と東ちづるさんをいれて一緒に記念写真を撮っていました。とても喜んでおりました。

 会場の壁面には、東ちづるさんが画いた妖怪の原画が沢山飾ってあります。
素晴らしい才能を持った方です。

 以前、東ちづるさんの講演を聴いたことがあります。1時間半の間、来場者を引き付けて、実体験を交えての素晴らしい講演であったことを思い出しました。


東ちづるさんの妖怪魔混大百科


妖怪似顔絵を画いたあと記念撮影


出版本に妖怪似顔絵を画いてサインする


原画展ポスター
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新国劇の想い出 島田正吾氏のこと

2023年09月22日 | 芸能
 新国劇の看板である島田正吾氏の死去報道記事が掲載されていました。

 島田正吾氏について
 1905年(明治38年)12月13日、横浜市で生まれる。
 1923年(大正12年)に、沢田正二郎が率いる新国劇に入団。
 沢田の急死後、辰巳柳太郎と共に主役級に抜擢され1987年(昭和62年)に新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演をうけて劇団を解散するまで新国劇の大黒柱として活躍した。
 盟友の辰巳とは「動の辰巳、静の島田」と好対照のライバルとして知られ、渋く独特なせりふ回しで観客を魅了した。

 新国劇時代は『関の弥太ッぺ』『瞼の母』『一本刀土俵入』などの股旅物をはじめ、『霧の音』『ビルマの竪琴』など現代劇の話題作も演じている。
 その他の代表作としては戦国時代の武士・山本勘助を演じた主演作『風林火山』が知られ、1958年(昭和33年)から10年以上にもわたり公演を続けた。

 1951年(昭和26年)、山田五十鈴を相手役に『夏祭三度笠』で映画に初出演。以後、舞台でのヒット作を映画化した。
 1955年(昭和30年)の主演作『風雲三条河原』では幕末の志士・岡田以蔵役を好演する。
 NHK大河ドラマ『勝海舟』(1974年(昭和48年))、連続テレビ小説『ひらり』(1992年(平成4年))などテレビドラマにも多数出演した。

 1991年(平成3年)から2002年(平成14年)まで、新橋演舞場で年1回『白野弁十郎』や『王将』といった新国劇の代表作をひとり芝居にして上演。
 評判も高く、NHKスペシャルなど多数のメディアで採り上げられていた。
 このひとり芝居は自他共に認めるライフワークで「100歳まで続ける」と公言していた。

 平成以降、現役最高齢俳優となっても意欲的に活動していたが2002年(平成14年)8月15日に脳梗塞で倒れた後はリハビリに励んでいた。
 舞台復帰の念は凄まじく「99歳まで新国劇の芝居、100歳で新作を」と周りに言い、様々な演劇のビデオをリハビリの傍らかかさず見続けていたという。

 2004年(平成16年)11月26日午前4時45分に、脳梗塞のため死去した。98歳没。
 島田正吾の書斎の机の上には真山青果作の『富岡先生』の台本が置かれていて、台本の側には99歳になったら演じると決めていた『ひとり芝居』のために推敲中の原稿もあったという。


島田正吾氏95歳の誕生会


映画「風雲三条河原」で岡田以蔵を演じる


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俳優・緒形拳氏の邸宅

2023年09月15日 | 芸能
 鬼瓦がある緒形拳氏の邸宅

 躰道の友人である横浜市鶴見区に住んでいる石井徹さんの家を訪れました。

 石井徹さんの家の近くに俳優で活躍していた緒形拳さんの家がありました。
 緒形拳さんは新国劇を退団後はフリーの役者として活躍していました。

 家は、角地にあり日本風の家屋。壁の上部に鬼瓦が展示してある。
 鬼瓦は緒形拳氏の象徴なのだろうか。

 二軒を合わせた家の表札には長男の緒形幹太さんの名も記されていた。
 近くには、次男である緒方直人さんの家もありました。
 
 家の周りをぐるっと回りながら、緒形拳さんの活躍していた時の思い出が蘇ってきました。素晴らしい俳優でありました。

 緒形拳氏は、母校・都立竹早高校の7年先輩となる人でした。



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劇団東俳60周年記念公演観賞

2023年09月06日 | 芸能
 劇団東俳60周年記念公演「土がくれたほほえみ」を観賞しました。
 会場は、東池袋にある「あうるすぽっと」です。
 ロビーには、劇団東俳の幟幕が3本。出演者たちへの祝い花がたくさん飾られております。

 スマイル自然農園の美間森婆ちゃん(藤田弓子)はけっこう辛口、めっぽう毒舌、一方人情味のある人です。子ども食堂を運営する江口(永井大)はみんなから慕われているが・・・。親に見放された子供たち。心の時代に心が渇いた人たちが集う農家が舞台。笑って泣ける人情喜劇(脚本・演出:池谷雅生)
 劇団東俳で指導をしている知久晴美さん(劇団ムジカフォンテ主宰)は、音楽担当のスタッフとして参加しています。

 劇団員の素晴らしい演技に感動しました。長いセリフをはっきりと語っています。表現力が豊なところが心に訴えてきます。倉持聖菜さんや村山輝星さんは主役級であり舞台を盛り上げる素晴らしい演技が続いていきます。

 劇団員が総出演で踊るミュージカルシーンは見応えがあります。
 流石、劇団東俳60周年記念公演で総力を発揮していました。


劇団東俳の幟幕

永井大さんと村山輝星さんの祝い花
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映画「こんにちは、母さん」

2023年09月05日 | 芸能
 家族の姿を描き続けてきた山田洋次監督作品「こんにちは、母さん」を観てきました。山田洋次監督は90本目の監督作となる本作では、この令和を生きる等身大の親子を心情豊かに描いております。
 主演を務めるのは、1972年に公開された『男はつらいよ 柴又慕情』をはじめ、『母べえ』(08年)『おとうと』(10年)『母と暮せば』(15年)などに数々の山田洋次監督作品に出演し、日本映画界を共に牽引し続けてきた吉永小百合(78)。映画出演123本目となる作品です。

 「こんにちは、母さん」の物語は、大会社の人事部長として日々神経をすり減らし、家では妻との離婚問題、大学生になった娘・舞(永野芽郁)との関係に頭を悩ませる神崎昭夫(大泉洋)は、久しぶりに母・福江(吉永小百合)が暮らす東京下町である向島の実家を訪れる。
 割烹着を着ていたはずの母親が、艶やかなファッションに身を包み、イキイキと生活している。おまけに恋愛までしているようだ!
 久々の実家にも自分の居場所がなく、戸惑う昭夫だったが、お節介がすぎるほどに温かい下町の住民や、これまでとは違う“母”と新たに出会い、次第に見失っていたことに気付かされてゆく昭夫。
 向島で足袋の製造販売をする女主人。隅田川沿いのホームレスのボランティア活動に生きがいを求めている。映画のシーンが墨田川近辺で、よく散歩をするコースなので親近感を持ちます。ラストはすみだ川花火大会の美しい映像がありスクリーンに引き込まれ魅了されました。
 いつ観ても山田洋次監督の映画は感動をしますし、これが日本映画の特色であると気づかされる素晴らしい作品です。

 以前、山田洋次監督とお話をする機会がありました。人の話を真剣に聞いている姿に人間味のある優しい方であると敬服しました。すっかり魅了されてしまいました。


母(吉永小百合)を訪れた昭夫(大泉洋)


山田洋次監督とお会いした時  
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