つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

江戸天下祭(2)

2007年09月30日 | 文化
                東京本庄会の皆さんと手子舞のおなご衆

29日の夕刻から江戸天下祭の山車・神輿の巡行が行われた。
日比谷公園を出発。日比谷シャンテ通り、丸の内仲通りを丸ビルまでの順序。
行列は、先導(江戸木遣り、手古舞など)→民謡流し踊り→朝鮮通信使→山車(14台)→神輿(9基)と続き2時間を掛けてオフィス街を江戸情緒に染めあげる。
山車の高さは10メートル近いものもあるために電線の無い通りを選考した。

森陽一郎先生に同行した。
埼玉県本庄市出身のグループが集まり、大きく「東京・本庄会」と書かれた紙を持って丸ビルのところで待機していた。
本庄市本町自治会の山車は9番目の巡行。
山車は「石橋(しゃっきょう)」で、全長7m×幅4m×前高8m。
その由来は、1895年(明治28年)、日清戦争凱旋を記念して11世武田近江大掾清兼作の「翁」山車を購入。
1928年(昭和3年)、天皇即位の御大典に合わせ、人形を「石橋」に改めた。
人形は牡丹花に戯れて踊る獅子の姿である。人形の装束、山車胴幕は、能の約束事に従い、すべてを絹織物で金糸銀糸、金箔を用いている。

本庄の山車「石橋」が通過すると、関係者が「東京本庄会」へ近寄り声を掛けてきた。
市長をはじめ実行委員長、商店会長等々すべて森陽一郎先生の馴染みの人たちである。
歓声があがりそして交歓の様子は祭りを一層盛り上げる雰囲気を醸し出していた。
手子舞のおなご衆も集まってきて写真撮影となる。
埼玉県本庄市から参加した人たちもゴール地点に待機していた「東京本庄会」のメンバーによる思わぬ歓迎にとても喜んでいた。

開府400年(平成15年)に再現された「江戸天下祭」は、2年ごとに開催されている。
今回は3回目となる。

(9月30日記 池内和彦)

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江戸天下祭

2007年09月29日 | 文化
                         江戸天下祭

江戸天下祭とは江戸時代、神田神社の「神田祭」と山王日枝神社の「山王祭」はその豪華さや、行列が江戸城内に入り徳川将軍の上覧を受けたことから「天下祭」と呼ばれていました。

当時の「天下祭」では、神輿と、神話や歴史上の人物をモデルにした人形などを取り付けた山車を曵き回すことが特徴でした。
江戸城下の町内から山車、屋台、造物やお囃子、踊りなどが練り歩き、「神田祭」では36台、「山王祭」では45台が江戸城下を順行し、その趣向が常に江戸で話題になったと伝えられています。

こうした江戸時代の伝統と流行が凝縮された趣向は、やがて関東各地の祭にも影響を及ぼして行きました。

しかし明治22年、憲法発布を記念して山車100台が皇居前に集結したのを最後に、様々な理由により順行が行われなくなり、江戸の伝統を継続することも難しくなりました。

時代は流れ平成15年、江戸開府400年を記念して江戸天下祭が復活をとげました。
今回(9月29日)の『江戸天下祭』においても『山車・神輿順行』で、数々の山車・神輿の行列が長時間掛けて日比谷公園から皇居前広場を練り歩きます。

「江戸木遣り」「お囃子」「手古舞」などの先導と付祭を伴って、再び華やかな江戸天下祭が甦ります。
(まちづくり千代田)
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彼岸の墓参りに想う

2007年09月24日 | 社会
                         彼岸の墓参り

暑さ寒さも彼岸まで。といわれるように23日の彼岸の中日は猛暑から一転凌ぎやすい気温となった。
先祖の墓参りへ行った。
墓を清掃して、植木の手入れをしたら気持ちがすっきりした。

墓参りするときには、先祖にお願いをするのではなく、家族のことや生活環境についての報告をすることである。と聞いたことがある。
正月の初詣は、神様にお願いをしたり誓いをするところ。

霊園は、多くの人出で賑わっていた。
皆一生懸命に先祖の墓を掃除して、花を飾っている。
家族連れの人、一人で来ている人、どの顔も目的を達成した充実感が漂ってくる。

先祖の築き上げてきた歴史を思い出すきっかけとなる彼岸の墓参り。
少なくとも春と秋の彼岸には、墓参りをして先祖との絆を確認してみよう。

(9月24日記 池内和彦)
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浅野克彦さんのこと

2007年09月19日 | 友人
                        浅野克彦さん

小学6年生の時に下高井戸の学習塾で一緒だった浅野克彦氏がいる。
毎年の年賀状は今でも続いている。
父親の浅野虎彦さんは立川高校の教師で、私の妻の恩師であることが結婚後判明した。
健康楽々倶楽部に参加している友人の木村輝昭氏も立川高校で浅野先生の教えを受けた一人である。

浅野克彦氏が「キリンファーマ」の社長に就任したことを新聞を読んで知った。
「キリンファーマ」は今年7月、純粋持ち株会社制導入に伴い旧キリンビールから独立し、キリングループの主要事業会社のひとつとしてスタートした製薬会社。
すでに25年の実績を持つ「腎臓」「がん・血液」「免疫・感染症」を重点領域に、独自の医薬品を創出する「オンリーワン」企業を目指す。

浅野克彦社長は東大大学院卒の農学博士。62歳。
「カミさんと一緒に骨董市に行くことが楽しみです」と言うほど骨董品収集が夫婦共通の趣味。
「骨董品は、壊れても直しながら使うことで価値が出てくる不思議な世界なんです」
カラオケの十八番は加山雄三「君といつまでも」。
女優・香山美子は小学校時代、一緒に通学した近所の“お姉さん”とか。

【経歴】
1945年8月30日、高校の生物教師だった浅野虎彦氏(92歳)と寿子さん(故人)の長男として東京・三鷹市に生まれる。
市立第五小、学芸大付属小金井中、学芸大付属高、東大農学部、同大学院修士課程を経て70年キリンビール入社。
研究所勤務からスタートし、83年から2年間、海外留学(デンマーク)も経験。
農学博士号を取得し、89年からは医薬開発研究に携わるが、90年経営企画室室長代理へ。
その後、医薬事業本部副本部長、医薬カンパニー社長などを歴任。
今年7月グループの純粋持ち株会社制導入に伴い誕生した事業会社キリンファーマ社長に就任。

「いよいよ外海に出る。波は大変荒いがそれだけチャンスも大きい」
「医薬品の開発は、大部分が失敗に終わる。それだけに、自分が携わった薬が世に出て患者の役に立っているというのは、研究者冥利に尽きる」と語る。

私の大学の後輩がキリンビールへ就職を希望した時に、浅野氏へ連絡したら、入社試験を受ける機会の配慮も快くしてくれた人です。
この度の社長就任おめでとうございます。
今後の益々のご活躍を祈念しております。

(9月19日記 池内和彦)


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澤田正二郎物語観劇談

2007年09月18日 | 芸能
                     澤田正二郎物語の出演者

劇団若獅子の結成20周年記念公演「澤田正二郎物語 ―遥かなり新国劇―」を観劇した。

新国劇を大正6年に創設した澤田正二郎の物語を、昭和62年に新国劇の看板を下ろした後、劇団員が新国劇の精神を継承していこうと結成して活動してきた劇団若獅子の公演です。
笠原章代表が率いる劇団若獅子も苦難の道を飛び越えて今年は20周年目を迎えた。
春の全国縦断公演は「国定忠治」だった。全国各地で好評を博し、多くの人が劇場に駆け付けた。満員の盛況であった。“継続は力なり”を実証していた。

笠原章(澤田正二郎)と朝丘雪路(久松喜世子)ががっぷり四つの芝居をしておりとてもいい。二人の息の合った芝居が観客の胸を熱くする。
劇中劇で「大菩薩峠」の机龍之介、そして「白野弁十郎」の白野弁十郎を初めて演じる笠原章は、師匠の辰巳柳太郎、島田正吾の二人に近付いたといえる。
特に白野弁十郎は台詞と動作が島田正吾と重なる。

大正12年8月、浅草公園劇場にて劇団員が賭博容疑というあらぬ嫌疑をかけられて多数の劇団員が警察の拘束を受ける。(いわゆる象潟事件である)
その後、霞ヶ関の警視庁に移されて尋問中の9月1日に関東大震災が発生した。
私はこのときの模様を、当事者である島田正吾先生から浅草で直接聞いていた。
放免された澤田正二郎と劇団員は、翌10月日比谷公園新音楽堂にて、大震災罹災市民慰安野外公演を入場無料で3日間開催したところ、10数万人の市民が日比谷公園を埋め尽くした。

昭和4年2月、新橋演舞場での公演中、中耳炎を患い、療養中の3月4日午後1時2分、36歳の生涯を終える。
葬儀は、日比谷野外音楽堂で執り行われ10万人の民衆が集まって別れを惜しんだ。
弔辞は総理大臣である田中義一首相の代理である秘書官の鳩山一郎が朗読した。
澤田正二郎の辞世の句は「何処かで 囃子の声す 耳の患い」であり、新橋演舞場のところに今でも句碑が残っている。

舞台の最後で、「殺陣田村」誕生秘話の説明があり、笠原章、水野善之、森田優一の3名が殺陣田村を紋付袴姿で披露してくれた。
観ているこちらも身を引き締めて真剣に見入っていた。
新国劇の誕生から、澤田正二郎の歴史を舞台で学べるいい機会で素晴らしい芝居であった。
その他の主な出演は、奈良富士子(松井須磨子)、清水彰(白井松次郎)、大出俊(島村抱月)、桂広行(行友李風)、森田優一(倉橋仙太郎)、中川歩(中山晋平)、南條瑞江(根岸てつ)、中條響子(渡瀬淳子)、高橋浩二郎(演歌師)。
劇中劇の大菩薩峠の柴田時江(お松)が好演していた。
新国劇の精神を継承してきて、20年で若獅子は自他とも認める確かな劇団へと成長したことを確信した芝居であった。

(9月18日記 池内和彦)
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呉越華リサイタル案内

2007年09月16日 | 芸能
                  メゾソプラノ歌手・呉越華さん

私の友人で呉越華さんという中国出身の女性がおります。
呉越華さんは、メゾソプラノ歌手として活躍しております。
毎年リサイタルを開催して多くの人から好評を得ております。

今年のリサイタルの案内がありました。
◆呉越華メゾソプラノリサイタル
 日中国交正常化35周年記念(日中文化・スポーツ交流年)
 (日時)2007年11月19日(月)18:30開場 19:00開演
 (会場)津田ホール(千駄ヶ谷駅前)
 (チケット)3,500円(全席自由席)

 ※チケット希望の方は→携帯TEL090-1541-1573(池内和彦)へ

♪呉越華さんからの案内挨拶文
 いつもご支援を頂き心から感謝しております。
 私のライフワークとなりました恒例のリサイタルを開きます。
 今年は中日国交正常化35周年記念となります。
 今回のリサイタルでは中日友好の歌を歌いたいと思います。
 来年は北京オリンピックです。
 世界友好の歌も歌いたい、そして、勿論秋の季節の歌、オペラアリアも、選曲はちょっと欲張りでしょうか・・・・
 今年のリサイタルも是非応援いただきますようによろしくお願いいたします。

  (9月16日記 池内和彦)
 

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岩橋崇至写真展(3)

2007年09月13日 | 友人
                     ベリーカレッジにて調印式

12年間続いた岩橋崇至アメリカ巡回写真展「THE ROCKIES ~FROM ALASKA TО MEXICO~」ついに終結。
全作品をベリーカレッジ(米国ジョージア州)に寄贈 。

日米の多くの皆様の暖かいご協力のもと、アメリカ各地で開催された、岩橋崇至写真展がついに終結しました。
長年にわたる皆様の暖かいご支援に、心より御礼申し上げます。

大型作品を中心とする全70点はすべて、ベリーカレッジに寄贈いたしました。
ベリーカレッジはアトランタ近郊にある由緒あるキリスト教の大学です。
全米で最も広い(おそらくは世界最大の)キャンパスをもち、緑あふれる美しいキャンパスには、牧場や水車小屋もあります。

岩橋の作品を愛してくださったアメリカの人々に、
将来にわたって大事に保存・展示していただけることは、作家にとってこの上ない喜びです。

寄贈に際しては、ファーンバンク自然史博物館の前館長 Dr.Kay Davis Dunn と
全米躰道協会会長 内田光信氏に、一方ならぬお骨折りをいただきました。
内田氏は30年以上アトランタで道場を構え、アトランタの人々から敬愛されている方です。
深く感謝申し上げます。

2006年5月11日、米国アトランタのベリーカレッジ・サイエンスセンター1F正面ロビーにて、作品の調印式および昼食会が行われました。
岩橋崇至夫妻、福田耕三会長(岩橋崇至アメリカ展を支援する会)らが日本から訪れて、心のこもった暖かい歓迎を受けました。

日本総領事や現地日本企業の方々、アトランタ在住の東京国際大学卒業生の内田光信氏、日本からの留学生2人も出席して、厳かな中にも終始なごやかな会となりました。

合意書を取り交わし、末永く作品を大事に保管してくださること、今後、各地への貸し出しも考えることなど、約束してくださいました。
作品にとっては最もよい終の棲家をみつけたと、実感しました。
(岩橋崇至ホームページより)

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岩橋崇至写真展(2)

2007年09月12日 | 友人
                        ロックガーデン

このほど展示する岩橋崇至さんの写真は、
アメリカ中西部に広がるコロラド高原(コロラドプラトー)の荒涼とした景観をとらえたものです。
ごつごつした岩と砂漠で成り立つこの一帯は、億単位の長い年月をかけて繰り返された岩盤の隆起やコロラド川による浸食の結果、グランドキャニオンやモニュメントバレーといったアメリカを代表する名勝の数々が形成されました。
度重なる地殻変動が作り出したテーブル状の台地や峡谷、天然の岩柱・岩橋は、その形の特異さから多くの人々の心を魅了しています。
荒々しくも神秘的な自然美を備えた自然のモニュメントの数々を、岩橋氏が迫力ある作品に仕上げました。(キヤノンマーケティングジャパン)

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岩橋崇至写真展

2007年09月11日 | 友人
                     岩橋崇至写真展案内

私の友人である山岳写真家の岩橋崇至さんから写真展開催の案内がありました。
岩橋崇至氏は、北アルプスや北海道の山々、北米大陸を横断するロッキー山脈、中国と北朝鮮の国境地帯にそびえる白頭山など、国内外の山岳を中心に自然風景を撮り続けています。
岩橋崇至氏は「大地の写人」と称され、地球の表情をそのまま写し撮る手法に定評があります。
2000年「新世紀を拓く/世界10人の山の写真展」に日本からただ一人選ばれております。

岩橋崇至写真展 「ロックガーデン」
◆2007年9月28日(金)~10月29日(月)入場無料 
 10時~17時30分(休館日は日曜日・祝日)
 品川キヤノンSタワー1階 キヤノンギャラリーSにて開催
 (JR品川駅港南口より徒歩8分)

東京で8年ぶりに新作展を開催します。
岩と砂漠のおりなす、ダイナミックで繊細なアメリカ中西部(コロラドプラトー)の大自然を紹介します。
現地でもまだ知られていない未知の景色も登場します。

★岩橋崇至氏によるギャラリートーク
10月13日(土)13時30分~15時。
入場無料 事前申込不要

どうぞこの機会に岩橋崇至写真展をご覧ください。

(9月11日記 池内和彦)
 
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テレビドラマ「生きる」

2007年09月10日 | 芸能

テレビ朝日でドラマ「生きる」を観た。
黒澤明監督作品の映画「生きる」のリメーク。脚色は市川森一。
映画で志村喬が演じた市役所市民課長役を松本幸四郎が担当する。

ゴミの不当廃棄場所を何とかしてほしいと市民たちが市役所に陳情に来る。
市民課長は、土木課へと言い、その後公園課、環境課等々、陳情はたらい回しにされてしまう。
役所の無気力な業務体質が描かれている。

市民課長(松本幸四郎)は、健康診断で膵臓ガンと宣告されて余命6ヵ月であると医師から言われる。
役所仕事を無遅刻無欠勤できた市民課長は「生きる」ことについて考えはじめる。
ゴミの廃棄所となっていた場所を市民のための公園にすることに奮闘していく。

市民課長の通夜の席上で、市職員達が「課長と公園について」の意見を各自が述べはじめる。
そうしている内に、雪降る公園で一人歌を歌いながらブランコに乗る課長を目撃したという巡査がやってきた。
あまりに楽しそうに歌う市民課長に、巡査はつい声をかけそびれたという。
「命みじかし、恋せよ乙女…」。
公園のブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌いながら死んでいく市民課長。
松本幸四郎と志村喬がダブって見える有名なシーンでドラマは終わった。

役所における業務体質を鋭く描く話。
現在の行政においても当てはまるところがある。
黒澤明監督は、そのような点を考慮して問題を提起した「生きる」であった。

(9月10日記 池内和彦)
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ケータイが辞書代わり

2007年09月08日 | インターネット
文化庁の「国語に関する世論調査」によると、
書き方の分からない漢字を携帯電話の変換機能を使って調べる人が3人に1人おり(35%)、20代では8割(男性72%、女性85%)に上ることが分かった。
10代と30代では6割。

分からない漢字を調べる場合、何を使うか。
①辞書(60.6%)
②ケータイ(35.3%)
③パソコン(21.3%)
④電子辞書(19.4%)
という順番だった。(複数回答)

文化庁国語課は「ケータイは単なる通信手段でなくなり、文字生活に占める割合が高まっている」と分析している。(時事通信・読売新聞)


ケータイの利用率が高まっている。
携帯電話としての通信機能の他に、今ではGPS、財布、音楽、テレビ、鍵、検索等の機能も融合してユビキタスネット社会へ邁進している。
鉄道関係の時刻等を調べる「時刻表」がある。
以前は毎月発行されていてベストセラー書籍のひとつであった。
今では、ケータイから「乗換案内」という無料のコンテンツを利用している人が多い。
「乗換案内」であると、自分の希望する時間帯で出発地から到着地までの時刻と値段がリアルタイムに表示されて出てくる便利さが評価されている。
時刻表をケータイで利用する人が多くなった半面、本の時刻表の売り上げは激減してしまった。
いつでも、どこでも利用できるケータイの活用が今後の社会を変えていく時代となった。

(9月8日記 池内和彦)
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中学で武道とダンス必修

2007年09月05日 | スポーツ
                      中学で必修となる柔道

中教審の専門部会は4日、中学校の保健体育授業で選択領域となっている柔道や剣道など「武道」と「ダンス」を1、2年の男女全員が必ず履修するよう学習指導要領を改定する素案をまとめた。
1、2年は武道、ダンスを含む8領域すべてを履修。
3年では「体つくり運動」と「知識」を全員が履修し、「器械運動、陸上競技、水泳、ダンス」と「球技、武道」の2グループから、それぞれいくつかの領域を選択する。(共同通信)
改正教育基本法で「伝統と文化を尊重」の文言が入ったこともあり、「中学から武道を必修にすべきだ」との意見が部会の委員から出ていた。
中教審は保健体育の授業時間を増やす方向で検討しており、より多くの領域を指導できる見通しが立ったことも、今回の案に影響している。(朝日新聞)


友人が英国へ行ったときに、「日本人なら空手を教えてくれ」と言われたと話していた。彼は「日本の武道を何かやっていればよかった」と私に語った。
私は大学時代から躰道(たいどう)を学んでいた。
躰道の創始者・祝嶺正献先生と一緒にアメリカへ指導に行ったときに、そこの会員や家族から温かい歓待を受けた。
彼らは真剣に躰道の真髄を学ぼうとする姿勢がうかがわれた。
次から次へと武道についての質問攻めにあったことを覚えている。
日本=武道という概念があるようだ。
アメリカ人にとって武道を試みて修業をして、目標は黒帯(ブラックベルト)を取得することが夢であると話す。
柔道は、オリンピックの種目にもなって世界中の人たちが参加するようになった。
日本の武道が再認識され、中学でも必修科目として取り入れられることは喜ばしいことであると思う。

(9月5日記 池内和彦)





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都電荒川線

2007年09月01日 | 社会
                         都電荒川線

東京都内に残っている唯一の路面電車に都電荒川線がある。
早稲田から三ノ輪橋の間に30の停留場がある。
民家の傍を走るので庶民的な感覚がある。

昭和40年代までは、都電は人を運ぶ都内の主要な運搬手段として活躍していた。
段々と都内を利用する車の交通量が増えることにより、道路の中央を往来する都営電車の存在が問題となり、渋滞を引き起こす要因であると次々に廃線に追い込まれていった。
唯一残ったのが荒川線である。
荒川線は一般道路と共通利用するところが少なく、ほとんどが独占の線路上を運行している。

昔は「チンチン電車」と呼ばれていた。
出発するときに後の扉が閉まったことを車掌から運転手に知らせる手段にチンチンを用いていた。
今はワンマンカーとなって運転手のみですべてを管理しているが、出発するときには「チンチン」と鳴らして客に注意を促すとともに、子供たちは喜んでいる。

料金は大人の場合は一律160円。今ではパスモも使用できるので小銭がないときでも便利になった。
時速20~30キロくらいでゆっくりと進んでいく。
終点の三ノ輪橋駅は、とてもユニークに整備されていて、「関東の駅百選認定駅」に指定されている。カメラで写真を撮る人も多い。
駅周辺は、下町情緒が漂い、煎餅屋や甘味屋やアイスクリーム屋などが並んでいる。
三ノ輪橋から早稲田まで1時間弱の所要時間。
荒川車庫には、往年の車両が解放されてある。
梶原駅近くには都電最中なる名物最中に人気がある。
子供たちに人気なのは荒川遊園地である。

ゆっくり時間のあるときには、都電荒川線の途中下車の旅も新たな発見ができる楽しいひとときとなることだろう。

(9月1日記 池内和彦)
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