つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

躰道について

2007年04月30日 | 躰道
          躰道の「活命の法形」の演武

毎週2回躰道の指導をしています。
場所は、埼玉県志木市体育館武道場です。
日曜日の午前9時~12時。水曜日の午後6時~9時。

志木市躰道協会には、4歳から67歳までの会員が53名所属しております。
練習日には、準備運動の後、全員で「躰道五条訓」を唱和してから始まります。
そして、「勢命の法形」は一番最初に参加者全員で行います。

躰道は、祝嶺正献氏が1965年に創始した武道です。
既に42年が経過して、全日本躰道選手権大会も毎年開催しております。
祝嶺正献先生の「躰道の理念と実技」は素晴らしいもので会員への指導指針となっております。

私の所属している関係団体から「ぜひ躰道を紹介してほしい」と講演の依頼や演武を披露する機会が多くなってきました。
躰道を宣伝したり広報したりするのには、絶好の機会を得ています。

全国各地では、純真に躰道を学んでいこうとする会員が多くおります。
そこの熱心な指導者達との交流も長く広く続いております。
今後も躰道着を着けて会員達と汗を流しながら稽古に研鑽していきます。

躰道の興味のある方は、ご連絡下さい。

(4月30日記 池内和彦)
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潮干狩り

2007年04月28日 | 友人
            潮干狩りを楽しむ大樹くんと凌也くん

潮干狩りを孫の大樹くんと凌也くんと一緒に楽しんだ。
船橋市のふなばし三番瀬海浜公園には、春の陽光が燦燦と輝いていた。
砂地を熊手で掘っていくとアサリやシジミがいっぱい出てくる。
面白いように夢中で熊手を操るものだから、水分を帯びた砂地が顔に飛んでくる。
その顔をみて面白がり笑い転げる孫たち。

その後は、友人の熊谷健一さんらが準備をしてくれたバーベキューパーティーに参加。
ビールを飲んで、ほどよく焼けた肉や野菜をたくさん食べた。
仕上げは、焼きソバであったが、これまた美味しいこと。
野外で食べるとこんなに美味しく食が進み、満腹になるまでいっぱい食べられた。
そうすると今度は睡魔が襲ってくる。
砂浜に敷かれたビーチシートの上で、しばし夢の中。

(4月28日記 池内和彦)
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尾崎豊のこと

2007年04月27日 | 芸能
私の友人の長島孝之さんからメールを頂きました。
「今日は尾崎豊さんの命日です。ラジオで曲が沢山掛かってました。私は「I LOVE YOU」の曲が好きです。
亡くなってからファンがどんどん増えているのが凄いです。」

4月25日は尾崎豊の15回目の命日です。
尾崎豊の葬儀通夜に参列したのが昨日のように思い出されます。

私のブログ「つれづれなるままに」の4月初旬に、尾崎健一氏(豊の父親)が記載した資料を連載いたしました。

朝日新聞に、尾崎豊の特集記事が掲載されておりました。
豊のベスト盤は今もなお年間10万枚を売り上げているようです。

フライデーには、父親の尾崎健一氏が保存している「豊の秘蔵写真」がたくさん載っておりました。
豊の息子も17歳となり祖父(尾崎健一氏)のところに遊びに来たときのエピソードを健一氏が語っていました。
「孫が豊の遺品のギターを持ってウチに来て、遺影の前で『僕は17歳になりますが「15の夜」を歌います』といって、歌ってくれました。豊にほんとうによく似た声で・・・・。目を閉じると、そこに豊がいるようだった」と。
26歳で急逝した尾崎豊は、生きていれば41歳でバリバリの人生を謳歌しているときでありましょう。

*****************************
人は2度死ぬ。
一度目の死は、肉体が無くなる死。
二度目は、生きている人たちが亡くなった人のことを忘れてしまう時の死。
月日が経てば人は忘れる。
だから彼(尾崎豊)が残した歌を歌うことによって、彼は生きる。(長島孝之氏記)
*****************************

紙幣の写真について同じようなことを聞いたことがあります。
一万円札の「福沢諭吉」も、五千円札の「樋口一葉」も、千円札の「野口英世」も一度は死んだが、今でも大衆の中では立派に生きているということです。

15年前は子供であった世代が、青年期を迎えております。
尾崎豊への共感は変化しつつも、いまだに尾崎豊のCDが売れていることは、お札の写真との共通点があるともいえます。

(4月27日記 池内和彦)
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秩父市の芝桜の丘

2007年04月25日 | 日記
           秩父市羊山公園の芝桜の丘と武甲山

埼玉県秩父市の羊山公園の芝桜が見ごろを迎えています。
羊山丘陵の斜面を利用して、紅色、ピンク色、白色、紫色など様々な色の芝桜を組み合わせて花のパッチワークを描きだしている。
広さは16,000平方メートル、35万株以上が植栽されている。
毎年、10万人以上の来場者がある。

高い所から眺めるといろいろの模様を見ることができる。
秩父夜祭の笠鉾、屋台の山車に乗った囃子手が着こんだ紅白襦袢模様をイメージしているところもある。

ここの芝桜は、武甲山が背景に位置している。丘陵地に植えられているので、あらゆる所から観賞できる。
多くの人が写真で記念撮影をしている。

車は避けた方がいい。駐車場の入るのに時間がかかり、かなり歩いていかなければならない。
ハイキング感覚で行くのであれば、西武秩父線横瀬駅から宇根を通り芝桜の丘へ、
帰りは牧水の滝・汗見坂から西武秩父駅へと行くコースがお勧めです。
横瀬から宇根のあたりは、牧歌的な風情を醸し出している素敵なところです。

4月末と5月のゴールデンウイークごろが見ごろであります。
どうぞ足を伸ばして家族やカップルで散策をしてみたらいかがでしょうか。

(4月26日記 池内和彦)
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足利のふじの花

2007年04月24日 | 日記
            「大藤棚」(あしかがフラワーパーク)

栃木県の足利市に花の芸術村「あしかがフラワーパーク」があります。
ゴールデンウイーク前後の一月間は、世界が息を呑んだ美しさとして知られる「藤の花」が色鮮やかに咲き乱れています。
藤と言えば日本古来の花木といわれ、万葉集にも歌われています。
とても素晴らしいところなのでここに案内します。
交通なら、両毛線「冨田駅」下車徒歩10分。
東武伊勢崎線「足利市駅」からバスで15分。
車なら、東北自動車道より佐野藤岡ICより、国道50号前橋・足利方面進行 (約15分)

フラワーパーク内はとても広く、いたるところに花が咲き乱れています。
これからの季節はグッドタイミングであります。
入園料は大人1,000円 子供500円(夜間割引あり)
藤の花が見事です。
「大藤」、「野田藤」、「うすべに藤」、「ジャコウ藤」、「むらさき藤」、「白藤」(80mのトンネル)、「八重の藤」、「きばな藤」等たくさんの種類があります。
何といっても500畳敷の大藤棚の藤の花が圧巻であります。
カメラやケータイで写真を撮っている人が集まっています。
大藤棚の花の下にもぐるとなんともいえない甘くやさしい香りがしてきます。

どうぞ、一度行ってみたら如何でしょうか。
お勧めのあしかがフラワーパークの「藤の花」です。

http://www.ashikaga.co.jp/

(4月25日記 池内和彦)
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根津神社のつつじ

2007年04月24日 | 日記
           文京区の根津神社の満開のつつじ

根津神社のつつじを観に行く途中で、
下町風景を「ペン画」で描いている有名な杉山八郎さんに出会う。
素晴らしい「ペン画」がたくさん飾ってあった。

根津神社のつつじは、最盛期だった。
赤、橙、ピンク、白、そして黄色のつつじが、神社の山一面に咲き誇っている。
青い目をした外人の2歳くらいの可愛い女の子が、つつじの前に座って笑顔を振りまいている。
多くのカメラマンたちの絶好のシャッターチャンス。
たちまち、その子は「天使のようなモデル」となっていた。

それから、敬宮愛子内親王のお印である「ゴヨウツツジ」(白ヤシオ)が、ひと際人目を惹いていた。

根津神社の裏門を出て、左の方へ坂道をゆっくりと登っていくと
風流な店構えをした蕎麦屋があった。
「夢境庵」と看板があり、大きな暖簾には「そば」と書いてある。
中に入ると、右側が畳敷きの座敷となっている。

ざるの上に乗せられたそばは茹でたての逸品。
しばし、美味しくそばを賞味する。

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住職と俳優の縁

2007年04月20日 | 友人
七福神真延寺の土井慈功住職(左)とむかい誠一さん(池内事務所)

土井慈功住職が私の事務所に来られた。
茨城県土浦市の億萬山七福神真延寺の住職であります。
私とは躰道の仲間であり、今では躰道壮年倶楽部の同志としての好誼が続いています。
寺の名前がとてもいいのです。
億萬山は、財産が沢山入ってきそうな名前です。
七福神は、幸福が一度に多く受けられそうです。
真延寺は、生命が真に延長するようで長生きの縁がありそうです。

土井住職と話をしているときに、宇野正洋さんが来所しました。
宇野正洋さんも躰道の仲間であります。
同じ「躰道」の仲間であるということで意気投合して話が弾みました。

宇野正洋さんは俳優業で芸名を「むかい誠一」としてあります。
現在は映画「椿三十郎」の撮影中であるとのこと。
初作は三船敏郎が演じていて、今回のリメーク版は織田祐二が主演をしている。

むかい誠一さんは、所属劇団で定期的に公演をしていたり、テレビのコマーシャルや復元ドラマなどにも出演して活躍しています。
映画では「突入せよ!あさま山荘事件」で警察指揮官の役所広司の部下役で出演していました。

縁というものは、どこかで繋がっているようです。

(4月20日記 池内和彦)


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神田祭の女神輿

2007年04月15日 | 神田祭
写真は、あま酒で有名な天野屋美人神輿として神田祭の女神輿を担ぐ女性達

日本三大祭りの一つである神田祭は5月12日(土)および13日(日)に開催される。
毎回天野屋美人神輿として参加していますが、今年から「天星睦」(てんぼしむつみ)として公式パンフレットに美人神輿が掲載されています。

神田明神前で160年前からあま酒屋として有名な天野屋さんでは、13日の神田神社神輿宮入に参加します。
白い半纏による女性だけの神輿で、ギャラリーもたくさん集まる華やかな神輿が参道を進むのが午後5時ごろです。
どうぞ、観覧にお越し下さい。

神田祭に興味のある方は、下記あてに連絡をして下さい。
PCメール:ikeuchi@tiu.ac.jp

(4月15日記 池内和彦)

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神田祭の天野屋美人神輿

2007年04月12日 | 神田祭
天野弥一会長(中)と天野博光店主(左)と膳場昭さん(右)

5月13日(日)は、神田祭の宮入である。
神田神社の氏子による各町会の神輿が100基朝から夜までの間、宮入をする。
神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭と並んで日本三大祭となっている。

神田祭には、神田明神前の甘酒で有名な天野屋さんの美人神輿が繰り出す。
この神輿は「天星睦」として、正式に加盟している。
今から準備は着々と進んでいる。
祭礼委員長には、天野博光さんが就任。

その天野博光さんを友人の膳場昭さんと訪問した。
公式パンフレットや前回の写真集を見せてもらった。
膳場さんもとても興味を持って神田祭の話を聞いていて、当日は家族と共に参加すると話していた。
膳場さんは、気持ちよく得意とするマジックを天野家ご一家の皆様に披露していた。
その後、近くの四季の味「大鉄」で食事をしながら、江戸っ子気質を中心に面白談義が続いた。
膳場さんもとても楽しんでいた。

(4月13日記 池内和彦)
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江戸物売り声の宮田章司師匠

2007年04月11日 | 芸能
江戸の物売り声を伝承している宮田章司師匠がおります。
昔は家の近くまで物売りが入ってきたいい時代であった。
今は、自分がスーパーマーケットまで行ってそこで買い物をして家まで持って帰る時代だ。

宮田章司師匠は、坂野比呂志(故人)と出会い江戸売り声の魅力に取り憑かれ、坂野比呂志亡き後、現在日本で唯一人、本格的な「江戸売り声百景」和風漫談家としてテレビ、各ライブ、奇席等で引っ張りだこ、大忙しの毎日を送っている。

都内の定席演芸場に出演するとともに、江戸東京博物館でも定期的に出演をしています。
その他、依頼があれば何処にでも出向いて江戸の物売り声を聞かせてくれます。
米国のニューヨークでも、この物売り声の公演をしたら大好評であったようです。
JАLの国際線のCMにも出演しています。

神田明神前の甘酒の天野屋さんとも懇意にしており、天野屋さんの主要行事のアトラクションには必ず出演しております。

主な物売り声として、朝顔売り、甘酒売り、飴売り、オイチニの薬屋さん、桶屋、お宝売り、カリン糖売り、金魚屋、辻占売り、研ぎ屋、毒消し売り、苗売り、納豆売り、七色唐辛子、灰買い屋、梯子売り、バナナの叩き売り、枇杷薬湯売り、物産飴屋等々、多種類あります。

今では大変珍しくなった江戸物売り声の宮田章司師匠の粋な声をぜひ聴いてみたらよいでしょう。

(4月11日記 池内和彦)
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劇団若獅子結成20周年記念公演「国定忠治」を観劇

2007年04月08日 | 芸能
写真は、劇団若獅子結成20周年記念公演で観客にお礼のご挨拶あり(国立大劇場)

国立大劇場で、劇団若獅子結成20周年記念公演「国定忠治」を観劇した。
劇団若獅子は新国劇の精神を継承している唯一の劇団です。
国定忠治は、澤田正二郎、辰巳柳太郎を引き継いだ笠原章が演じる。

新国劇団員であった緒形拳、清水彰、山田貫太郎が特別出演で芝居を盛り上げる。
新国劇から若獅子劇団員の南條瑞江、御影伸介、桂広行、水野善之、東大路昌弘に加えて若手の森田優一、中川歩、野上大樹らが健闘している。
劇団若獅子の生みの母といわれている朝丘雪路も特別に出演している。
その他、山本昌平、新田純一、中條響子、根本亜季絵、功刀明、高橋浩二郎、貴田拳、舞戸礼子、伊藤菜生、安井孝、平井愛子らが助演している。

お馴染みの赤城天神山不動の森の場では、
あの名台詞
「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、国を捨て、
可愛い子分の手前達とも 別れ別れになる首途だ。・・・」
会場からは、新国劇・若獅子の後援者である大ファンの方たちが
「待ってました!」 「日本一!」  「笠原!」 「中川!」 「 森田!」
と、声掛けがタイミングよく掛けられ、場内を引き締める効果を出している。
国定忠治の子分が上手から下手まで28人勢揃いしての芝居は迫力が伝わってきた。

もう一つは「山形屋の店先」の場がいい。
笠原章(国定忠治)、緒形拳(山形屋籐造)、 山田貫太郎(その子分伝吉)、 御影伸介(喜右衛門)たち。共に新国劇時代の重鎮の役者達が演じる。
それに、新国劇とは縁の深い朝丘雪路が籐造の女房・おれんで出演している。
よくもまぁ引き締まった芝居であった。観客はすっかり舞台に魅了されていた。
天国にいる辰巳柳太郎、島田正吾の両師匠もさぞかし楽しみながらこの「山形屋の場」を観ていることだろう。

会場入り口では、「新国劇七十年栄光の記録」記念本の販売について佐藤守男氏の手伝いをした。特別提供価格であったためか、持参した記念本は、新国劇・若獅子ファンにより昼の部のみで完売するほどの盛況であった。
また、入口受付では、劇団若獅子事務局の柴田時江さんが観客のチケットや案内についててきぱきとスタッフに指示をして忙しく動き回っていた。
劇団若獅子後援会幹事の河野美和子さんは、本公演のパンフレット販売に積極的に尽力していた。

劇団若獅子結成20周年記念公演「国定忠治」は、大阪、滋賀、宮城、秋田、群馬、千葉、埼玉と巡演してきて、東京は国立大劇場となったが、どこの劇場も観客の入りが盛況であったとのこと。
後半は、6月に静岡、名古屋、埼玉、神奈川、茨城、埼玉、千葉と公演スケジュールが続く。

新国劇70年と若獅子20年で、合わせて90年を経過した。
あと10年で、新国劇生誕100周年記念となる。
劇団若獅子関係者の奮闘振りに敬意を表し、そして感謝をしたい。

(4月8日記 池内和彦)
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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その11)

2007年04月07日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その11) 尾崎健一

② 兄・康
さて、豊の方の話が大分長くなりましたが、最後に兄の康に与えた躰道の影響が、これまた極めて重大であったことについてお話させて頂きたいと思います。

昭四九、四、二八(康 中1)――川越体育館にて関東地区躰道予選・少年団体法形に出場。三位となる。――』と日記にはあります。
兄も豊と共に練馬の莚の上の道場で私から手ほどきを受け、その後は弟の豊を伴ってタコ公園で河内先生から鍛えられたのですから、この頃はかなり強くなっていた筈です。
この日は豊の出場はなく、私と妻と豊の三人で応援にかけつけました。
康は出場チームの最年長者だったのか、前列中央で号令をかけていましたが、伸び盛りだった彼がチームの中では、とびきりノッポだったことが印象に残っております。

さて、彼の人生の一大転換期に強烈なインパクトを与えたであろう一枚の「色紙」についてお話しします。
豊の急死後の大混乱のため、塾経営の後継者という職をなげうたざるを得ない状況に立たされた彼は、一時豊の作った会社を受け継いだのですが、周囲の事情もあり、そこを辞めました。
既に家庭をもち三十才を過ぎている身は、極めて切迫した状況においこまれたのです。
熟慮の末、かつて目ざしていた司法試験に再挑戦する道を選びました。
以前の受験時代には、既に裁判官書記官試験にも合格しており、自己の才能を若干過信するところもあってか、「我、自らを信ず」とばかりやっていたのですが、今や家庭的、経済的に悠長な受験勉強はできません。
私とも相談して、勉強は朝霞の実家の元の自分の部屋へ通ってやる。
できれば一回で合格するにこしたことはないが、安全係数を見込んで二回受験が限界という結論を出しました。
正に背水の陣です。

結論を先に言えば、結婚のため空き部屋となった彼の六畳の部屋の長押には、先生が伊豆に新築をされたとき、私がお願いして揮毫して頂いた『躰極円連』の色紙が飾ってあったのです。
勿論、彼も尊敬する先生の直筆。
しかも父に直接書いて下さった書と聞いて大いに感激したことは無論のことで、その場で私は先生からお聞きしている言葉を『躰道の極意は円が転々ところがるように一つの技が終れば、それはまた次の技のいと口となっている連続技である。そして、止まるところを知らない。また、躰道は思想であり、しいていえば哲学である。単に肉体的、攻撃防御の技に止まらず人生観もしくは、世界観においても、思考の限りを尽くして、ねばり強く勝機の一瞬を求めつづけるという意である』
と、そのまま伝えました。
以来、約二年、彼は机の頭上にこの色紙の額を掲げて苦闘の末、一瞬の隙に勝機をつかんだ戦士の如く、ついに司法試験合格を克ち得たのでした。
そして待望の法律事務所を「さいたま市内」に構えることができました。

以上のように、親子二代にわたって、祝嶺正献先生からは、武道のみならず多くのことを学ばせて頂くことができました。 
高い席上から、大変無礼ですが、先生に心からお礼を申し上げて、私の『炉辺談話』を終らせて頂きます。(終)

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」シリーズも今回で終了します。
尾崎健一先生には、私のブログ「つれづれなるままに」に掲載することを快く承諾して頂きまして感謝申し上げております。
本当に多くの方々がこのブログを閲覧していただきました。
躰道の関係者からは、「祝嶺正献最高師範の躰道創設の頃を知ることができるとともに、躰道に関わる人たちの真摯な心に触れることが出来るようで嬉しくなり、楽しんで読んでいます。」とのコメントも頂きました。
また親しい友人からは、「尾崎豊さんが『躰道』を習っていたとの事初めて知りました。」と連絡がありました。
皆様、今後とも宜しくお願いいたします。(池内和彦より)





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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その10)

2007年04月07日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その10) 尾崎健一

デビュー後結婚して、男の子供ができたとき、子供にも是非躰道を教えようと思ったようです。
忙しいツアーの間をぬって、新目白通りの円形のガスタンクの隣にある練馬体育館に時々顔を出してどなたかにご指導を受けたこともあるらしい。
『久しぶりに(躰道を)やったので、今日は体の節々が痛くてしょうがないヨ』などとツアーの合間に、事務所を守っていた私と母の傍らにきて、満更でもない顔をして話していった記憶が残っています。

また、どうせ一人の子供に教える位なら道場を持とうという考えに到達した彼は、少しばかり資金もできたせいで、早々とその実現を思い描くようになったようです。
ツアーの合間に、事務所へ戻る度に、私にむかって『よい道場みつけといてくれた?ーー』 
と、本気に聞く有様です。
こちらは当面の彼のツアー完走のみが素人経営者の私にとっては目前の大問題で、それどころではない切迫した気分でしたが、彼の気持も察して『あちこち当っている最中――』と答えておりました。

彼がもう少し存命したならば、必ずどこかに道場をもったことは間違いなかったと思います。
彼の思い描く道場は、大きな二階建で下が「躰道の道場」、上は「学習塾」でこちらの方は兄の康に任せる、とかなり具体性を帯びていました。
当時兄の方はかなり大きな学習塾の理事候補で、塾講師を兼務しておりました。

彼の夢の原型になったモデル校が今も朝霞にあります。
下が剣道道場で上は学習塾となっております。
ちなみに、彼の死後、豊のこうした意志をきかれた祝嶺先生から『躰道五段・教士』の免状と『黒帯』を贈って頂きました。
今は大切に私が保管し、やがて現在アメリカに住む彼の遺児裕哉(ひろや)が青年になって日本に帰ってきた時、こうした父・豊の志を告げてこれを渡そうと思っております。

更にデビュー後の彼に躰道が益したのは、躰道の技――身のこなし――の美しさです。
ロックアーチストというのは、すべてが自作自演の世界のようです。
作詞、作曲、歌唱までの自作自演は誰も知るところですが、舞台でのフリまですべて自前です。
『廻しゲリ』は彼の得意術で、時々舞台ではマイクを相手に披露していました。
マイクすれすれのケリは中々難しかろうと、私は若干ハラハラし乍ら観ていたものです。
その頃、他のアーチストの中でも次第にそのフリをまねる者が出てきて『あいつ、俺のマネをしている――』などとテレビを見ながらつぶやいているのを覚えています。
ただ私が見ると、空手の心得のない人の廻しゲリは、実にサマになっていないものが多かったのですが、最近は皆がうまくなったような気がします。
当時彼が、深夜、創作の合い間に、自分の部屋に立てかけた大鏡にむかって、ギターを抱えたり、持たなかったりし乍ら、懸命にフリの研究をしていた姿を思い出します。(つづく)


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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その9)

2007年04月07日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その9) 尾崎健一

豊が小五の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。 
当時の朝霞は、二十五年経った今では考えられないほどの田舎で、都内から転校してきた豊はさすがに目立つ存在であったようです。
面白くないのは、クラスの男の子ということになります。
直接的な暴力行為はなかったようですが『シカト(皆で無視する)』されたり、知らぬ間に机の上に白い花を飾られたりしたことを、後年、彼自身何らかの中で書いています。
女子や、男子のおとなしい子供たちも、番長格の男の子には従わざるを得なかったのでしょう。
そこで前記の「ずる休み」です。

当時、転勤で土浦の部隊へ遠距離通勤していた私は、朝は四時起き、北朝霞から一番電車に乗って通勤していました。
帰宅すれば、翌朝早いからと早々と就寝する生活で、妻も仕事に出ていた関係で、九月から新学期が始まって約一ヶ月、豊のこうした変化に気づかずにおりました。
先生が訪問されて、そのことを告げられて始めて知り大いに驚きました。
職場にかかってきた妻の電話を聞いて、私は急きょ休暇ををとってとんで帰り、早速豊に問いただすと、日記のような答えです。
 
『何故、やり返さないのかーー』 と、私は問い返しました。
『だって、お父さんは、喧嘩に躰道を使ってはいけないって、何時も言っているでしょう』
という答え。
『正当防衛ならいいから、相手に傷つけないように注意してなら、やってもよい』

翌日、豊は意気揚々と学校から帰ってきたらしい。
何しろ子供どうしである。
番長といえども、翌年は埼玉躰道大会で優勝する腕前の豊である。
苦もなくねじ伏せられた番長は潔く降参したらしい。
豊の死後、友人と共に焼香にきてくれたこの方は『あの時は豊君に首をしめられて、まいりましたヨ』と笑い乍ら語っていかれた。

番長が代われば、クラスの空気は一転。
翌日からはクラスの人気者。
女の子にはモテモテの日が始まったらしい。
翌年、クラスの皆におされて六年生の学級委員に立候補し、当選したことが日記に残っております。
自らの力によって困難を乗り越えたというこの経験は、その後の彼の人生全般に、強烈な影響を与えたものと私は考えています。(つづく)


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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その8)

2007年04月05日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その8) 尾崎健一

3.躰道と子供たち

①弟・豊

これを書くために、古い日記をひっぱり出して、その中から子供たちが躰道にかかわった記事を探してみました。
先ず弟の豊の方についていえば
昭四四、三、二〇(三才)『――将来の希望は、自衛隊の隊長になることと、空手の先生になることーー』
と言ったと書いています。
子供のことだからハッキリしたことをいった訳では勿論ありませんが、少なくとも父親や兄の影響で、空手に対して幼少時から関心を示していたことは、みてていたと思います。
また、昭五〇、九、二六 小三(九才)『躰道の練習に(練馬・区役所裏の)タコ公園へいき河内銑重郎先生から勢命の法形を習ったーー』とあります。

実は、日記には残していませんが、豊が五才位のとき(兄・康は小学五年生)私は、当時の練馬都営住宅の庭先に一坪位の空き地を作り、巻藁を立て、地面には莚を敷いて子供たち二人に躰道の手ほどきを教え始めたのです。
先ず座り方から始め、あとは立川で初めて先生に習ったことを思い出し乍ら、かつ先生の書かれた『新空手道教範』を頼りに指導したことを思い出します。
この一坪ほどの庭先は、かつて練馬大根を作ったであろう豊饒な畠土です。
以前私も家庭菜園をしていた場所なので、敷いた莚に座ってみると莚の下にふかふかと柔かい土の弾力を感じ、気持が良かったことを思い出します。
指導は、先生から教えられた時のように、子供乍ら師弟として対した記憶があります。
親には普段余りみせない生真面目な顔をして座礼する二人をみて、内心嬉しくもあり、若干オカシクもあり、頼もしくもありました。

この、父子の師弟的関係は、その後の家庭教育に極めて良好かつ効果的な影響を及ぼしたと思っております。
小学校の頃の学習指導をする際にも、子供は父を仰ぎ見る姿勢をとるようになり、これはその後の基本的父子関係に好影響を及ぼしているように思っております。
正に躰道の五条訓にいう『態端正にして心形の一体を図り、態位正しきを得れば侮られる事なし』で、この言葉は私の信条となって一生の心の支えとなってきたようにさえ感じています。

また、日記にある幼い頃兄弟が通っていた
タコ公園では、この公園のほど近くに住んでおられた河内先生ご兄弟(銑重郎氏、重典氏)に指導をして頂いたのだと思いますが、恐らくご兄弟のボランテア的活動であったろうと、今更申し訳なく有難く思っております。

昭五一、九、二九(豊 小五)『今日、僕はずる休みした。皆が余りイジメルからだーー』
昭五二、十、十六(豊 小六)『朝霞(埼玉)躰道大会、少年の部個人法形で優勝。カップを貰う』

昭和五十一年八月。
豊が小五の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。(つづく) 

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