蜻蛉日記 中卷 (126)その2 2016.5.25
「『このこと、かくすれば、出でたまゐぬべきにこそはあめれ。仏のことのよし申したまへ。例の作法なる』とて、天下の猿楽言をいひののしらるめれど、ゆめに物も言はれず、涙のみ浮けれど、念じかへしてあるに、車よせていと久しくなりぬ。」
◆◆あの人は、「この取り片付けを、この通り済ませたので、お出掛けなさらねばならぬようだな。ご本尊には退去の挨拶を申し上げなさい。きまった作法だから」と言って、ひたすら冗談を飛ばされるけれど、私は何も言葉にならず、涙ばかりが浮かんできますが、それをじっとこらえているうちに、車を寄せてから随分時間が経ちました。◆◆
「申の時ばかりにものせしを、火ともす程になりにけり。つれなくて動かねば、『よしよし、我は出でなん。きんじにまかす』とて立ち出でぬれば、『とくとく』と手を取りて泣きぬばかりに言へば、いふかひもなさに出づる心ちぞ、さらに我にもあらぬ。」
◆◆申の時ほどに訪れて来たのでしたが、今はもう灯ともしごろになってしまいました。私がそ知らぬ顔をして動こうともしないので、あの人は「よいよい、私は出かけよう。あとはお前にまかそう」と言って出て行ってしまうと、道綱は「さあ早く、早く」と私の手を取って泣き出さんばかりに言うので、仕方がなく出て行く気持ちといったら、まったく自分のような気がしません。◆◆
「大門ひき出づれば乗り加ははりて、道すがらうちも笑ひぬべきことどもをふさにあれど、夢路か物ぞ言はれぬ。このもろともなりつる人も『暗ければあへなん』とて、おなじ車にあれば、それぞときどきいらへなどする。はるばると至るほどに、亥の時になりにたり。京には、昼さるよし言ひたりつる人々心づかひし、塵かい払ひ、門もあけたりければ、我にもあらずながら下りぬ。」
◆◆大門を車が出ると、あの人も乗り込んできて、道々、噴出してしまいそうな冗談を次々と飛ばしてきますが、私は夢路を辿る心もちで何も言えません。この一緒だった妹も、「暗いから構わないだろう」とて、同じ車に乗っていましたので、妹が時折返事などしています。はるばると遠い道を帰ってくると、亥の時刻になってしまっていました。京の家では昼の間に、あの人の出迎えのことを知らせてくれた人たちが気を配って、掃除をし、門も開けてあったので、そのまま中に入り、無我夢中で車を降りました。◆◆
■天下の猿楽言(さるがうごと)をいひののしらるめれど=ひたすら冗談ばかりを言い放つけれど。
■申(さる)の時=午後三時~五時ごろ
■亥(ゐ)の時=午後九時~十一時ごろ
「『このこと、かくすれば、出でたまゐぬべきにこそはあめれ。仏のことのよし申したまへ。例の作法なる』とて、天下の猿楽言をいひののしらるめれど、ゆめに物も言はれず、涙のみ浮けれど、念じかへしてあるに、車よせていと久しくなりぬ。」
◆◆あの人は、「この取り片付けを、この通り済ませたので、お出掛けなさらねばならぬようだな。ご本尊には退去の挨拶を申し上げなさい。きまった作法だから」と言って、ひたすら冗談を飛ばされるけれど、私は何も言葉にならず、涙ばかりが浮かんできますが、それをじっとこらえているうちに、車を寄せてから随分時間が経ちました。◆◆
「申の時ばかりにものせしを、火ともす程になりにけり。つれなくて動かねば、『よしよし、我は出でなん。きんじにまかす』とて立ち出でぬれば、『とくとく』と手を取りて泣きぬばかりに言へば、いふかひもなさに出づる心ちぞ、さらに我にもあらぬ。」
◆◆申の時ほどに訪れて来たのでしたが、今はもう灯ともしごろになってしまいました。私がそ知らぬ顔をして動こうともしないので、あの人は「よいよい、私は出かけよう。あとはお前にまかそう」と言って出て行ってしまうと、道綱は「さあ早く、早く」と私の手を取って泣き出さんばかりに言うので、仕方がなく出て行く気持ちといったら、まったく自分のような気がしません。◆◆
「大門ひき出づれば乗り加ははりて、道すがらうちも笑ひぬべきことどもをふさにあれど、夢路か物ぞ言はれぬ。このもろともなりつる人も『暗ければあへなん』とて、おなじ車にあれば、それぞときどきいらへなどする。はるばると至るほどに、亥の時になりにたり。京には、昼さるよし言ひたりつる人々心づかひし、塵かい払ひ、門もあけたりければ、我にもあらずながら下りぬ。」
◆◆大門を車が出ると、あの人も乗り込んできて、道々、噴出してしまいそうな冗談を次々と飛ばしてきますが、私は夢路を辿る心もちで何も言えません。この一緒だった妹も、「暗いから構わないだろう」とて、同じ車に乗っていましたので、妹が時折返事などしています。はるばると遠い道を帰ってくると、亥の時刻になってしまっていました。京の家では昼の間に、あの人の出迎えのことを知らせてくれた人たちが気を配って、掃除をし、門も開けてあったので、そのまま中に入り、無我夢中で車を降りました。◆◆
■天下の猿楽言(さるがうごと)をいひののしらるめれど=ひたすら冗談ばかりを言い放つけれど。
■申(さる)の時=午後三時~五時ごろ
■亥(ゐ)の時=午後九時~十一時ごろ