蜻蛉日記 中卷 (127)その1 2016.5.28
「心ちも苦しければ、几帳へだててうち臥す所に、ここにある人ひやうと寄りきて言ふ。『撫子の種とらんとしはべりしかど、根もなくなりにけり。呉竹も一すぢ倒れてはべりし、つくろはせしかど』など言ふ。ただ今言はでもありぬべきことかなと思へば、いらへもせであるに、眠るかと思ひし人いとよく聞きつけて、この一つ車にて物しつる人の障子をへだててあるに、『聞い給ふや、ここにことあり。この世をそむきて家を出でて菩提を求むる人に、只今ここなる人々が言ふを聞けば、<撫子は撫で生したりや、呉竹は立てたりや>とは言ふ物か』と語れば、聞く人いみじう笑ふ。あさましうをかしけれど、露ばかり笑ふけしきも見せず。」
◆◆気分も苦しいので、あの人との間には几帳を隔てて横になっているところへ、留守居をしていた侍女がひょいと近寄ってきて言うには、「撫子の種を取ろうといたしましたけれど、枯れて根もなくなってしまいました。呉竹も一本倒れてしまいました。手入れをさせましたけれど」などと言います。何も今すぐ言わなくてもよさそうなことだと思ったので、返事もしないでいますと、眠っているのかと思ったあの人が、耳さとく聞きつけて、この同じ車で帰ってきた妹が襖をへだてて寝ているのに向って、「お聞きになりましたか。ここに重大なことがありますよ。この世を捨てて、家を出て、菩提を求める人に、ただ今、当家の人たちが言うのを聞くと、撫子はなでて大事に育てたとか、呉竹は立てたとか、言っているではありませんか」と話しかけると、聞く妹も大笑いする。私も噴出しそうに可笑しかったけれど、少しも笑う様子をみせませんでした。◆◆
■ひやうと=ひょいと
■撫子は撫でおほしたりや…=撫子も呉竹も、子を愛し、めでたい植物である。両方とも俗世界を捨て菩提を求める人には縁のないものなのに、いかにも大事件のように侍女が報告したので、兼家がからかったのである。作者が不在の間面倒をみるように命じていたことが分ってしまった。
「心ちも苦しければ、几帳へだててうち臥す所に、ここにある人ひやうと寄りきて言ふ。『撫子の種とらんとしはべりしかど、根もなくなりにけり。呉竹も一すぢ倒れてはべりし、つくろはせしかど』など言ふ。ただ今言はでもありぬべきことかなと思へば、いらへもせであるに、眠るかと思ひし人いとよく聞きつけて、この一つ車にて物しつる人の障子をへだててあるに、『聞い給ふや、ここにことあり。この世をそむきて家を出でて菩提を求むる人に、只今ここなる人々が言ふを聞けば、<撫子は撫で生したりや、呉竹は立てたりや>とは言ふ物か』と語れば、聞く人いみじう笑ふ。あさましうをかしけれど、露ばかり笑ふけしきも見せず。」
◆◆気分も苦しいので、あの人との間には几帳を隔てて横になっているところへ、留守居をしていた侍女がひょいと近寄ってきて言うには、「撫子の種を取ろうといたしましたけれど、枯れて根もなくなってしまいました。呉竹も一本倒れてしまいました。手入れをさせましたけれど」などと言います。何も今すぐ言わなくてもよさそうなことだと思ったので、返事もしないでいますと、眠っているのかと思ったあの人が、耳さとく聞きつけて、この同じ車で帰ってきた妹が襖をへだてて寝ているのに向って、「お聞きになりましたか。ここに重大なことがありますよ。この世を捨てて、家を出て、菩提を求める人に、ただ今、当家の人たちが言うのを聞くと、撫子はなでて大事に育てたとか、呉竹は立てたとか、言っているではありませんか」と話しかけると、聞く妹も大笑いする。私も噴出しそうに可笑しかったけれど、少しも笑う様子をみせませんでした。◆◆
■ひやうと=ひょいと
■撫子は撫でおほしたりや…=撫子も呉竹も、子を愛し、めでたい植物である。両方とも俗世界を捨て菩提を求める人には縁のないものなのに、いかにも大事件のように侍女が報告したので、兼家がからかったのである。作者が不在の間面倒をみるように命じていたことが分ってしまった。