八六 頭中将のそぞろなるそら言にて (99) その1 2018.10.25
頭中将のそぞろなるそら言にて、いみじう言ひおとし、「なにしに人と思ひけむ」など、殿上にてもいみじくなむのたまふと聞くに、はづかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞きなほしたまひてむ」など笑ひてあるに、黒戸の前わたるにも、声などするをりは、袖をふたぎてつゆ見おこせず、いみじうにくみたまふを、とかくも言はず、見も入れで過ぐすに、
◆◆頭中将が、根も葉もないうわさ話で、私をひどく言いけなして、「どうして一人前の人間と思ったのだろう」などと、殿上の間においてもひどく仰ると聞くにつけても、気おくれもするけれど、「うわさが本当ならばそうだろうけれど、いずれ自然にお聞きになって思いなおされるでしょう」などと笑ってそのままにしていると、黒戸の前を頭中将が通るときも、私の声がするときは、袖で顔をふさいで、一顧だにせず、ひどくお憎みになるのを、私はどうこう言わず、そちらの方に目も向けないで過ごすうちに。◆◆
■頭中将=蔵人頭兼近衛中将。藤原斉信(ただのぶ)。996年3月まで頭中将。
■黒戸=清涼殿の北廊にある戸。またその戸のある部屋。ここは後者。
二月つごもり方のころ、雨いみじう降りてつれづれなるに、御物忌みに籠りて、「さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひにやらまし」となむのたまふ、と人々まて語れど、「世にあらじ」などいらへてあるに、一日しもに暮らしてまゐりたれば、夜のおとどに入らせたまひにけり。長押のしもに火近く取り寄せて、さしつどひて、扁をぞつく。「あなうれし。とくおはせ」など、見つけて言へど、すさまじき心地して、なにしにのぼりつらむとおぼえて、炭櫃のもとにゐたれば、また、そこにあつまりゐて、物など言ふに、「なにがし候ふ」といと花やかに言ふ。
◆◆二月の末のころ、雨がはげしく降って所在ない折に、宮中の物忌みに頭中将が籠って、「清少納言をにくらしいとはいうものの、やはり物足りなくてさびしい気がする。何か物を言いに人をやろうかな」とおっしゃる、と人々がわたしの所にやってきて話すけれど、「まさかそんなことはありますまい」などとあしらってそのままにしてして、一日中下局で過ごして夜になって参上したところが、中宮様はもう御寝所に御入りあそばしてしまったのだった。女房たちは下長押の下の次の間に、灯を近く取り寄せて、みな集まって、扁つきをしている。「まあうれしい。はやくいらっしゃい」などと、私を見つけて言うけれど、中宮様が御寝みあそばしていらっしゃるのに興ざめして、何のために参上したのかと思って、炭櫃のそばに座っていると、またそこに集まってみなで座って、話などしているうちに、「何の某が伺候しております」と、とても華やかに言う声がする。◆◆
■御物忌みに=帝の御物忌みの時は、侍臣は殿上の間に伺候して共に籠る。
■さすがに=清少納言と絶交していると
■扁(へん)をぞつく=漢字の遊び。「扁つき」「扁継ぎ」両説ある。
■なにがし=使いの者が自分の名をこれこれと言ったのを、作者が某と記した。
頭中将のそぞろなるそら言にて、いみじう言ひおとし、「なにしに人と思ひけむ」など、殿上にてもいみじくなむのたまふと聞くに、はづかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞きなほしたまひてむ」など笑ひてあるに、黒戸の前わたるにも、声などするをりは、袖をふたぎてつゆ見おこせず、いみじうにくみたまふを、とかくも言はず、見も入れで過ぐすに、
◆◆頭中将が、根も葉もないうわさ話で、私をひどく言いけなして、「どうして一人前の人間と思ったのだろう」などと、殿上の間においてもひどく仰ると聞くにつけても、気おくれもするけれど、「うわさが本当ならばそうだろうけれど、いずれ自然にお聞きになって思いなおされるでしょう」などと笑ってそのままにしていると、黒戸の前を頭中将が通るときも、私の声がするときは、袖で顔をふさいで、一顧だにせず、ひどくお憎みになるのを、私はどうこう言わず、そちらの方に目も向けないで過ごすうちに。◆◆
■頭中将=蔵人頭兼近衛中将。藤原斉信(ただのぶ)。996年3月まで頭中将。
■黒戸=清涼殿の北廊にある戸。またその戸のある部屋。ここは後者。
二月つごもり方のころ、雨いみじう降りてつれづれなるに、御物忌みに籠りて、「さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひにやらまし」となむのたまふ、と人々まて語れど、「世にあらじ」などいらへてあるに、一日しもに暮らしてまゐりたれば、夜のおとどに入らせたまひにけり。長押のしもに火近く取り寄せて、さしつどひて、扁をぞつく。「あなうれし。とくおはせ」など、見つけて言へど、すさまじき心地して、なにしにのぼりつらむとおぼえて、炭櫃のもとにゐたれば、また、そこにあつまりゐて、物など言ふに、「なにがし候ふ」といと花やかに言ふ。
◆◆二月の末のころ、雨がはげしく降って所在ない折に、宮中の物忌みに頭中将が籠って、「清少納言をにくらしいとはいうものの、やはり物足りなくてさびしい気がする。何か物を言いに人をやろうかな」とおっしゃる、と人々がわたしの所にやってきて話すけれど、「まさかそんなことはありますまい」などとあしらってそのままにしてして、一日中下局で過ごして夜になって参上したところが、中宮様はもう御寝所に御入りあそばしてしまったのだった。女房たちは下長押の下の次の間に、灯を近く取り寄せて、みな集まって、扁つきをしている。「まあうれしい。はやくいらっしゃい」などと、私を見つけて言うけれど、中宮様が御寝みあそばしていらっしゃるのに興ざめして、何のために参上したのかと思って、炭櫃のそばに座っていると、またそこに集まってみなで座って、話などしているうちに、「何の某が伺候しております」と、とても華やかに言う声がする。◆◆
■御物忌みに=帝の御物忌みの時は、侍臣は殿上の間に伺候して共に籠る。
■さすがに=清少納言と絶交していると
■扁(へん)をぞつく=漢字の遊び。「扁つき」「扁継ぎ」両説ある。
■なにがし=使いの者が自分の名をこれこれと言ったのを、作者が某と記した。