永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(392)

2009年05月20日 | Weblog
09.5/20   392回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(1)

源氏(六条の院、准太上天皇)39歳12月~41歳3月まで
紫の上           31歳~33歳
秋好中宮(冷泉帝の中宮)  30歳~32歳
明石の御方         30歳~32歳
明石の女御(前明石の姫君、東宮15歳へ入内) 11歳~13歳
  (桐壷の御方ともいう)若宮を産む
女三宮 (朱雀院の3番目の内親王) 13歳~15歳 (14歳で源氏に降嫁)
玉鬘   25歳~27歳
夕霧(権中納言、右大将)  18歳~20歳
柏木(衛門の督、督の君)  23歳~25歳
朱雀院  後に出家     42歳
朧月夜(前の尚侍、朱雀院と共にいた)  朱雀院出家後、実家(二條宮)に下がる


「朱雀院の帝、ありし行幸の後、その頃ほいより、例ならずなやみ渡らせ給ふ。もとよりあつしくおはしますうちに、(……)世に久しかるまじき心地なむするなど宣はせて、さるべき御心まうけどもせさせ給ふ」
――朱雀院は、あの六条院行幸の後の頃から、目立ってお身体がお弱りになっておられます。元来ご病気勝ちであったところに、(今度はとりわけお命のほども心細く思召されて、御母弘徽殿大后のご在世中はとにかくご遠慮申し上げなされて、今までご出家を躊躇されておられましたが)どうも長生きしそうもない気がする、などと仰せられて、出家のご用意をあれこれなさいます――
 
院の皇子たちは東宮の他に、姫宮が四方おいでになります。御母君もそれぞれ違っておられましたが、藤壺の女御とおっしゃる方は、先帝の皇女で源姓を賜った方でありましたが、その方は、

「まだ坊と聞こえさせし時参り給ひて、高き位にも定まり給ふべかりし人の、とり立てたる御後見もおはせず、母方もその筋となくものはかなき更衣腹にてものし給ひければ」
――(朱雀院が)まだ東宮の時代に入内されて、后の位にもお定まりになる筈だった方でしたが、特別の後楯になる方もいらっしゃらず、母方もこれという程の血筋でもなく、つまらない更衣の御腹でありましたので、――

「御交らひの程も心細げにて、大后の尚侍を参らせ奉り給ひて、傍らにならぶ人なくもてなし聞こえ給ひなどせし程に、気圧されて、」
――後宮でのご生活も心細げで、弘徽殿大后がお妹の朧月夜尚侍を院に参上おさせ申されて、無比の御寵愛を受けられるようにされたりなさったうちに、すっかり気圧されておしまいになりました――

◆藤壺の女御=先帝(名は定かではない。桐壷帝の前の帝)の皇女で、藤壺中宮の御姉君にあたる方。しかし御母は更衣という低い身分であった。

源氏物語を読んできて(391)

2009年05月19日 | Weblog
09.5/19   391回

三十三帖【藤裏葉(ふじのうらは)の巻】その(19)

 「上の御遊び始まりて、書の司の御琴ども召す。」
――堂上のお遊びがはじまり、書の司(ふんのつかさ)の仰せがあって、楽器などをお取り寄せになります。

「ものの興せちなるほどに、御前にまな御琴どもまゐれり。宇陀の法師のかはらぬ声も、朱雀院は、いとめづらしくあはれに聞こし召す。歌、
『秋をへて時雨ふりぬる里人もかかるもみぢのをりをこそ見ね』うらめしげにぞ思したるや」
――興がますますたけなわな頃を見計らって、お三方の前に御琴をさしあげます。朱雀院は和琴の名器「宇陀の法師」の変わらぬ音色を、まことに久しぶりにあわれ深くお聞きになり、お歌、「幾年の秋を経て里人となった身も、これほど結構な紅葉の折に会ったことがない」とお詠みになられたのは、ご在位中にこのような紅葉の宴のなかったことを、残念に思われましたのでしょうか――

 冷泉帝が、

「世の常の紅葉とや見るいにしへのためしにひける庭の錦を」
――昔の御賀に倣って催したこの宴を、普通の紅葉と思いましょうか――

 と申しあげます。

「御容貌いよいよねび整ほり給ひて、ただひとつものと見えさせ給ふを、中納言の侍ひ給ふが、ことごとならぬこそめざましかめれ」
――(冷泉帝の)お顔がますますご立派にお整いになり、源氏と瓜二つに拝されます。伺候している夕霧がお二人と別のお顔でないのが、目を驚かされます――

「あてにめでたきけはひや、思ひなしにおとりまさらむ、あざやかににほはしき所は、添ひてさへ見ゆ」
――夕霧は冷泉帝と比べて気高い美しさでは、思いなしか劣っているようでもありますが、鮮やかに艶やかな様子は、中納言(夕霧)の方が優っているようです――

「笛仕うまつり給ふ、いと面白し。唱歌の殿上人、御階に侍ふ中に、弁の少将の声すぐれたり。なほさるべきにこそと見えたる御中らひなめり」
――夕霧は笛を承ってまことに上手に吹いておられます。唱歌(そうが)の殿上人が階段に控えて歌う中で、弁の少将(柏木の弟)の声が誰よりも見事です。やはり前世の宿縁で、こうも立派な方ばかり揃われた両家の御仲のようです――

◆書の司(ふんのつかさ)=後宮十二司の一つで、帝のご常用の書籍、楽器、文具などの事を掌る。

◆写真:楽器(和琴)を準備する女房

「藤裏葉」の巻おわり。

源氏物語を読んできて(六条院御幸・一日晴れの裾)

2009年05月19日 | Weblog

◆一日晴れの裾(いちにちばれのきょ)
 
 束帯の袍(うえのきぬ)の下に着る内衣である下襲(したがさね)のすその部分を裾(きょ)という。平安時代初期までは等身であったが、次第に長くなり、官位の高さに応じて長く引きずるようになった。
 
 身分や年齢に応じて織紋や色目に差があったが、袍に比べて比較的自由であった。特殊な儀式や行幸、行啓の際には「一日晴」というその日い一日だけ特別な色、染物、唐織物の据が許され、華麗な衣装の競演となった。

 参考:風俗博物館

源氏物語を読んできて(390)

2009年05月18日 | Weblog
09.5/18   390回

三十三帖【藤裏葉(ふじのうらは)の巻】その(18)
   
 「わざとの大楽にはあらず、なまめかしき程に、殿上の童舞仕うまつる。……賀王恩といふものを奏する程に、太政大臣の御男の十ばかりなる、切におもしろう舞ふ。内裏の帝、御衣ぬぎてたまふ。太政大臣おりて舞踏し給ふ。」
――(楽所を召して)儀式ばった大演奏ではなく、優雅な程度に殿上童(てんじょうわらわ)が舞を舞います。賀王恩という曲に太政大臣のご子息で十歳ほどの御子が、たいそう上手に舞いました。冷泉帝はご自分の御衣をぬいで賜りますと、太政大臣は庭に降りてお礼の拝舞をなさった。―-

 「主人の院、菊を折らせ給ひて、青海波の折を思し出づ。歌、
『色まさるまがきの菊もをりをりに袖うちかけし秋を戀ふらし』」
――六条院の主人である源氏は菊をお折らせになって、あの昔、青海波を舞った日を偲ばれて、歌、「今は高位に昇っておられるあなたも、折々は昔私と一緒に青海波を舞った時のことをなつかしまれることでしょう」――

 「大臣、その折は同じ舞に立ち並び聞こえ給ひしを、われも人にはすぐれ給へる身ながら、なほこの際はこよなかりけるほど思し知らる。時雨、折り知り顔なり。歌、
『むらさきの雲にまがへる菊の花にごりなき世の星かとぞ見る』ときこそありけれ、と聞こえ給ふ」
――太政大臣は、あの時は源氏と共に青海波を舞われましたが、ご自分も人並み以上に出世なさりながらも、やはりこの方には及びもつかなかったと、つくづくと痛感なさったのでした。時雨が時知り顔に降り過ぎて興を添えています。歌、「紫雲にも紛う菊の花のようなあなたは、聖代の星かと思われます」今は又一段と眩いはなやかさで、と申し上げます――

 夕風が吹き落して敷く、紅葉の濃き薄きを敷く庭では、身分ある家の姿も愛らしい童たちが、白橡(しらつるばみ)、蘇芳(すおう)、葡萄染め(えびぞめ)などの下襲を、いつもどおりつけて、みづらに結い、額に天冠をつける位でちょっとした短い曲を舞っては、紅葉の陰に帰って行く頃、日の暮も惜しいほどに思われます。

◆写真:楽所の舞楽をご覧になる