舞踏<BUTOH>という言葉を世界中に広めた大野一男さんが、6月1日に亡くなられました。享年103歳です。
以前、同じ職場で働いていた女性が、廊下を歩くときや階段を上るときに両手を拡げて軽やかなステップを踏み、決裁文書はくるりと一回転してから差し出すので、仲間は奇異な目でみていました。
しかし、私は彼女が横浜の捜真女学校の出身だということを知っていましたので、特に驚きませんでした。彼女の女学生時代の体育教師は大野一男さんだったのです。体育館では、大野先生が大太鼓を「ドーン!」と鳴らし、「はーい、皆さん蝶々!」の号令のもとに生徒全員が蝶々になって踊るというのが授業だったそうです。
残念ながら、私は大野先生の踊りを直接見る機会はありませんでしたが、テレビの画面を通してでも、その独創的な表現に圧倒されるばかりでした。最後に見たときは、既に足が不自由で、白塗りをした片手だけでの踊りでしたが、鳥肌が立ったことを覚えています。
以下は、大野一男舞踏研究公式Webサイトよりの抜粋です。
「90歳を越えてなお第一線での活動は続いた。最後の海外公演は、1999年12月ニューヨーク、「20世紀への鎮魂」である。しかしこの年、目を患い、体力の衰えも顕著になった。そんな中、老いをダンスの糧とするかのように、大野一雄の踊りは続いている。一人で立って歩くことが出来なくなると、支えられて踊った。支えられても立てないときは、座ったまま踊った。足が不自由になると手だけで踊った。頭がもやもやするとひとりいざって、人はその背中を見て感動した。」
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2007年、大野一雄百歳の年ガラ公演 「百花繚乱」公演プログラム
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
以前、同じ職場で働いていた女性が、廊下を歩くときや階段を上るときに両手を拡げて軽やかなステップを踏み、決裁文書はくるりと一回転してから差し出すので、仲間は奇異な目でみていました。
しかし、私は彼女が横浜の捜真女学校の出身だということを知っていましたので、特に驚きませんでした。彼女の女学生時代の体育教師は大野一男さんだったのです。体育館では、大野先生が大太鼓を「ドーン!」と鳴らし、「はーい、皆さん蝶々!」の号令のもとに生徒全員が蝶々になって踊るというのが授業だったそうです。
残念ながら、私は大野先生の踊りを直接見る機会はありませんでしたが、テレビの画面を通してでも、その独創的な表現に圧倒されるばかりでした。最後に見たときは、既に足が不自由で、白塗りをした片手だけでの踊りでしたが、鳥肌が立ったことを覚えています。
以下は、大野一男舞踏研究公式Webサイトよりの抜粋です。
「90歳を越えてなお第一線での活動は続いた。最後の海外公演は、1999年12月ニューヨーク、「20世紀への鎮魂」である。しかしこの年、目を患い、体力の衰えも顕著になった。そんな中、老いをダンスの糧とするかのように、大野一雄の踊りは続いている。一人で立って歩くことが出来なくなると、支えられて踊った。支えられても立てないときは、座ったまま踊った。足が不自由になると手だけで踊った。頭がもやもやするとひとりいざって、人はその背中を見て感動した。」
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2007年、大野一雄百歳の年ガラ公演 「百花繚乱」公演プログラム
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。