黒鉄重工

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再訪のBC航空博物館 その3【2016/3/24】

2020-04-10 22:06:29 | バス・航空機撮影記
オーニソプターを前から見た写真。ところでどうやって操作するんだという疑問ですけど、ダ・ヴィンチの図案を再現しただけでそこらへんの実用性は考えてないのかしら。どの道飛行や滑空は無理そうだし。


シャヌート型グライダーのレプリカ。矩形の翼面を持つ複葉グライダーのことをそう呼びます。
オクターブ・シャヌートが考案したもので、1890年代から飛行に関する研究をする上で考え出されたもの。つまりまだライト兄弟が有人飛行する前のものです。


ピエテンポール エアキャンパー。1928年初飛行のホームビルド機、つまりキット形態で販売して購入者が自作する飛行機です。
エアキャンパーは操縦性が優しくて扱いやすかったんだそうな。


この博物館では一番異形な飛行機だろう、ギブソン ツインプレーンのレプリカ。手前側が前方です。1910年9月8日に初飛行したカナダで最初に設計、製作された飛行機です。ギブソンという人が開発しました。
ギブソンはまず6気筒の航空機用エンジンを開発して、それから飛行機の機体設計に着手しました。
前方に配されたホームベース状の翼は昇降舵を担うカナード翼になっています。方向舵は後部の2枚の尾翼で操作します。
初飛行時は7mしか飛びませんでしたが、同年9月24日の2回目の飛行では60m飛んだものの横風に煽られて木に衝突、操縦していたギブソンに怪我はありませんでしたが機体は破壊されてしまいました。


操縦系統は正直分からんなというところです・・・(._.)


エンジンは中央に1基あって、両端にプロペラを配置しています。推進力を確保したかったんだろうか。


試行錯誤の時代だなぁというお気持ちです。


横から。


アブロ アンソンMk II。1935年初飛行のイギリスの多用途機。輸送、連絡、偵察、沿岸哨戒、練習、爆撃なんでもござれ。
第二次世界大戦はもちろん戦後まで生産が続いたので1万1千機以上も造られました。カナダでもライセンス生産されて(アブロカナダ製だろう)、カナダだけでも4,413機造られて、多くはカナダ空軍で使用されました。パトリシアベイ基地にも配備されて、イギリス連邦航空訓練計画 (Commonwealth Air Training Plan) で運用されていました。練習機ですな。
この個体はBC州のフォート・セント・ジョンから寄贈されたものなのだそうな。


イギリス初の単葉、引込脚装備の航空機でした。
左に写っているエンジンはジェイコブスL-4MB 7気筒空冷エンジン。またの名をR-755。が、アンソンには使われていないはず。


胴体は鋼管羽布張りなのか。


機首はなんだか変な形をしていますな。風防の窓割りがなんだか独特。
機首の先端には窓が有りにけり。爆撃機の爆撃手の練習用かしらね。
床に置いてあるスキー板はアンソン用なのかは不明。見た感じちょうど良さそうですけど。


機内。通信士の席がよく見えます。


機首の窓から機内を見る。よく分からん。


あー、日本軍のビックリドッキリメカ、風船爆弾ですね。初めてここに来た時にまさかここにあるとは思わずびっくりしたので、よく覚えています。
端的に言えば、爆弾を付けた風船を日本本土から飛ばして偏西風に乗りながら北米大陸まで到達、ちょうど到達したところで時限的に爆弾が落とされてアメリカ本土を直接攻撃するという兵器です。
どこへ向かうかは偏西風任せの気まぐれな兵器であり、爆弾搭載量も20kg程度だでは攻撃力もたかが知れているので、心理的な嫌がらせ攻撃以上のものにはなりませんでした。

アメリカを狙った兵器ですが、気まぐれである以上隣のカナダに流れ着いた風船が900発くらいあり、カナダ空軍もこれの迎撃に追われることになります。後方の訓練基地だったパトリシアベイ基地は警戒レーダーと迎撃戦闘機も配備される前線基地になりました。はた迷惑な話です。


爆弾と重りの懸架装置。気圧計とかも含まれているはず。これで高度調整します。
打ち上げられた風船の中のガスは徐々に抜けていってすると高度が下がっていくわけですが、それを気圧計が検知すると重りの一部を切り離して重量を軽くします。すると高度が回復するわけですね。この動きをアメリカに辿り着くまで続けるのです。よく考えついたなと思います。


リンカーン スポーツというホームビルド機。1920年代のホームビルド機全盛期に発売されていた複葉機です。リンカーン社は、自動車のリンカーンとは接点ないようです。
キットの中にエンジンは入っていなかったようで、購入者が別途選択する方式だった模様。別途購入部品の必要な鉄道模型みたいだな。
エンジン以外にもこういう別途購入部品が多かったらしく、その煩雑さから完成した機体は少なく、かつ現存するものは数機しか残っていないのだそうな。
この個体は数少ない完成品で飛行もしていましたが、その後博物館に寄贈されるまで長年放置されていたので荒廃してしまいました。寄贈後は博物館の手で主翼と胴体を作り直しています。



第二次世界大戦後のホームビルド機は製作の簡素化やキットの中に必要な部品が全て含まれている等で、できるだけ完成に近づける工夫がされているのなーと思った次第。

今日はここまで。



再訪のBC航空博物館 その2【2016/3/24】

2020-04-08 20:59:22 | バス・航空機撮影記
カナダ ビクトリアにあるBC航空博物館に行ってきた話の続き。
これはフェアチャイルド・カナダ ボーリングブロークMk IV。通称ボリー。イギリスのブリストル ブレニムをカナダでライセンス生産した双発の爆撃機兼沿岸哨戒機です。ボーリングブロークの初飛行は1939年9月、生産数は626機。
ブレニムの初飛行は1936年6月。当時としては先進的で、同時期の戦闘機よりも速い速度(266mph=428km/h)を出せる高速機で、航続距離も長かったのです。ただしこの時代の航空機の進歩は目覚ましいものでしたから、数年後には陳腐化してしまうのですが・・・。


別角度から。
ボーリングブロークが生産され始めた1939年には爆撃機としては性能不足になり始めていたので、カナダでは潜水艦の哨戒機や練習機として運用されました。ビクトリア空港はカナダ空軍のパトリシアベイ基地を転用したものですが、同基地にはボーリングブロークを運用する第3運用訓練飛行隊が配置されていました。

この個体は第二次世界大戦後にビクトリアの近くのソルトスプリング島の牧場主が牧場内で使うために購入したもの。主翼は屋根に、尾部はひつじの小屋に、エンジン排気管はいちごの植木鉢に・・・という具合です。
1979年に牧場主が博物館に部品を寄贈しました。博物館は同機の復元に着手し、他所から別の胴体を運んできてニコイチしたりボランティアや大学生の手により1996年に復元作業を完了させて現在に至ります。
この個体のサブタイプは資料により哨戒機型Mk IVとその練習機型Mk IVTと表記揺れが起きているんですが、ニコイチのせいでしょう。


機首の航法士の窓から。前回説明したMk.7針路設定爆撃照準器っぽい装置がありますね。
イギリスの爆撃機はランカスターかウェリントンくらいしか知らんもんですから、ボーリングブローク(ブレニム)は初見なわけです。


航法士席を上から。飛行経路を導く地図やなんやがあって分かりやすい展示になってます。


操縦士席。


尾部の方を見る。


胴体尾部に据えられている回転銃座。銃は7.7mmブローニング機関銃。


機内の座席。


爆弾庫。対潜水艦用の爆雷とかを積んでたんじゃないかしら。


謎筒。爆雷?

ボーリングブロークはカナダに約10機、イギリスに約5機が現存します。ちなみに元になったブレニムはろくな現存機は1機くらいしかいません。イギリスでは消耗してしまってろくに残らなかったのだろうか。


フリート モデル2複葉水上機。この博物館ではこの個体 (CF-AOD) をブリティッシュコロンビア州の航空分野の象徴として扱っています。
ブッシュプレーン(Buch plane; 未開地航空機)という分野がカナダにはありにけり。文字通り未開地の資源探査、管理、保護や地形調査、救難救助を目的とする飛行機です。険しい地形を長距離飛行でき、不整地や水面上に短距離で離着陸水できる能力が求められていました。
フリート モデル2は実は積載能力と航続距離に難有りの機体だったのですが、1930~1971年の長い間現役でした。引退時はカナダで最も古い現役機でした。


好ましい複葉水上機です。
エンジンはキナーK-5 (Kinner K-5) 5気筒空冷エンジン。排気集合管の形状がなんだか独特。


尾翼の表記。


機体構造は胴体が鋼管羽布張り、主翼は木製の骨格に羽布張りです。で、この展示は骨格から羽布張りが出来るまでの模型です。左から右に向かって進行します。
  • 1番目は骨格だけの状態です。
  • 2番目は主翼前縁と後縁に補強用のアルミニウム板を貼り付けた状態です。ついでに、羽布の布を主翼の助材(リブ)に縫い付ける時の仕事も見せています。
  • 3番目は布生地を貼り付けて2番目のように主翼助材に縫い付けます。この展示では「セコナイト生地」を貼り付けて熱を当てて収縮させて固定させた状態です。セコナイト生地 (Ceconite fabric) はポリエチレンテレフタレート、つまりPET系の化学繊維の銘柄です。アメリカではダクロンと共に有名な素材だそうな。この素材は第二次世界大戦後に開発されたもので、それ以前は綿や亜麻布の生地が使われていました。
  • 4番目は生地繊維を紫外線から保護するために酸化銀を塗りつけます。
  • 最後の5番目は任意の塗料で塗装します。モデル2だと黄色ですね。

余談ですが、羽布張り展示の左にある看板には「All donations are welcome」と書かれていて、つまり「全ての寄付を歓迎します」ということです。この博物館に限らず、館内の至るところに寄付をお願いする掲示がされているのです。ここの運営はボランティアなので人件費はあまり掛かってないと思いますが、それでも固定費や復元費は必要ですしね。
日本の博物館も特に小規模なところはこれくらいお金にがめつくてもいいと思うんですよねぇ。経理的なアレがあるかも分かりませんが・・・。


航空博物館の常連、ノースアメリカン ハーバード。ハーバードはイギリス名で、本名はT-6テキサン。弊ブログではもはや説明不要なほど登場している第二次世界大戦時の高等練習機です。よって説明不要。
この個体は複数機をニコイチして復元した機体です。ハーバードMk II、Mk IV、AT-6テキサンの部品から構成されています。2012年8月に復元完了したとのこと。



楓印の国籍章なので第二次世界大戦後の形態で復元したのですね。






親の顔より見た練習機。


エンジンカウルですね。


ヒエッ!!
エンジンカウルの中で就寝刑(15年)を受けているダイエル(仮名)。


ASGレーダーという対潜水艦用のレーダー。多発機に搭載する装置なので小型です。PBMマリナー、B-25ミッチェル、B-24リベレーター等に搭載されたそうな。


レーダーの受信機。

というところで今日はここまで。



【1/144】RX-9/C ナラティブガンダムC装備【ギャラリー】

2020-04-05 23:13:29 | 模型ギャラリー
キット:HGUC#222 ナラティブガンダムC装備(バンダイ)
仕 様:C装備
製作記はありません。
<使用塗料>
機体:H1ホワイト:H22グレー=9.5:0.5
機体青装甲:H1ホワイト:H49すみれ色=3:2
足:H45ネイビーブルー:H5ブルー=4:1
胴体赤:N3レッド:N1ホワイト=1:1
胴体青:H5ブルー:H1ホワイト=1:1
ライフル:H55ミッドナイトブルー:H2ブラック=7:3
サイコフレーム:C151ホワイトパール→つやありトップコート
バーニア:H76焼鉄色


映画館で「機動戦士ガンダムNT」を見て作りたくなりました。フェネクスも作りたいけどまだキットを買ってもいない・・・。


いつも通りキットは素組で全塗装しました。
全身の透明赤のサイコフレームは急ごしらえで外付けしたという設定上よく目立つので、ホワイトパールを吹いてキラつかせています。


よわそう。





大見得。








以上、ナラティブガンダムC装備でした。

東北project~Trains' last tour. その2【2017/10/7~8】

2020-04-04 22:15:32 | 旅行・イベント記

しばし山形新幹線を撮影後は山形交通高畠線の廃線跡走行に復帰します。前回書いた通り高畠線は廃線跡が遊歩道になっていて、私はそこを自転車走行しています。
写真は曲線の部分を道路が横切っているところで、これは踏切の跡です。道路同士の交差点だと中々こういう線形にはならず、鉄道と道路の交差特有のものです。これだけあからさまだと、この道が廃線跡という事前情報無しでも察することが出来ますね。

一応、山形交通高畠線について少し。山形交通とは今まで接点のない人生でしたのでネットに書かれていること以上のことは書けないので少し。
元は高畠鉄道が建設した路線で、開業は1922(大正11)年3月16日、廃止は1974(昭和49)年11月18日。糠ノ目(現・高畠駅)~二井宿10.6kmの路線でした。
開業時の高畠は製糸業が盛んだったのでその製品の輸送用に建設された路線でした。1929(昭和4)年に電化し、貨物輸送も多品目を運びましたがトラック輸送への切り替えと1966(昭和41)年の水害による半分の区間の不通からの廃線が影響して、全線廃止になりました。

今回は糠ノ目~高畠間をチャリで走ります。



高畠駅から約3km地点。これもあからさまに痕跡が残っている地点ですね。駅だったところです。島式ホームが残っているのが分かるでしょう。
ここは旧竹ノ森駅です。ここが最初の途中駅かと思ったら実は2駅目で、途中にあった一本柳駅を見逃していたようです。あまり痕跡が無かったしやむ無し。



プラットホームには生け垣が植わっていますが、土台は当時のままでしょう。



途中は基本的に田んぼの中を突っ切っていきます。秋の風物詩、稲木がありました。この干し方は初めて見たので写真に撮りましたが、棒掛けというのですね。



平地に唐突にある山。まさに山。山の名前は相森山です。



右手に池が見えてくれば目的地はもうすぐそこです。



着きました、「高畠広場」こと旧高畠駅です。JR高畠駅から約5km。ややこしいですが、今のJR高畠駅は1991(平成3)年に糠ノ目駅から改称したものです。東海道線の鈴川駅→吉原駅みたいな感じですね。
で、旧高畠駅には高畠線で使われていた電車、貨車、電気機関車が3台も保存されているのです。これを見に来ました。



順番に見ていきましょう。これはモハ1形電車。1929(昭和4)年電化時に導入された日本車輌製13m級の自社発注車です。ただし1959(昭和34)年に車体更新しているので、見た目は確かに50~60年代っぽい。
とはいえいかにも地方の小私鉄という風貌です。



特徴がないのが特徴の三面窓。鉄道模型の自由形電車みたい。



車内には入れないですが、車体はとてもきれいに維持されています。正直驚きました。



運転室はこんな感じで半室構造。



客室はロングシート。車内もキレイそうです。



パンタグラフ。目立つ欠品が見当たらないのもすごい。



台車はちょっと見たことのない形状をしています。鉄道省のTR23になんとなく似ていて、TR23を小型軽量化したような見た目をしています。



ワム201号。鉄道省ワム23000形と同型車のような気がしますが詳しいことは不明。
保存車の中でも貨車は基本的に冷遇される立場ですが、よくぞ残りましたね。貨物輸送で賑わっていたことを示す高畠鉄道の証人です。中々貴重な現存例だと思います。



ED1号機電気機関車。電化時に川崎車両で製造されました。なんか既視感があると思ったので帰ってから当たってみたら、今は上毛電鉄にいるデキ3021号機と同型機でした。



大変好ましい凸型電気機関車。



1950年代にED2号機を増備するまで、これ1機で貨物輸送を担っていたそうな。故障時や検査時はどう凌いでいたんだろう・・・。電車か電化前使っていた蒸気機関車あたりを代理の牽引機にしていた?



中小私鉄の、しかも貨物鉄道主体の路線で電化しているのは当時としては珍しいはずで、結構需要旺盛で収益も多かったのでしょうか?



車内は年月が経っている割によく残っているのではないでしょうか。



パンタグラフとか。
現役時は切り抜き文字でED1の文字が貼られていたんですが、今は無いです。



線路は周りの地面よりも一段下がった高さにあります。恐らく元あった線路を利用しているのでしょう。
線路の周りはプラットホーム風になっていますが、これが当時からのものなのか新しく建てたのかはちょっと分からないです。



以上、高畠線の保存車両でした。
廃線から40年以上経っていることを考えると、とても良い状態で維持されていると思います。廃線になった地方私鉄は10年も経つと忘れ去られて保存車も段々荒れていって・・・ということが往々にしてありますが、ここはそんな事は感じさせない様子です。
2014(平成26)年には屋根も追加工事されたみたいで、東北地方特有の雪害にも対策できたと言えます。屋根工事後に車両にも手入れが入ったと思われ、外観も良好です。
40年以上経ってなお市民に親しまれる保存車両はありふれたことではないです。3台とも末永く親しまれるといいなと思いました。

・・・と軽く締めてしまいましたが、まだ見るものがあります。しかし今日はここまで。



東北project~Trains' last tour. その1【2017/10/7~8】

2020-04-03 22:42:22 | 旅行・イベント記
保存鉄道に乗ってみたいというのがそもそもの動機の始まりであった。
そうなると次に考えるのはどこへ乗りに行くかということだが、色々選択肢が浮かぶ中で宮城県の旧くりはら田園鉄道の保存鉄道に行くことに決めた。
さらにはどういう手段で行くかだが、JR東日本の乗り放題切符「週末パス」を主軸に回っていくことに決めた。
最後にどういう経路で行くかだが、それはこれからつらつらと書いていこうと思う。
というわけで始まり。


2017年10月7日。
朝6時の静岡駅。まずは東京駅までバビュッと出るために新幹線に乗ります。
今から乗る静岡駅上り列車初電の「こだま」700号は変わった入線の仕方をします。東静岡駅にある新幹線の夜間留置線を出発したN700系は、下り本線を逆走しながら静岡駅構内に入ってきて、ホームに入る直前に渡り線を渡って上りホームへ入ってくるのです。
こだま700号は静岡6:22発、東京7:36着。東京着がいささか遅いよなぁという気もします。これより早く着こうと思うと5時台の東海道線に乗って三島駅まで先回りしてそこから三島始発のこだまに乗るか、かくなる上は夜行バスに乗るか。ただ夜行バスは寝ていられる時間が実質5時間くらいしかないので、これ翌日辛いやつだから敬遠している向きあり。


で、東京駅に着いたら週末パスで東北新幹線のホームに入場。
週末パスは使用開始日の前日(つまり金曜日)までしか購入できないよそ者お断りの切符です。なので前週に最寄りのJR東日本の駅である熱海駅まで出張ってきたんですね。
とりあえず出発まで新幹線を撮影します。これはE7系「はくたか」553号。


E2系1000番台+E3系2000番台の回送。


E3系は新塗装でした。もうほとんど全て新塗装だったはず。東日本は最近は屋根に色を塗るのが好きよね。


E4系+E4系「Maxとき」305号。二階建て16両編成はやはり圧巻なのですよ。


JR西日本の700系3000番台とE6系。


それではE3系2000番台の「つばさ」175号に乗ります。東北新幹線系統に乗ることはそう無いことなので、ちょっとわくわくしますね。


一気に福島駅まで行きまして、そこから山形新幹線へ分岐。


地上を走ってるし踏切もあるし、というのがミニ新幹線なのだなぁ。新幹線に直通できる在来線特急というかんじ。


山形新幹線といえば板谷峠ですね。福島駅を出て程なく、どんどん山深くなっていくぞ。フル規格新幹線も山の中通ると言ってもあれは隧道と橋梁でぶち抜いていくものですが、山形新幹線は異質の沿線風景でここは奥羽本線なのだ。


これが峠駅か。在来線でのんびり乗ってみるのも一興ですが本数がな・・・。


板谷峠を越えると、山形県の平野部へ。目まぐるしく変わるものですな。


高畠駅で下車しました。


「つばさ」と列車交換した719系5000番台米沢行。


高畠駅の駅舎。一見立派ですが実態は太陽館という温泉施設。JR高畠駅よりも太陽館の方が上に来ているし文字も大きいし・・・。
駅前ではちょうどお祭りみたいなものが催されていて、露店がいくつも並んでいました。なので駅舎の遠景は撮れなかったぞ・・・。

高畠駅では観光案内所で貸し自転車を借ります。これに乗ってかつて高畠駅から分岐していた山形交通高畠線の痕跡を辿りに行きます。


高畠線の廃線跡は遊歩道になっています。痕跡は薄いですが線形は良く残っていて線路跡を辿るのは容易です。さすがに高畠駅のホームや駅舎は残っていませぬが。


少し脇道に逸れて、山形新幹線の撮影をします。日の出ない曇り空で光量が足りないのが辛いです。
まずはE3系1000番台「つばさ」127号。銀塗装が秀逸だったので紫の新塗装は未だ慣れぬものがあります。新型のE8系が出てくればその違和感も無くなるかもしれませぬが。


次にE3系700番台「とれいゆつばさ」1号。これはE3系旧塗装を踏襲した塗装で良いですよね。


世界最速の足湯と言っても基本的に東北新幹線を走ることは無いからせいぜい120km/hしか出さないのよな。それでも速いと言えば速いです。


最後に719系5000番台山形行。

それでは高畠線辿りを再開しましょう。



再訪のBC航空博物館 その1【2016/3/24】

2020-04-01 23:49:01 | バス・航空機撮影記
2016年3月24日。
ビクトリア空港の脇にあるブリティッシュコロンビア航空博物館 (British Columbia Aviation Museum; 以下BC航空博物館) に行ってきました。ボランティアにより運営されている小さな博物館ですが、大きな博物館では置かないようなニッチな機体が多いです。あとは小さな博物館特有の緩さもあるので機体に近づき放題だったりします。
何度か行ったことがある場所ですが、さらにもう一度行ってきました。この頃既にカナダ住まいで広げてきた風呂敷を少しずつ畳む準備を始めていましたが、これもそのひとつというわけです。
最初に訪れた時よりは相対的に航空に関して自信ニキなので何か新しい発見があるやもしれんというのもあります。


では順番に見ていきましょう。これは王立航空工廠 (RAF) S.E.5
1916年初飛行、第一次世界大戦時代のイギリス空軍の戦闘機です。キャメルとともに当時のイギリス戦闘機の代名詞です。
これはその7/8縮尺の模造品でBC州在住の男性が作り上げたものを博物館に寄贈したもの。


パイロットのデニス(仮名)。
上翼に付いているルイス機関銃に注目。色々苦しいですが当時はこれが最適解だったのだろうなと。本当は操縦士の目線の先に据えてやれば狙いがつけやすいんでしょうけど、そうするとプロペラを撃ち抜きかねませんし。
機関銃は胴体に取り付けられた架台を介して装備されています。これはフォスター銃架と呼ばれるやつで、射撃時は席に座りながらケーブルを引いて遠隔で撃つことが出来ました。さすがに立ちながら撃つってことはしない。
フォスター銃架はスライド式で、弾切れになったら機関銃を手前に引き寄せて弾倉交換できるというスグレモノでした。


尾翼。まあよく分からん。


エンジン。本当のS.E.5はイスパノ・スイザ8気筒液冷エンジンですが、7/8縮尺のこれはコンチネンタルの4気筒空冷エンジンで代替しています。
ですがこれはイスパノ・スイザっぽいですががが・・・。


狙いを定めるデニス(仮名)。


ニューポール17の7/8縮尺レプリカ。これは第一次世界大戦時のフランス製戦闘機です。ただし国籍章はイギリス。これは形状がよく洗練されていて好きです。


15世紀末にレオナルド・ダ・ビンチの考案したオーニソプターの模型。人類が飛行しようと試みる中で考案された航空機のひとつです。
オーニソプターは、鳥類や昆虫みたいに翼を羽ばたかせて飛行しようと試みたものです。日本語だと羽ばたき式航空機ですかね。
鳥が羽ばたいているのを真似すれば人間でも飛べるんじゃね?と考えてそれを模倣しようとするのは自然なことでしたが、羽ばたくだけでは飛べなかったのでした。結局ライト兄弟が固定翼で有人飛行を成功させるとオーニソプターの開発は一気に下火になってしまい主流から外れてしまったのは今の航空機を見れば自明です。


こりゃ鳥ですね、という形状。


パッカード製マーリン12気筒液冷エンジン。第二次世界大戦時、スピットファイア、ランカスター、モスキート、マスタング等に搭載されたロールスロイスの傑作エンジンをアメリカのパッカードがライセンス生産したもの。いわゆるパッカード・マーリンV-1650。
これは中でもV-1650-3型で、マーリンMk.29相当のエンジンです。カナダ製のハリケーンMk.XIIに搭載されていました。


  


過給器も付いているのは高得点。
マーリンが第二次世界大戦を通じて第一線を張れたのは過給器の性能向上あってのことでしたが、それは今回は置いておきます(手抜き)
この過給器は初期の1段1速型ですしおすし。ハリケーン用だからね、しかたないね。


過給器の製造番号と思われ。


スピットファイアの7/8縮尺模型。


説明書きが無かったのでなんとも言えないですが、Mk.IXかしら。


イギリスのMk.7針路設定爆撃照準器 (Course Setting Bomb Sight; CSBS)というもの。これ、初めて見たな。前回来たときは見逃したか・・・。
爆撃機が目標を爆撃する際は基本的に直進水平飛行しながら投下地点で爆弾投下するわけですが、地球上の大気中には大抵の場合風が吹いていますのでバカ正直に直進水平飛行をしていると風に流されてしまって目標を外してしまうのです。
そのため、爆撃手は自機の速度と高度と向き、吹いてくる風向きと風量なんかを計算しながら投下位置を決定しなけりゃならず、頭を使う職業だったわけです。で、CSBSはその風の影響を測定して自動計算して補正、爆撃精度が上がるという簡易爆撃管制装置ともいえる素敵装置でした。私もよく理解していないので詳しい仕組みは割愛しますががが・・・。
同時期の爆撃照準器で最も先進的だったのはノルデン式爆撃照準器ですが、これはどうだったんでしょうね。ノルデン式ほどの評判は聞いたことありませんから、補正後の操縦は手動だったんじゃないかと思います。ノルデン式ほどの性能は無かったでしょう、たぶん。
日本軍ではそういう爆撃照準器の話を何も聞かないので、たぶん根性で爆弾を当てていたんだと思います。

ちなみにCSBSの開発はイギリス海軍が行ったものでした。上空から見れば米粒みたいでしかも移動する目標であるところの戦艦は、爆撃機の爆撃では当てるのがとても難しいというのは想像できます。そういう事情で開発されたんでしょう。
これはアメリカのノルデン式爆撃照準器も初めは海軍が開発した装置だという点と共通するもので、開発背景は似たようなものなのだなぁと。


で、これがノルデン式爆撃照準器閣下 (Norden Bombsight) 。ただこれ上側の照準器しかなくて片手落ち感が。
前も説明した覚えがありますが、ノルデン式は照準器と安定装置の2つの装置で構成されています。単なる照準器とか針路補正装置とかではなく、補正計算した結果を装置が機体に反映させて機体を自動操縦してしまい最後には爆弾投下もやってしまう豪快な装置なのです。アナログコンピュータが詰まった精密装置で、戦時中は最高機密に指定されていた装置なのでした。


そうは言っても動かすには熟練が必要だったそうなんで、どうやって操作するのかは分からん。爆撃手を養成する専用の練習爆撃機を造ってしまうくらいだからね。


水平器。あとはジャイロですかねぇ。


イーストマンE2シーローバー (Eastman E2 Sea Rover)。飛行艇ですね、これは。
1929年に全部で16機生産されて内5機がBC州へやってきて、鉱山の探索や金鉱での作業に従事していた模様。
これは博物館のボランティアの手によって2機のシーローバーをニコイチして1機に復元したもの。


エンジン部。飛行艇なのでエンジンは水を被らないように胴体の上に付いています。紅の豚の豚が乗っている方と同じです。
エンジンはカーチスR-600チャレンジャーを使っていました。


原型の主翼リブ。

というところで今日はここまで。