「二人の静」
「静(しずか)」という名の男性を私は二人しか知らない。静氏同士に接点はないが、私の人生の転換点において、多くの強烈な示唆をいただいたという点で共通している。残念なことに、お二人ともすでに故人である。
白川静先生は、中国文学を修め、甲骨文、金文等の中国古代の文献を渉猟し、漢字の起源を究められた大学者である。苦学して立命館大学を卒業し、その後、同大学で教鞭を取りながら研究に没頭された。昭和40年代の学生運動が吹き荒れたころ、先生は学生部長として学生たちとの激烈な団交を経験された。吉本隆明氏の談だと思うが、その最中にあっても先生の研究室の灯は毎夜消えることがなかったという。だが、先生がそのことを否定するのを私は直接耳にしている。大学のキャンパスが封鎖されたときだけは、さすがに私も研究室には入れなかったよ、と。
先生の研究は、甲骨文などの原資料に基づくもので、中国文学や漢字学の大家の言葉遊びに近い通説に対し、下品な説だ、などと切り捨てた。歯に衣を着せない批判は、肉眼では見えない遠くの地平を見晴るかすように広大で、かつ、誰も究めたことがない深みまで到達しようという意欲的な先生の研究に裏打ちされたものだった。華々しい業績をあげ碩学といわれた学者は過去にも存在したが、「現代最後の」という賛辞を冠するにふさわしい大学者は、先生をおいて他にない。
私が学業を放棄し各地を流浪していたとき、たまたま「漢字」(昭和45年刊岩波新書)の著者が立命館大学教授と紹介されていた。退屈しのぎに読み進めるにつれ、それまで何の興味もなかった漢字の魅力が、砂漠に置いてきぼりになって乾燥しきった私の体中に、滝の水のように勢いよく流れ込んできた。そして、昭和46年、自分が立命館に入学し、東洋史専攻のクラスに在籍していたころ、この本と出会うか、あるいは中国文学の教室で講義していたであろう先生を知っていたなら、大学を中退しない方途があったのかもしれない、という思いで頭の中が熱くなった。その本を読んだことが復学の直接的な動機にはならなかったが、その後1年以上の放浪の末、京都に戻ることを決意したとき、自分の進むべき方向性はこの本によってすでに指し示されていることを知っていた。
50年に復学してまもなく、主に龍字などの動物文字の概念が中国古代の祭祀から生まれたことを証明しようという大それたアイデアを思いつき、先生から参考文献のアドバイスをしていただいたが、他のことに気を取られて本気で文献を探さなかった記憶がある。今さらながら、自分が出来そこないの教え子だったことが悔やまれてならない。
先生は専門分野以外にいろいろな趣味を持ち、幅広い人となりを感じさせた。食への造詣も深かった。研究室の電気コンロが壊れたとき早く直してくれとうるさかった記憶があり、そのころは先生を単なる食いしん坊だと思っていたのだが、その評価は間違いだったのだろうか。
卒業後、実物の先生にお会いしたことはないが、先生の映像は文化勲章受賞前後のテレビで拝見した。90歳を過ぎたとは思えないほど闊達なしゃべり口の庶民的な先生の姿がまぶしく感じられた。白川先生は、平成18年10月、96歳で逝去された。
笠原静氏は、北海道の凍てつくオホーツクの大地を本拠地とし、海洋系の重機のオペレーターを生業としながら、名もない一庶民として暮らした。しかし、慎ましやかというわけではなく、酒、博打、女などの分野で人並み以上に名を馳せた。
私たち夫婦がその地に赴いたのは昭和の最後の年だった。氏は仕事柄、北海道内だけでなく全国をとび歩いていたので、氏と会う前に、近所に住んでいた奥さんとその娘たちと顔見知りになった。当時は母子家庭なのかと思うほど、長期間にわたり氏を見ることがなかった。本人がいない間も家族と様々な人生の問題を議論した。それから数ヶ月後のこと、私たちが氏の家にいたとき、何の前触れもなく帰宅した氏と対面した。初めて会ったとは思えない氏の自然な立ち居振る舞いに、場は一気に盛り上がり、翌朝まで酒場兼賭博場になった。
氏はあらゆる遊びに精通していた。特に賭け事のためなら遠くまで出かけたが、抜きんでた才能があったとは思えなかった。それでも勝ったときは周りに大判振る舞いする癖があったので、娘や友人たちからは慕われていた。
氏は博打運など問題にならないほど強い運勢を持っていた。あるときの船舶による作業中、突然の時化に遭い乗っていた船がひっくり返り、氏は船内に取り残されてしまった。大揺れに揺れる船室には徐々に海水が浸入し、どれくらいの時間が経過したか定かではないが、息苦しくなってきて、もうこれまでかとあきらめかけたとき、ドカンという大きな衝撃が来て、船の揺れがおさまったと思ったら、陸地に打ち上げられて助かったのだという。
その地を離れてからも、折りに触れ氏の家に遊びに行った。そして、数年後のこと、氏が末期の肺ガンで余命数ヶ月と診断されたと聞き、妻とともに駆けつけた。家族は、氏の行動の自由を束縛したくないと考え、ガンの告知をしていなかった。心配した昔の仲間たちが集まり、若かりし時代の出来事をつい昨日のことのように振り返るのだったが、時たま飛んでくる氏の辛辣な冗談に受け答えしているうちに、氏がそんな病を患っていることを忘れ、酒と博打にのめりこんで行った。最後の博打は、氏が勝負に勝つ翌朝まで続いた。そのとき私たちは、疲労の色が濃い氏の様子に我に返り、次に会える日が来るのかどうかと胸がふさがる思いだった。
笠原氏の悲報は、氏の娘からの電話で函館にいた私たちにもたらされた。その電話の呼出音が鳴る直前、居間の窓ガラスに堅い石がぶつかったような鋭く大きな衝撃音に驚いたことを思い出す。友人の車でオホーツクの沿岸にたどり着いたとき、9月下旬だというのに気温が30度を超え、町は真夏の活気に沸いていた。
葬儀会場にいち早く着いていた年上の友人が、二人で弔辞を読もう、と声をかけてきた。通夜では、にぎやかなことが好きだった氏の思いを受け、皆陽気に飲み、しゃべり、打った。翌日の告別式で、私は、親の年齢に近い笠原氏から、対等な大人として、人生において重要な位置を占める酒や博打などの享楽と、思い切りのよい生き方について教わり、それによって、自分の偏向した性格を打破できたことに対し、深い感謝の気持ちを伝えた。年上の友人の弔辞が終わり、家族や友人とともに心のおもむくまま駆け抜けた氏の人生を改めて振り返ると、悲しみがこらえきれなかった。笠原氏は、平成11年9月逝去され、享年67歳の生涯だった。(H21.12了)
※ウィキペディアで調べると、「吉本隆明氏」は私の勘違いで、「高橋和巳氏」(故人、小説家、中国文学者、立命館大学講師)だったのかもしれない。高橋和巳氏は、悲の器、邪宗門などの著者で、私が立命館に入学した1971年5月に逝去された。追悼の催しが学内で行われたのを記憶している。
「静(しずか)」という名の男性を私は二人しか知らない。静氏同士に接点はないが、私の人生の転換点において、多くの強烈な示唆をいただいたという点で共通している。残念なことに、お二人ともすでに故人である。
白川静先生は、中国文学を修め、甲骨文、金文等の中国古代の文献を渉猟し、漢字の起源を究められた大学者である。苦学して立命館大学を卒業し、その後、同大学で教鞭を取りながら研究に没頭された。昭和40年代の学生運動が吹き荒れたころ、先生は学生部長として学生たちとの激烈な団交を経験された。吉本隆明氏の談だと思うが、その最中にあっても先生の研究室の灯は毎夜消えることがなかったという。だが、先生がそのことを否定するのを私は直接耳にしている。大学のキャンパスが封鎖されたときだけは、さすがに私も研究室には入れなかったよ、と。
先生の研究は、甲骨文などの原資料に基づくもので、中国文学や漢字学の大家の言葉遊びに近い通説に対し、下品な説だ、などと切り捨てた。歯に衣を着せない批判は、肉眼では見えない遠くの地平を見晴るかすように広大で、かつ、誰も究めたことがない深みまで到達しようという意欲的な先生の研究に裏打ちされたものだった。華々しい業績をあげ碩学といわれた学者は過去にも存在したが、「現代最後の」という賛辞を冠するにふさわしい大学者は、先生をおいて他にない。
私が学業を放棄し各地を流浪していたとき、たまたま「漢字」(昭和45年刊岩波新書)の著者が立命館大学教授と紹介されていた。退屈しのぎに読み進めるにつれ、それまで何の興味もなかった漢字の魅力が、砂漠に置いてきぼりになって乾燥しきった私の体中に、滝の水のように勢いよく流れ込んできた。そして、昭和46年、自分が立命館に入学し、東洋史専攻のクラスに在籍していたころ、この本と出会うか、あるいは中国文学の教室で講義していたであろう先生を知っていたなら、大学を中退しない方途があったのかもしれない、という思いで頭の中が熱くなった。その本を読んだことが復学の直接的な動機にはならなかったが、その後1年以上の放浪の末、京都に戻ることを決意したとき、自分の進むべき方向性はこの本によってすでに指し示されていることを知っていた。
50年に復学してまもなく、主に龍字などの動物文字の概念が中国古代の祭祀から生まれたことを証明しようという大それたアイデアを思いつき、先生から参考文献のアドバイスをしていただいたが、他のことに気を取られて本気で文献を探さなかった記憶がある。今さらながら、自分が出来そこないの教え子だったことが悔やまれてならない。
先生は専門分野以外にいろいろな趣味を持ち、幅広い人となりを感じさせた。食への造詣も深かった。研究室の電気コンロが壊れたとき早く直してくれとうるさかった記憶があり、そのころは先生を単なる食いしん坊だと思っていたのだが、その評価は間違いだったのだろうか。
卒業後、実物の先生にお会いしたことはないが、先生の映像は文化勲章受賞前後のテレビで拝見した。90歳を過ぎたとは思えないほど闊達なしゃべり口の庶民的な先生の姿がまぶしく感じられた。白川先生は、平成18年10月、96歳で逝去された。
笠原静氏は、北海道の凍てつくオホーツクの大地を本拠地とし、海洋系の重機のオペレーターを生業としながら、名もない一庶民として暮らした。しかし、慎ましやかというわけではなく、酒、博打、女などの分野で人並み以上に名を馳せた。
私たち夫婦がその地に赴いたのは昭和の最後の年だった。氏は仕事柄、北海道内だけでなく全国をとび歩いていたので、氏と会う前に、近所に住んでいた奥さんとその娘たちと顔見知りになった。当時は母子家庭なのかと思うほど、長期間にわたり氏を見ることがなかった。本人がいない間も家族と様々な人生の問題を議論した。それから数ヶ月後のこと、私たちが氏の家にいたとき、何の前触れもなく帰宅した氏と対面した。初めて会ったとは思えない氏の自然な立ち居振る舞いに、場は一気に盛り上がり、翌朝まで酒場兼賭博場になった。
氏はあらゆる遊びに精通していた。特に賭け事のためなら遠くまで出かけたが、抜きんでた才能があったとは思えなかった。それでも勝ったときは周りに大判振る舞いする癖があったので、娘や友人たちからは慕われていた。
氏は博打運など問題にならないほど強い運勢を持っていた。あるときの船舶による作業中、突然の時化に遭い乗っていた船がひっくり返り、氏は船内に取り残されてしまった。大揺れに揺れる船室には徐々に海水が浸入し、どれくらいの時間が経過したか定かではないが、息苦しくなってきて、もうこれまでかとあきらめかけたとき、ドカンという大きな衝撃が来て、船の揺れがおさまったと思ったら、陸地に打ち上げられて助かったのだという。
その地を離れてからも、折りに触れ氏の家に遊びに行った。そして、数年後のこと、氏が末期の肺ガンで余命数ヶ月と診断されたと聞き、妻とともに駆けつけた。家族は、氏の行動の自由を束縛したくないと考え、ガンの告知をしていなかった。心配した昔の仲間たちが集まり、若かりし時代の出来事をつい昨日のことのように振り返るのだったが、時たま飛んでくる氏の辛辣な冗談に受け答えしているうちに、氏がそんな病を患っていることを忘れ、酒と博打にのめりこんで行った。最後の博打は、氏が勝負に勝つ翌朝まで続いた。そのとき私たちは、疲労の色が濃い氏の様子に我に返り、次に会える日が来るのかどうかと胸がふさがる思いだった。
笠原氏の悲報は、氏の娘からの電話で函館にいた私たちにもたらされた。その電話の呼出音が鳴る直前、居間の窓ガラスに堅い石がぶつかったような鋭く大きな衝撃音に驚いたことを思い出す。友人の車でオホーツクの沿岸にたどり着いたとき、9月下旬だというのに気温が30度を超え、町は真夏の活気に沸いていた。
葬儀会場にいち早く着いていた年上の友人が、二人で弔辞を読もう、と声をかけてきた。通夜では、にぎやかなことが好きだった氏の思いを受け、皆陽気に飲み、しゃべり、打った。翌日の告別式で、私は、親の年齢に近い笠原氏から、対等な大人として、人生において重要な位置を占める酒や博打などの享楽と、思い切りのよい生き方について教わり、それによって、自分の偏向した性格を打破できたことに対し、深い感謝の気持ちを伝えた。年上の友人の弔辞が終わり、家族や友人とともに心のおもむくまま駆け抜けた氏の人生を改めて振り返ると、悲しみがこらえきれなかった。笠原氏は、平成11年9月逝去され、享年67歳の生涯だった。(H21.12了)
※ウィキペディアで調べると、「吉本隆明氏」は私の勘違いで、「高橋和巳氏」(故人、小説家、中国文学者、立命館大学講師)だったのかもしれない。高橋和巳氏は、悲の器、邪宗門などの著者で、私が立命館に入学した1971年5月に逝去された。追悼の催しが学内で行われたのを記憶している。