黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

発見 黒い毛糸玉

2017年12月26日 15時04分12秒 | ファンタジー

 数日前、2階のクローゼットを掃除していたら、籐タンスの下から黒い毛糸の玉が転がり出た。
 はなの道具箱に色ちがいの同じような毛糸玉があったので、黒いのもその中に入れた。その日の夜、はな主演の恒例のブラッシングとお遊びの時間。引出しから道具箱を取り出したとたん、はなはその中に顔を突っ込み、黒玉をくわえて絨毯の上に転がした。はなの新しもの好きは年取っても衰えを知らない。玉を追いかけ回すこと数十分、息が上がり気味なのに止めようとしない。家人は気づいた、この毛糸玉は、昔、とのが遊んだものにちがいないと。
 私もあることを思い出した。とのが去って2年後、はながこの家にやって来る2日前の夜、とのが、私の夢の中で「帰ってきたよ」と姿を現した一件だ。そのとき、とのは、両手で丸いボールのようなものを大事そうに抱えていた。私は、はなに出会ったとき、そのボールが、はなそのもので、とのが連れてきたような気がしてならなかった。そのことを思うと、今でも胸の奥が熱くなる。
 今日で3、4日経ったろうか。飽き性のはなが、性格が変わったように、まだ黒玉を追いかけている。(2017,12,26)
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「歴史とはなにか」(文春新書)

2017年12月18日 18時36分37秒 | ファンタジー

 岡田英弘氏がこの本で展開する鋭い歴史批判の論調は、現代社会に安住する者たちの安直な思い込みへのきついアンチテーゼである。しかし、大先輩にこんなこと言うのは明らかに僭越すぎるが、氏の歴史認識には独断にすぎるところがあって、えっ大丈夫! とはらはらドキドキの連続パンチにさらされる思いだ。
たとえば、こんな箇所。

①国民国家と民主主義がかかえる矛盾
『キリスト教などの一神教の場合、神によって人が皆平等に作られたというのは嘘っぱちだ。
人は生まれついての能力も、育つ環境もそれぞれ違う。
なのに、民主主義の制度は、人が自由意志で決断し、自律的であることを前提として作られている。
現実にこんな大多数の人たちは民主主義の制度には向かない。』
②共和制と君主制の是非
『天皇陛下が姿をあらわせば、日本の歴史そのもの。
(日本の)君主制では権力でなく人格が世襲される。世襲君主制の持続性のおかげで、国民国家の時代になっても君主が国民を代表することが可能。日本のような立憲君主制の国民国家に対し、共和制は持続性が弱い。』

 私としては、歴史の浅い民主制や共和制に、もう少し愛情と忍耐のまなざしを向けてほしいと思う。

③歴史のないアメリカ文明の人間関係
 氏は、文字に記されて初めて歴史が始まると言う。
 それなら中国の歴史は、氏が言うところの史記に始まるのでなく、殷の王の事跡を記した甲骨金文からではないかと私は思う。
 アメリカに関してだが、英王国を嫌ってやってきた者らのたどり着いたアメリカ大陸には、文字がなかったから歴史がなかったわけではなく、はるか数万年に渡る先住民の歴史は歴然と刻まれている。今、傍若無人の振る舞いをしている集団の歴史だけが歴史とは言えないはずだ。
 氏によれば、アメリカ人には自分より前の世代には一切世話にならないという信念があって、親から富を引き継ぐのを恥ずかしいこととするとあるが、今のT米大統領親子は実に仲睦まじく、互いに依存しているように見える。
 私事になるが、祖父が北海道に移住してからおよそ120年の歳月が過ぎた。茫漠とした原野に降り立った先人たちは、頼るに頼るものがない時代を手探りで生き、彼らの大半は名も事績も残すことなく、この地に埋もれて死んだ。だからと言って、土地にも個人にも歴史がないとあっさり切って捨てるのは酷ではないか。それらを掘り起こし、歴史の光の中に照らし出すのが歴史家の使命なのではと感じられてならない。

 この本は大学時代の友人の紹介で読んだ。上記以外の多くの記述はきわめて示唆的であることを申し添えておく。(2017.12.18)
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何しに京都へ

2017年12月17日 13時52分30秒 | ファンタジー
 八瀬(叡山電鉄駅前)

 何しに行ったの、京都へ。恒例の大学の同窓会が今年は地元京都で開催された。
 昨年は加賀市の山中温泉。芭蕉のいわくあり気な行動が気にかかって、現地から戻って奥の細道の文庫本を買ってしまった。
 今年は、気ままな一人旅だったので、同窓会前日の宿泊場所さえ直前まで確保しなかった。京都のホテルはぎりぎりの方が安い。行き先を決めていたのは文化博物館の木島さんのコーナーだけ。加山又造の雲龍図も伝教大師の仏像も、その日、足のおもむくままに、たまたま立ち寄った寺で遭遇した。
 いくつもの偶然によって、多くの人々に出会った旅でもあった。久しぶりの姪夫婦や、40数年ぶりに再会し互いに顔を憶えていない同級生、濃厚な京都弁を気さくに操る喫茶店の店主、比叡山頂で朝早くから交通整理する中年男性、そして懐かしい京都の古めかしい街並み、その街並みにしっくり馴染んでいる新しそうな店々、どれもこれも京都らしく地味に落ち着き払っていた。(2017.12.17)


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12月の京都へ

2017年12月13日 21時21分09秒 | ファンタジー


 ホテルを出て山陰線に乗り、嵯峨嵐山駅で下車。天龍寺の境内に入って、そこに加山又造の八方睨みの龍の天井画があることを知った。薄暗いお堂の天井に広がる雲龍図の龍の目はやけに大きいのだが、暗いのでそれほどの迫力は感じられない。テレビの画面の方が鮮明でおどろおどろしかった。

 比叡山頂から京都の町方面を望む。一人旅なので、旅行最終日の行動は何も決まってなかった。京都に住んでいたのに登ったことのない比叡に行ってみよう。とて、電車、京福電鉄のケーブルカー、ロープウェイを乗り継ぎ、比叡山頂に着いたところで、案内の人から延暦寺西塔で史上初めての御開帳とかをやっていると聞き、バスに乗った。

 延暦寺の釈迦堂で、33年ぶりにご開扉された、伝教大師最澄の手になる釈迦像にお目にかかった。何のてらいもない素朴な風情の木像だ。この日が公開の最終日。閉所恐怖症なので、薄暗く気味悪そうな内陣へは入らず。


 山頂から琵琶湖を望む。古い友を探しに、高島や愛知(えち)川へ行ってくることもできただろうにと思う。
 そうそう、京都に入った初日、京都府文化博物館で、木島(このしま)桜谷の資料展を閲覧した。彼は、漱石から不愉快な絵だと酷評された日本画家。彼が描いた動物、そして草花も自然もきわめて精緻で美しかった。見る者への優しさがあふれる絵だ。物事に疑り深い者の目には、確かに眩しすぎる。(2017.12.13)
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家庭内ミッション

2017年12月09日 15時39分05秒 | ファンタジー
 仕事をリタイアして5ヶ月、父しゃんにはこれといって家庭内ミッションがあるわけではない。それどころか、家の居間のソファー、食卓の椅子、ソファーの上のクッション、寝室のベッド、押入れの布団、食卓のおかず、冷蔵庫に入っている一番美味い魚、爪研ぎ用にしている家中の絨毯マット、父しゃんと母しゃんの自由時間と眠っている時間、父しゃんの手など、要するにこの家と時間は全部、席取り・はなと母しゃんのもの。  その上、はなが母しゃんを意のままに操っているので、父しゃんの出る幕はもちろん、持ち物さえ何一つない。でも考えようによっては、ノン・ミッションとは自由だということ。そういえば父しゃんは在職中、窓際が好きだった。目に見えないけど、退屈な自由には大きな可能性が秘められていて、父しゃんにとってそれ自体が大事なミッションなのだ。インポッシブルであればあるほど、父しゃんのミッションは燦然とスカスカ輝く。(2017.12.9)

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真っ白な紙を置いたら

2017年12月08日 18時34分09秒 | ファンタジー

 赤紙は閉口だが、真っ白な紙を目の前にすると、鉛筆をへし折りたくなる人がいたり、またある人の場合は、俄然、文字を連ねてみたくなるという。私には前者に該当する友人がいる。彼は、白紙を前にすると、まったく頭が回転しなくなるという。でも心配無用、口を開くとまったく別人になる。

 彼がしらふなら相手の話を少し聞くふりをするが、アルコールが入ると他者に発言の機会を渡すことはほとんどない。ちょっと形勢が不利になったら、中座して席に戻るなり別の話題に振り替える。なので、彼といっしょの酒席を嫌う人もなかにはいる。私は、相手のしゃべりに翻弄されないタイプ。場の雰囲気に頓着することなく、食べ物や音楽、自分の空想などに没頭できるので、彼とはうまが合うのだろう。

 ところで私がしゃべらないかというと、そうでもないらしいのだ。別の友人と飲んだら、彼は私がしゃべりすぎるので、食べ物を口に運ぶ暇さえないとこぼす。私は酔うのが早い方なので、そういう自分の行状を記憶に残すことができない。(2017.12.8)

 

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獣の食事

2017年12月06日 22時26分39秒 | ファンタジー

 とくに書き置くことでもないが、ある家族の日常茶飯の騒動を耳にしたので一言。
 その家族は4人構成で、妻(ときには子の母、または息子の嫁)のほかは、男ばかり3人。余談だが、娘婿というのはよく耳にするが、それに対し、息子の嫁をいう用語は聞かない。家事を中心的にこなす婦人を家婦という言い方があるらしい。嫁もその一人ではある。
 ところで、その家の家婦は、朝から朝食だけでなく、夫と子供の昼用の弁当を作り、そのうえ舅の昼飯まで心配し、午後からは晩飯の準備に取りかからなければならない。買い物を含め何時間もの労力を投じてやっと料理を終えたものの、その夜、食する段になって、男3人によって料理一切合切がきれいに平らげられるまで、ものの5分とかからない。まさに獣が皿まで食らい尽くすかのような凄惨な光景だ。家婦はその有様をとても正視できないらしい。涙がこぼれるほどみじめな気持ちになるという。
 獣の食事はこれで終わるわけではない。夜もずいぶん更けたころ、男たちは「なんだか腹減ってたまんない」と言い出す始末。家婦は、いい加減にしろとわめき散らしたいのを我慢するのに精根尽き果てるという。
 これらのことは、どの家にもあって、大した問題でもなんでもないが、改めて言うまでもなく、男どもは、家事、育児などの家内仕事を若いうちからちょっとでもやってみるのが身のためという話。この年になって経験がないことに気がつくのは、はなはだ遅い。
 ともかく、家婦の皆様には、それが獣であろうと、家族の満足した顔を見るだけで良しとする寛容な配慮をいただきたい旨、切にお願い申し上げる次第。(2017.12.6)
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