岡田英弘氏がこの本で展開する鋭い歴史批判の論調は、現代社会に安住する者たちの安直な思い込みへのきついアンチテーゼである。しかし、大先輩にこんなこと言うのは明らかに僭越すぎるが、氏の歴史認識には独断にすぎるところがあって、えっ大丈夫! とはらはらドキドキの連続パンチにさらされる思いだ。
たとえば、こんな箇所。
①国民国家と民主主義がかかえる矛盾
『キリスト教などの一神教の場合、神によって人が皆平等に作られたというのは嘘っぱちだ。
人は生まれついての能力も、育つ環境もそれぞれ違う。
なのに、民主主義の制度は、人が自由意志で決断し、自律的であることを前提として作られている。
現実にこんな大多数の人たちは民主主義の制度には向かない。』
②共和制と君主制の是非
『天皇陛下が姿をあらわせば、日本の歴史そのもの。
(日本の)君主制では権力でなく人格が世襲される。世襲君主制の持続性のおかげで、国民国家の時代になっても君主が国民を代表することが可能。日本のような立憲君主制の国民国家に対し、共和制は持続性が弱い。』
私としては、歴史の浅い民主制や共和制に、もう少し愛情と忍耐のまなざしを向けてほしいと思う。
③歴史のないアメリカ文明の人間関係
氏は、文字に記されて初めて歴史が始まると言う。
それなら中国の歴史は、氏が言うところの史記に始まるのでなく、殷の王の事跡を記した甲骨金文からではないかと私は思う。
アメリカに関してだが、英王国を嫌ってやってきた者らのたどり着いたアメリカ大陸には、文字がなかったから歴史がなかったわけではなく、はるか数万年に渡る先住民の歴史は歴然と刻まれている。今、傍若無人の振る舞いをしている集団の歴史だけが歴史とは言えないはずだ。
氏によれば、アメリカ人には自分より前の世代には一切世話にならないという信念があって、親から富を引き継ぐのを恥ずかしいこととするとあるが、今のT米大統領親子は実に仲睦まじく、互いに依存しているように見える。
私事になるが、祖父が北海道に移住してからおよそ120年の歳月が過ぎた。茫漠とした原野に降り立った先人たちは、頼るに頼るものがない時代を手探りで生き、彼らの大半は名も事績も残すことなく、この地に埋もれて死んだ。だからと言って、土地にも個人にも歴史がないとあっさり切って捨てるのは酷ではないか。それらを掘り起こし、歴史の光の中に照らし出すのが歴史家の使命なのではと感じられてならない。
この本は大学時代の友人の紹介で読んだ。上記以外の多くの記述はきわめて示唆的であることを申し添えておく。(2017.12.18)