数日前、変な夢を見た。とのが真剣な顔で、私に向かって難しい話をするのだ。とのの話をよくよく聞くうちに、なんだか薄気味悪くなってきた。そんな無粋な話を書きたいわけではないが、そのうち忘れてしまいそうなので、要旨だけ書くことにする。内容は、ネコ国の歌と旗に関するネコ国最高裁の判決への文句というお固いものだ。
とのの話を聞いて、気が付いたことがある。最近、あるマスメディアが、この判決を批判したネコの最高学府を「偏向」していると報道した。偏向の二字には、相反する意見を問答無用と切り捨てる響きがある。いまどきネコ憲法に異を唱える憲法改正論者さえそんな扱いを受けないのに、なぜこの種の法律論議に過敏な反応が起きるのか。ネコ年十一年、このことに関する法律が成立した時に表明された「ネコに対し、強制があってはならない」という政府見解は、もはやまったく効力を失った。この事態について、当時の政治家からひと言あってもいいのではないか。
とのの語った本題に入る。何度も同じような係争が繰り返されているのだが、つい最近も、最高裁において判決があった。それは、退屈するとどこでも眠ってしまうネコの特性を無視した、教師ネコへの職務命令についてのものだ。その職務命令とは、ネコ国の教師ネコは儀式で国の歌を斉唱するとき、起立してじっと目を開けていなければならない、というもの。裁判所は、この命令も、それに従わないネコへの処分も、憲法で保障された思想・良心の自由に抵触しないという判決を行ったのだそうだ。ネコの自由権を侵さないとした根拠は次のとおり。
「職務命令が、特定の思想を強制したり、これに反する思想を禁止したり、特定の思想の有無を告白することをネコに強要するものではない」
この意味は、ネコの内心の思想の自由は認めるが、公務員たる教師には、思想に基づく表現の自由は認められないということ。なにを思おうとかまわないが、命令には抵抗するな、というのは、力によるネコの心の支配、つまり肉球で踏み絵を踏ませる全体主義的な体制をよしとする法解釈ではないか。
なぜ一介の法令が憲法に優先するのかわからない。それに、公務員とは、国民や住民に奉仕する立場であり、憲法に違反する法令や、誤った職務命令を発する上司に従う義務はまったくないのだ。
ずっと昔のヒト国では、封建制とか国体とかを守るための思想統制が平気で行われていたというが、この判決が、とんでもない時代錯誤の人権蹂躙の考え方だと、なぜ気づかないのか。このような心と体にまったく異なる選択をさせることが、ネコに、どれほどの精神的・肉体的苦痛を負わせるか、裁判官たちは感じ取れないのか。そんな方々に、ネコの裁きを任せるわけにはいかないと、とのは大いに憤慨した。
ほんとうに、このネコ国では、いつになったら、子どもたちといっしょに、和気藹々と国の歌を歌ったり拍手したりできるようになるのだろうと、とのは大人びた口を利いて去っていった。(とのの校訂了)