黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

まだしゃべれない

2023年05月26日 15時10分17秒 | ファンタジー
 はなへの思いがあふれて、はなのことばかり、つい書いてしまう。でも人前では、はなの話題に一切触れないことにしている。不意に、感極まって泣いてしまいそうになるから。先日、知人との電話の最中、うかつにも元気な頃の、はなの話になったとき、急に言葉がつまり、無理に発声しようとして涙声になってしまった。
 身近にも、長年、暮した動物を失った人々が何人もいる。今になって思い当たるのは、彼らはひとことも愛猫犬鳥のことを話題にしなかった。人前でしゃべれないのは私だけではなかったのだ。
 ある家族は、病気のネコを数時間かけて、網走から大きな動物病院のある町・旭川まで一冬通った。しかし、そのかいなく亡くなった。かなり親しい間柄の彼らから、そのネコの話題を聞くことはなかった。
 悲しみはなかなか去ろうとしない。一人ひっそり涙を流して、はなを忘れようなんて、簡単にできそうにない。つくづく、ブログは自分のためにあると思う。(2023.5.26)
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いさぎよいネコ生

2023年05月15日 16時05分47秒 | ファンタジー
 今日はブログを始めて5000日目。はなのそのころの写真を掲載した。

 はなも父さんも歳より若々しく見える、と見た目の印象についてよく言われてきた。父さんは、この言葉を好意的に受け取ってきたが、考えてみると、面と向かって言いづらい言葉を濁していたのかも? 真意は、いつまでも子どもみたいに手がかかる、といったことなのでは。
 一方、19年間いっしょに暮した、はなは、家にやってきたころ、父さんにとって、当たり前だが幼い子どもだった。次第に兄妹になり、姉弟になり、いつしか母親のように、心配そうな目で父さんを見るようになった。そして、おババになって、介護を受け、父さんの腕の中で死んだ。
 はなは、なかなか成長しないヒト生を横目で見ながら、4倍のスピードで駆け抜けた。なんといさぎよいネコ生だったことか。(2023.5.15)

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何回も書いているが

2023年05月10日 16時29分42秒 | ファンタジー
 はなのことは書くことがいくらでもある。なにしろ19年もいっしょに暮らしたのだから。
 でも、思い出すと悲しくなってしばらく顔を上げられなくなるので、うかつに思い出してはいけない。
 そう心がけていても 家の中にいい匂いが不意に立ち込めたときなどは、頭の中は、はな模様でいっぱいになる。
 昨年12月、体調異変後におしめをしてからは、はなのお尻がすごく小便くさかった。はなは何も言わなかったが、さぞイヤだったろう。買ってきた新しいシャンプーはとてもふくいくとした匂いがした。シャンプーすると、はなは心がなごんだのだろうか、気持ちよさそうに目をつむった。
 やはり、悲しくても思い出したい。(2023.5.10)

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後遺症か陰謀か?

2023年05月05日 15時43分32秒 | ファンタジー
 最近のことですが、数年前の出来事を思い出そうとしたとき、ずっと昔に起きたことのように、かすんでいるのです。
 6年前に仕事をリタイヤして始めたのが洋製本教室通い。中綴じ冊子を手始めに、角背、丸背のハードカバー(上製本)をいくつか作り、自分で表紙の布を染色するような高度技能の工程に入ろうとした矢先、あのコロナがやってきました。教室は即閉鎖。今となっては、ペーパーバック本と角背のハードカバー本しか作れません。製本教室の印象ははるか彼方に飛んで行ってしまいました。
 よく考えると、製本教室に限ったことではなく、これまでに読んだ本や持ち歌、家にいた猫たちのことまで、はるか昔の伝説みたいに思えるのです。このままだと、飲み仲間さえ思い出せなくなるかも。ひょっとすると、これはコロナウイルスの後遺症?いや陰謀なのでは? 
 〇〇歳の自分が本地の姿を取り戻せるかどうか、今年の飲み会の再開がカギになるような気がしています。ではお元気で。(2023.5.5)
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たった3年しか経っていないのか

2023年05月03日 23時25分29秒 | ファンタジー
 最近、たった3年しか経っていないのか、と思うことがある。コロナウイルスの来襲のことではない。
 コロナ禍が起きてからの身の回りの出来事が、ずっと昔のことのように思えてならない。たとえば、3年前の2月中旬、札幌すすきので、遠くの流行り病を酒の肴にして友人家族と飲んだ。ところが、その翌週後半の製本教室とカラオケパブの行事は中止。それ以来、彼らとの関係性は断絶し、深い闇に閉ざされた。この先、旧交を温める機会があるだろうか。
 久しぶりに書棚をのぞいたら、ある作家(須賀敦子)の本を見つけた。須賀には、古い友人のような気持ちを抱いているのだが、当時のブログをひもといてみたら、読み始めたのはコロナ禍以降だった。そんな最近の出会いだったとは! 信じられなくてしばらく絶句。 
 私の場合、1年前の出来事さえ跡形なく忘れることがあるのだから、かすかな記憶が残っていれば、よしとしなければならない。しかし、コロナ以降の自分の記憶全般に、信用が置けないような気がするのだ。これはコロナウイルスの後遺症だろうか、ひょっとすると陰謀なのではないか。(2023.5.3)

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