関西方面への旅行は久しぶりだ。先週金曜日の夜、新千歳空港を出発し神戸空港に到着。四年前の同窓会の際は、帰りにこの空港を利用した。新しくて気持ちのいい感じの空港だ。今回は空港内を素通りして一路大阪へ向かう。神戸新交通ポートライナーから三宮でJR線に乗り換え、二駅ほど行ったら、当の電車はその駅のホームに停車したっきりまったく動かない。ようやく車内放送が入り、前方を行く電車がなにかに接触した模様なので、確認作業が終わるまで、しばらく待機するとのこと。開けっ放しのドアから車外へ出ると、じとっとした生ぬるい夜気がまとわりつく。北海道なら、じとじとべたべた雨が降ってもよさそうな湿度だ。
電車は、モーターへの電気回路を切断してじっと沈黙したままだ。電車の最後尾にいる車掌に様子を聞きにいこうかと思ったとき、人身事故があった由、この電車は目的地にいつ到着するか不明というアナウンス。そこで六甲ライナーの静かな電車に乗り継いで、途中、阪神電車のうるさいけれどもビュンビュン飛ばす車両に振り回されながら、予定より一時間遅れで大阪へ入った。ほっとしたとたん、その日北海道を出立するときも同じ事故があり、電車のダイヤが大幅に乱れたことを思い出した。夕方からの数時間のうちに、そういう事態に二度までも遭遇した胸苦しさを適切な言葉にすることもできず、しばらく立ちすくんでいた。とはいえ、気分というか記憶というものはいいかげんで、ホテルに入り、一人、寝酒とつまみを口にするころは、もうすっかり気持ちは晴れて、次の日のことに頭を巡らしていた。
翌日は午後から、昔懐かしい人たち数名と会うことになっていた。家族の急な用事で来られなくなった一人を除き、二時間ばかりの歓談を終えてから、南海電鉄の乗り場を探して難波へ向かった。快速電車は関西空港の方角へ軽快な調子で走った。関空と言えば、十年くらい前、初めて降りたとき、空港が海上に浮かぶフロートの上にあると聞いていたので、浸水しやしないかと不安だった。鉄道が来ているのを知ってまたびっくりした。関空からは渡し船で陸に上がるものと勝手に想像していたから。
関空の手前に、百舌鳥(もず)古墳群というのがあって、日本で発見された最大の古墳、仁徳天皇陵はじめ履中天皇陵だとかに比定される古墳がたくさんある。ここは大和川流域の水運の利に恵まれた地勢で、秀吉がむりやり作った大阪城周辺より、よほどはるかな昔から開けていたのだろう。古墳の話になれば、やはりひとくさり所見を述べたくなる。この辺りには、他にも古市とか舟形埴輪で有名な長原とかの古墳群がある。生駒山地をはさんで、大和と呼ばれる地域に相対峙するこの河内は、五世紀前後、広義のヤマト政権の中枢を担っていた。河内と大和は、大昔から朝鮮半島の国々と結んで、権力闘争に明け暮れていたのだ。
本題に戻る。百舌鳥古墳群の麓の町と言えば堺なのだが、そこへ向かったのはかなり前から、消息不明の同級生のことが気にかかっていたからだ。その町は彼の出身地で、実家の住所だけが唯一の手がかりだった。もちろん電話番号はわからない。学生時代の彼とはそれほど親しくなかったのに、その日は夜まで時間がたっぷりあったからなのか、無謀にも、およそ四十年の時の流れを一時間弱の電車旅で超えようと思ったのだ。
昔の住所録を頼りに、初めての道をたどたどしく、くねくねと登っていくと、目指す住所が運良く見つかった。近づいてみると、土手のような低い段丘の突き当たりにへばりついた平屋の建物は、深い草むらに寂しげに沈んでいた。その廃墟にはもう相当前から誰も住んでいないことは明らかだった。
そのとき、ふと彼が昔住んでいた京都の下宿屋を連想した。昭和四十年代の整然とした町並みの中にも、あの戦争のせいで被災したようなバラックがまれに残っていた。そのひとつの建物に足を踏み入れると、いたるところに仕切代わりのボロ布が天井から下がり、床のゴミの中に洗面道具などが散乱し、勝手に歩き回る虫たちもいて、足の踏み場もなかった。そこはとても京都だとは思えない異質な世界、さながら時代をさかのぼり、中世のスラム街にでもタイムスリップしたかのような気がしたものだ。私は、二十歳を過ぎたばかりのころ、住処をなくしてしばらくそこに滞在した。その自分の姿が生々しく脳裏に浮んできて、今度はその建物を探しに京都の狭い小路をさまよいたいという、もの悲しい気持ちに陥りそうになる。いやもう止めよう。自分の頭を勢いよく小突いたら、一瞬甦った古めかしく切ない記憶は、同級生の顔のイメージもろとも消えた。
次の日は朝から雨がそぼそぼ降っていた。前日と違い、気温が下がって過ごしやすかった。午後の便の前に、今回の旅のもうひとつの目的地、藤田美術館へ向かった。私が京都に住んでいたころ、古いもの好きの性癖のおもむくまま、大昔の洞窟、遺跡から、寺社、美術館、博物館、図書館まで、あちこちほっつき回ったものだ。でも藤田美術館は知らなかった。
大阪城北詰駅から四、五分のところに、名前がわからなければ通り過ぎてしまいそうな、飾り気のない入口にたどり着いた。美術館の建物は、昔の土蔵にコンクリートの覆いをかけた造作が功を奏し、戦火をまぬがれたという。中ははなはだ薄暗かった。陳列ガラス箱の中の絵画などは、古すぎるからなのかどれもこれも黒っぽく煤けていて、ぼやぼやとした色調や線描しか見分けられない。ところが、説明書きによると、それらは古代、奈良平安、随唐といった時代から、様々な紆余曲折を経て奇跡的に伝わった由緒ある品々で、国宝とか重要文化財とかの札がぺたぺた貼ってあった。
ここにある五千点もの収蔵品は、数千年にも及ぶ歴史の中で、あまたの人々の手によって紡ぎ出された華麗な文物、それらはまた、歴史の流れにもまれて選び抜かれた絶品なのだ。伝える人がなかったために、散逸した数え切れない物たちのことは忘れよう。
ようやく暗闇の中でも目が見えてきたとき、かなり大きな古色蒼然とした三枚の絵を納めたガラスケースの前にいた。釈迦とその左右に立つ文殊普賢の姿を一枚ずつ表現したもので、室町時代の僧、明兆の作と伝えられていた。これらの三枚の絵は、何百年という長久な時間を経て、もう少しで朽ち果てるその寸前、わずかな色と模様を私たちのために残してくれているように思えた。当時の人たちが表現しようとした輝きがどんなものだったか、自分なりになんとなく想像できるようになるまで、ずいぶん長い時間、そのガラスケースの前に立ちつくしていた。藤田美術館のしぶとく末永い存続を祈念。
しびれたような気分で外に出ると、近くの大阪造幣局の有名な遅咲き桜のはり紙があった。人波に釣られてそちらの方へぶらぶらと歩いていくと、右手の広い敷地に壮麗な洋館が見えた。藤田美術館の何倍も金がかかっているような建物だ。鉄格子の門に表札がぶら下がっていた。なんと、「○○市長公邸」だ。通りがかりの人がその門の前で立ち止まったので、声をかけてみた。
「ひぇー、あの○○市長がここに住んでるんですか?」
「いてへん、いてへん。」
「えっ、なんで?」
「なんでかわからんけど、住みとうないんやって。」
「この町では、使わん無駄なもんは、なんでも処分するんやないの?」
「処分やなんて、恐ろしゅうて、ようしゃべられまへんわ。」
そんなわけのわからない会話をして、造幣局の南側の入り口までとぼとぼ歩き門の中へ入ろうとしたのだが、大勢の人々の波に押し戻されて一歩すら前進できない。濃い色に染まった、たわわな桜花をすぐそこに見ながら、後ろ髪を引かれる思いで、天満橋駅で市営地下鉄に乗り、梅田経由で伊丹空港へ向かった。こうして二泊三日の関西の旅を無事終えることができたのである。(H24.4.26)