goo当局からのお誘いを受け、しばらく考えてみた。
私は、中学から高校時代にかけて、ビートルズを同時代に聴き続けた一人だ。他のブログに書いたような気がするが、1966年、彼らの武道館公演のテレビ放映は、月光仮面やゴジラ以上に強烈だった。ビートルズの生身のメンバーが現実に演奏している(叫んでいる)ことが夢のようだった。その映像を見た翌日の授業中、私の頭の中ではビートルズのメンバーが跳ね回るのを止めないので、椅子から落ちないように机と椅子にしがみついていた。ちょっと大げさかもしれないが、相当の思い入れがあったことは間違いない。
ところが、私は当時、彼らのレコードを買った覚えがない。ストーンズなどのいくつかのバンドのドーナッツ盤を繰り返し聞いた中に、ビートルズはなかったと思う。もちろん手許に残っているはずはない。子どものころから数限りなく引っ越したので、家にある昔の私物といえば、ガタのきた自分の身体以外なにもない。なので、あやふやな記憶の真偽を確かめようがない。
だいぶ大人になって、期待に胸膨らませて、「ビートルズ1」(2000年)を買ったり、最近、福助印の「リマスター盤・サージェントペパーズ」(2009年)を衝動買いしたりして、熱い思い出を取り戻そうとしている。ところが、せっかく買ったのに、どちらもわずか二、三回聴いただけで、なんだかもう定量という感じなのだ。自分でも意外な反応だったのでとまどったが、やはり私はビートルズ派ではなかったのだ。
最近聞いているのは、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのウッドストックという曲の入ったCD。ロッドスチュアートやザバンドなどもそうだが、聴くほどに楽しくなる。なのに、ビートルズに反応しないのは腑に落ちないがどうにもならない。ということで、私にはビートルズの一曲を提案する資格はない。(2014.6.17)
<いやだニャー! シャンとしてるとき撮ってよシャシン、父しゃん>
テレビ番組のせいで、「じぇじぇじぇっ」「パミュパミュ」などの擬声(音)語、擬態語風の言葉が大流行だ。厳密に言うと「じぇじぇ」は「えっ!」「うそー!」などの感嘆符と同じものだろう。「パミュ」は擬態語のような気がするが固有名詞。擬声(音)語とは、自然界の音や声をヒトの表現に置き換えたもの。つまり、はながニャーと鳴くのは、ヒトがギャーと叫ぶのと同様、感情の表現なのだが、父さんがはなに向かってニャーと言うと、それは擬声語に分類される。でも、はなのニャーが話し言葉なのだとしたら、ネコ族に対し酷い無礼を働いていることになる。
たいがいのヒトは、ネコのニャーの微妙な変化を聞き取っている。イヌ族やヒト族の尻尾ふりふりワンとかハイとか、従属の意志を示すサインと違うことも知っている。そうなのだ。はなは、ニャーと鳴いて父さんや母さんのリアクションをうかがった上で、また違うニャーを発する。これはヒトとヒトとの間の会話にきわめて似た反応なのだ。
いくつか例を挙げてみよう。はなは、朝起きたら、父さんにはニャーだけだが、母さんにはニャーニャーと二回言う。これは母さんにだけ丁寧に挨拶しているのでなく、一回目は「お早う」二回目は「ご飯まだ?」という意味の語りかけ。
父さんが朝寝坊しているとき、母さんがはなに向かって「父しゃん、起こしてきて」と言うと、機嫌のいいときのはなは、二階のベッドに寝ている父さんの枕元に来て、明らかに「ニャーシャン」と大きな声で叫ぶ。
ところで、この国のヒトは、言葉の省略形、つまり短いセンテンスの言葉を好む。擬声語や感嘆符、意味不明の重ね言葉などの造語が乱発されるのも、長い言葉を組み合わせて論理的に話すのが不得意なことが大きな理由だと思われる。「しゅしゅしゅーだんてぇき……」「じぇじぇじぇーけん……」なんて、そもそも言葉の体をなしていない発言を繰り返していると、ネコ族から笑われそうだ。あぁ、情けない。(2014.6.12)
アウトドアとは、スポーツなどの体を酷使する意味ばかりに取るのでなく、外出すること自体がそうだと定義するなら、いちがいに嫌いだとは言ってられない。多くの人々は、嫌でも外へ出る必要に迫られる。今日の私もそうだった。
体調が悪ければ、病院へ行ってみなければならない。行った場合、あまりいいことは起きないと知りながら。まさに今日はそうだった。病名は、右鼠径(そけい)ヘルニアといって、俗な言い方では脱腸。しかし、腸が出ていると断定はできないそうだ。脂肪やなんやらがはみ出ていると考えられなくもないという。
年を経た者が力仕事などの無理をしたり、酷い便秘を放っておいたりするのは良くないそうだ。さらに驚くべきは、前立腺摘出手術をした者の症例が、なぜだか断然多いのだという。いつまでもはみ出ているのは煩わしいので、その場で手術日を決めてきた。(2014.6.6)