ウクライナで起きた戦争でもまた、一般民への無差別略奪・拷問・虐殺が行われていると報道されている。
ロシアは、これをウクライナのフェイクだと見え見えの嘘をつきまくっている。かの国としては、この程度の殺戮など戦争につきものだ、というのが本音だろう。見た目で相手が武器を所持しているかどうか判断できないし、あちこちに一般民の恰好をした兵士がいる。そもそも、発射されたミサイルや銃弾は、兵士か一般民かを区別することはない。つまり、戦争で無差別に武器を使うのは当たり前であり、必要あれば核兵器の使用も厭わないと。
ベトナム戦争中期の1968年に起きた、ソンミ村の虐殺事件を思い出す。アメリカ軍によって、村民500人余が殺害され、生存者は3人という凄惨な出来事だった。後に、オリバー・ストーンの「プラトーン」(1986年)という、ベトナム戦争の実態を描いた米映画が製作される動機のひとつになったのは間違いないところだろう。
もっとさかのぼると、先の戦争中の1937年ころに日本軍が起こした、いわゆる南京大虐殺という事件がある。南京市民100万人のうち、南京陥落後に生き残った市民は30万人、避難できた市民は20万~25万人で、行方不明者50万人近くのうち、20万~30万人の人々が犠牲になったとされる。日本軍は、一般市民の中に中国の戦闘員が紛れ込んでいたので、彼らを排除するためにやったことだとうそぶいたという。つまり、日本軍に対し敵愾心を持たない市民を見つけられなかったから、見境なく殺したとしか考えられない。
この歴史観を自虐史観などとして、南京大虐殺否定論を展開する日本人が引きを切らないが、皇国史観か何か知らないが、自身の心情に頼って、歴史資料を無視したりねじ曲げたりウソで固めたり、そんな恥ずかしい真似をする日本人がいること自体、恥ずかしくてたまらない。
聞くところによると、過去のキリスト教社会では異教徒の虐殺を奨励・黙認するだけでなく、同じ信仰を持つ者も区別がつかなければ一網打尽にやってしまえ、死後、神が救ってくれる、と割り切っていたとか。
20世紀末に、ローマ教皇は過去にカトリック教会が犯した数々の誤った行為について、正式に謝罪する行動を起こした。ユダヤ人迫害を止められなかったことや、4世紀以上前にフランス全土で起こったプロテスタント教徒(ユグノー)虐殺事件(聖バルテルミーの虐殺)、さらに古くは十字軍の侵略などにも言及して謝罪した。殺戮と反省・懺悔を何度繰り返すつもりか、遅きに失するといった気がするが、しかし、批判を恐れない覚悟と信念、勇気や情熱がなければ謝罪はできなかったと思う。
過去にどんな悪さをしようとも、それを明らかにすることは、我々がこれから先に進むための教訓になる。ロシアも自らの変革に向けて再び大きく舵を切らなければ、生きながらえるのはむずかしいという感じがする。(2022.4.5)