日本書紀には、一書による(別伝)と前置きし、高天原を放逐されたスサノオが出雲に降臨する前に、新羅(しらぎ)に天降ったという記述がある。新羅とは、紀元前57年、朝鮮半島の東側に建国されたと言われている。その地は三韓時代の辰韓という地で、その南の弁韓、西の馬韓とともに、列島に水田稲作を伝えた人々が住んでいた。つまり、三韓とは倭の母国と言っても差し支えないだろう。なので、辰韓の後継の新羅からスサノオがやってきたとしても何ら不思議ではない。したがって、その後、出雲勢力が大和の地に作った倭の邪馬台国は新羅系の国ということになろう。
しかし、書紀などの国史の著者たちは、そこまでわかっていながら、本文ではまったく触れない。知っていても物議をかもす恐れがあるので、別の書にはこう書いてあるが真偽のほどは定かでない、という書き方だ。中国や半島からは様々な文献が、渡来人や倭国の使者によって国内にもたらされていたはずなのだが、彼ら知識人たちは、中国の国史に載っている邪馬台国や倭の五王についても知らんぷりを決めこむ。
「倭の五王」(河内春人著、2018.1刊中公新書)によると、河内氏は、宋書倭国伝に出てくる5世紀の倭の五王を、記紀と照合する作業には実りある結論を生み出すことはできないと述べている。当時の王家は倭姓を共有していたものの、一つの王家だったかどうか、王位継承が血統的に続いていたかどうか検証できないという。
5世紀後半から6世紀初めの作製と推測される稲荷山鉄剣銘文には、当時の首長の系譜が記されているが、それは血縁的な親子関係でつながっていたのではなく、豪族集団の長は一族の中からふさわしい人物が選ばれた。つまり同族だが親子ではない。ただし、新族長は前任者の児として疑似的親子関係を作った。このことは、「続日本紀」(しょくにほんぎ、平安初期、編者・菅原道真)の記述によれば、8世紀の聖武天皇の皇位継承にも踏襲されていたことがわかっている。記紀などが伝える天皇家の系図をそのまま受け取ることには疑問が残るという。
「古代の近江―史的研究―」(山尾幸久著、2016.4刊サンライズ出版)
この本は専門的過ぎて私の解釈に間違いがあるかもしれないが、継体天皇に関する章から、ほんの一部を要約してみた。
山尾氏は、「古事記」は、神武から推古まで33代の天皇の系図を載せているが、その中で父母ともに不明なのは継体ただ一人。ところが、後代に成立した「日本書紀」(継体紀)や「釈日本紀」(鎌倉時代の書)が引用する「上宮記」(日本書紀の成立より古いと言われる)では、継体の誕生した地が近江の高島であると長文で紹介される。天武が直接関与した唯一の正史「古事記」が出自を書かないのは、ケアレスミスでなく歴史的理由があったからに違いない、とする。私が思うに、天武は、自身も連なっているはずの継体朝を正統な王統として認めなかったのではないか。
そして、山尾氏は、継体を応神の五世の子孫とする学説にはまったく賛成できないとする。さらに、503年の「隅田八幡鏡」は、百済武寧王(斯麻)が忍坂宮にいる次期倭王候補の継体に贈ったもの。つまり、継体はきわめて百済寄りであり、この後、中大兄(葛城)皇子の子、大友皇子まで、倭国はどんどん百済化していくように見える。
百済とは、高句麗から分かれた扶余民族、つまり遊牧騎馬民族が馬韓(朝鮮半島西部地域)の地に樹立した国。
関晃氏は「帰化人」(昭和31年刊)で、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(平安時代の書物)に登載された平安の支配層の氏1,059のうち、帰化人系統は324でほぼ30%を占めるとし、帰化人とは我々の先祖なのであり、彼らがした仕事は日本人がしたこと、と述べている。つまり、この日本列島の歴史とは、旧石器時代にさかのぼって、大陸方面からの渡来人によって作り上げられたものであり、海を隔てて閉鎖された期間はごくわずかなものだったのだ。
660年百済の滅亡後、天智は、663年白村江で巨大な唐と新羅の軍に立ち向かい、668年唐が倭征討軍を編成している旨の知らせを新羅から受け取ってもなお、唐や新羅と講和を結ぼうとしなかった。死の直前の671年、新羅が意表をついて唐軍を襲い、半島から追い出したことを知ったとき、彼は自分の運の強さをかみしめただろうか。しかし、天智の一連のこだわりと判断ミスが弟・大海人に近江朝討伐の口実を与えてしまった。大海人は、唐の国策に翻弄される政治を断ち切り、隣邦新羅と良い関係を保とうとした、と山尾氏は述べる。私には、百済・高句麗滅亡後、新羅の後押しで百済残党の征伐を目論んだとさえ感じられる。
672年の壬申の戦いで、大海人側についた尾張氏や大友軍を裏切った蘇我果安(はたやす)、直接参戦したことになっていない北九州の宗像勢など、彼らは出雲系の氏族である。大海人は、伊賀から鈴鹿関を越え三重の米洗(よない)川を通り、桑名に出た。この間、彼は豪族たちの神々を水辺で祭り、日の出(アマテラス)を望拝しながら、戦わないで進んでいる。大友軍は、勢田橋から大津京に還ろうとして、高島方面から南進してきた出雲臣狛たちに阻まれた。三井寺金堂の辺りで、彼の最期を見届けたのは物部連麻呂ら数人の舎人であった。
はたして、中大兄と大海人が実の兄弟だったのか。さらに言うと、大海人は、出雲つまり倭国の政治を復活させようという野望から、この戦いを起こしたとも考えられる。その志が、後世に受け継がれたかどうかは別のことだが。(了)(2020.7.28)