黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

札幌へ

2020年07月30日 20時33分57秒 | ファンタジー
 今日は札幌へ、ラベンダーを見に。
 ラベンダー畑の向こうのはるか彼方の地平まで、大小さまざまな建物でぎっしり埋め尽くされている。ここは懐かしい風景だ。目の前のすぐ山際に、黒猫「との」が捨てられていた公園がある。彼の冒険はそこから始まったのだ。(2020.7.30)
 
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40年前の本⑥

2020年07月28日 21時43分37秒 | ファンタジー
 日本書紀には、一書による(別伝)と前置きし、高天原を放逐されたスサノオが出雲に降臨する前に、新羅(しらぎ)に天降ったという記述がある。新羅とは、紀元前57年、朝鮮半島の東側に建国されたと言われている。その地は三韓時代の辰韓という地で、その南の弁韓、西の馬韓とともに、列島に水田稲作を伝えた人々が住んでいた。つまり、三韓とは倭の母国と言っても差し支えないだろう。なので、辰韓の後継の新羅からスサノオがやってきたとしても何ら不思議ではない。したがって、その後、出雲勢力が大和の地に作った倭の邪馬台国は新羅系の国ということになろう。
 しかし、書紀などの国史の著者たちは、そこまでわかっていながら、本文ではまったく触れない。知っていても物議をかもす恐れがあるので、別の書にはこう書いてあるが真偽のほどは定かでない、という書き方だ。中国や半島からは様々な文献が、渡来人や倭国の使者によって国内にもたらされていたはずなのだが、彼ら知識人たちは、中国の国史に載っている邪馬台国や倭の五王についても知らんぷりを決めこむ。

「倭の五王」(河内春人著、2018.1刊中公新書)によると、河内氏は、宋書倭国伝に出てくる5世紀の倭の五王を、記紀と照合する作業には実りある結論を生み出すことはできないと述べている。当時の王家は倭姓を共有していたものの、一つの王家だったかどうか、王位継承が血統的に続いていたかどうか検証できないという。
 5世紀後半から6世紀初めの作製と推測される稲荷山鉄剣銘文には、当時の首長の系譜が記されているが、それは血縁的な親子関係でつながっていたのではなく、豪族集団の長は一族の中からふさわしい人物が選ばれた。つまり同族だが親子ではない。ただし、新族長は前任者の児として疑似的親子関係を作った。このことは、「続日本紀」(しょくにほんぎ、平安初期、編者・菅原道真)の記述によれば、8世紀の聖武天皇の皇位継承にも踏襲されていたことがわかっている。記紀などが伝える天皇家の系図をそのまま受け取ることには疑問が残るという。

「古代の近江―史的研究―」(山尾幸久著、2016.4刊サンライズ出版)
 この本は専門的過ぎて私の解釈に間違いがあるかもしれないが、継体天皇に関する章から、ほんの一部を要約してみた。
 山尾氏は、「古事記」は、神武から推古まで33代の天皇の系図を載せているが、その中で父母ともに不明なのは継体ただ一人。ところが、後代に成立した「日本書紀」(継体紀)や「釈日本紀」(鎌倉時代の書)が引用する「上宮記」(日本書紀の成立より古いと言われる)では、継体の誕生した地が近江の高島であると長文で紹介される。天武が直接関与した唯一の正史「古事記」が出自を書かないのは、ケアレスミスでなく歴史的理由があったからに違いない、とする。私が思うに、天武は、自身も連なっているはずの継体朝を正統な王統として認めなかったのではないか。
 そして、山尾氏は、継体を応神の五世の子孫とする学説にはまったく賛成できないとする。さらに、503年の「隅田八幡鏡」は、百済武寧王(斯麻)が忍坂宮にいる次期倭王候補の継体に贈ったもの。つまり、継体はきわめて百済寄りであり、この後、中大兄(葛城)皇子の子、大友皇子まで、倭国はどんどん百済化していくように見える。
 百済とは、高句麗から分かれた扶余民族、つまり遊牧騎馬民族が馬韓(朝鮮半島西部地域)の地に樹立した国。
 関晃氏は「帰化人」(昭和31年刊)で、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(平安時代の書物)に登載された平安の支配層の氏1,059のうち、帰化人系統は324でほぼ30%を占めるとし、帰化人とは我々の先祖なのであり、彼らがした仕事は日本人がしたこと、と述べている。つまり、この日本列島の歴史とは、旧石器時代にさかのぼって、大陸方面からの渡来人によって作り上げられたものであり、海を隔てて閉鎖された期間はごくわずかなものだったのだ。
 660年百済の滅亡後、天智は、663年白村江で巨大な唐と新羅の軍に立ち向かい、668年唐が倭征討軍を編成している旨の知らせを新羅から受け取ってもなお、唐や新羅と講和を結ぼうとしなかった。死の直前の671年、新羅が意表をついて唐軍を襲い、半島から追い出したことを知ったとき、彼は自分の運の強さをかみしめただろうか。しかし、天智の一連のこだわりと判断ミスが弟・大海人に近江朝討伐の口実を与えてしまった。大海人は、唐の国策に翻弄される政治を断ち切り、隣邦新羅と良い関係を保とうとした、と山尾氏は述べる。私には、百済・高句麗滅亡後、新羅の後押しで百済残党の征伐を目論んだとさえ感じられる。
 672年の壬申の戦いで、大海人側についた尾張氏や大友軍を裏切った蘇我果安(はたやす)、直接参戦したことになっていない北九州の宗像勢など、彼らは出雲系の氏族である。大海人は、伊賀から鈴鹿関を越え三重の米洗(よない)川を通り、桑名に出た。この間、彼は豪族たちの神々を水辺で祭り、日の出(アマテラス)を望拝しながら、戦わないで進んでいる。大友軍は、勢田橋から大津京に還ろうとして、高島方面から南進してきた出雲臣狛たちに阻まれた。三井寺金堂の辺りで、彼の最期を見届けたのは物部連麻呂ら数人の舎人であった。
 はたして、中大兄と大海人が実の兄弟だったのか。さらに言うと、大海人は、出雲つまり倭国の政治を復活させようという野望から、この戦いを起こしたとも考えられる。その志が、後世に受け継がれたかどうかは別のことだが。(了)(2020.7.28)

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40年前の本⑤

2020年07月25日 21時53分04秒 | ファンタジー
 中央政府に追われた倭人たちは、東北から北海道にかけての広大な蝦夷地に入り、そこに暮らすアイヌ系の住人たちと共存し、蝦夷の一員(えみし)になった。しかし、中央と互角に対抗できるような大きなまとまりを作ることはできず、蝦夷(えみし)の中には、9世紀ころまでに俘囚として律令制に組み込まれた人々がいた。

「新版日本人になった祖先たち」(篠田謙一著、2019.3刊NHKブックス)を数年前に読んだときから、ずっと頭の片隅に引っかかっていたことがある。
 北海道礼文島船泊遺跡に眠っていた縄文人のDNA情報によれば、彼女の先祖は、東南アジアから拡散し、沿岸地域を北上した集団と考えられるという。朝鮮半島から水田稲作文化を持ついわゆる弥生人に追い立てられたこともあったのかもしれない。また、時代は下るが、アイヌの人々は、在来の縄文人の特徴を残した人たちであるとされるが、北方狩猟民のオホーツク人や弥生人のDNAの影響を幅広く受けていることも明らかになっている。
 一方で、現代人のDNAを調べると、南系統の縄文人のものが圧倒的で、東北、北海道の縄文人のDNAはあまり多く伝わっていないのだという。弥生人は列島に入ったときから縄文人と地域を接していた。九州などでは、縄文人との混血が進んだ弥生人の骨が多数発掘されている。なのに、北方ではあまり混血しなかったのはなぜか。
 ここから私の仮説。俘囚とされた人々が、通説どおり中央の勢力に抵抗した北方の縄文系の蝦夷ならば、律令国家に組み込まれて弥生系の人々と同化して、現代人のDNAに大きな痕跡を残すのではないだろうか。しかし、そうではなかった。俘囚の民の蝦夷とは、縄文でなく弥生系の人々、つまり所を追われたエミシだったのだ。
 7世紀前後から、すさまじい勢いでエミシを追い、東征に繰り出した人たちは、いったい誰?(2020.7.25)  ⑥(最終回)へ続く。
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40年前の本④

2020年07月24日 21時33分14秒 | ファンタジー
 石狩川流域までわざわざ出ばっていったのに、墳丘は発掘後埋め戻されていた。しかたなく資料館に立ち寄り、いただいたパンフを見て飛び上がった。この円墳の最大径は、10メートルもあるのだ。弥生以来、列島で行われてきた木棺直葬墳により埋葬されたのはいったい誰だったのだろう。この埋葬法はアイヌの人々のものではない。パンフには、東北北部の末期古墳を源流とするとあった。出土品は、武器である蕨手刀や農具、工具など、1,280点に上る。 
「日本古代の周縁史」(鈴木靖民著、2014.6刊岩波書店)には、北海道石狩低地の古墳群は、時期や形状、構築法などの類例から、秋田(出羽)や青森の古墳群に源流を求めるのが妥当とし、さらに被葬者についていくつかの説を記述している。
①東北の蝦夷の系統か和人の移住者説。大沼忠春氏は、本州から組織的に武装した兵士集団が渡来したと述べる。農民の存在も否定できないらしい。
②中央との交流をもつ在地権力者が、東北の古墳をまねて築造した。出羽国などとの朝貢関係により、必要な品々を調達して築造したという説を紹介している。
 これらの仮説は、東北から石狩川下流域までの間に同じような墳墓がないこと、つまり、蝦夷の社会にこの埋葬法が普及しなかった事実を突きつけられれば、半壊状態になる。弥生の墳墓と副葬品がそろっているなら、その文化は弥生の後継者である倭の人々の手になるものであろう。
 とすれば、出羽や北上川流域でこのような埋葬法を行った人々の大半は、中央政府から蝦夷と呼ばれ、柵の外側に追われたはずなのだが、彼らはアイヌ系の人々ではなかったことになる。

 日本書紀には、斉明4年(658年)から翌々年にかけて、阿倍比羅夫が蝦夷地まで遠征したことが記載されているが、彼の長期遠征は何のために行われたのか。東北の蝦夷が南下したのか。
 この遠征の10年ほど前の大化3年(647年)、北方防備のためとして、現在の新潟市付近に淳足(ぬたり)柵、翌648年、村上市付近に磐舟(いわふね)柵が設置されたと伝えられている。大化と言えば、中大兄皇子らが蘇我氏を排除したのは645年。翌年、日本書紀によれば改新の詔が出され、豪族たちが所有する私有民を廃止し、国家に帰属させようとした。これがすぐさま実行に移されたのではなかったようだが、中央の意向はきっと瞬く間に全国に伝わっただろう。
 朝廷は、この直後から城柵設置、そして蝦夷地征伐と東方に向かって厳戒態勢をとる。なぜだろうか。私は、この軍事行動は蝦夷に対するのでなく、朝廷に異議を唱える倭国の豪族の武装解除だったする方が合理的だと思うのだが。
 時代は少しだけ違うが、「出雲と大和」によれば、記紀の記述に、神武軍が倭の邪馬台国を襲撃したとき、邪馬台国の総帥・饒速日(にぎはやひ)命は、自軍の将軍・長髄彦(ながすねひこ)を殺して神武方に帰順した。村井氏は、天孫降臨のとき、天つ神が国つ神から国譲りを受ける神話と同じ論理だとする。たとえば、出雲の大国主神の国譲りでは、譲る側が余力を残して敗れることが、一定の権益を保持する選択になるとする。
 邪馬台国の滅亡とともに、倭国を支えていた出雲系の豪族たちも居所を追われただろう。尾張の神は奈良盆地の南の葛城(かつらぎ)に住まっていたが、現在の東海地方の尾張付近に移住した。伊勢の国にいた伊勢津彦(いせつひこ)は神武に国を譲って信濃国に移ったという。和珥(わに)氏や鴨(かも)氏もまた、同様の運命をたどったらしい。
 話を戻すが、大化改新後もこれらの神話に似たような事態が起きたのではないか。蘇我本宗家は滅亡したが、後継者の一部が東へ逃亡した可能性がまったくなかったとは言えない。彼ら中央の豪族たちは、東国の首長たちと主従関係とまではいかなくとも、中央の先進的な品々と地方の産物を交換する朝貢関係を結んでいたとみてよいと思う。蘇我氏の名、入鹿(いるか)や蝦夷(えみし)は東国にちなんだ名前としか考えようがない。ちなみに、アイヌ語でイリカㇽは「血縁の者」の意。
 658年と言えば、朝廷では、中大兄皇子による孝徳天皇の後継、有馬皇子の謀殺があり、半島では660年百済滅亡と激動の情勢が続く。蝦夷を討っている場合ではないと思うのだが。(2020.7.24) ⑤へ続く
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40年前の本③

2020年07月22日 18時13分48秒 | ファンタジー
 考古学を離れて、神話学に立ち寄ってみる。「出雲と大和」(村井康彦著、2013.1刊岩波新書)の内容は、4年前の本ブログ「列島へやってきた人々」でかなりしつこく書いた。
 その記事の一文に、「大和王朝の先祖の二二ギは筑紫の日向の高千穂に、出雲勢力のカミムスビは出雲の鉄鉱石を産する山岳に、はるか遠くの天上から降臨したと記述される。彼らは、弥生時代に列島外の半島や大陸から渡ってきたと見て間違いはない」とある。日本書紀、古事記などの神話を史実と考えてはならないが、北九州や出雲には、対岸の朝鮮半島などに居住していた様々な人々がやってきたことを物語っている。鉄は出雲だけに入ったのではないだろうが、ヤマタノオロチ伝説があるように、大規模な溶鉱炉を建設できる集団がいたということだろう。
 村井氏は、出雲の神々、大国主神や大物主命、大名持(おおなむち)命などが、大和の本拠地の奈良盆地をはじめ、全国の数多くの神社で祭られている状況を見るうちに、出雲の勢力が大和地域に早くから進出し、彼らこそが邪馬台国を作ったのではないかと思うようになった。書紀などの記述でも、筑紫の勢力は確固たる基盤ができ上っていた大和に力ずくで入ったとされる。
 邪馬台国に卑弥呼がいた3世紀前半とは、定型的前方後円墳の建造が始まった時代と言われている。「前方後円墳の世界」(広瀬和雄、2010.8刊岩波新書)で、広瀬氏はこの時がいわゆる古墳時代が始まりだとする。そして、古墳時代とは、倭国を構成する首長たちの連帯意識を高め、次第に大和地方の複数の有力首長層によって地方の中小首長層を統率していく人的統治システムが構築されていったのであり、7世紀以降の国家的土地所有に基づく統治システムの律令国家とはまったく異質なものとする。
 前方後円墳の造営は、大和やおもだった地域では6世紀を通じて徐々に減少し、600年を少し過ぎたころ、まったく姿を消す。しかし、東国では、その後も方墳や円墳が多数築造され、かえって増加する地域(群馬県など)さえある。中央では律令国家に変換していこうという意志が明確なのに、地方、特に東国ではそれに反する動きが感じられる。
 岩手県水沢市の中半入(なかはんにゅう)遺跡では、北上川支流、胆沢川に面した首長館跡から、続縄文文化(弥生時代における東北地方以北の文化)と古墳文化双方の出土品が発見された。ここは、北と南の産物の交易センターの役割を果たしていたと考えられる。この近傍の奥州市には、列島最北端の前方後円墳である角塚(つのづか)古墳がある。このほかにも、末期古墳と呼ばれるものが青森、秋田、岩手県一帯に7世紀前半から9世紀末まで作られる。
 そして、北上川流域の大崎平野では、生活域を丸太で囲み防御機能を持った囲郭集落が出現する。律令国家が東北経営のため、胆沢などの城柵を築いたのはその後のことだ。また、大崎平野の色麻(しかま)古墳群は埼玉県鹿島古墳群の石室などの構造に酷似しているという。関東方面からの集団移住の可能性を否定できない。
 驚くべきは、7世紀中ころ以降の末期古墳の時代、北海道の石狩低地帯(おもに石狩川とその支流域)にも円形や馬蹄型をした墳墓が発見されている。これらの意味するところは、蝦夷地の中に、倭の文化をひく人々が確実にいたということなのだ。(2020.7.22) ④へ続く


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40年前の本②

2020年07月21日 16時10分51秒 | ファンタジー
 古代のことを書いた学術本の中にも、紹介するのをためらうものがある。だが、差別はよくないので、タイトルを記す。「古代朝鮮と倭族」(鳥越憲三郎著、1992年刊中公新書)。
 この本に、誰もが知っている「後漢書」の記述が紹介されている。馬韓(半島西部地域)の位置は「北は楽浪と、南は倭と接し、辰韓は東にあり」、弁韓(半島南部地域)の位置は「辰韓(半島東部地域)の南にありその南また倭と接す」。
 この記述は、半島南部に位置する弁韓のさらに南方に、倭人が起居していたことを示すもの。ただし、陸上で隣合っていたか、海をはさんで接していたかは明らかでない。
 鳥越氏は、独自の視点でこう論述する。「史記」などの中国の文献に、長江下流域以南に百越がいたという記述がある。その越の読みは上古音で倭ときわめて類似する。なので、古代の百越の居住地域に倭族がいたとする。さらに、中国から見て東方の蛮族(東夷)とはすべて倭種の人々と言い切るのだ。彼ら東夷は紀元前5世紀の呉の滅亡を契機に、朝鮮半島の中南部に亡命?し、さらに一部は列島に渡来して弥生人となったという。
 この説は、大陸の水田稲作伝来の年代、ルートに関する、これまでの通説を踏襲しているのだが、倭人の先祖が長江付近にいたことを証明するにはまったく心もとない論理構成だ。

「弥生時代の歴史」(藤尾慎一郎著、2015.8刊講談社現代新書)では、最新の考古学調査の成果に基づき、列島へ稲作の伝播した時期が、これまで唱えられていた紀元前4~5世紀ころから大幅に引き上げられたことを詳細に記述している。
 朝鮮半島南部において、紀元前11世紀にかんがい施設を備え畦畔を持つ、世界でもっとも進化した水田址が発見された。稲作技術を持った半島の人々は、紀元前10世紀には、長崎県、福岡県の日本海に面した平野部に到達したことは間違いないという。半島南部の支石墓や墓に副葬されたものと同じ丹塗りの壺などが、これらの地域の河川下流域から次々と発見されている。その平野部とは、列島に数千年も前から住む縄文人が一度も居住したことがない低湿の土地なのだ。
 水田稲作を伴う弥生時代の開始時期が500年あまりも早まったのはわかるが、倭とか日本とかがいつころ成立したかを、考古学調査や文献から推測することはかなり難しいらしい。
 中国の書「論衡(ろんこう)」に、紀元前千年、周代の初めに、倭人が周の皇帝に貢物を献じたという記述がある。まさに列島で稲作が開始されたころだ。
 そのころ、倭という国があったかなかったかというより、倭という人々の集団が存在したかどうかだ。私としては、自称か他称かはともかく、同族意識を持つ人々の名前のついた集団があったことは否定できないと思う。
 では、すでに九州北部の渡来人たちは、倭という共同体に帰属する意識を醸成していた?
 朝鮮半島、もしくはもっと大陸寄りのどこかに倭人の集団があって、列島に渡ってきたのは彼らが中核メンバーだった?(鳥越説に似ているが)
 いくら考えても、確たる資料が発見されない限り誰にもわからない。(2020.7.21)
~③に続く



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40年前の本を見つけた①

2020年07月21日 14時58分43秒 | ファンタジー
 久しぶりに自宅2階に上がり、幾重にも張りめぐらされた蜘蛛の巣なのか、長年にわたり積み重なった綿ぼこりなのか、見分けがつかない薄暗がりの中をかきわけて進んでいくと、なんだかお化け屋敷みたいだが、40年以上ほったらかされて危うく朽ち果てるところだった書棚にたどり着く。かろうじて文字が判読できる背表紙がずらっと並ぶ中に、まだピカピカのがあるではないか。引っ張り出したら、ビニールの表紙に覆われた中公新書、「騎馬民族国家」(江上波夫著・中公新書S48年11月発行24版、初版はS42年)だった。江上氏は東洋史が専門なのだが、この本で世間の意表を突いた日本古代史に関する説を発表して物議をかもした。
 江上氏や宮崎市定氏といった東洋史の碩学が日本古代史に引き込まれたことには何だかうなずけるところがある。古代史好きの人間は、歳を重ねるにつれ、自分の足元の土を掘ってみたくなるのだ。私もそういった部類なのだろう。実はこの数ヶ月、暇に任せて日本とその周辺の古代史本ばかり、物につかれたように読み続けたため、頭の中がこんがらかっている。そんな状態で思いつくまま書いてみようと思う。

 まず、「騎馬民族国家」の内容とは?
 古墳時代前期の4世紀後半までの列島に点在する古墳は、弥生時代からの延長線上に展開してきたのだが、それ(応神期)を境に、古墳の石室や副葬品が、大陸系の騎馬民族のものとまったく同じものに取って代わったというのだ。
 4世紀末ころに起きたこととは?
 大陸の騎馬民族が朝鮮半島を経由し、おそらく北九州か本州西端部に侵入し、さらに畿内に進出して大和朝廷を樹立。日本列島に統一国家建設を成就したとする。
 江上氏は、日本という国名の由来にも言及。朝鮮半島南端にあったとされる、いわゆる任那という地に、騎馬民族が到達したときの国号であるとする。そして、中国の歴史書に「日本はもと小国、倭国の地を併(あわ)す」と記述があるのは、騎馬民族による列島征服劇を意味すると明快に言い切っている。
 一方、日本古代史学会は、倭から日本へ国名を変えた時期やいきさつについての見解をいまだにまとめ切れていない。確かに、日本あるいは日の本の解釈には諸説がある。もともと国名ではなく、日の出の方角を日の本と言ったらしい。中国から見たら、朝鮮半島や日本列島はいずれも日の本になる。蝦夷地の日の本アイヌもしかり。
「律令国家と隋唐文明」(大津透著、2020.2刊岩波新書)によると、日本の文字が記された、おそらく最古の文献が、2011年に中国西安で発見されたという。
 678年(天武朝の時代)に死去した百済人の祢軍(ねぐん?)の墓誌の、「日本の余噍(よしょう)、扶桑(ふそう)に拠り、もって誅を逃れ」という一文である。東野治之氏によれば、中国に留まった百済人から見て、日本の余噍とは白村江の戦い(663年)で敗れた百済の遺民のことであり、彼らが扶桑(倭国)に逃れ抵抗しているという意だとする。百済とは、高句麗から分かれた扶余民族、つまり遊牧騎馬民族が馬韓(朝鮮半島西部地域)の地に樹立した国である。(2020.7.21) ~②に続く


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衝動買いの須賀敦子全集

2020年07月06日 14時52分28秒 | ファンタジー
 須賀敦子の文体は、日本文学の正統からかなりかけ離れていて、主語と述語がひとつのセンテンスの中で、3度も4度も形を変えながら出現するといったアクロバットを軽々とやってしまう。
 イタリア住まいが長く、イタリア語を母語同然に操れたので、イタリア文学めいた日本語の文体を編み出したのだろう。私はイタリア文学の知識をまったく持ち合わせていないが、お隣のフランスの作家の幾人かはとてつもなく長文の難解な文章を綴るのを知っている。マルセル・プルーストとかレヴィ・ストロースとかサルトルとか、日本にも仏文学を学んだ大江健三郎とか、回りくどい作家たちがいて、私が年を取ったからなのか、ずいぶん前から彼らの文章についていけなくなった。
 一方の須賀敦子の文章、それは思い浮かべるだけで楽しくなる。私だけの読み方、楽しみ方なのだが、日記を書いている風に軽いタッチで始まり、感情を誇張した表現がなく、情景描写は綿密だが読み手を飽きさせず、現在の居場所から瞬く間に過去・未来に飛んで行ったかと思ったら、たちどころに自分自身の内側に立ち返り、何か懐かしい情感を残して急に結末を迎えるといった感じなのだ。
 数日前、手許にある日本文学全集(河出版)たった1冊ならすぐ読み終えてしまうと思い、河出書房のホームページを開いたら品切れ。あわててネット内を探し回り、紀伊國屋の倉庫に眠っている新物全8巻を見つけてしまったというわけ。衝動買いしないで済ませるわけには、もはやいかない。(2020.7.6)

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「ネコがして、いけないことはなにもない」

2020年07月03日 17時13分06秒 | ファンタジー
 20年くらい前に、本のタイトルだったか、内容の要約だったか、まったく憶えていないのだが、確か外国の女性が、こんなのんびりした本を書いたという書評を見つけ、このフレーズを参考に年賀状の文面を綴ったことがある。
 世間では、ネコほどわがままな生き物はいないだとか、自分の悪事をすぐ忘れ良いことしか覚えていない(猫が善い行いをするだろうか?)だとか、イヌはありがとうをするがネコはしないだとか、どんなにネコかわいがりしても噛みつくだとか、父しゃんをペットにしているだとか、数多の悪口を言われてもまったく意に介さないだとか、自己肯定の塊だとか、ぐちゃぐちゃに言われているにもかかわらず、ネコは、ヒトにとって同伴者の中の最高位に君臨し続けている。うらやましい限りだ。
 ネコは、ヒトに先んじてこの世で繁栄した生き物であり、弱小生物のヒトのDNAにはその記憶が深く刻み込まれているのだろう。なので、ヒトは、たとえ肉球でぐちゃぐちゃに踏みつぶされても、ネコに対し無意識に敬意を払わないではいられない。ネコこそがすべて、ネコこそ永遠だ。(2020.7.3) 

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