今日は、はなの百か日。
思い起こせば、平成16年6月に、はながこの家に連れられてきて、数年間、寂しい気持ちで過ごしたのではないかと思う。
母さんの体調はあまり良くなかったし、職場に呪縛された父さんは、ほぼ毎日帰りが遅かった。17年、父さんの父親が認知症のためベッドから起き上がれなくなり、母親からちょくちょく呼び出しがかかって、父さん母さんは家を留守にした。
18年に入って抗がん剤を打ち始めた母さんは、3月ころには髪の毛が心もとなくなった。ちょうどそのころ、母さんの妹の単身赴任中の連れあいが、焼肉パーティー後、急性E型肝炎で倒れ、一月にわたり、死線をさまよった末に目を覚ました。野生シカのウィルスを活きたまま食したのが原因らしい。
連れあいの病状が落ち着き、4月末、車で片道5時間の赴任先のアパートに行き片付けしていたとき、認知症の父親の危篤の報が舞い込んだ。
7時間かけて実家の町の入院先に駆け込んでみると、母親の親族10人ほどが随分前に到着していた。こんなとき、実の子にのしかかる重圧はかなり大きい。父親は5月1日死去。
はなは、そのころまだ2歳。父さんの故郷の町は、春から夏にかけて毎日必ず霧雨が降った。そんなじめっとした実家の2階の隅っこにうずくまって、葬儀の数日間を過ごした。はなの、そのころの写真を見るとまだまだ幼さが抜けていなかった。
母さんは、壮絶な抗がん剤治療の甲斐あって、その年の秋口に乳がん手術にこぎつけた。稀な事例らしいが、摘出された組織にガン細胞の痕跡はまったくなかった。
翌19年春、父さんは、かなりひなびた町への転勤辞令を、恐る恐る家に持ち帰った。単身赴任やむなしの覚悟の父さんは、はなに向かって、母さんがだめでもいっしょに行こうね、という意味の信号を必死に送ってきたが無視。母さんは手術の傷が癒えていなかったのに思いやりの方が深かった。片道3時間の赴任地へ3人そろって旅立ったのだった。
父さんの母親は、夫が亡くなった直後の18年春に怪我で入院してから、なかなか調子が上向かなかった。もともとウィルス性の慢性肝炎を長く患っていて、全身の機能が年齢より衰えていた。
父さんは、いつころか思い出せないくらい昔から、母親との折り合いが良くなかった。父親が存命中、ヒステリーを起こした母親と大喧嘩して、数年間、絶交したこともあった。
怪我はとっくに治ったはずなのに、母親はグズグズとベッドから起き上がらなかった。業を煮やした父さんは、むりやり神経科病院に連れ出した。診断は、前頭葉に縮小があるものの年相応であり、認知症予備軍程度とのこと。
父さんは診断を聞いて、認知症には基準なんてまったくないも同然だと思った。常人なら、医師や看護師の言うことを完全無視したり、年下の者や弱い立場の者を悪し様になじったり、いい歳をして憐れみを乞うように泣いてみたり、そんな非常識な真似はしない。ところが、その兆候は年取ってから始まったのでなく、父さんの子供のころから変わらずそうだったのだ。そのことを再び思い出して、父さんはむなしさにおしつぶされそうになった。母親は病院と介護施設を行き来し、20年秋口に亡くなった。
こうして、はながやってきてから4年あまりの波瀾の幕が閉じられ、ようやく平穏な時を迎えるかに思われた。しかし、そうはいかなかった。
21年、父さんは、還暦を目の前にして、まったく先行きの見えない苦難に遭遇したのだ。
身のほど知らずの父さんは、会社の強圧的な体質を見るに見兼ねて、その張本人に対し異議申し立てを行なった。そこまでは信念のままの行動だったのだが、木っ端微塵にはね返されてからの日々は地獄の苦しみ一色に染まった。会社から帰宅した父さんは、自室に閉じこもり、バカやろうと床をたたきながら怒鳴りまくった。1時間あまり続くことさえあった。はなは、父さんに近づけなかった。悲しくてたまらなかった。
その年の8月、会社からスポイルされた父さんは、職場の机の上のパソコンを使い、日中から堂々とブログにのめり込むことで、かろうじて職場に居座っていた。一時、PTS(急性ストレス反応)の診断を受けて長期休養を取ったり、ガン手術を経験したり、といったこともあったが、最悪事態を通り過ぎれば、少々の痛さにはへこたれないものだ。
はなは、ブログの看板ネコとして、父さんのために話題を提供し続けた。父さん!感謝してる?
こうして出来上がったのが、「黒猫とのの冒険」だ。父さんの夢の中で、とのが予言したとおり、はなは、とのに導かれて、父さんと母さんのもとに、たくさんのお土産をもってやって来た。その後も色々あったが、ブログは曲りなりに続けられた。
そして、平成34年、いや令和4年の暑い夏を過ぎたころ、はなは、歳には勝てず体力の衰えが進み、無意識でやっていたことを失敗するようになった。ずっと、父さんを介護してきた、はなは、介護される側になった。
思い起こせば、平成16年6月に、はながこの家に連れられてきて、数年間、寂しい気持ちで過ごしたのではないかと思う。
母さんの体調はあまり良くなかったし、職場に呪縛された父さんは、ほぼ毎日帰りが遅かった。17年、父さんの父親が認知症のためベッドから起き上がれなくなり、母親からちょくちょく呼び出しがかかって、父さん母さんは家を留守にした。
18年に入って抗がん剤を打ち始めた母さんは、3月ころには髪の毛が心もとなくなった。ちょうどそのころ、母さんの妹の単身赴任中の連れあいが、焼肉パーティー後、急性E型肝炎で倒れ、一月にわたり、死線をさまよった末に目を覚ました。野生シカのウィルスを活きたまま食したのが原因らしい。
連れあいの病状が落ち着き、4月末、車で片道5時間の赴任先のアパートに行き片付けしていたとき、認知症の父親の危篤の報が舞い込んだ。
7時間かけて実家の町の入院先に駆け込んでみると、母親の親族10人ほどが随分前に到着していた。こんなとき、実の子にのしかかる重圧はかなり大きい。父親は5月1日死去。
はなは、そのころまだ2歳。父さんの故郷の町は、春から夏にかけて毎日必ず霧雨が降った。そんなじめっとした実家の2階の隅っこにうずくまって、葬儀の数日間を過ごした。はなの、そのころの写真を見るとまだまだ幼さが抜けていなかった。
母さんは、壮絶な抗がん剤治療の甲斐あって、その年の秋口に乳がん手術にこぎつけた。稀な事例らしいが、摘出された組織にガン細胞の痕跡はまったくなかった。
翌19年春、父さんは、かなりひなびた町への転勤辞令を、恐る恐る家に持ち帰った。単身赴任やむなしの覚悟の父さんは、はなに向かって、母さんがだめでもいっしょに行こうね、という意味の信号を必死に送ってきたが無視。母さんは手術の傷が癒えていなかったのに思いやりの方が深かった。片道3時間の赴任地へ3人そろって旅立ったのだった。
父さんの母親は、夫が亡くなった直後の18年春に怪我で入院してから、なかなか調子が上向かなかった。もともとウィルス性の慢性肝炎を長く患っていて、全身の機能が年齢より衰えていた。
父さんは、いつころか思い出せないくらい昔から、母親との折り合いが良くなかった。父親が存命中、ヒステリーを起こした母親と大喧嘩して、数年間、絶交したこともあった。
怪我はとっくに治ったはずなのに、母親はグズグズとベッドから起き上がらなかった。業を煮やした父さんは、むりやり神経科病院に連れ出した。診断は、前頭葉に縮小があるものの年相応であり、認知症予備軍程度とのこと。
父さんは診断を聞いて、認知症には基準なんてまったくないも同然だと思った。常人なら、医師や看護師の言うことを完全無視したり、年下の者や弱い立場の者を悪し様になじったり、いい歳をして憐れみを乞うように泣いてみたり、そんな非常識な真似はしない。ところが、その兆候は年取ってから始まったのでなく、父さんの子供のころから変わらずそうだったのだ。そのことを再び思い出して、父さんはむなしさにおしつぶされそうになった。母親は病院と介護施設を行き来し、20年秋口に亡くなった。
こうして、はながやってきてから4年あまりの波瀾の幕が閉じられ、ようやく平穏な時を迎えるかに思われた。しかし、そうはいかなかった。
21年、父さんは、還暦を目の前にして、まったく先行きの見えない苦難に遭遇したのだ。
身のほど知らずの父さんは、会社の強圧的な体質を見るに見兼ねて、その張本人に対し異議申し立てを行なった。そこまでは信念のままの行動だったのだが、木っ端微塵にはね返されてからの日々は地獄の苦しみ一色に染まった。会社から帰宅した父さんは、自室に閉じこもり、バカやろうと床をたたきながら怒鳴りまくった。1時間あまり続くことさえあった。はなは、父さんに近づけなかった。悲しくてたまらなかった。
その年の8月、会社からスポイルされた父さんは、職場の机の上のパソコンを使い、日中から堂々とブログにのめり込むことで、かろうじて職場に居座っていた。一時、PTS(急性ストレス反応)の診断を受けて長期休養を取ったり、ガン手術を経験したり、といったこともあったが、最悪事態を通り過ぎれば、少々の痛さにはへこたれないものだ。
はなは、ブログの看板ネコとして、父さんのために話題を提供し続けた。父さん!感謝してる?
こうして出来上がったのが、「黒猫とのの冒険」だ。父さんの夢の中で、とのが予言したとおり、はなは、とのに導かれて、父さんと母さんのもとに、たくさんのお土産をもってやって来た。その後も色々あったが、ブログは曲りなりに続けられた。
そして、平成34年、いや令和4年の暑い夏を過ぎたころ、はなは、歳には勝てず体力の衰えが進み、無意識でやっていたことを失敗するようになった。ずっと、父さんを介護してきた、はなは、介護される側になった。
その年の12月、はなが、自力で食べられなくなってからの40日間、父さんにとって、はなを介護する生活がこれほど充実した貴重なものだとは思いもしなかった。こんな大切な命があることに初めて気がついたのだ。父さんは、はなを看取って、自分の親への心のしこりが少し溶けていくのを感じた。(2023.4.21)