写真:ストレッチ続き たくましい腕
「第四 闘いの終わり 1」
とのたちは、大男が歩いたと思われる道筋をたどり、彼が倒れた地点まで行ってみた。眼下には、周囲を針葉樹と広葉樹の混交林に囲まれた、すり鉢のようにくぼんだ地形が広がり、そのすり鉢の底には、十数軒のこじんまりとした集落が沈み込んでいた。よく見ると、すり鉢の上部にはいくつもの朽ちた家屋の骨組みが散らばっており、昔はそのくぼみいっぱいに人家が営まれていたことを示していた。その集落の脇には幅の狭い急な流れの川があって、十数キロメートル先の海へ注いでいた。とのは、その川の上流の山中に目を向けたとき、龍高岳連峰の中でもひときわ目立って白い峰を見つけた。
「そうか、ここは二頭の子馬が拉致されていた小屋の下流なのか。」
斜面のけもの道を下って小さな集落に近づくと、村のすべての住人が戸外に出ているようなにぎやかさだった。住人たちはほぼ全員が何年もの間、タンスの奥にしまわれていたと思われる衣装で正装しており、まもなく何か盛大な催しが始まるのか、彼らは、斜面ばかりの狭い集落内のそこかしこを落ち着きなく行き来していた。そのにぎやかさは決して楽しそうなものではなく、なにか得体のしれない興奮に包まれていた。集落の建物の外周付近で、目を尖らせた何人かの男たちが斜面を見上げていた。
とのと馬たちはただならぬ雰囲気を察して、集落のはずれの、とっくの昔に誰も住まなくなった廃屋に身を潜めた。夕方になり、空気が冷たくなってきたころ、人々の大きな歓声が上がり、同時に動物の声に似たキーキーという叫び声が聞こえた。しばらくの間、人とも動物ともつかない興奮した鋭い声が入り交じり、辺りの緊張が次第に高まるのが感じ取れたが、その廃屋からはその光景は見えなかった。
「何が始まるんだろう?」
とのたちはうかつには外に出られないような気がして顔を見合わせたが、ヴァロンはもうじっとしていられなかった。
「薄暗くなってきたから大丈夫だよ。」
ヴァロンは、目立たないように一匹で戸外に出て、草むらや小さな土水路の段差の陰に隠れながら、声がする方にじわじわと忍び足で近づいた。ヴァロンの身体には、地面を踏みならす人々の足音が間断なく伝わってきた。こんなに人々が興奮する様子を見たことはなかった。これ以上近づくと踏みつぶされそうだと思い、草むらの中に平べったくなり、遠くに目を凝らした。すると、人の群のすき間から、真っ黒な家のように大きい動物の姿がはっきり見えた。ヴァロンは恐ろしさのため身体が凍りついた。そこには、きれいな敷物の上に四本の脚を大きく広げて仰向けになったヒグマの巨体が寝ていたのだ。ヴァロンは、家にあった動物図鑑やテレビで何度も見ていたのだが、実物のヒグマの大きさは想像をはるかに超えていた。
群衆が、きれいに磨かれてつやつや光るヒグマの巨体の周囲を取り囲むと、そこは人垣で作られた洞穴のような特別な場所になった。手に刀のようなマキリを握った数人の男たちが、緊張した面もちで、ヒグマの腹を喉元から縦に真一文字に割き、肉と内臓と脂などを慎重に取りよけた後、堅く太い骨格を丁寧に切り取って、巨大な頭蓋とそれにつながった皮だけをその場に残した。ヴァロンは、美しい皮の衣装をつけたヒグマの顔がまるで生きているように見えて、涙が止めどなくあふれた。
そのとき、ヴァロンはふいに首を捕まれ身体を持ち上げられた。
「こんなところに見慣れない猫がいるぞ。」
人々の視線がいっせいにこちらに注がれた。
「離してよ。」とヴァロンは身体を揺すったが、ますます強い力が首に食い込んだ。
「こいつは、祭りを邪魔しにきた悪い猫だ。」
「ちがうよ、ちがうよ。」と鳴いてみたが、抵抗しても無駄なことがわかった。
「こいつはさっさと処分してしまおう。」
「処分って?」
そのとき広場に夕闇が下りてきて、何本ものたいまつに火が灯された。ばちばちと弾けるたいまつの火に赤々と照らし出された広場には、メタンガスのような異様な熱気が充満していた。ヴァロンは、周囲の家屋や木々や土煙りまでもが、熱に浮かされた人々の発するゆらゆらとしたエネルギーに感化されて、自分の登場を苦々しく思っていることを感じ取った。もう一度鳴いてはみたものの、突き刺さってくる殺気によって、次の展開がどうなるのかはっきり予測できた。自分はそこに寝ているヒグマに次いで、この祭りの準主役になったんだと思った。
広場には、人の背丈ほどもある木の棒が皮をきれいにはがされて、何本も用意されていた。ヴァロンの身体は、地面に立てられたその棒に首のところを結いつけられた。そのときのヴァロンには、怖いとか首が痛いとかの感覚を通り越して、自分の五官に、今起きている現象をくまなく刻み込もうという開き直った気持ちしかなかった。群衆より高い位置から、今にも燃え上がりそうな広場の眺望を見渡す気分は、震えがくるほど最高だった。
ヒグマの頭蓋と皮は、屋根をかけた祭壇の中央部にていねいに安置された。人々は、祭壇の前に車座になり、酒を飲み、ヒグマからたった今切り取った肉を食い、脂を飲んだ。すると、彼らはキーキーと人のものとは思えない奇声を上げながら立ち上がって、羽ばたきをしたり、ぴょんぴょんと跳び始めた。今、人の仮面をはずした人々は、この山々にいる鳥やカエルや様々な動物に変身してしまいたいという、全身からほとばしるような興奮に取りつかれていた。人々の奇声と跳躍はだんだん激しくなり、何人かが地面にどっと音を立てて倒れた。このままだと全員が昏倒するのではないかという間際になって、あわてて年取った男が踊りの輪を大声で制止したので、やっと人々の興奮にブレーキがかかった。
飾り立てられた祭壇にゆったりと座ったヒグマは、入れかわり立ちかわりやってくる人々から、次々と酌を受け感謝の言葉を聞き、広場の様子を眺め回しながら、満足そうにさかづきを飲みほしていた。
広場の端の暗い場所に縛られて、見向きもされなくなったヴァロンは、誰かが語りかけてくる声を感じた。
「あんたは、昨日近くの山の中で熊の格好をしていた男の友達かい?」
その穏やかな声は、ヒグマの頭蓋の上あたりから聞こえた。
「そうだよ。龍高岳連峰をあちこちいっしょに歩き回ったんだ。でも、どうして知っているの?」
ヴァロンは、ヒグマが自分たちを知っていることに驚いた。
「あの男とは、昔から顔見知りだったんだ。わしはそろそろ人間に捕まりたくて、うろうろしていたんだが、今朝、山で偶然出くわすとは、わしたちの深い縁に感じ入ったよ。今日は、国への旅立ちのはなむけに、あの男ともさかづきを交わしたかったな。」とヒグマはちょっと残念そうに言った。最近この近くに出没していた熊は、このヒグマだった。
ヴァロンが、この集落にいる密猟者を知っているかどうかヒグマに聞いてみると、ヒグマはこう言った。
「密猟者たちは、趣味や金儲けのためだけに動物を狩猟したり捕獲したりしているのではなく、自分たちの行為が、自然界のバランスを守り、種を長く保存することに役立っていると言っている。彼らの言い分に一理もないとはいえないだろう。」
「たとえそうだとしても、動物たちにとってはつらいことだよ。」
「そのとおりだ。だから、今夜わしがこうして祭られて、人間たちにほんとうに大切なこととはなにか教えてやろうと思うのだ。自然界を無防備なまま生きる者たちから、いたずらに恨みや怒りを買ってはいけないことを。」
続けてヒグマが言った。
「あんたもえらく過酷なとばっちりを食ったもんだ。」
「ここで死んだらもう遊べなくなるから、ものすごく残念だよ。でも………」
ヴァロンは、歯を食いしばってそう言ったとき、暗い茂みの中を、広場に向かってゆっくり近づいてくる黒い小さな物体を見つけた。その物体は、暗闇に赤々と浮かび上がった広場の端に、あと数歩で届きそうな地点まで来ていた。
廃屋にひそんでいたとのたちは、ヴァロンの帰りが遅いことに不安を募らせていた。とのは、ヴァロンが戻って来られないのはどうしてなんだろう?とじりじりしながら、辺りが真っ暗になるまで待つ間、時間が止まったように長く感じられた。やっと外に出ると、にぎやかな音がする方へ急ぎ足で向かった。広場の空気に混じった得体の知れない匂いが、とのの鼻に触れた。その匂いは、とのにとって未知の動物のものだった。広場の奥まった中央部の屋根の下に、木の櫓のような祭壇が作られており、そのいちばん高いところに、信じられないくらい大きい真っ黒な動物の頭があって、長いマントのようなものをまとっていた。初めて見たのに、それが有名なヒグマだと、とのにはすぐわかった。
ヒグマはぴくりともせず明らかに死んでいるのだが、その顔には何とも言えない笑みが浮かんでいた。そして、熊の目がとのの方を見ているような気がした。
突然、とのの耳に「との、との」と呼ぶヴァロンの声が飛び込んできた。声がする方向に目を凝らすと、にぎにぎしく飾られたヒグマの祭壇の奥の暗がりに、細い一本の木にだらりとぶら下がったヴァロンの身体が見えた。とのはびっくりして草むらを飛び出そうとした。
「との! それ以上、来ちゃいけない!」ヴァロンが鋭い語調で言った。
「われわれ猫族は、他の動物や虫を、有無を言わさず制裁してきたんだ。だから、こんなふうになっても、猫は、恨んだり怒ったりしないで受け入れるべきなんだよ。」
とのにはヴァロンの言葉の意味が理解できなかった。
「だめだよ、ヴァロン! 今、助けに行くから。」
ヴァロンはさらに強い調子でとのを制した。
「との、よく考えろ。猫は地球上でいちばん自立した生き物だ。おれにかまわず、お前はどこまでもお前らしく生き抜くんだ。」
祭の参加者は次第に増え、ヒグマの祭壇前から屋外まであふれるほどの人数になった。その中の一部は、身動き取れないヴァロンの周りに輪を作って、抑揚のない歌ともお囃しともつかない奇声を上げながら、身体を激しく動かし地面を踏み鳴らし始めた。そしてヴァロンに近づくと、いやな者を見るような目つきをして、口々にヴァロンに悪態をついた。
「おれは魔猫じゃないぞ。」ヴァロンの威勢のいい声が広場に響き渡った。
人々はヴァロンを縛りつけた長い木をかつぎ、裏山に向かった。そこは、海から押し寄せる霧が年中とぐろを巻いている、じめじめした居心地の悪い湿地帯で、邪悪な動物を葬る場所だった。
「との、また会おう。」
それが、とのが聞いたヴァロンの最後の言葉だった。
とのは、人々がヴァロンをなぶり殺しにする場面を想像すらしたくなかったが、頭の中身すべてがその映像によって占領された。何もできない自分が悔しくて嗚咽さえできなかった。人々への憎しみが、身体の毛穴という毛穴から虫のように次々とわいてきた。抑えられない激烈な感情に支配され、とのはその場に硬直して卒倒した。
とのが意識を取り戻したとき、馬の背中の柔らかな毛に埋まり、真っ暗闇の中にいた。一日目の祭りが終わり、人々が短時間の仮眠を取っている隙に、馬たちはとのを救出したのだ。とのは、それから何日間もひと言もしゃべらず、馬の背で泣き続けた。馬たちは、背中のとのにかける言葉を探し出せなかった。とのの心は、ヴァロンの思い出と尽きない悲しさ、そして下手人たちへの激しい怒りと憎しみに支配されていた。悲しさに押し潰され、憎しみに張り裂けそうになる自分の心と向き合っているだけで精いっぱいだった。
馬たちは、とのの様子を窺いながら話しかけた。
「どこへ行こうか?」
「どうしていいかわからないんだ。」とのは力のない声で言った。
「とのが見たことのない珍しいところに案内しようか。」
馬たちは、伝説の武将の記念碑がある場所に向かった。
道々、馬たちはその伝説について教えてくれた。およそ千年も前、武将は南の土地からこの大きな島へやって来た。上陸した地点は、渡島半島を縦断する険しい山脈が、半島の最南端で海に切れ落ちる付近とされていた。そこから陸路を北上し、四百キロメートルばかり進んだところで、大きな川に行く手をさえぎられたためなのか、川の上流部へおよそ三十キロメートル遡上し、記念碑が今に残る土地へ至ったと伝えられている。彼がなぜその地に足を踏み入れたのか、そこが最終目的地だったのか、今では誰にもわからないが、当時もその土地は気候が良く、山の幸や海から遡上する魚が豊富なところで、比較的多くの人々が住んでいた。時代が下って江戸時代の初めころ、その周辺に住んでいた先住民の有力な部族が、成りあがりの松前氏の侵攻を阻止しようと激しく抵抗したという。
「その武将が生きた時代のこの島のイメージには、ずいぶん誤解があると思うよ。」と馬たちは言った。そこは、狩猟採集民の原始的で穏やかな居住地だったのではなく、内地との行き来が頻繁で、大陸や北方の島々との交易も盛んに行われていて、想像をはるかに超えたにぎわいを見せていたそうだ。
注目すべきは、その付近一帯には金の鉱脈があり、武将がやって来た当時、かなりの産出量があったとされている。東北地方の藤原氏が建造し、現存する有名な寺院には、ここの金が相当量使われていることがわかっている。考えようによっては、この地の金がなければ、その寺院のみでなく藤原氏自体、歴史上に出現しなかったという解釈もないわけではない。
「人間たちの知らないことなんだが、武将は数々の闘いの間、ある由緒正しい守り刀を肌身離さず持っていた。その短剣は龍の剣とも呼ばれていて、今でも記念碑周辺に隠されているという言い伝えがあるんだ。」
馬たちがとのにそう語った。とのの耳は、あの事件以来、何も聞こえないも同然だったのだが、「龍の剣」という言葉の響きによって久しぶりに感覚を取り戻した。言い伝えでは、その剣には勇敢な武将の力が封じこめられていて、その剣を持つ者はこの島のみでなく、広く世界を制覇できるとされていた。
とのは、以前馬たちが言った彼らの闘いのことを頭の隅に記憶していた。
「昔、きみたちの先祖が闘いを起こしたとき、剣を振るったと言ってたよね?」
馬たちは、彼らが生まれる前の遠い昔の記憶を語り始めた。
人間たちによる大がかりな馬の囲い込みが各地で行われたとき、体格のひときわ大きい一頭の雄馬が、この地で自由に生きる野馬の滅亡を憂えて、龍の剣を探し出し、戦闘を起こしたとされている。結果的に力は及ばなかったが、その雄馬の卓越した身体能力と行動力は、人々に驚きと感動さえ与えるところとなり、野馬が根絶やしにされることは回避された。
「闘いの勝敗とは関係なく、その馬の勇気が称賛されたんだよ。」
それ以来、その剣は誰の目にも触れることはなかった。
「どんな形をした剣なんだろう?」
とのの目が、以前のように光り輝いた。
「言い伝えでは、馬の尻尾に隠れるくらい短く、稲妻のように光り輝いていたそうだ。」
「じゃあ、ぼくにも持てそうだね。」
とのは心の底から龍の剣を手にしたいと思った。その剣で悪い奴らを徹底的に懲らしめてやりたかった。
「龍の剣を探しに行こう!」
とのの身体中に、あの集落の人間たちへの憎しみが激烈なエネルギーとなってわき上がった。ヴァロンが受けた仕打ちをあの人間たちにも同じように味わわせてやらなければ、この憎しみは永遠に消えないと思った。
「その剣にはある魔力が秘められていて、目的を遂げる勇気のない者が手にしたときは、その剣によって必ず身を引き裂かれると言われている。」馬の目は恐怖に震えていた。
「ぼくは怖くなんかない!」とのは憎しみと恐怖でぶるぶる震えながら、振り絞るように大きな声で言った。
「お願いだ。そこへ連れて行ってくれないか?」
「何があっても後悔しないと誓うのなら、連れて行ってあげよう。しかし、わしらもそのありかを探し出せる自信がないんだ。」
「どういうことなの?」
「今の記念碑は、もともとあった場所から今のところに移されたと言われているんだ。龍の剣のありかを誰にも悟られないために。」
馬たちは、山奥に向かって歩き出した。龍高岳連峰の深い山懐に入ってしまったため、どの方向に進んでいるのか、とのにはまったくわからなかった。彼らは、はるか下方に見える谷間の底に吸い込まれてしまいそうな細いけもの道を、幾日も登ったり下ったりした。細く背の高い樹木が密集した山々に足を踏み入れると、樹木の梢にさえぎられて陽の光が届かない暗い地面の上に、何年も前の山の空気が厚く充満していた。その空気を吸いながら静寂の中をゆっくり歩いていくうちに、どのくらいの時間が経過したか数えることができなくなった。朝晩の気温から推定すると、春はとっくに過ぎ、夏に差しかかっていると思われた。
ふわふわした霧が低い土地から切れ切れに吹き上がってきて、行く手がだんだん見えなくなった。その霧が本格的に厚く垂れ込めてきて、とのたちは全身ずぶぬれになった。すると、ちょうど霧の向こうにかすかに建物らしい影が見えた。近づいていくと、庇が外側に突き出した大きな瓦屋根が現れ、その重厚な屋根の下に、相当古びているものの、思いのほか堅牢な土壁があった。庇の下に入り、建物の周囲を巡ってみると、武道場のような雰囲気の四角い建物で、窓がなく中がどうなっているか、のぞき込むことができなかった。山奥にこんな立派な建物が何のために建てられたんだろう、と思いながら壁に沿って正面に回ると、そこには厚い板がばってんに打ち付けられた一枚板の開き戸があった。その開き戸の脇の壁に表札のような板が貼り付けられていたが、表面にはなにも刻まれていなかった。開き戸とそこに打ちつけられた板、表札のような小さな板は、長い年月、風雨、風雪にさらされて、今にも厚い土壁と一体になり見分けがつかなくなりそうだった。
「この建物はもう使われていないんだね?」
「わしらがはるか昔に来たときとまったく変わっていないな。」
馬たちは、落ちつかない様子ではあったが、懐かしそうにその建物を眺めていた。
「実はここが元々の場所なんだよ。」
とのはしばらく馬を見つめたままでいたが、ようやくその意味がわかった。
「じゃあ、龍の剣はこの辺りにあるんだね?」
とのが勢い込んで言った。
「あれ以来、剣を探そうとした勇者はいなかったんだよ。」
とのの気持ちはすでに決まっていた。
「ぼくはここに残って探してみるよ。」
とのは、これまでつき合ってくれた馬たちに抱きついて、深く感謝した。
一匹になったとのは、建物の周囲の草むらや森林の中をくまなく探したが、それらしいものをなにも見つけることができず、疲れ果てて建物の正面の庇の下にうずくまった。しばらくうとうとしたのだろう、草むらの露を何滴か顔に受けて眠りから覚めると、辺りはすっかり陽が落ちていた。でも、とのの開けたばかりの目には、月の光が昼間とそれほど変わらないくらい明るく射していた。ふと建物を見ると、閉じられた開き戸の横の壁に、まるで猫のくぐり抜けのために開けられたような小さな穴があった。確かさっき見回ったときは開いていなかったはずなのに、と思いながら、とのはもう一度辺りを確認した。すると、扉の横の小さな木札に、強い月光に照らされてくっきりと文字が浮かんでいた。
「龍剣堂」
とのはそれ以上深く考えないようにして、小さなくぐり穴から建物の中に入り込んだ。建物の分厚い床板は、天井からしたたる雨水などに晒されて、ところどころ朽ちて小さな穴がいくつも開いていた。建物の奥まったところに来たとき、床板の穴から木箱のようなものが床下に見えた。短い手を伸ばし、箱の上面をひっかいてみたが、頑丈に作られたその木箱はびくともしなかった。とのは仕方なく、自分がもぐり込めそうな穴を探して床下に下りた。
木箱はぴったりとふたが閉まっていた。とのは、全身の力を振り絞って、その重いふたを少しずつ持ち上げると、かたんとふたのはずれる音がした。とのは、息を詰めながら、ふたを少しずつずらしていった。すると、箱の中には、波打つようにくねった鞘に収まった短剣があった。とのは、緊張と恐怖のために自分の毛が逆立つのを感じて、いかにも年代物に見える黒ずんだその短剣をしばらく見下ろしていた。しかし、もう引き返す道はないと意を決すると、指の肉球を思い切り開いて剣の柄を握った。その瞬間、静電気の数十倍もの刺激が体内を駆けめぐった。その強烈な刺激に突き動かされたとのの身体は、青白い光を放ちながら、はじけるように床板を突き破り、建物の中に充満した。
「との!逃げろ!」
突然、なにかがとのの身体にものすごい勢いでぶつかった。突き飛ばされたとのは土壁に激突した。
「怪物が、とのの背中に襲いかかろうとしたんだ。」
どこから現れたのか、ヴァロンがぜいぜい息を切らして、とののすぐ傍にいた。
「長いヒゲがある龍のような恐ろしいやつだったよ。」
とのは、ぶつけた身体の痛さ、そしてヴァロンに再会できた喜びの感情がぐちゃぐちやに入り交じって、ヴァロンの懐に飛び込んで泣いた。とのはヴァロンに、馬たちから聞いた龍の剣のことと、それを今見つけたことを話した。すると、顔色が蒼白になったヴァロンは、いきなり床下の剣をわしづかみにして、建物の外に飛び出した。
「とのにはこの龍の剣は必要ないんだ!」
ヴァロンはそう言うと、建物の裏側の切り立った崖の上から谷底目がけて、その剣を投げ落とした。
「せっかく見つけたのにどうして! ヴァロンはあいつらが憎くないのかい!」と、とのは叫んだが、そのときすでにヴァロンの姿はかき消えていた。
とのは、朝の柔らかな光を受けて輝く、草むらの中で目を覚ました。昨夜、目の前の建物の中で起きた痕跡は、なにも残っていなかった。
「やっぱり夢だったんだ。」
夢に現れたヴァロンのことを思うと、悲しさがよみがえって涙があふれた。しばらく泣いてから、どうしてヴァロンが龍の剣を嫌ったのか考えてみた。きっと龍の剣は、殺された者たちの恨みを晴らすために絶大な力を発揮するのだろう、事実、夢の中で剣を握ったとき、突然激烈な怒りの力がわいてきて、自分の身体から青白い光が立ちのぼり、同時に身体が何倍にもふくれあがったような気持ちがした。ヴァロンが見た怪物とはきっと、との自身だったのだ。もし、とのがあの剣を握ったら、怒りに囚われて前後の見境なく自分が破滅するまで闘うだろう。
「とのには必要ない」というヴァロンの言葉を思い返した。とのは、自分がその闘いを望むのかどうか、自分の心に改めて確認してみた。
「仕返しをしないで自分の気持ちが収まることがあるだろうか?」
それは絶対にない。大男と違って力がない自分には、どうしても龍の剣が必要なのだと、とのは心に決めた。
建物の正面にあった夢の扉は見当たらず、堅牢な土壁のどこにも猫一匹すら侵入する破れはなかった。夢の中でヴァロンが剣を投げ込んだ建物の裏手に回ってみた。崖下の谷底からは、鋭い勢いで流れる渓流の水音がこだましていた。しかし、その渓谷は木々の梢のなん百万、なん千万枚もの葉っぱに覆い隠されていて、深く切れ込んでいるはずの谷底を見渡すことができなかった。とのは、木々の葉っぱをかき分け梢を伝って、深い谷底に下りていった。梢のささくれ立ちに引っかかって傷ついた肉球からは血がにじんだ。痛みに耐えかねて濡れそぼった梢をつかみ損なったら、たちまち一直線に谷底に落ち、岩に激突するか、渓流に呑み込まれるだろう。とのは、何時間もかかってへとへとになり、ようやく湿った谷底に到達した。木々の葉に覆われ深緑に染まった地面は、まだ誰一人歩いたことがない柔らかさだった。すると、とのの足許には、夢に見た剣が無造作に転がっていた。まるで、とのが探しに来るのを待っていたように。まだ夢の中なのかと両頬を肉球でたたいてみたが、目はちゃんと覚めていた。
とのは、片手で鞘を押さえ、もう一方の手で剣の柄をしっかりと握り、力を込めて剣を抜いた。抜き身の剣は、流れる水のようにしなやかに曲がりくねり、稲妻のように鋭い光を放った。それは短剣ではなかった。谷底から切り立った崖の上まで淀んだぶ厚い空気を、ひと振りで切り裂ける長大な剣だった。
銀色の両の目をらんらんと燃え上がらせた真っ黒な巨大な猫が、いくつもの深い渓谷を空を飛ぶように大股で横断し、またたく間に敵の集落へ押し寄せた。外敵から集落を防御するための呪文がかけられた門の前に仁王立ちになると、龍の剣を振るって、その門を粉々に破壊し、集落内に侵入した。そして、疾風のように縦横に駆けめぐり、あらゆるものを切り倒し踏みつぶした。黒猫は、剣の威力によって人々を蹂躙する憎しみの機械になっていた。
集落の住人たちは、憎しみに満ちた猫に恐れおののいて、多くが集落の外の山林へ逃げ込んだ。それを見た黒猫が、大きく裂けた口から熱い息を吐くと、山林は一瞬にして燃え上がり、そこにいた生き物の大半が焼き尽くされた。集落の傍を流れる小さな沢の上流の斜面には砂防ダムが散在していて、そのダムを破壊するとその上流の土石が沢づたいに砕け落ち、確実に集落を埋め尽くすことが見て取れた。巨大な黒猫は沢の斜面を上流に向かってジャンプしながら駆け上った。すると、地響きが一帯を襲い、上流からどろどろの土砂や岩石、泥水が押し寄せてきた。
黒猫は、ひと蹴りで吹っ飛びそうな家の床下に、子どもとその母親が逃げ込んでいるのを見つけた。恐怖に青ざめた母親を見た黒猫は、残虐な気持ちをかき立てられて、大空を舞う鷹のように急降下して襲いかかろうとした。そのとき、母親の背中の後ろからこちらを見つめている幼い子どもと目が合った。その子どもの目には、意外にも恐れの色はまったくなく、無邪気にたわむれようとする好奇心だけが浮かんでいた。
「この目はどこかで見たことがある。」
黒猫は一瞬そう思った。そして、すぐそれがヴァロンのいたずらっぽい目であることに気がついて、雷鳴に撃たれたようにその場に凍りついた。いや、それは少し前の自分の目でもあったのだ。
「おれは誰を憎んでいるんだ。この小さな子どもを憎んでいるのか。」
とのは、自分の行為の残忍さに驚愕を覚え、その場にしゃがみ込んだ。すると、突然、龍の剣はぼろぼろに錆びついて、手の中に柄を残したまま、地面に崩れ落ちた。泥流はもうすぐそこまで迫っていた。その場から即刻逃げなければ泥流に巻き込まれるのは確実だった。とっさにとのは、母親と子ども両腕に抱え、その場からあっという間に斜面の上まで駈け上がった。
とのは、山中に入り込み、ふらふらとあてもなくさまよった。大虐殺を犯した自分が、未来永劫にわたって昔の自分の心を回復することができるとは思いもよらなかった。何日も何週間も何ヶ月も歩き回った末、とのは地面に突っ伏したまま動かなくなった。(第4 闘いの終わり 了)