小説をほとんど読まなくなってどのくらいになるだろう。まとまった小説を最後に読んだのは、確か十年ちょっと前の天童荒太「永遠の仔」だったと思う。最近は集中力が低下したためか、小説以外の書物も、興味がわいたり、物を書くのに必要になったりしたところだけ読むという抜粋型読書になった。したがって、家にある小説の類はみな古いものばかりだ。
小説が嫌いなわけじゃない。学生をやっていた最後の数年間、バイトの収入の大半を本の購入に充て、小説本もかなり集めたと思う。卒業後、膨大な量の本を就職先に携えていくことができず、実家に頼んで、当分預かってもらうことにした。
数年前、古びた実家を処分することになり、三十数年預けっぱなしの本たちの落ち着き先を初めて真剣に考えたのだが、ときすでに遅し。段ボール十数個分もの置き場所など見つかるはずはなかった。実家を引き渡す前日の夜、私はため息をつきながら、長いこと肩身狭く待ち続けた本たちの中から、自宅に持ち込めるだけの本を傍らに除け、その他を段ボールに詰める作業にかかった。驚いたことに、それらの書物たちの表題のうち、思い出せないものはひとつもなかった。いつ、どこの町の、何という本屋で出会ったか、そこまで記憶をたどれるものが八割方もあった。翌日、彼らが黙ったままトラックに積まれていくのを、私は断腸の思いで見守るしかなかった。そのときの修羅場を生きながらえた何冊かが、私の家で今も静かに余生を送っている。
文学本が多く残ったのは不思議だ。藤枝静男作品集、梶井基次郎全集や志賀直哉全集のうち行方不明だった一冊、正岡子規全集数冊、折口信夫全集数冊、新潮?の新書版日本文学全集「永井荷風」集、森有正のバビロン、江戸学の本、河出の日本生活文化史全十巻など。懐かしさのあまり、それらのページを開いてはなで回した。
断腸の思いと言えば、新書版の荷風集に「断腸亭日乗」が抄録されていた。たまたまそのページを開き目で追ったとき、行間から何とも言えない高貴な香りが立ちのぼった。日乗には、彼の内心に秘められた思いや彼の生きた時代の物事について、かなり烈しく綴られた部分がある。
たとえば、荷風の父親が危篤になったとき、彼は馴染みの女性といっしょに箱根に遊んでいた。前年に妻を迎えたばかりの彼は、以前からつき合っていた女性へのお詫びを兼ねて、たまたま数泊の旅に出ていたのだ。父親の報を聞き、遅ればせながら枕許に駆けつけたとき、父は目を落とす間際で意識はすでになかった。家人たちのとげとげしい視線はどれほどのものだったろう。彼は後日、自分の情けなさに打ちのめされながらも、それらの経緯を振り返り、しっかりと記述していく。その態度のなんと正直でいさぎよいことか。こんな場面でも、文章の格調を崩さない流麗な筆致には、人を陶然とさせる力がある。この点で、荷風をしのぐ文筆家はそれほど多くないと思う。
漱石の小説にも女性は大勢登場するが、実態というか実感というものがない。鴎外は、お堅い制服で内面を覆い隠し、見栄えにこだわっている。実篤は真面目に過ぎ、直哉は遊び人に過ぎる。芥川は神経質に、百は磊落に偏る。これらの個性ある文豪たちの中で、私がもっとも惹かれるのは、やはり荷風の文章表現だ。その表現力はすでに日本文学の古典と言っていいだろう。
古典を読むのはいわゆる教養を身につけるためとされ、なんだか時代遅れのように思われるかもしれないが、そんなことはない。先人の残した文化の力を再認識することは、社会の風潮や権力の恣意的な揺さぶりに左右されない、自らの自由で強靱な判断力を養成することにつながるはずだと信じている。
本日で、ブログ開設四周年になる。ここまで続けてこられたのは読者の皆さんのお陰。いつまでも黒猫「との」といっしょに歩み続けたいというのが私の切なる願いだ。(2013.8.29)