黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

いじめ猫

2016年12月28日 14時55分07秒 | ファンタジー

 きみまろ氏の口上にこんなのがある。
 社長は社員をいじめ、社員は妻、妻はイヌ、イヌはネコ、ネコはネズミをいじめ、ネズミは腹いせに社長の背広をかじる。
 社長が社員をいじめたのが連鎖の火元とされるが、このいじめのきっかけがネズミに社長の背広を破られた程度のことだとは思えない。仕事や私的なことでふくれあがったストレスの尻尾を、ちょっと噛まれるようなことが起きたのだろう。そのはけ口を弱い立場の相手に向けたのだとしたら、誰にでも思い当たるフシが三つや四つはある。つまり社長に限らず、誰もがいじめの主体になる。
 信じられないのは社員の妻いじめだ。どんな非常事態であろうと私の家では起きようがない。なので、それは社員宅の特殊な事例だと思いたい。それに、今のネコなんて、ネズミを見たことさえないのだからいじめるどころか、びっくり仰天して逃げ出すかもしれない。イヌにしても飼い主を引きずり回すような不作法なのはめっきり減ったし、と考えながらもう一度、上記ラインナップを見ると、ここだけの話にしてほしいのだが、物事の始まりは、妻を置いてほかにいないだろう。こんなことを考えていると感づかれたらどんな事態に……、ああ恐ろしい、これ以上は書けない。
 私としては、自分に限っていじめたことなんて一度もない、自分にはいじめの連鎖のひもを断ち切って不幸を終わらせる勇気がある、と思っているのだが、妻は無神経な夫がいちばん質が悪い、と私をジクジクいじめる。
 いじめの本質とか原因って何なのだろう、と考えてもラチがあかない。どんなに文明が発達してもこの世の中からストレスがなくなるわけでもなく、とぐろを巻く憤懣イライラのはけ口は、依然として必要不可欠だ。
 じゃ、どうしたらいいの? 私は困惑する。すると、はなは父シャンの目の前で、ゴロンと音を立てて寝っ転がる。はなは、ストレスのない目で語りかけてくる。ストレスや母シャンにうち勝とうなんて思わないでゴロンとしたら。
 ところで、ある筋から聞くところによると、はなが、父シャンの手に噛みつくのは、いじめヒトのための矯正プログラムの一環だというのだ。そうか、どおりで、はなに手を噛まれても痛くないはずだ。それどころか、ますます愛着がわいてくる。(2016.12.28)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人的な習慣

2016年12月27日 09時48分01秒 | ファンタジー

 27の質問のひとつにこんなのがあって、昨日から答えたいような答えたくないような気分でいる。 
「誇らしく思っている個人的な習慣は何ですか?」

①経済観念が際立っているので、ほしいモノを買うまで一年かかる。大好きな甘い物からも目をそらせて生きている。年取るにつれ、食べ物に限らず好きなモノとの縁が薄くなってきたような気がする。でも太らない。
②他人の心をえぐるような言動をしないと決めている。なので、肝心なときに行動を起こせない。つまり役に立たない。
③自分へのとげとげしい視線に対し、気がつかないような振りが得意。十年に一回くらい、悪意や非難に対し気にしているんだぞという顔をするだけ。
これ以上考えると、精神衛生に傷がつきそうなので止める。

 次の質問も妙に気になる。
「最近気になっていることは何ですか?」

①いつも財布がカラになっていないか気になる。
②ハンカチは濡れてないか。
③今朝も私の思いやりのなさが、家人・猫を傷つけたのではないだろうか。というように、最近、自分の言動に不安を感じることがある。不安症候群、それとも老人性うつ……
 思いやりと水やりは、連想ゲームのように対で思い起こされる。十年くらい前、職場にあったサボテンに一年間水をやらなかったことが今でも悔やまれる。意地悪したのでなく、サボテンには水をやらなくていいと漠然と思い込んでいた。思いやりがないレベルでなく非情と言うべきか。明日こそ、はなが起こしに来たら邪険にしないでいっしょに起きようと思う。(2016.12.27)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まぼろしの名作? ホームページのお知らせ

2016年12月19日 16時32分03秒 | ファンタジー

艱難辛苦三日間の末、ユメミテ書房のホームページを立ち上げることができました。
まだ見出し程度の出来ですが、おいおい充実を図っていこうと思います。
まずはちょっと見学に来て下さい。
仮ドメイン(無料ホームページなので)は次のとおりです。
グーグルなどの検索機能には引っかかりませんので、下の住所を打ち込んで下さい。
 http://yumehonya.jimdo.com/

本社たった一冊刊行の「黒猫とのの冒険」は、その旧版が本ブログに登載されています。
刊行本に入っている「黒猫とのと龍の棲む山」は、本ブログ「黒猫とのの帰還」のタイトルを差し替えたもの。なのですが、中身もかなり違います。
いずれにしろ、注文をいただいても本は絶版です。
まぼろしの名作(迷作)?などと言われることがあったら、それこそ楽しいのですが。(2016.12.19)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稼げない男はバクに食われる

2016年12月13日 14時40分55秒 | ファンタジー

 最近、ネットに働く女性がイメージする「稼げない男」の特徴とは、という記事が載った。
 六つの特徴とは、①低いコミュニケーション能力 ②要領悪い ③向上心が欠如 ④自分の意見がなく流されやすい ⑤仕事を転々と替える ⑥夢に逃げこむ、だ。どれとは言わないが、かなり心当たりがある。
①コミュニケーション能力はほんとうにない。用件がないのに会話するのはもったいない。女性のように数時間もの間しゃべり続けたら、あっという間に一生が終わる。
②要領が良ければ用事がすぐ終わるので時間を持てあます。時間があっても何もすることがなく一銭にもならない。
③向上すると調子に乗ってできないことまでやって失敗するので向上したくない。
④意見を通したら責任取れと言われるので意見を持たない。
⑤自分が仕事を替えるのでなく、仕事に見放されている。
⑥いつもウトウトうつうつしているが、夢なんて見たことない。夢見たら、丸ごとバクに食われてしまう。(2016.12.13)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

列島へやって来た人々

2016年12月07日 16時55分39秒 | ファンタジー

 毎度似たような内容の記事を書いてあしからず。
「風土記の世界」、「出雲と大和」(いずれも岩波新書)の二冊の古代神話にちなんだ本を、たまたま連チャンで読んでいる。神話世界の話は子どものころおとぎ話のように聞かされたが、その後、自ら興味を持って神話の知識を集積しようと思ったことはない。なので、この種の本には今でもかなり難儀する。漢文講読と古文読みが必須の学校に行きながら、いまだにこんなんだとは。
 とにかく、長たらしい神様の名前とか、聞き慣れない地名とかいうのはなかなか覚えにくいものだ。その上、人が天上から飛んできたり生き返ったり、筋書きも矛盾だらけで現実味がない。そう思ううちに完全に興味を失ってしまった。
 さらに言うと、神話読みといえば本居宣長や平田篤胤らの強面を思い出し、彼らの講釈がその後、明治の国家神道の発生を促したのでは?という思い込みもあって、どうしても抵抗感が抜けない。戦後の日本古代史研究の世界でも、日本神話を資料に使うことは長く御法度になっていたらしい。
 しかし、最近になり中堅の研究者の中では、神話研究に対するアレルギーは大分なくなりつつあるようだ。この二冊は、神話に絡みついた誇大妄想の先入観を排し、文字に即して新たに読み直すことによって、古代史を再構築しようというなかなか新鮮な試みだ。
 一方、考古学資料(人骨、道具、遺跡、DNAなど)の調査も進んでいる。最近、縄文人骨の核DNAの解析により、列島内に勢力を伸ばした縄文人、弥生人などの人々は、いずれも海を渡って来た渡来人であることが解明された。先住の人々との出会いは平和的なものばかりではなかったろう。でもこの列島では排斥一辺倒でなく、共存、融合を経て今に至っていると考えていいと思う。なにしろ、現代列島人のDNAの二割は、縄文人のものを大事に引き継いでいるという。もう一つ、現代の列島における縄文DNAの分布に関し重要なことがわかった。本州に比べ、九州中部以南や東北福島付近以北の比重が四倍も五倍も高いのだ。以前から想定されていたが、列島内の激動の歴史を物語る事実だ。
 弥生人は紀元前十世紀ころから段階的にやって来たとされる。水田稲作の技術は、長い時間かけて北海道を除く全域にジワジワ広まり、一世紀に入るころには本州最後の砦、諏訪にも到達した。そのころの列島を俯瞰してみたら何が見えるか。弥生文化を受け入れたとはいえ、少なくとも、諏訪のモレヤ神は踏ん張っていたし、エミシ、毛人、蝦夷、隼人、熊襲、琉球人らも、縄文系のかなり精悍な威力を保持していたと思いたい。蝦夷国の出羽山中にいた私の先祖も。
 神話の話に戻るが、大和王朝の先祖の二二ギは筑紫の日向の高千穂に、出雲勢力のカミムスビは出雲の鉄鉱石を産する山岳に、はるか遠くの天上から降臨したと記述される。彼らは、弥生時代に列島外の半島や大陸から渡ってきたと見て間違いはない。ちなみに沖縄のニライカナイ伝承も、海の向こうの国と交流するイメージを持つ。 
 神話によると、大和と言われる地に早い時期に入った弥生人は、出雲の物部氏(石上氏)らしい。物部氏はニギハヤヒを祖先とする天孫系。つまり天孫は大和王朝や出雲朝の先祖以外にも列島にやって来たことを裏付けている。
 また、記紀神話にも風土記にも邪馬台国と卑弥呼の姿に触れた文はないが、「出雲と大和」によれば、物部氏は三輪山に出雲の神、オオクニヌシ(オオモノヌシ、オオナムチ)を奉じ、二世紀後半には鬼道をよくする巫女、卑弥呼の邪馬台国を建て、列島に点在する氏族の連携を図った。邪馬台国に比定される奈良盆地の地名などを探索していくと、出雲の影が濃厚に残されている一帯が確かにあるという。 
 三世紀後半になって、二二ギ系の神武が九州からはるばる東征し、大和に押し寄せた。瀬戸内を来た神武を待ち受けたのが、出雲の総大将ニギハヤヒ配下のナガスネヒコ。神武は上陸を阻止され、紀伊半島を大きく迂回し熊野方面で再上陸し、やっとのことでナガスネヒコ軍を打ち破った。ニギハヤヒは徹底抗戦をあきらめ、大和の地などを神武側に譲る決断をした。これが出雲の国譲り。勝敗の決着をつけようとしていたら、どちらかが滅んでいた可能性がある。つまり出雲側は共存を選んだ。
 しかし、出雲はそうとうの痛手をこうむった。本拠地はかろうじて守ったが、オオクニヌシの子で強硬派のタケミナカタたちは国を逐われ、諏訪などの縄文人の住む地域に走った。こうして大和の地を筑紫派が占拠し、その周辺に列島の新たな勢力図ができた。しかし、筑紫派の占領政策は順調に進んだわけではないだろう。なぜなら、天武が九州勢力まとめて大和を制圧したのは、神武東征から四百年もの後の七世紀後半になってからなのだ。いずれにしろ、列島の版図は、半島や大陸の勢力の消長によって劇的に変化し続けた。(2016.12.7)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心こころ

2016年12月05日 16時35分44秒 | ファンタジー

 時間があふれんばかり流れていた二十歳前後のころ、一時的だったが漱石にのめり込んだことがある。そのときは三四郎からスタートして明暗まで一気呵成に読み通した。ただし「心」だけはすっ飛ばして。なのに、なぜか「心」のあらすじはかなり細部まで知っている。
 そういった小説はもう一点ある。「火垂るの墓」だ。本屋でタイトルを目にしたとき、私の感受性がページを開こうとする指を硬直させた。
「心」を手に取らなかったのは、「火垂るの墓」の場合とは違う。内容がわかるので読むまでもないと思ったからでもない。正直言って読みたくなかった。
 あらすじしか知らない私は、男二人、色恋沙汰を苦にして自死する、そんな小説が漱石だなんて不可解でたまらなかった。小路幸也氏に至っては、「話虫干」という小説で、「漱石「こころ」がヘンになった」と解釈し、本来の「こころ」の文面を取りもどし二人の命を救った。
 まず思い当たるのは、「K」と「先生」が自死する必然性が感じられないこと。
 「K」の、女に惚れたこと自体を悔やむというストイックな心情は、若い時代のプライドの高さの現れのひとつ。人は、時間をかけて自身と世間との齟齬を埋めていこうとするものだ。たとえ、Kと先生との間に、お嬢さんの件が持ちあがる前から恨みの感情とか行き違いとかがあったと仮定しても、こんな選択をしてはならない。
「先生」の方は、若気の至りで女性を策略で奪うような行いをしたことを深く悔やむのは当然のことだが、「私」と対峙しているときの「先生」の人となりは、若き日とのギャップが大きすぎる。「先生」の遺書は、誰かを弁護するため作為が施されているのではないか、格好が良すぎる、とさえ思える。
 お嬢さん一家について感じること。母親と二人きりのお嬢さんが安定を求め、貧乏で社会性の乏しいKでなく、裕福で優秀な先生を選んだのは当然。一家は日本の古い価値観を体現している。一家は、先生にそれを感じ取らせるため上手に立ち回った。実は、お嬢さん自身も明かせない心の傷を負ったのでは、と私は思う。
 さらに、漱石は、明治天皇の崩御と乃木希典の殉死に衝撃を受け、これを書いたとも言われている。衝撃でなく刺激とも取れる。そのころ、天皇の絶対化が進められていたが、それに反発する天皇機関説の提唱など、デモクラシーを求める大きなうねりが起きていた。その中心に漱石自身がいた。
 先日、姜尚中氏の出演したNHKテレビ「漱石が見つめた近代」を見ていて思いついたことがある。漱石が東アジアの情勢を踏まえて「心」を書いたとしたら…。
「K」は当時の日本によって翻弄されるアジア諸国、狭義では中国と朝鮮の苦悩を体現する者。「先生」は羽振りのいい明治の大日本帝国の傲慢と凋落。「お嬢さん一家」は満蒙に建てられた日本の傀儡国家のいい加減さ。「私」はひとつ間違えば滅びの坂を転げ落ちかねない日本の未来。
 歴史の暗い影に翻弄された二人は、明治の終焉とともに、人々の罪を背負って速やかに姿を隠さざるを得なかったのか。漱石は、滅び行く「先生」の口を借りて、「私」に対し、既存の価値観を変革する担い手になれと教唆している?
 そのときから一〇〇年後の現在、漱石物のメタファー(暗喩)が様々に解釈できるのをいいことに、書かれていない後日譚や家庭の事情までしつこくほじくり返すのは行き過ぎの感がある。でも、何だかおもしろい。結局、漱石が仕掛けたメタファーの解明はまだ何一つできていない現状だ。(2016.12.5)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もくもく来ている

2016年12月01日 16時58分48秒 | ファンタジー
 
 今夜から明日にかけて爆弾低気圧が通過するらしいと聞いたので外に出てみると、北の空にもくもく雲がわいているのが見える。大地をかき乱す何ものかがあちこちから寄り集まって黒雲を急激にふくらませている。明朝までにはこの大地の上空で、綿飴のような粘っこい雪をさんざんに振りまこうと算段しているのだろう。(2016.12.1)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする