先日書いたとおり、長い休日を過ごすために時間割方式を導入しようとしたが、ひきも切らず押し寄せる家事・雑事によって、ひとたまりもなく破綻。次に考え出したのは、「空き時間活用方式」という代物。たいして期待はしていなかったが、ここ数日はスムーズに流れている。
この方式とは、読みたい本、やりたい作業などを机の上や周囲に積んでおき、空き時間ができたらすぐ、気分のおもむくまま、それらを手に取り、作業にかかるというもの。時間割どおりにやろうとすると、かえって計画が次々つぶれていったが、空き時間方式で一日過ごしてみると、時間ってけっこうあるじゃんという気持ちになるのがわかった。
ちなみに目の前に積んであるのは、「時間は存在しない」(カルロ・ロヴェッリ NHK出版)、「波」(ソナーリ・デラニヤガラ 新潮社)、「荷風(かふう)追想」(岩波文庫)、「須賀敦子集」(河出版日本文学全集)、「最初の人間」(アルベール・カミュ 新潮文庫)、「思いつきで世界は進む」(橋本治 ちくま新書)、図書(岩波書店)などの月刊誌数冊。
お気づきの方がいらっしゃるとうれしいが、「最初の人間」がこのブログに登場するのはこれで4度目。5年前の2015年10月、読み始めている本として登場し、2016年4月、読もうとする気持ちが熟すまで待つ、2017年11月、ゆっくり読みたい本の1冊、などと書いている。つまりあまり読んでいなかった。しかし、今回は、後半部分の「第2部息子あるいは最初の人間」まで読み進めることができた。その手前、「第1部父親の探索」の最終章で、「最初の人間」とは何なのかの記述がある。どんなに探索しても、決して父親に近づくことができないもどかしさの中で、自分自身こそ最初に出現した人間なのだと自覚する場面はなかなか印象的だ。
アルジェリア系フランス人のカミュの父親は、第1次大戦中のヨーロッパ戦線にフランス軍兵士として従軍し、そこで戦死している。残されたスペイン系の母と祖母によって、貧困の中育てられるが、たまたま小学校の恩師の推薦でリセに入学することができ、その後大学まで進学を果たした。
ところで、カミュは、父親がフランスからアルジェリアに移民したと終生思っていたというのはほんとうだろうか。日本のような戸籍がないからなのか。実はフランスからやってきたのは曽祖父で、19世紀初め、フランスがこの土地を植民地にしたころだったらしい。
蛇足だが、私自身も、本州生まれの祖父の故郷を探索したいという気持ちが数年前から盛り上がっていて、この6月、訪問を企てていたのだが、コロナ禍によってやむなく中止になった。
1910年代、カミュがまだ幼いころ起きたアルジェリア独立への運動は、フランスによって瞬く間に鎮圧された。その光景を彼ははっきり見ていた。その後、第2次大戦後のアルジェリア独立戦争に批判的態度をとったことが、彼の読者の失望と怒りを買った。カミュは、父と母の生きた土地、アルジェリアへの強い愛着があったからこそ、戦争によって故郷が血塗られ荒れ果てるのを目の当たりにするのは心が引き裂かれる思いだったのだろう。
また、サルトルらとの論争でも中途半端な態度に終始したことがずいぶん彼の評判を落とすことになったという。しかし、カミュにとって、アルジェリアはアラブとフランスの共同体であり、政治的暴力は排除されなければならなかった。
この状況の中で書かれたのがこの小説の草稿だった。1960年、彼が自動車事故で亡くなったとき、持参していたカバンに収められていた。それから30数年後、カミュに対する批判が終息したころ、この原稿は公けにされた。数年前には映画が公開された。本を読んでからDVDを借りようと思う。その映画で主人公は、こう言っているらしい。
「アラブ人よ。私は君たちを守ろう、母を敵としない限りは。もし、母を傷つけたら私は君たちの敵だ。」(2020.6.12)