「無数の生」へのこだわりがなかなか晴れないのは、病み上がりの体につき合っていると、ついつい生死について敏感になってしまうから?
それとも、この国に生まれ育ち、習わなくても自然に身に染み込んだ仏教的感受性というものがあって、それが刺激されるから?
そうではなく、現在、構想を練っている「ブタたち」第三部の主要テーマに通じるなにかを感じ取ったから?
とにかく、「一個の生命体は、過去から未来永劫にわたって無数の生を生きる」という論理によって、私は、深遠な宇宙に関する知識に触れた、幼いころの感動を呼び覚まされるのだ。
その宇宙の知識とはきわめて茫漠としていて、「無限に広がる宇宙の空間と時間の中で、地球をはじめとする天体は、どこからともなく旅してきたチリを集めてでき上がっている」というもの。このとき即座に、そこに付着した自分は、宇宙のチリ以外のなにものでもないことを悟った。自己とはなんなのかを生まれて初めて認識した私は、危うく卒倒しそうになった。
その後、勉強した甲斐あって、自分自身は、母親から生まれたのは単なる物理的現象であって、なにかの縁に触れて、たまたまここにいるのであり、生涯を終えて、次の縁に引っ張られたら、たちまちどこかへ飛んでいって別の姿形に変化する。仮に、木星の内側の小惑星帯で水蒸気を吹き上げる準惑星ケレスに行ったなら、水の膜に覆われた単細胞の生物か、ゴツゴツした氷の塊に閉ざされたチリなどの違った形をとるのだろう。というところまで考えることができるようになった。
しかし、今ここにいる自分はなにものなのか、という出自の記録はなかなか探し出せなかった。「無数の生」の触発によって、一切の存在は、なにものでもないというのが、いちばん正解に近い答えかもしれないと思う。なにものでもないからこそ、本来的な可能性と自由を備えているのであり、それらのことは、子どもの自分にはなんとなくわかっていたような気がする。いずれファンタジーとして、このことはを再び取り上げるだろう。(2014.1.28)