先日、夜九時台のJRに乗ったときのこと。列車が動き出してしばらくしたころ、猛烈な咳き込みが、寒冷地用に製造された新型の狭い車両の中をかけ巡った。間断のない咳は前方から聞こえてくる。進行方向に座席が向いているので、小柄な女性なら、座席の背もたれにすっぽり埋もれて見えないのだ。私のびくびくした目は、暗い窓に写る人影を追いかけていく。すると、前から二列目の左窓側の座席に、後頭部と両肩の一部を咳のたびに揺れ動かす中年女性がいた。座席にぐったり横になり、自分の腕をしっかと握った左手が痙攣を起こしている。咳といっしょに、体の中身が表にあふれ出しそうだ。
なるべくマスクをかけた人が少ない、空いた車両を選んだはずなのに、と後悔したが、自分だけ立ち上がって他の車両へ移動するのは気が引けた。咳は、いよいよ酷くなり、気管が破れそうな勢いだ。咳き込む女性の隣席には、若い女性がじっと座っている。忍耐しているか気を失っているのかわからない。
私は、イライラが高じ、人にカゼをうつす気か!と怒鳴りつけたくなった。しかし、実際にそんなことをする人間ではない。私の普段の振る舞いについては、余所様から大変な好意と評価をいただいていると、自分ながら感じている。そういう人間が、心の中でどんなに相手に対し怒ったり、恨んだり、くそみそにけなしたりしようと、表面的にはしっかり偽善という仮面をかぶって悟られはしない。つまり、ほしいと思ってもほしがらず、いやだと思ってもいやがらず、つねに思いにそぐわない行動を取るうち、がまんの限界点に達する前に、思考と感情の動きを停止する技を身に付けてしまった。私は、時間を刻む針のイメージを描かないように、体を硬直させ首をうなだれて無表情を決め込んだ。
ところが、その夜、体に溶け込んだアルコール量がいつもより多かったのか、心の中のイライラが安全水域を超え、暴力的な感情へと激していった。この怒りの感情にとらえられた私は、咳女に何らかの暴力行為を働きかねない不安にかられた。
「あんた、いつまで咳してるんだい!ここは人が大勢乗っている電車なんだよ」
突然、咳女の隣席の若い女性が、立ち上がって叫んだ。
咳女はひと言もなく、次の駅であたふたと降りていった。車両の中は異様な緊張感と静寂に包まれ、ため息ひとつする者はなかった。私の怒りは急な展開に打ちのめされて消滅した。心が暗く沈み、自分がどうしてあれほど怒っていたのか考えたが、さっきよりいっそう気分が落ち込んだ。そしてやっと、次のテーゼを思い出した。
「人は本来、苦しむ者をそのまま放っておけないという義務を無意識に自覚している」という、ヴェイユの言葉を。
私は正直に言って、咳女と出会って、そういう義務感を自覚することはまったくなかった。還暦過ぎるまで経験と努力を積み上げながら、人格が磨かれた痕跡が何ひとつないとは。かえって、レ・ミゼラブルの人々の方が、憐れみとか痛みを感じ取る優しさを自然に身につけているのではないか。
その夜、私は大変不幸だった、不幸な人といっしょにいるなら、どうして自分だけ幸せでいられるだろう。きっと車両の中で、私は咳女よりも不幸だったのだ。咳女は列車を降りてからもしばらく咳をし続けるだろうが、治療によっていずれ元気を取り戻す。私は彼女がいなくなってほっとした時点から、不幸にずっと責め立てられるのだ。
(2013.3.29)