黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

せんなき事ども

2015年10月28日 16時05分10秒 | ファンタジー

 今年になって、ホルモンバランスの崩れが原因の更年期障害ではないかと思われる症状が、強く弱く、しつこく現れていることについてはたびたび書いている。
 先週の数日間は、朝、目がさめると同時に、闇の中に落ち込んでいくようなウツウツとした気分に襲われた。そのときの私の状態は次のようなものだった。
 一、右膝の皿が浮き上がってカクカク外れそうな感じがする。
 一、声帯に声が引っかかって出てこない。出るのは咳と痰ばかり。
 一、後頭部が氷水を浴びせられたように冷たく、その悪寒が全身に広がっていく。
 一、右耳の耳鳴りが急にギンギラギンと大きくなり、うるさくて滅入ってしまう。
 こんなことが輻輳して起きてくると、寝ていても座っていても立っていてもイライラして気分が晴れない。仕方がないので、ねじり鉢巻きして、怒りと焦りと恨みとあきらめの言葉をない交ぜにしたブログを書いて気を紛らせようとするのだが、せんなし。
「せんなし」とは「栓無い」ことで、何やってもうまくいかないときに、ため息とともに口から漏れ出し、ネガティブな感情にぴったり寄り添う言葉で、切ない味わいがある。
 グチグチ言っても埒があかないので、半日休んで病院へ行った。膝は整骨院で看てもらうと、大腿の何とかいう筋が凝り固まっていて、皿の動きを悪くしているとのこと。問題は喉の方。以前の美声が出にくくなっていたので、思い切って検査施設が整った総合病院へ行ってみた。レントゲンを撮り、先端がピカピカ光る管を鼻の穴から通す検査を受けた。結果は問題なし。加齢ですね、もう若いころの声は取り戻せません、とのこと。加齢と言われてこんなにうれしかったのは初めてだ。
 ちょうど先週から、ずるしないで毎日ブログを掲載してみようとしていたところだった。気分が落ちているときは落ち込んだ言葉を探し、ポジティブなときはそれなりの言葉を思い浮かべてみれば、どちらの場合も、ものを書くには不自由がないことが、だんだんわかってきた。(2015.10.28)
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季節の変わり目に猫

2015年10月27日 14時13分23秒 | ファンタジー

 文章の中の、文学・子ども・姫君などの言葉を「猫」に置きかえる方が、美しい文学になるような気がするのは、私だけであろうか。

 …………………………………………
 季節の変わり目には、急に文学(猫)に心を奪われることがある。
 私の場合、とくに秋から冬に変わる境に立って、冷え冷えとした空気を吸い込んだときなどに、不意を突かれる。古き時代に習った文学(猫)の懐かしい雰囲気がパッとよみがえり、私の顔や手足の周辺に漂いまつわりつく。

 どんな文学(猫)?

 たとえば志賀直哉の「窓の外の子ども(猫)たちのはしゃぐ声がいつもより大きく聞こえている、その冷たい大気の感触」
 紫式部の「ふと立ち寄った屋敷の姫君(猫)と、翌朝、降り積もった雪を仰ぐうっとりした情景」
 ヘルマンヘッセの「深い雪に埋もれた寄宿舎(猫)の孤独な静けさ」
 宮澤賢治の「深い森の中に降る雪を見渡している心(猫)の静寂さと不思議な躍動感」など。

 文学(猫)の模様を忘れたとしても、その文学(猫)から放たれる味わいの深さといったものは長らく心にとどまっているらしく、何かの反動でたったの一節(猫一匹)でも思い出したなら、その場に立ち止まったまま、別(猫)の世界へ行ってしまいそうになるのだ。(2015.10.27)


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夢見のつづき

2015年10月26日 15時36分01秒 | ファンタジー

 睡眠と夢との関係は、なかなかむずかしいものらしく、学識者の間にも見解の相違が見受けられる。
 その一つ。夢を見るのはレム睡眠のときで、脳の活動が低下するノンレム睡眠ではほとんど夢を見ないという点。これに対し、どちらの場合も夢を見ているが、ノンレム睡眠の夢は、目が覚めても断片的にしか思い出せないという別の見解がある。
 レムとは、急速眼球運動(Rapid Eye Movement)の頭文字を取って命名された。つまりレム睡眠時の脳皮は目ざめているときとほとんど変わらず活発だという。

 次に、レム睡眠に関する見解の相違。
 一つに、この状態は、多くの動物にも見られる現象で、発生学的に古い睡眠。外敵に反応しやすいように脳活動を比較的高めにしておき、体だけを休めてエネルギーの消費を抑えている。
 それに対し、鳥類と哺乳類だけにみられる状態がレム睡眠という解説がある。私は古い睡眠説を採る。このレム状態は、夢を見ながら「いらない記憶を消す」「記憶の定着」「脳の成長を促す」などの役割があるとされているがよくわかっていない。
 また、理論的にはヒトより他の動物の方がレム睡眠が長いはず。だとしたら、彼らはみなたくさんの夢を見る(あるいはおぼえている)ことになる。なにせ古い脳で見る夢なのだから、種の古い古い原点に戻るような夢を見るのだろう。たとえば、はなは、広々した豪華な居間にいる、とのの夢を毎晩見ていても不自然ではない?
 一方、ノンレム睡眠は、霊長類など大脳皮質が発達した動物にとって主要な睡眠。
 ヒトでは新生児期の睡眠の多くがノンレムで、大人では睡眠時間の約15%まで低下する。こんなことは経験的に誰もが知っている、つまり赤ん坊は眠ってばかりで、年取るにつれて熟睡できなくなり、よけいな心配事が多くなり、グチっぽくなり退化するということを。

 脳の中を駆け巡る電磁的作用、つまり脳波についてはさらにわけがわからない。ヒトが眠りに入るときは穏やかなシータ波が流れ、眠りが深まり第三・四段階に入ったらデルタ波という活発な電気が増加するのだという。熟睡中の脳波にはどんの役割があるのだろうか。
 ところが、新生児は目が開いているときもデルタ波の活動が活発で、五歳児でも覚醒時のデルタ波がまだ現れている。それが、思春期の十一歳から十四歳ころになると、二十五%程度の減少が起きる。
 一般的に目ざめている成人には、デルタ波の大部分は計測されない。しかし、いくつかの研究では、原初的な感情が極度に高ぶったときや、認知症、統合失調症と診断された成人の場合、デルタ波が増加することがわかっている。

 今回、日本の研究チームは、レム睡眠とノンレム睡眠を切り替えるスイッチを発見した。彼らは、マウスの脳幹という場所にある神経細胞群の働きを活性化させてみた。すると、マウスはレム睡眠をしなくなり、刺激を弱めるとレム睡眠が増えることがわかった。しかし、私には、この実験成果がどうして重大な発見なのかピンとこない。これ以上は私には理解できないので終わりとするが、落ちも転びもなく、だからどうしたで終わるのも味気ないので、結びにひと言。

 先週のブログに書いた小便我慢の夢のつづきを、自身への戒めのため残しておこうと思う。
 その夜はたまたま夢のトイレで、床に開いた穴を私は見つけてしまった。子どものころ田舎で遭遇した恐ろしいヤツ、床板を楕円に切り取っただけのボットン式トイレにそっくりだった。前立腺を失った身には、大惨事を誘発する危険な夢だった。できることなら若いころのノンレム睡眠とデルタ波を取りもどして、すっかり忘れてしまいたい。(2015.10.26)



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夢見症候群

2015年10月23日 15時08分26秒 | ファンタジー

 真偽のほどは不明だが、夢をヒトに語ってしまうと人格破綻や不幸を招くうんぬんという言い伝えがある一方で、「宇治拾遺物語」に、奈良時代の学者・政治家、吉備真備(きびのまきび)は、若いころヒトの夢を盗んで占い師に占ってもらい、それによって大臣まで出世したとされている。真備が出世してほんとによかったのかどうかはともかく、盗まれた方は中央からやって来た、ずいぶんとやんごとない身分の男性だったそうだが、偉くならなかったという。
 しかし、今の夢占いでは、ヒトから物を奪いヒトをだますと損したり不幸になったりし、逆に盗まれる夢を見たら何かいい物が手に入るそうなのだ。
 夢見るヒトの倫理観は、時代とともに変化しているし、ヒトは自分の意志でなかなか夢をコントロールできない。きっと、夢だけが昔からずっと変わらずヒトを導いてきたということだろう。ヒトに限らず、生物という生物は一様に、共通した夢によって支配されている、そのような気がする。
 ところで明晰夢(めいせきむ)というのがあるそうだ。
 睡眠中にみる夢のうち、夢だと自覚しながら見ている夢のこと。明晰夢の経験者はしばしば、夢を自分の思い通りに書き替えられると言っている。ほんとうだろうか。もっとも、映画でやっている他人の夢(意識)の中に入るというのは超能力の範疇なのであり論外だ。
 覚醒しているときに、夢を見るのも明晰夢だという。これについては、私もブログに二回書いた。私の場合、夢だとわかってはいても、思いどおりに変化させるような芸当は無理だ。
 明晰夢とは違うが、同じような夢を繰り返し見続けたため、色があせた夢。
 二つある。一つはブログなどで何度も紹介しているとおり、大海の奥で船がひっくり返るいつもうなされる夢。もう一つは、初めて告白するが、トイレに行っても便器がない、便器がないから小便しないで我慢し続ける夢。この夢もなかなかに苦しい。いずれも自分でコントロールできたら、それに越したことはない。でも夢見ることに慣れてしまった昨今、うなされてもどうということはない。(2015.10.23)

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ハタキに当たる猫

2015年10月22日 17時12分41秒 | ファンタジー

 ユーチューブの動画の話。
 猫が、天井の蜘蛛を見つけ狩猟モードに入った。その矢先、ハタキに先を越され、せっかくの蜘蛛をはたき落とされてしまう。憎っくきはハタキとばかり、彼は、怒り狂って罪のないハタキに襲いかかる。怒髪天をつくほど頭の毛はなさそうだが、いかにも怒りに燃えた目をしている。
 しかし、彼は怒っているのではないと思う。黒っぽいヒラヒラしたハタキを獲物、ひょっとすると蜘蛛のでかいヤツと勘違いして?(ではなく見立てて?)、捕食するための攻撃を仕掛けているのだ。
 最近、はなは、猫じゃらしの先に結びつけたビニールのレジ袋に夢中だ。縛り付けた袋の形が、何となくネズミに似た感じになる。はなは、レジ袋ネズミを見つけると、その首に咬みつき、いく度となく絶命させる。何というどう猛さ。袋がボロボロになっても、なかなか止めようとしない。
 見ている父さんは、本物だったらどうしようという想像を断ち切るために、袋を取り上げようとした。そのとき、はなは突然、父さんの足に飛びつき、鋭い爪で父さんの足までボロボロにするのだった。(2015.10.22)
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ものにならない考察

2015年10月21日 11時29分15秒 | ファンタジー

 最近、ブログを書くうちに、以前のものと同じテーマにこだわって、似たような内容を書いていることに気がつく。気づかないで書いている記事が他にも多数あるのだろう。年取るにつれて物事への執着が強くなるという性から、なかなか逃れられないものだとつくづく思う。
 今回のテーマ、霊長類の中でも、ヒト種だけがきわめて高度な進化を遂げているという居丈高な推論への反論。こういうことに噛みつくのがなにより好きなので、大目に見てほしい。
 ヒトが高度だとか特殊だとか、他者との比較の基準自体を決めているのはヒト。それは身勝手なのではないか。私個人を振り返ると、進歩の跡なんてさっぱり見当たらない。なので、頭の切れる、はなと、進化や退化について間違っても議論できないのである。
 霊長類至上主義を補足するような、意識に関する推論もある。生命体個々に意識というものをが備わっているのは霊長類だけで、その他の生物は自然とそっくりな、あるがままの意識を共有しているにすぎないというもの。以前、これについても反論したことがある。
 もしも、意識の共有があるとしたら、たとえば、とのと、はなが属するネコ族は、自分と他ネコを区別する意識は存在しないということになる。いや、断じてそんなことはない。彼らネコ族の意識はまったく我がままきわまりなく、個体ごとに独自の発達を遂げている。
 虫だって縄張りなどを巡って戦うが、それは相手と自分との区別がついているからだ。区別する意識がないまま争うのは、まことに不自然。これに対し、虫の場合は、意識と言ってもそれは生理的な反応にすぎず、縄張り争いは単に生存のための本能的行動であり、意識の違いゆえの行動には該当しないという意見があるかもしれない。でも、繰り返しになるが、互いを別の個体と認識しているのは間違いないとしか言いようがないのだ。
 では、今流行のミドリムシはどうなのだ、というヒトがいるだろう。私としては、基本的に生命体一個と意識一個はセットになっていると主張する。
 理屈かもしれないが、自然そのものなら、自然の中から個体として発生するはずがないのではないか。個体として発生したいという欲求が働くから、そのような個体が生み出される。自然のままで良かったらわざわざ個体へと分離する必要はないと考える方が理にかなっていると思うが。
 でも、こんなことを考えても一銭にもならない。一銭にもならないからブログなんてやらないという霊長類がいるが、そういうヒトビトがとうてい発達しているとは思えない。と、こんなふうに、誹謗中傷する私のような霊長類が高度に進化しているわけがない。(2015.10.21)
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座り癖

2015年10月20日 17時26分34秒 | ファンタジー

 座っている時間が長いほど、長く生きられない、という記事が世間を騒がせている。しかし、ほんとうか、統計データはあるのか、などと事を荒立てるのは大人の仕業ではない。とりわけ、大の大人や政治家が、外国の戦争用空母に駄々こねて乗せてもらうというような、子供じみた振る舞いをするのは厳に慎むべきであろう。
 それにしても、私など、仕事がら四十年もの間、ほとんど座りっぱなしで座り癖がついた者や、他にも、殿様や茶人、華道家、書家、漫画家、もの書き、美術館などの監視員、相撲の審判、習い事のお師匠さんや猫など、彼らの中にはしっかり正座したり三つ指ついたりしなければ商売にならない方々さえいる。
 大きな椅子にふんぞり返る方々が短命なのはわからないわけではないが、職業、生業などにより、やむを得ず座り続けなければならない人々を言葉で脅すのでなく、かわいそうな彼らのために、何らかの延命法を教授するくらいの気を遣ってほしいと思う。(2015.10.20)
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いつも時差ぼけ

2015年10月20日 10時33分33秒 | ファンタジー

 プロゴルファーの松山氏が韓国でのツアーを終えた直後、トンボのように飛んで、アメリカ・カリフォルニア州の米ツアー開幕戦に参戦した最近の話。ツアーを不本意な成績で終わった彼は、みんな同じように時差ぼけしているのだから、自分だけ体調がいまいちだったとは言えないと語った。
 彼は、韓国からアメリカへの飛行機の中、寝付いて2時間したら目が覚めたそうだ。その後、ちゃんと眠れたかどうかは不明。私も、若いころはそういう目の覚め方はしなかったことを改めて思い出した。 
 話は私事になるが、私はずっと前にゴルフを止めたので、日付変更線の上を行ったり来たりする必要はない。それなのに、寝付いてから二、三時間に一回のペースで、ほとんど毎晩、目が覚める。
 年取って、昼となく夜となくいつでも眠いのは、時差ぼけの酷い症状そのものだ。そんな身体になったのなら、どんなに遠いところへでも、時差ぼけなんて気にしないで旅行できるということだろうか。(2015.10.20)
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廃墟マニア

2015年10月15日 15時40分48秒 | ファンタジー


 アニメ「思い出のマーニー」にも、湖畔に建つさびれた洋館が描かれていたが、人里離れた山林の奥にある朽ちた建造物、誰も住んでいない古びた廃屋を見ると、もの悲しさ、薄気味悪さ、生活から解放された安らかさ、懐かしさ、といった複雑な気持ちになる。

 いちばんポピュラーな廃屋と言えば、うち捨てられて黒ずみ、今にも崩れそうな木造の校舎だ。私が小学生のころ通っていた校舎にもすでに壊れそうな心もとない雰囲気があった。なので廃校になった木造校舎には妙に親近感が湧くのだろう。わざわざ廃校を買い取って、記念館や美術館、会社のオフィス、貸しスタジオ、レストランなどに活用する事例はあちこちにある。そうするのは、きっと年寄りたちが廃校の魔力に抵抗しきれないからなのだ。
 

 古いコンクリート造りの廃墟にも趣があるという人がいる。私は嫌いだが。
 先日訪れた炭鉱跡の、使い手を失って埋もれたコンクリート構造物などは、一九七三年まで実際に使われていた。この写真に映っている廃坑跡に建つ鉄製の建造物は、坑夫たちを地下深く送り込んだ立坑巻き上げ櫓なのだ。産業遺産として、戦前の労働環境にいちゃもんをつけられながら、今でも動き出しそうな往時の姿そのまま保存されている。その櫓の周辺には数万人も居住する炭鉱住宅が並んでいたというが、今では草木によってすっかり覆われてしまい、近寄りがたい寂寥感といったものが濃厚に漂っていて、当時の面影はまったくない。
 そんな奇々怪々、見方を変えれば興味津々な廃墟に、それこそ喜々として入り込む人たちがいる。廃墟マニアとは何を見ても薄気味悪いとか、恐ろしいとか、虚しいとか感じないものらしい。同伴者が、このクレーンめがけて草ぼうぼうの斜面を一直線にすいすい登るので、回り道してでも安全な方がいいという私には、ついて行くのはずいぶん難儀だった。
 私は若いころ、ロブノールや敦煌といったユーラシア大陸の西域に魅せられ、ぜひ行ってみたいと思っていたが、今となってはそれらの地域は群雄割拠の戦乱時代に逆戻りしてしまい、とうてい行くことは叶わなくなった。たとえ羽のついた乗り物で連れて行ってくれるとしても、私自身、敦煌の窟ひとつさえまともに踏査するような体力気力が残っているか危うい。仮に残っていても行く気はない。

 廃墟というと、私の脳裏にすぐ浮かぶのは、二年前、このブログにも登載した懐かしい叔母の家とおぼしき廃屋。その写真を再掲する。向かって右手が住居、左側が鍛冶屋の作業所だった。報告していなかったが、この廃屋は昨秋、取り壊された。私は、ちょうどサラ・プツへの出張の道すがら、偶然なのか、そこに引き寄せられたのか、取り壊し現場に出くわした。あぁと、声にならない声を上げ、そのまま通り過ぎるより手だてはなかった。翌日の帰路その傍を通ったときには、作業は終わりかけていた。重機の近くにいた若い作業員に、依頼主は何という人かと聞いてみたが、仲介する会社から頼まれただけなのでわからないと、彼は少しすまなさそうな表情で話してくれた。この家に住んだ子どもたちはこのことを知っているだろうか。そのとき、ふと彼らの代わりに私が呼ばれてここに立ち会っているんだという気持ちがした。(2015.10.15)

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とのはネコ国の庭で

2015年10月14日 11時02分18秒 | ファンタジー

 その日、帰宅すると、家人は「はな」だけだった。三連休を迎える前日の金曜夜、これから休みの間ずっと自由時間、こんなことはかつてないことだ。新聞のテレビ欄を見ると、夜九時から「思い出のマーニー」テレビ初放映!と載っていた。また女の子に乗っ取られたアニメか、とまったく興味が湧かなかった。
 はなは、父さんと二人っきりが寂しいのか、新聞の裏側からもぐり込んできて、マァとかニャとか鳴きながら、私の膝や腕に身体をぶつけてくる。
 ジブリ作品はいろいろ観ている。「ナウシカ」と「火垂るの墓」なんて幾度もだ。「ベンハー」や「猿の惑星P1」だって二回だけ、こんな念入りに観たのはちょっと思い当たらない。しかし、ここしばらく、ジブリ作品に対しては、ぜんぜん変わり映えしないと冷めてしまっていた。
 ところで、目の前のテーブルの上に、一冊の文庫本が伏せられたままになっていた。ゆったり時間が流れているというのに、私は、落ち着きのない視線を書店名の印刷がある表紙の方へちらちら走らせている。読みかけのその本へ手を伸ばそうとするたびに、読むのがもったいないと思ってしまう。
 こんなふうに読み渋るのは初めてではない。以前ブログに書いたブロッホの「誘惑者」(古井由吉訳)、「悪霊」「ダルタニァン物語」、カミュの「最初の人間」(この本は現在進行形)、「人形つかい」「郷愁」、内田百(ひゃっけん)の本など。
 このほか、中途半端にした本は、力尽きたままのプルーストをはじめ、別の本に興味が移って読み忘れた本などを加えると相当な数にのぼる。平成二十年に母親が亡くなった後、実家に預けていた本の大半を始末した中に、そういう不遇な本が埋もれていたと思うと、残念で仕方がない。
 本論に戻る。気にかかる本のタイトルは何かというと、「トムは真夜中の庭で」(ピアス、岩波少年文庫版)というイギリスの児童文学の名作。ピアスは、一九五〇年代に発表したこの本の中で、トムとは雄の黒猫の名前と書いている。トムはトーマスの愛称。機関車トーマスが有名だが、機関車に猫のイメージは重ならない。一九世紀のトムソーヤの方が日本ではたいそう人気がある。「トムとジェリー」シリーズも大戦以前から四コマ漫画で始まっていたという。この黒猫トムから何らかの示唆が、あるいはそれ以前に起源があったかもしれないが、この稿ではこれ以上追求しない。
 私はこの本を開いてみて、初めて読む本とは思えなかった。というのは、読むうちに、主人公のトムとはずっと昔からの知り合いで、よく遊んだ仲間だといった、記憶と似たような感慨がぐんぐん高まってくるのだ。ひょっとすると、子どものころ読んだ記憶が少しずつよみがえっているのかもしれない。とにかく、かわいい子どもや動物たちを抱きしめたくなる、そういった物語なのだ。
 このトムの本の後半に入ったころ、また不思議な気持ちがした。物語がどんなふうに結末を迎えるか、言い当てられる確信が心の中に湧いてきた。「はな」とそっくりなかわいらしい、ハティがいったい誰なのか、私にははっきりわかった。これは「との」と「はな」の物語だ。私の目の前で、とのがトムとなって飛び跳ね、はながハティの姿をしていた。
 違う時間を生きていたトムとハティ、との、はな、そして私。彼らと私はそれぞれの時間を持ちながら、それと知らないで、どこかで何度も会っているのだ。私はそう思うと、この本の結末を予想してこみ上げる感動を必死にこらえた。
 その夜、シャワーを浴び、パジャマに着替えてビールの缶を開けたとき、すでに九時半を過ぎていた。テレビのスイッチを押すと、画面に現れたのはアニメの映像。男の子のような主人公が湿地帯に小舟で漕ぎ出す場面を見ながら、チャンネルを変えようかどうしようかしばらく迷ったが、そのうちせっかくだからと見続けることになった。
 その結果、止める者がなく、いつもより飲み過ぎた私は、しこたま酔っ払った。酔ったからではないが、杏奈と同じような年格好のマーニーが実は杏奈の祖母だったことがわかる場面で、不覚にも落涙した。映画を見て涙腺がやられるのは前からあったので、どうってことはない。
 マーニーを見た後で、私は何かに憑かれたように、一気にトムの本を読んだ。そして、私の予感が当たったことがわかったとき、この夜、再びこみ上げる涙をおさえられなくなった。本を読んで泣いたことなんて、はっきり数えられるほどしかない。最初は高校生のときの「嵐が丘」、次は自分が書いた「黒猫とのの冒険」、今回、三冊目に当たってしまった。
 とのは、ネコ国の広大な庭で大勢の知り合いと出会って楽しんでいるだろう。そのうち、はなも私も行くことになるその庭は、きっとよく知っている場所なのだろう。(2015.10.14)
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