この写真は去年(2013年)12月18日のはなです。ベランダを見ると冬らしくないのですが、地面は真っ白。18日といえば、手術から20日経ち、そろそろ仕事に復帰しなければという時期でした。ブログにアップしたこの日(21日)、ようやく出社したのだと思います。
この写真は去年(2013年)12月18日のはなです。ベランダを見ると冬らしくないのですが、地面は真っ白。18日といえば、手術から20日経ち、そろそろ仕事に復帰しなければという時期でした。ブログにアップしたこの日(21日)、ようやく出社したのだと思います。
2012年の独映画「ハンナ・アーレント」が今年、岩波ホールで公開された。辺境の涯に住む私は、もちろん観ていない。これからの上映はまだ何も決まっていない。しかし、映画レビューはネット、文字冊子などにいくつも載っているし、今年になってアーレントの伝記まで出版されている。反応の速い、便利な世の中だ。
以下、キリスト教、ユダヤ教とまったく縁もゆかりもない者の勝手な雑感。
彼女はドイツ系のユダヤ人(私の印象では、信仰心があるかどうかでなく、出自がユダヤ系という意味だと思う)である。ここで句点を打ったのは、日本系の仏教徒、アメリカ系のプロテスタント人なんて言葉があるのだろうかとふと疑問が湧いたから。在日本・外国人という印象とも違うようだ。彼らは住する国の国籍・市民権を持ち、国に対し、宗教の違う同国人と何ら変わらない権利と義務を有している。
彼らユダヤ人は、ずっと昔の歴史書に記された事情が原因で、ナチズム登場以前から、激しい偏見にさらされてきた。ユダヤ人以外にも異教徒はいるだろうに。日本でも人種や宗教の違いによる偏見は、昔から相当のものがあった。一例を掲げると、中世においては、外来のキリスト教への偏見が強く、信徒や宣教師への迫害は激烈だった。それが鎖国の大きな理由だったとまで言われている。
日本という国が奇妙なのは、先の大戦のように、周辺諸国の人々への恐ろしい大虐殺ばかりでなく、大切な戦闘要員の自国民を、あそこまでおもちゃのように使い捨ててしまうことだ。これは人種や宗教による差別を超えて、戦闘を命じる側の精神に、国民を視する狂気を感じる。狂い方はナチス以上か。
映画の話に戻すが、彼女はハイデッガーやフッサール、ヤスパースらの影響を受けた哲学者で、ナチスの迫害の手からきわどく逃れ、最終的にアメリカに亡命した。彼女は大学で哲学の教鞭を執るかたわら、精力的に著作活動も行ったが、一躍注目されたのは、ナチスの残党アイヒマン裁判の傍聴記録の発表だった。アイヒマンはナチス親衛隊の下士官で、ユダヤ人の国外追放やアウシュビッツなどの絶滅収容所移送の中心的役割を果たした。
裁判の中で明らかになったことは、彼は、きわめて凡庸な人物であり、上官の命令に従って、精力的に働いただけだというのだ。そして、アーレントが主張したもっとも衝撃的な点とは、「ナチは私たち自身のように人間」ということにあった。このような見方は、ホロコーストの被害者たちにとって、加害者を赦すことにつながると、激烈な非難の嵐が巻き起こった。
それに対し、彼女は、「悪夢とは、凶悪な狂信者や変質者ではない普通の人にとって、どこまであのような行為が可能であったか、それを証明したことにある」と主張し、凶悪を人びとが積極的に担った原因について考え続けることになる。
その原因の一つに、しばしば人は重大な問題に直面したとき「思考停止」に陥り、その思考しない脳によって、言語を絶した残虐を行うことがあるとした。確かに、人は自身の精神が壊れるまでの残虐さえやってのけられる。どこまで残虐に突き進むか底知れないところが恐ろしい。
では、思考停止に陥らなければ、悪を命じる者や、悪を行おうとする自分の心に対抗できるのか。ドイツにはユダヤ人をかくまった大勢の人々がいた。つまり、自身を犠牲にしても人を救うという崇高な精神を示す人は世界中にいる。しかし、過酷な選択を迫られるとき、大方の人は自己保全のため、そうしてはならないと思いながら、悪を選んでしまうのは世の常だ。虐殺・差別・圧迫・脅かし・束縛など、ありとあらゆる悪をなす行為に、あくまで対抗する意志を貫くのは超人でもない限りできないように思われる。どうしてそうなるのか、そうならないためにどうしたらいいのか。この問いに、アーレントがどのような結論を出したか、レビューなどには何も書かれていない。
人社会の歴史では、ときどき絶対的な悪(悪魔)が現れ、それまで積み上げてきた善的な要素を根っこから吹き払ってしまう。善をなす者はほとんど壊滅的になる。ましてナチスや軍国日本の制圧下では、人間存在の根底を否定する根本悪(悪魔的所為)を、従順で有能な部下たちが平気でやってのける。凶悪に手を貸したアイヒマンたちは、自身の弱さを自覚していて、悪は彼らの外側にある(表層的な悪)と言っている。つまり、人とは、悪とも善とも関わりのない機械なのだということになる。しかし、この主張は間違っている。生来、生身の人間に、悪も善も備わっているのは自明のことだ。それなのに、超人なる存在を捻出しておいて、自身による善悪の判断を放棄する思考は、責任回避の何ものでもない。
こうしてみると希望がまったくないように見えるが、こんなときでも、絶対的善悪二元論を乗り越え、自身の善なる力を信じ、自身に備わった可能性、宇宙的な生の力を発揮しようとする者がいるのも事実だ。人が困難に遭遇したとき思うこと。それは、自身の中の善の力が弱くては一歩も進めないということ。善が悪ごときに負けるわけがないと、それくらい力強く揺るぎない善が自分の中に存在することを信じられたなら、誰一人、凶悪犯になることも人生に敗れることもなく、この世に残虐が起きることもないという理屈が成立するのだけれど。(2014.12.11)