黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

バランスがいい頭蓋骨

2009年09月19日 11時19分37秒 | 日記
「バランスがいい頭蓋骨」

 最近、クレオパトラの妹アルシノエという人物のものと思われる骨がトルコで出土したことが報道された。骨の主は、姉との政争で敗れ、その当時ローマ帝国の属国だったトルコの一都市の神殿に幽閉されたという。20世紀始めにすでに発掘されている彼女の頭蓋骨は今では行方がわからないそうだが、骨の計測記録が残されており、ギリシャ系とアフリカ系との混血だった可能性が高いことがわかった。そして、今回出土した首から下の骨の状態は健康そのものであり、死因は、歴史書の記述のとおり、姉が裏で糸を引きローマ兵士に毒殺させたのではないかと推理されている。
 故国に帰ることがなかったアルシノエを葬った墓は、エジプトのアレキサンドリア港に紀元前3世紀に建造され14世紀まで実在した灯台の先端部分を模した形をしているというが、異国の都市の真ん中に豪華な墓を建てたのはいったい誰だったのだろうか。専門家は、文献に描かれた頭蓋骨の形状はひじょうにバランスが良く、美しい女性のものだったに違いないと解説していた。
 バランスというのは難しい概念のひとつだろうと思う。バランスがいいというのは、一義的には好ましい意味で使われるが、時と場合と人などによって解釈が微妙に変化することがある。クレオパトラの妹を例に挙げると、バランスがいいものが皆に好かれるとは限らない、という概念のあいまいさが理解しやすくなる。

 網走に3年間住んでいたとき、いささかバランスの崩れた多くのネコたちに出会った。「ため吉」という名前のネコがいた。近所のネコ好きの奥さんがつけた名前だったが、彼の風貌にぴったりだった。彼は、体のわりには足が短いかなり年輩の雄ネコで、体の毛は逆立ったようにボソボソで、口の周りはいつも汚れており、野良のキャリアが見るからに長いと思われた。
 あるとき開いていた窓からため吉が我が家に入ってきたことがあった。まだ1才になる前の黒ネコ「との」は喜んで、「おじさん遊ぼう。」とため吉にかけ寄ると、ため吉はとのの頭を前脚でポンとたたき、そこにあったとののエサを悠然と食べた。妻と私と、怖じ気づいたとのは黙って一部始終を見守った。彼にはまだ若い雄には負けないという気迫が感じられた。その後も度胸のいいため吉は何度も我が家に侵入したが、とのに悪さをするようなことはなかった。相手にしていなかったのだと思う。その反面、道ばたで彼に会ったとき、「ため」と声をかけると、うれしそうに走り寄ってくる人間好きな性格をも持ち合わせたネコだった。
 縄張り荒らしにきた若い雄ネコ「アトム」とため吉との威嚇し合う現場が幾度か目撃された。「くろ」と名付けられた真っ黒な雌ネコを取り合っていたのだ。いつもアトムが優勢だった。耳や尻を噛まれ血を流すため吉を放っておけなくて、ネコ好きの二階の奥さんたちと妻とで仲裁に入った。ため吉は、興奮のあまり自分を応援してくれる人間の長靴や腕にむやみに噛みつき、人間側にも多少の負傷者が出ることがあった。
 数日後、2匹は、互いの顔をくっつきそうなくらい近づけて、いちだんと大きな威嚇の叫びを上げ、暴力沙汰になるかと思われたとき、アトムの方が一目散に退散した。ため吉が勝った理由はわからない。その場所が彼の縄張りだったことや彼に加勢する大勢のネコと人間が周りにいたせいだったのだろうか。秋になり、くろはため吉によく似た子ネコを5、6匹生んだ。
 くろはまじめに子育てする母ネコだった。くろ一家は、私たちが住んでいたアパートの真向かいの社宅の物置に住みつき、引き戸の穴から出入りしていた。単身者の社宅の主は物置を使わなかったので、引き戸に釘を1、2本打ち開けられないようにしていた。しかし、次第に住みにくくなってきたのだろう。ある日、妻が玄関の外に出ると、くろが子ネコを一匹くわえて妻の前にやってきた。人慣れしていない子ネコは大きな口を開け威嚇したが、くろはかまわず他の子ネコにも出てくるように促した。子ネコたちの行列がくろの後ろに続いた。自分の子供を何とか生き延びさせたいというくろの気持ちが切々と伝わってきた。妻はアパートの裏にあった我が家の物置にくろ一家を移動させ、餌を与えることにした。
 くろは若いネコではなかった。面倒見のいい二階の奥さんの一人は、これからもくろが子供を産み、子育てを続けることがかわいそうで、知り合いの動物病院に頼み込み、くろの避妊手術をしてもらったうえ、引き取り先の手配までお願いした。くろ一家は網走郊外の牧場などに無事もらわれていき、長く大事にされた。
 アトムは、ため吉の縄張りと隣り合う別のエリアを牛耳る強いネコだった。目の上から耳にかけて真っ黒な模様がついていて、それが鉄腕アトムの頭に載っている帽子にそっくりだったのでその名前をつけた。きつい目でにらみを利かせて歩くネコだった。出入り自由の飼いネコだったが、夜遅くなると家に鍵をかけられ、餌抜きになると聞いたことがある。風貌からはうかがい知れないようなつらい目にも遭っていたのだろう。
 アトムには、うりふたつの顔をした一回り体の小さい弟がいた。弟は、兄とは違い人なつっこいネコだったが、やはり度胸があったと見え、立てた尻尾を振りながら道路の真ん中を得意げに歩いた。アトムは私たちが網走を離れた後、車に轢かれて死んだ。
 ため吉が一時ネコのはやり病いにかかり死にそうになった。近所の人が病院に連れて行ったが、病状は予断が許さないくらい悪くなったが、妻たちがアパートの階段の踊り場であきらめずに介抱した結果、奇跡的に元気になった。
 「ミッキー」は、私たちのアパートの前に唐突に現れた。二階の奥さんが何気なく窓から外を見ていたとき、草むらを歩いている小さなネコがいた。いても立ってもいられずそばに行ってみると、生まれて2、3ヶ月くらいの首輪をつけた子ネコだった。自分の家に帰る道すがら立ち寄ったのかもしれないからと、そのまま家に引き返したが、頭から子ネコのことが離れなくなった。次の日、外が明るくなってきたころ二階からのぞいてみると、前日の子ネコがほとんど動かずに留まっているのが見えた。自分の乱れる気持ちを押さえることはできなかった。こうしてミッキーは二階の家の一時預かりネコになった。地元の新聞に迷いネコの広告を出したが、飼い主は現れなかった。
 ミッキーは狩りの得意な活発なネコで、いつも家から脱走し鳥たちを追いかけていた。カラスからはときどき逆襲されたが懲りることはなかった。やっとのことでスズメを生け捕りにし興奮状態で帰ってきたミッキーは、たまたま階段で遭遇した妻から、かわいそうだから離しなさいと言われ、腹立ち紛れに妻の腕に思いっきり噛みついたりもした。彼は預かり主の転勤のお供をして数ヶ所を移動し、岩見沢で十数歳の寿命を全うした。
「チャーミー」は隣の家でかわいがられたおとなしいネコだった。隣家が引っ越すと、彼女の姿も消えてしまった。短期間住み着いた「ルパン」という寡黙なネコもいた。その他にも、アパートの前に止まった乗用車からまりのように投げ捨てられた子ネコや、段ボールに入れられて近くのゴミ捨て場に置き去りにされた子ネコたちもいた。このアパート周辺のネコと人間の生態をよく知っている者の自分勝手な仕業に苦々しく思うことが何度かあった。
 私たちの住んでいたアパート周辺を行き交った多くのネコたちは、一匹として同じ色の、同じ体型の、同じ性格のものはいなかったが、みんな、厳しい掟と生活環境の中でせいいっぱい健気に生きていた。彼らと出会った人間たちは、彼らとの生活の中で、幸せな気持ちを味わえたことに深く感謝した。
 網走に住んで2年目の冬の終わりころ、猛烈なブリザードが2日間にわたり吹き荒れた。朝起きると、1階の窓を完全にふさぐほどの雪が吹きつけていた。道路が寸断され、電話も通じなかったので、同じ職場の3人と連れ立って外の様子を見に行くことにした。雪を乗り越えて2キロメートル先の会社までたどり着いたものの、何もすることがなく、風雪害で特別休暇をとり、やっとの思いで家に戻った。
 外の明かりが届かないかまくらの中のような家にじっとしていると、窓の外がにわかに騒々しくなった。近所の数人の友人たちが手に手にスコップを持ち、人ひとりがかろうじて通り抜けられるくらいの通路をこじ開けながら、こちらに向かってやって来るのだった。すでに酒が入っているようなにぎやかさだった。ようやくアパートの玄関に到達した彼らは大量の酒を抱えていた。私たちは、かまくらでご馳走を食べ楽しんだ子供のころに戻ったかのように大騒ぎし、夜遅くまで酒を飲んだ。次の日からは雪道をつける重労働が始まったが、車が小路に入るまでには何日もかかった。
 ため吉の姿がいつまでも現れないことに気がついた。ブリザードから逃れてもぐりこんだ床下か穴蔵が雪に埋もれて、運悪く外に出られなくなっているのだろうと、心当たりをそこかしこと探してみたが、手がかりはまったくなかった。雪が解けてからもため吉のことを気にかけていたが、ついに彼の姿を見ることはなかった。

 とのが網走に住んだ時期は、1才になる前の幼年期から4才になるころまでの青年期だった。
 とのは、生まれて2、3ヶ月で我が家にやって来て、それからまもなく発作を何度も起こした。突然、目の焦点が合わなくなったかと思うと、苦しそうなけいれんが始まり、胃にあるものを吐き、小便、大便をたれ流した。びっくりして近くの動物病院で診てもらうと、このネコを育てるのは大変だから保健所に連れて行った方がいいと言われた。妻はあきらめずに病院を探し回り、数軒目の病院で骨の発育不全が原因の発作であることがわかった。投薬などにより、半年ほどして発作が起きなくなり一安心したが、発育が一定レベルに達するまでの数年間は薬を欠かせなかった。
 骨が弱くてもやんちゃなとのは、高いところから跳び降りた拍子に足がぐにゃっと曲がり、「痛いよ。」と、大声で鳴いた。その都度、妻は心配して病院に連れて行ったが、幸い、彼の骨は折れるほど固くなかったので、しばらくすると痛みは治まった。薬を飲んでも骨格が正常なネコと同じように発達するわけではなかった。下顎の骨は後退したままで唇がぴったりと閉まらなかったため、真っ黒な顔にはいつも赤い舌がちらりと見えていた。顎だけでなく頭蓋骨全体が普通のネコと違い、明らかにいびつな形をしていたと思う。しかし、彼は思いのほかハンサムなネコだった。
 とのは、大人の年齢になっても、ネコのしなやかな身のこなしが習得できなかった。獲物をねらって飛びつくとき必ず一呼吸置くので、おもちゃ以外の獲物を捕ったことがなかった。骨の発育だけでなく知能の遅れを指摘する人もいたが、実は、とのは私たちにだけ自分の気持ちを伝えるネコだった。体や顔かたちのバランスが悪くても、私たちと生きるには何の支障もなかった。
 網走を離れてから10年以上も後の話になるが、火葬場で焼いてもらったとのの骨は、薄っぺらで頼りなげに見えたが、私たちにとって、それは目が覚めるほど真っ白で美しかった。(H21.10了)




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ハクセキレイ

2009年09月05日 23時40分27秒 | 日記
「ハクセキレイ」

 8月の初めの早朝、妻が居間のカーテンを開けたとき、玄関横の窓の下にハクセキレイの死骸が横たわっているのを発見した。
 ふと何年も前に我が家に巣を作ったハクセキレイのことを思い出した。前に飼っていた黒ネコ「との」が15才で死んだ翌年の平成15年、雪解けが終盤に差しかかったころ、居間から見える玄関のひさしとその上のベランダとの狭い空間を、毎日何度ものぞきに来るハクセキレイの姿があった。そのすき間はあまり日の当たらない北西を向いており、ベランダに降った雨や雪解け水を抜く役割をしていた。しばらくすると、つがいのハクセキレイは巣作りのため、木の枝や草のような物を次々と運んできた。
 ハクセキレイはスズメなどに比べ、飛行能力がかなり優れているように見える。飛行スピードが速いうえに、スピードを自在に変化させて飛ぶ。ネコに向かって威嚇するかのようなホバリングを見たことがある。獲物をねらうときなどにその体勢をとるらしい。飛行角度も弧を描くかと思うと、地面と平行に直線的に飛ぶなど多彩だ。飛行に自信があるためか、車や人が通る道路などに降りて餌を探す姿をよく見かけた。
 そして、ほとんど物音を立てずに、一月以上にわたり忙しく子育てする情景が続いた後、ある日を境にぱったりと彼らは巣に戻って来なくなった。無事ヒナが巣立ったかどうかわからなかった。
 庭木の冬囲いに取りかかるころになって巣がどうなったか思い出し、玄関のひさしに梯子をかけ、奥が狭くなっているすき間をのぞくと、ひさしのいちばん奥に、家壁に張りつくように黒ずんだ丸い固まりが見えた。引っかき出してみると、汚れた丸いわらには鳥の羽毛と糞のようなものが沢山こびりついていた。それは明らかに鳥が子育てをした痕跡だった。
 翌16年は、現在元気に走り回っているネコの「はな」がこの家に来た年だ。その年の春先も前年に引き続き、同じつがいだと思われるハクセキレイが、玄関先をのぞきにやって来ていた。彼らの調査が1、2週間続いたのち、2羽の鳥の姿は消えてしまった。巣作りをあきらめたようだった。2年目なのにどうしたのだろうか、去年の巣を取り除かれたのが気に入らなかったのだろうか、といぶかしく思ったことを覚えている。
 それから一月ほど経ったころの忘れもしない6月18日、父親を札幌の病院に連れて行くため、60キロメートルほど離れた私の実家に行った。季節はずれの暑い日で、深夜、2階の寝室の窓を閉めようとしたときだった。実家のブロック塀の外側の道路上に、小さな、しかし元気よく鳴くネコがいた。妻と2人で窓から顔を出すと、子ネコは小躍りするように跳ねて1メートル以上もある塀をよじ登ろうとするではないか。
 何が起きているのか考える余裕もなく、私たち2人はすぐ玄関の外に出ると、そのネコは塀づたいに走り、玄関先にいる私たちにかけ寄ってきた。大きな切ない声で鳴きながら妻の足元に体を押しつける様子は、まるでしばらく会っていなかった飼い主にやっと再会できたかのようだった。私の母親が大の動物嫌いだったこともあり、心配だったが牛乳と花かつおを食べさせ、その晩は寝た。
 翌朝、ネコの姿はなかった。寂しい気持ちを抱いたまま用事を済ませ、夕方私の家に帰ろうと実家の玄関を出たときだった。隣家の前庭の片隅から、姿は見えないがかすかにネコの声が聞こえた。大切な探し物が見つかりうれしさが抑えられないという気持ちで、おいでおいですると、ネコは狭い植え込みをかき分けて私たちの前に出てきた。こうして、はなは我が家にやって来た。
 その年の暮れ、雪が降る前に家の周りの掃除をしていたとき、隣家との境のコンクリート擁壁と車庫との間の30センチメートルくらいのすき間に、枯れ草に隠れて、前年に見たハクセキレイの巣にそっくりな捨てられた鳥の巣があった。その巣は周りからは見えなかったが、地面から3、40センチメートルの高さしかなかった。新興住宅地なので野良ネコなどは見かけることがなかったが、ハクセキレイはどうしてこんな危険な場所で子育てをする気になったのか不思議だった。
 彼らは、とのの存命中から、我が家の周囲を飛び回っていた。だから、とのが死んだ次の年、迷うことなく巣作りを始めることができた。それだけ鋭い観察力の持ち主たちが、なぜとのがいなくなって2年目の春先に、あっさりと前年の場所を放棄し危険度が高い車庫の裏に移動したのか。説明しにくいが、ネコが嫌いな彼らは、この家にはながやって来る一月も前に、はっきりとそのことを予感したのではないだろうか。
 妻は、ハクセキレイが白っぽい腹を上に向けて死んでいるのは変だとしきりに首をひねっている。近所の子供たちが道路でひろって玄関先においたのか、誤って家の壁に猛スピードで追突したのかわからないが、事故死だったのではと言う。
 ハクセキレイの寿命は何歳くらいなのだろうか。家庭で飼っているインコなどは20年以上も生きたという話を聞く。インターネットで検索すると、足標の調査により、カモ類やアホウドリは20年程度、カラス、スズメが6、7年とあった。体の大きさがスズメとほぼ同じハクセキレイの寿命は6、7年か。
 とすると、死んだ鳥は、平成15年にここで生まれたと考えても不自然ではない。彼は、季節の移り変わりを小さな体で敏感に感じ取り、この地から中国大陸に向け飛翔し、シベリアの凍てついた大地に遊び、サハリンの上空を旋回しながら、宗谷岬を起点に扇形に広がる北海道の大地を一望したことだろう。こうした大飛行を何度も経験し、ついに自分の寿命が尽きることを知って、生まれた巣を求めてこの家に帰ってきた。ひさしの上には、きっと彼の強靭な羽が一枚と小さな足跡がいくつか残っていると、私は想像している。(H21.9了)
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