つい最近の二ュース。
恐怖の経験をさせたマウスの記憶は人為的に消すことができるが、ある条件下に置くと、ひょっこりよみがえることがわかった。つまり脳に刻まれた記憶は消滅しないというのだ。それなら忘れっぽい人用に、簡単・脳刺激剤を作ってくれればいい。効きすぎて、古い脳の記憶まで鮮明になるかもしれないが。たとえば恐竜やネズミに追いかけられて逃げ隠れしていた時代の記憶など。
私たちの心にわき上がる、説明のつかない論理とか理由のない恐れやあこがれなどは、大昔、生物の脳に蓄積された記憶に起源があるのではないか。
このことは、タブーがなぜ生まれたか考える上で、参考にならないだろうか。
人には本能的に感じる脅威があって、それらに関わりたくない、見るのも嫌だ、まして食うなんて、ということがある。当たり前だが、触るのも危険な、毒草、毒虫、毒魚、毒肉は本能的に嫌なものだ。一般論として、虫、ヌメヌメしたもの、腐ったものにも、気持ち悪さを感じる。
聖なるものへの恐れもある。たとえばトーテムとする生き物などには、恐れ多くて手出ししない。
同時に、穢れたものへの拒絶感がある。特定の動物、不幸な死に方をした動物など。
また、人と同類の類人猿、家族と同じペット、知能の高い動物などには、大切にしようという心情がわく。
本能でなく、文化的、宗教・思想的な規範による戒めもタブーの一種だと思う。
極端なものとして、命あるものすべてを食してはならない。植物もダメ、ただし命を奪わなければOK(実や花など)というような考え。
自ら殺生するのはダメだが、他の特定の者に殺生させたもの、あるいは他の文化圏から輸入したものなら食っても大丈夫という場合がある。屠畜や処分に携わる者が差別を受け、貴賤の価値観を生むのもタブーの仕業なのだろう。
現代社会へのタブーの影響といったこと。
規範やタブーを作ることは、共同体を他から差別化し、内部統率の原理が働く。
タブーの数は、内部統率力を強める手段にもなる。タブーが多ければ多いほど、共同体の自由が奪われる。
自身のタブーをぜったい正しいと確信した、力ある勢力が、その信ずるところを他の共同体に押しつけることがある。これにより他の共同体の自由が奪われることになる。まさに今回のイルカ問題に通じる。
他者への寛容性こそ、ヒトの自由な活動や思考を保障することにつながり、それこそが文明の進歩だと思うのだが。(2015.5.29)