黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ひらがなの「よいとまけ」

2015年09月30日 12時01分04秒 | ファンタジー

 カタカナのヨイトマケは、力仕事のときの「ヨイと巻け」というかけ声。昭和三十九年、美輪(当時は丸山)明宏は同名の自作の曲を発表した。なかなか印象的な労働歌だ。
 ひらがなの「よいとまけ」は、歌より早く、昭和二十四年、北海道の地方都市の小さな菓子店から発売された洋菓子の名前。道南に位置する勇払原野に自生する落葉低木、ハスカップの実をジャムに加工して、ロールケーキの芯から皮にかけて、その甘酸っぱいジャムをぐるぐる巻きに塗り込んだ代物。表面にはオブラートのような透明な包み紙が巻いてある。子どもの私にとって、食べ慣れた駄菓子類とはまったく違う高級なスイーツだった。
 しかし、当時、フォークなど使うことがない時代。食べ始めると、たちまち両手の指という指、口のまわりがベタベタになった。発売後すぐ、「日本一食べにくいお菓子」という心ない評判が立ってしまったが、そんな悪評に雄々しく立ち向かい、ここ北海道では今でも昔のままの姿で出ている。
 当時、この地方では、家族総出でハスカップの実を摘みに行き、その実を大量の砂糖に漬けてしばらく寝かせてから食べていた。そうしなければ酸っぱくて食べられなかった。濃い紫色の実を思い出すと今でも唾液腺が震える。
 ところで、その菓子店にはお金を出しても買えない商品があった。親たちは機嫌が良いとき、がま口の奥にしまい込んだ引換券(レシートのような気もするが、当時そんな近代的な代物があっただろうか?)をそろっと子どもの目の前に出した。子どもたちは、やっと貯めた小遣いのうちから10円玉を一枚持って店に駆けつけた。店先で息を詰まらせながら手にしたのは、美しい形のソフトクリームだった。確かにこの世のものとは思えないくらい美味しくて、一個くらいではとうてい満足できなかった。
 その後、甘党の私は、あちこちでソフトクリームを食べ続けた。今では他にも甘い物があるからなのか、滅多に食べたいと思わなくなった。
 一方のよいとまけは、地元を離れてから、ほとんど口にすることがなかった。ところが数年に一回くらい、何かの拍子に無性に食べたいと思うことがある。ブルーベリーやヤマイチゴ、ヤマブドウにさえはるかに勝るハスカップの鮮烈な酸っぱさが、どこからともなくよみがえってくるのだ。こんなに思い込むと、今晩の夢に出てきそうだ。(2015.9.30)
 
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止まらない夢

2015年09月25日 16時31分37秒 | ファンタジー

 連休中、思い切って畑仕事をした。自分を奮い立たせないとなかなかできない仕事のひとつだ。直射日光に焼かれながらおよそ一時間半、昼になったので家に入り、昼飯をとった。
 一人で茶碗を片付けていたとき、頭の中にどこかで見たことがある情景が、なんの前ぶれもなく浮かんだ。それは以前見た夢の一場面のような気がした。すると、パソコンのスライドショーのように、場面がどんどん浮かんでは消えていく。私は思い出そうとも考えようともしていないのに。目はちゃんと開いている。悔しいことに、眠っているときの夢に比べ、ずっと鮮明で脈絡があるような気がする。あのときの夢はこんな風に展開していったのか。私は、おもしろくてたまらないという気持ちと裏腹に、この状態がこのまま続いたら、自分の精神は正気から遠のいていくぞという、せっぱ詰まった恐ろしさに捕らえられた。
 どのくらい時間が経ったのか。夢の暴走がふと途切れた。
「百代の過客しんがりに猫の子も」
 加藤楸邨の句が目に映った。そこで私も一句。
「百代の過客しんがりに猫の吾(あ)も」(猫彦)
(2015.9.25)
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アウトドア嫌い(6)見るだけなら

2015年09月24日 09時25分17秒 | ファンタジー




 ゴルフ場の写真ではない。アウトドア嫌い(5)で書いたように、マイペースすぎる者にゴルフは向かない。ここは、ずいぶん前に廃校になった、とある小学校の敷地。建物や芝生内は出入り自由になっている。そこに彫刻がひょこっと顔を出す。作者は安田侃(かん)氏。写真のどれが作品かおわかりか?(2015.9.24)
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口が滑ってなにが悪い

2015年09月18日 15時19分45秒 | ファンタジー

 日々折に触れ、書こうと思うことはいろいろ浮かんでくるのだが、それらを文章にまとめるには、いわゆる起こしの言葉が出てくるかどうかが決め手になる。たとえば宙返りが上手な「との」が、きん斗(と)雲に乗ってやってきたり、「はな」が、なんにゃかんにゃとしゃべり出したりすると、私はなにも考える必要がなくなる。しかし、はなは寝てるし、今の世の中、私と遊んでくれるネコはいない。あぁ、ヒマだ!

 ところで、前回七月三日、とのがネコ国の防衛問題について談話(「ネコ憲法の枠内」)をよこした。その後、ネコ国で重要事態が発生した。七月二十六日、時刻は不明、総理補佐官ネコがつい口を滑らせて、酒の席で総理としゃべった内容を漏らしてしまった。国会内やマスコミが上へ下への大騒ぎ、赤絨毯の裏までひっくり返したそうだ。それについて、とのがぶつぶつしゃべっていたことを思い出したので紹介する。

「今回の法律は九条の専守防衛の域を出ないと解釈できるので、多くの犠牲を払って手にしたせっかくの九条を改悪されないためにも、この法律制定はやむなしと考えていた。しかし、他国との交戦権を持ちたがっている総理直属の補佐官が、この法律だけでは心もとない、完全武装の軍隊を海外へ派兵できるように憲法改正しないなら、自衛権行使の実効性を確保できず国民のためにならない(とのの解釈)、などと本音をぬけぬけしゃべったりするのを聞くと、彼らは最初から善良なネコ国民をだまそうとしたとしか思えない」

「いや、それは心配しすぎだ、九条を変えようとしても、その手続きは簡単にクリアできないと反論するネコたちがいるが、それは楽観的すぎる。半島や南東海上などで一旦有事があったり、半島から何か飛んできたりしたら、この国の世論はたちまち対外強硬論へ傾くのは明らか。好戦派がその好機につけ入らないはずはない。本来国というものは兵力を保有して当然、邪魔な九条を廃止して兵力と交戦権を持つぞとなったら、たとえ自衛のためだって、それこそ単独でも集団でも、大ネコ帝国ばりにばんばん戦争をやれるということになる」

「どんなにいい法律を作っても、為政者が信用できなければ国民はそっぽを向く。五十五年前にもまったく同じことがあった。そのときの総理ネコがいかにも戦争しそうな怖い顔していたので、ネコたちは恐怖心を抱いたんだ」

「いつまでも子どものように、おもちゃを振りまわすネコに権力を持たせてはいけない」

 とのは、そう言いながら、おもちゃの銀蝿がついたじゃらしを振りまわして去って行った。(2015.9.18)
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しょげかえるトラ

2015年09月16日 15時04分21秒 | ファンタジー

 赤ん坊のころから同居する、犬とトラ(ヒョウではなかったと思う。)の映像を視聴した方は相当数いらっしゃるだろう。二頭はまだ若々しいのだが、雑種犬が人の言うことをよく理解しているのに比べ、トラは子どものままのわがまま放題という様子。犬科と猫科との違いは歴然だ。
 天真爛漫なトラは、ついつい大好きな犬に、度を過ぎた絡み方をしてしまう。
「ほんとにうざったいんだから」
 犬はべたべたするのがあまり好きじゃない。「もうお止し」と唸る。
「どうしてこんなことで怒るの?」
 怒られたトラは不満だけれど、犬にはかなわない。直立してお詫びし、しょげかえって寝ころがる。トムとジェリーを見ているみたいだ。あるいは私と妻?(2015.9.16)

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久しぶりの人

2015年09月14日 15時09分57秒 | ファンタジー

 2011.11のブログを読み直して、人は猫同様、孤独な生き物だとつくづく思う。いや正確に言うと、私がまさにそうなのだ。
 一生会えないと思っていた人、2013.4ころまで毎朝の通勤途中に出会っていた初老の人、生き別れたっきり一生会えないと思っていた人、その人に、数日前の帰りがけの駅構内で思いがけずすれ違った。私の心が突然の再会に動揺したのか、それとも二年を超す歳月を経て彼の印象が少し弱まったのか。ちらりと見えた顔の輪郭から視線を離したわけではないが、もう一度見直してはっきり彼だと確認することができた。
 その表情に多少の変化が見てとれた。以前はもっときまじめそうなきつい表情をしていたと思う。あれっきり顔を合わせることがなくなったのは、彼が定年になって、あるいは役職から降りて、きっと窓際の席へ移動したからに違いない。それで朝晩の通勤時間が変わり、優しげな顔つきになった。
 この一瞬の再会に際し、私のことを彼が認知したかどうかは何とも言えない。そんなことはどうでもいいことだ。互いに仕事に出られるくらいの体力とわずかな気力をまだ持っていることがわかっただけで何だかほっとした。私も、完全退職したら彼のような柔和な表情を取り戻せるだろうか。それとも孤独な者はいつまでも同じ顔をしているのだろうか。(2015.9.14)
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消防車は真っ赤がいいのだ

2015年09月02日 09時07分12秒 | ファンタジー

 一昨日のこと、事務所の玄関に通じる廊下を歩いていたとき、真っ赤な色が行く手の玄関をふさいでいるのに目を奪われた。普段見慣れない鮮明な赤色だったので、目がくらんだようになり、そこに何があるのかすぐには理解できなかった。近づいてみると、ボンネットが突き出したトラックの形をしたいかつい車が、真っ正面の道路にドーンと横付けになっていた。
 外気の中にゆらゆら立ちこめる薄陽を受けて、暖かい赤光を放つその車は、何と消防車だった。それなら納得。これだけの赤に塗装する車はやっぱり消防車しかない、とほっとしてまじまじ見ると、その車は日頃からよく目にしている日本のメーカーの有名な車種。赤色はインパクトが強いので大きく見えるのだろうか。残念ながら、また写真を撮り損ねた。(2015.9.2)


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人生の残余

2015年09月01日 10時10分05秒 | ファンタジー

 先日書いたように、思いがけなくも猫画家ウェイン氏の本と出会ったことがきっかけで、何なのかな?、と積年私の頭の中にかかっていた「猫ぢゃ」のぼやぼやが一気に吹き払われた。こんなしびれるような快楽を一度でも経験すると、雑本の中の人物・歴史が次にどんな新事実をしゃべり出すか、気になって夜も眠れなくなる。だから本読みは止められない。ただし、度を過ぎて人のゴシップのあら探しみたいにならないよう気をつけよう。
 彼ウェイン氏の描いた猫はひょうきんでほんとうに微笑ましい。絵は絵なのだろうが、マンガ・アニメまがいと言った方がぴったり。それに、歌川国芳の自由奔放な猫にどこか似通ったところがあるような気がする。着せ替え猫の一種?
 決して彼の絵を評価しないのではない。もしも彼の猫絵がなければ、吾輩の主役キャラが猫でなく犬になったかも。そうではなく、ちと大げさだが、漱石自身、この作品自体を書こうという気持ちにならなかったかもしれないということだ。
 こうしてみると、何の役に立っているか見当がつかないような身の回りの些細なものでも、心して大事にすべきであろう。なかでも、物をちまちま記録することで、己の人生の残余を使い果たそうとする者にとって、この世にある様々な物体の価値に軽重をつけることは法度である。(2015.9.1)
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