井上氏のプルーストの翻訳本を取り上げて以降、しばらく本のことを書いてなかった。ピアスの「真夜中のパーティ」は刺激的ですばらしかった。文字はその人そのものを映し出す鏡だ。字間から立ちのぼる空気の中に、変な色気が感じられないのがいい。こういう本に巡り会うのは本当にまれだ。
読み物は身のまわりにたくさんあるが、手をつける気になるまで無理して読まないことにしている。読みたくなくなれば途中で止める。そして煮つまるまで待つ。そういう本が何冊も散らばっている。「最初の人間」「石原吉郎の詩」「中国の年中行事」「首里城の坂道」「第二次大戦関係本」など。現在、再開したのは、加藤九祚先生の「シルクロードの古代都市ーアムダリヤ遺跡の旅」。
ところで、NHKの「パリの四銃士」が始まった。切った張ったの活劇はうるさすぎるので続けて観るのをあきらめたが、意外だったのはポルトスの位置づけだ。原作では、ガスコーニュ出の金持ちで、貴族になりたがる俗物として描かれているのだが、この劇ではアフリカ系フランス人なのだ。ヨーロッパの人たちの悩みがこんな形に凝縮されている。四銃士のメンバーの中でいちばんの出来だと思う。
熊本の同窓生一家のことだが、十七日以降の状況が判然としない。家に落ち着けたのだろうか、ライフラインは、生活必需品は、と心配だ。(2016.4.19)
朝、目が醒めてからも、私の頭の中に、早く起きて! という甲高い声がしばらくこだましていた。眠りながら聞いた声の響きが、ドライアイスの塊のように、時間をかけてぶすぶす溶けていくといった感じだ。
寝ぼけた私の耳に、このような残響というか余韻というか、そんなことが起きるのは珍しくない。ぼんやりした脳内には、週に数回程度、古いジュークボックスから出るような音楽であふれかえる。不思議なのは、よく知っている曲ばかり流れるのではなく、あまり聞いた記憶のない、当然だが歌ったことなんて一度もない曲さえ旋律の細部まできちんと再生される。ウサギの耳をもってしてもこんな細密な再生はありえないのだが。可能性として考えられるのは、子どものころ、眠った耳から聴神経を通って、記憶の奥へもぐり込んだ音かもしれないということ。そういうのは、たいがい古い歌だから。
それでなくても、十年前に突発性難聴を発症した右耳は、ときどき毛細血管が縮こまって、空気を入れた紙袋を被されたように物音のトーンが変化する。そんなふうになると、左右の音声入力バランスが崩れ、物音の音源の在処がわからなくなる。その上、耳鳴りが二種類鳴っている。酷くなると、外界の音が頭の中から聞こえるような気になる。
ようやく目を開けると、はなの大きな目と目が合った。はなは、ベッドの端に両手をかけ、私の顔を食い入るようにのぞき込んでいる。しかし、早く起きて! という声は、断じて、はなの声ではない。はなは、一度もしゃべったことがないのだ。(2016.4.7)
昨晩、はなは、宝物入れの中から、久しぶりに、アルミ箔を丸めた硬いボールをくわえてきた。二メートルくらい離れたところに腰を落として座り、そのボールを投げろと言う。写真をご覧いただけないのが残念だが、はなの悠然とした態度は、根っからのゴールキーパー振りだ。
若いころは、かなり離れたところを飛ぶボールにでも、ジャンプ一番、ぶっ飛んでいって短い手でボールをはじいたものだ。
今は無理しない。手を伸ばして届く範囲のボールだけ、肉球のグラブで器用につかんだり、はたき落としたりする。それ以外には一瞥もくれない。手さばきはまだまだ健在だが、脚を使うことはほとんどない。
でも、投げるスピードを加減すると、つまらなそうな顔をして、キッカーの父さんの方にじりじりとにじり寄ってくる。近距離のスピードボールをピシッと決めたときなどは、どうだ、と得意気な顔をする。(2016.4.5)