黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

心惹かれる異文化

2016年07月26日 15時18分19秒 | ファンタジー

 この数年、私のテレビ離れは相当進んでいる。芸人頼みの民放はぜんぜんおもしろくないし、料金取るNHKは癪に障る。とはいうものの、金持ちNHKは、今年だけでも、縄文ヒトの核DNA分析や、二千年もの昔から続く諏訪の縄文の祭り、いにしえの都・楼蘭に眠る紀元前十九世紀のミイラやアムダリア川流域の古代都市アイ・ハヌムの映像など、感動ものの番組を次々と放映している。一度きりでいいから行ってみたい、とくに中央アジアへ。
 ところで、数年前、はなと手分けして、処分間近の実家の後片づけをしていたときのこと。二階の開かずの間には床板を沈めながら、はるか前からじっと待つ本たちがいた。懐かしくて連れて帰りたいのはやまやまだったが、私の住む狭小住宅では無理な話。泣く泣く大半の本たちを置いてきぼりにするしかなかった。
 その中に、世界文化社が一九六五年に発刊を始めた「世界文化シリーズ・全二十四巻」があった。このシリーズは諸外国の紹介本で定価は四百八十円だった。編集委員には、騎馬民族国家説を提唱した東洋史学の江上波夫や、イギリス人旅行家イザベラ・バード張りの兼高かおるら、そうそうたる顔ぶれ。当時としては珍しいカラー写真をかなりの枚数使い、大学の先生や文化人らの解説で余白をびっしり埋めつくした本だった。幼い子どもは、初めて目にする縁もゆかりもない異文化の虜になった。
 昨晩、実家から持ってきたイタリア、フランスそしてイギリス編の三冊をじっくり眺めてみた。小難しい本なのに、私の記憶には、本のすべてのページがスキャナーで読み取ったPDFファイルのようにインプットされていた。それほど強く心惹かれたのはなぜ? 文化には無限の価値があるというのは、こういうことなのだろうか。
 架空の話になるが、もしもテレビに映った土地やこの写真の町が戦場になり、私が兵士として送り込まれたとしたら。私は闘う気持ちになれるだろうか? よく知ったあこがれの対象を破壊することはできないと思う。それが異文化であっても、憎しみとか侮蔑とか差別とか、そもそもそんな卑しい感情がわくはずがない。
 しかしながら、異なる文化同士が破壊の限りを尽くした悲惨な歴史遺産は古今東西、津々浦々に数多く遺されている。私には重すぎる課題だが、たとえこれら貴重な遺産が粉々にされても嘆いてはならないのだろう。歴史が現在まで続いてきたのは、過去の世に繁栄したそれらの文化が、たとえ形を失おうとも、静かに私たちに寄り添って息づいてきたことを、私たちはよく知っているのだから。
 先ごろの民放の長寿番組で、二十世紀末の紛争から復興したクロアチアの特集があった。当時周辺諸国の包囲に遭い、隣人同士の抗争を招いた世界遺産の都市ドゥブログニクも映し出された。この町はずっと以前から、莫大な金をかけてでも自由を守ってきたことを初めて知った。
 金があるなら、トップに萎縮しないで政治的なものもちゃんとやれ、NHK!
 智恵があるなら、キャラに頼らないでしっかりやれ、民放!(2016.7.26)


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暑中お見舞い申し上げ仕り候2016

2016年07月17日 21時32分31秒 | ファンタジー

 本州方面はずいぶん暑そうですが、はなが住んでいる町では、七月になっても毛皮がないと外出をためらう日があります。でも、先月のように雨降りの日ばかりで、作物の中には発芽しないほど寒かったことを思うと、今月はかなり好転したとしなければなりません。いずれにしても、こんなふうに書いたとたん暑くなってくれるのを期待しています。
 今年の畑の件ですが、連作障害が出はじめた豆類をあきらめ、ダイコンとニンジンなど根菜類の種をいくらか播き、長ネギと定番のミニトマトの苗十二本を作付けしました。手抜き農業なので、雑草の勢いに圧倒されて長ネギは全滅、成長の遅いニンジンは完全に雑草に埋もれ、ニンジンだか雑草だかわからなくなっています。はなも、雑草に絡め取られないようしっかり生えていこうと思っています。(2016.7.17)


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選挙とプレミア感

2016年07月14日 14時05分54秒 | ファンタジー

『福井新聞に載った参院選関係の記事』
 18、19歳の投票率は、総務省の抽出調査では45・45%と全体を9・25ポイント下回った。
 投票に行かなかった同世代は「関心がない」「忙しい」などを理由に挙げた。
 住民票が地元にないからという県外出身学生もいた。これについては、不在者投票の周知徹底や方式の簡便化を進めるべきだ。
「若い候補者が多かったら、ちょっと違ったかも」という若者も。被選挙権年齢の引き下げも検討課題だ。見た目を若くしてもダメか。
 政治不信を理由に挙げる高校生もいた。
「選挙が信じられない。きれい事を言って実行しなかったり、意見を変えたりする政治家を見てきた」党利党略、私利私欲に走るのが見え見えということか。若い人たちに選挙不信を植え付けないでほしいと切に願う。
「プレミア感があって、投票には行きたかった」という話もあった。しかし、投票した友人は「最後はよく聞く名前で決めた」と話すなど、真剣に政治を考えている人は少ないと感じたという。プレミア感とは若者の間ではどんな意味に使われているのか。投票とは、初物で美味しそう? プレミアム、つまり高級感がある? あるいは、誰に投票するかは二の次だったという意味か。
「政治に関心がなく、参院選があることすら知らなかった」のは論外として、「行きたい気持ちは強かったが、候補者を選ぶ基準が分からなかった」とは正直な気持ちなのだろう。選挙とは人気投票ではないので、むずかしいのは当たり前。
 こんなのもあった。
「無理に選挙に興味を持たせて、世論を動かすのはどうか」と投票率を上げようとする社会の動きに疑問視する意見や、「例えば憲法改正と護憲。どっちも理解できるから、自分は選べない。選べる人が投票すべき」というのはちょっと後ろ向きにすぎて賛同しかねる。いまの世論がマスコミや声の大きい者によって作られることを批判する気持ちは理解するが、選挙とは、世論やマスコミがどうであろうと、投票する側のセンスが試されていると考えるべきだろう。
 県内の大学生らでつくる県明るい選挙推進青年活動隊の代表者は、投票率の伸び悩みについて「残念。投票に行こうと呼び掛けるだけでなく、政治に興味を持ってもらうような啓発活動を考えていきたい」と述べた。政治に興味を失う国民が増えるにつれ、国民の幸せを考えない政治家が増長する。(2016.7.12)
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ネコ?の知能指数

2016年07月06日 10時07分18秒 | ファンタジー
 <今日はアチかった>

 知能指数の検査を最後に受けたのは、中学に入学してすぐのときだろうか。
 自分の知能指数がどれくらいなのかまったく覚えがないので、ネットで検査フォーマットを検索して、早速、試してみた。数字の設問はわかりやすいが、しつこく出てくる図形問題は煩わしい。根気が続かず途中リタイア。これなら知能指数は五十くらいか。(ヒトの場合は上限なし)
 ヒト用がダメなら、ネコの知能指数の検査サイトはどうだろうか。はなになりきってやってみた。すると六十八~七十二点程度(百点満点)の判定。「なんて賢いネコちゃんですこと」と、おほめのコメント。ちなみに百点取ったら、ネコでなくなるとのこと。
 次に、「とと」ちゃんになってやってみた。すると何度やっても六十点以上にならない。ととちゃんとは、姉ちゃんでなく私のこと。サイトのコメントは以下のとおり。
「ダメっぽい困ったちゃんほど可愛いかも、憎めないですよね? ととちゃん、がんばって!」
 やっぱり、ととちゃんは、はなの賢さにかなわないのだ。でも可愛いらしい?
(2016.7.6)
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恥ずかしい固有名詞

2016年07月05日 11時05分45秒 | ファンタジー

 <はなはグダグダ>

 とのの嘆きが聞こえる。
 そのひとつ。昔から公衆の面前で醜態をさらけ出しても懲りない連中のひとり、あるネコ国の政治家が、公式の場でまた恥ずかしい言葉を口走った。それは国歌を歌えないヤツはネコリンピックに派遣しないなどと、ネコを国や組織に縛りつけようなんて、前時代的なナンセンスきわまりない発言だ。耳慣れしているからあきれるばかりで驚きはしないが、国歌を歌えるのが優先条件なら、歌の上手なネコを連れて行けばいい。そんなことより自国のネコリンピックのメインスタジアムの聖火台はどうした?
 もうひとつ。ネコ国の知事選の候補者選びが混沌としているが、ある政党は、知名度抜群の息子の父親を出そうと必死だった。名指しされるネコはたまったもんじゃない。少しでも常識あるネコなら、息子を当てにして選挙に出ようなんて、恥ずかしいまねはできるわけがない。そんなこともわからない政党が政権についているとは、ゾッとして凍りついてしまう。
 微妙な時期なので、いずれも固有名詞は伏せておく。(2016.7.5)

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覚めない夢

2016年07月01日 11時56分36秒 | ファンタジー

 この前の土曜か日曜の午後、ソファーに横になり、昼寝の体勢に入ったがなかなか寝つけなかった。そろそろ一時間くらい経過しただろうと思って目を開けた。すると突然頭の奥に、さっきまで家の中で、妻やよく知った人々といっしょに、わいわい騒いでいた様子が鮮明によみがえった。
 よく考えてみると、体はソファーの上からチラッとも動いていない。私は動作することなく、それを経験したのだ。つまりレム睡眠の中で。夢の内容自体は特別なものではない。しかし、眠った感覚がないのに、夢を見たのはなんとも薄気味悪い。
 なぜそんなことになったのか。
 夢の内容に破綻がなく現実そのものだったため、眠ったと思わなかった? それは言い換えると、夢の中で現実に生きているのと同じ実感を得られたということ?
 実は、すっかり覚めてから今に至るまで、どうも夢を見たような気がしていない。これはまさしく初体験だ。かなりまずいかな。
 夢と現実との境目が不鮮明になる状態は、これから頻繁にやってくるだろう。そのうち、夢から覚めなくなり、寝たきり、認知症へとまっしぐらに突き進み、ついに本体が消え去っても夢だけは続いていくのかもしれない。それはそれで素晴らしい境涯か。意識がなくなったら、心の痛みも消え去ればいいが。でもそれはちょっと楽観過ぎるやろう。(2016.7.1)

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