黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ムスタキ

2013年05月27日 17時30分52秒 | ファンタジー
 
 つい先週の二十一日、知り合いの女性が、自分の好きな曲を集めてみたと言ってCDを届けてくれた。その中に、ジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」が入っていた。懐かしさのあまり、外出するときさっそく車の中で聴いた。ムスタキの声は、私の記憶に残っている声よりも若々しいような気がした。しかし、やはりムスタキはムスタキだ。彼の声は、私の聴覚の分厚くなった膜を小刻みに震わせ、長い時の淀みの奥から、静かな感動を呼び戻した。
 私も、若かりしころ彼のレコードを買ったことがある。二十歳代半ばのことだ。そのとき、ほんとうに聴きたくて買ったのかどうか、はっきり覚えていない。というのは、そのレコードを、女性への贈り物として買ったからなのだ。彼女の家に行くたびに、長い時間、曲を聴いた。ムスタキの声の柔らかな音色に、心が包まれるような感覚を味わううち、ロックだとかブルースだとか泥臭く過激な洋楽を好む私も、すっかり彼のファンになった。
 ムスタキの両親は、ギリシャ系ユダヤ人で、迫害を避けてギリシャからエジプトへ亡命し、彼はその地で生まれた。(ウィキペディア)エジプトは仮の住まいを置く国だったのだろう。彼は十代でエジプトを出た。故郷のない流浪する者らの孤独とはどのようなものなのか。その過酷な運命が、ムスタキの音楽とリベラルな生き方のバックボーンになり、ときには権力者や独裁者を公然と非難するといった過激な行動に、彼を走らせたことは間違いないだろう。
 今朝、彼の訃報を聞いた。三十年ぶりに彼の曲を聴いた二日後の先週二十三日、彼は七十九歳で亡くなった。彼を思い出すたびに、目の奥が熱くなる。彼の死がこれほど悲しいのはなぜなのだろう。人生の様々な障害に立ち向かい続けた彼が、孤独だったはずがないと十分わかっているのに。きっと、脳内に響きわたる彼の歌声に揺さぶられて、神経繊維の一部が緩んでしまっただけなのだ。(2013.5.27)



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ヒツジたちの話は怖い

2013年05月24日 15時59分18秒 | ファンタジー

 すぐおわかりになったと思うが、「深く暗い森のヒツジたち」はグリム童話から話の材料をいただいている。第三章のウサギの章まで書き進めるうち、ブログに載せるには話の内容が陰惨で過激すぎなのではないかと感じるようになった。グリムが書いたのなら、魔女を焼き殺そうと、悪逆不埒な母親を恐怖で打ちのめして狂死させようと、見知らぬ子どもたちに毒を盛って皆殺しにしようと、こういうことがあってはならないものの、その当時なら仕方がないか、と醒めた目で読み流せるのだが、この内容を今の世に置き換えたとたん、私自身、現実に起きている事件をまざまざと思い起こさせられて、鋭い戦慄のために心が縮み上がってしまうのだ。
 ということで、ヒツジたちの話をブログに登載するのはあきらめ、万が一この連作が書き上げられたなら、手づくり本にまとめ、世の中のヒトビトを恐怖に陥れようと思う。(2013.5.24)
 
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意識に差があるのか

2013年05月22日 14時52分06秒 | ファンタジー
 
 そもそも形がない意識とは、その意識を持つ個だけが知り得る世界。ところが、その世界はあまりにも茫漠としていて、自身の意識さえ実態を把握しようとすると、かなり困難を極める。その難しさこそが、ヒトの世界に文学や芸術をもたらしたのだと誰か言ったことがあるだろうか。
 その一方で、姿形がないのなら、個の力でどんな姿にでも作り替え、昇華させることができるはずだ。なのに、現実の様々な経験を通じて、この意識を鍛錬して、宇宙大にまで可能性を広げようとする者は、あまり見かけない。古色蒼然たるつまらない伝統や格式、差別的固定観念の神話に縛られて、自分の体裁ばかりこだわっているうちに、意識変革するチャンスをみすみす逃したうえ、自分の中にある大きな可能性に気づかないまま、朽ち果ててしまう。
 そういう時代錯誤の意識が公のメディアを使って論評するとき、矛先を向けられた側がこうむる迷惑ははなはだしく大きい。たとえば、ネコやイヌはそもそもヒトに比べ知能が劣った下等な生き物であるとか、ヒトの中にも高等な者がいる反面、高等ヒトから恩恵を受けて生きるヒトまで大きな差があるとか、そういう下等ヒトの存在を隠さずに上手にもっと活用すべきだとか、とんでもない差別的意識の披露合戦が勃発している。はっきり言っておくが、ネコだって、こんな低次元な物言いをして、ネコやヒトをバカにしたりしない。
 こんな風に、とのが怒り心頭なので、「残念ながら、ヒトの中には、ネコやイヌより劣った意識しかもたない者も大勢いるんだ」と慰めたところ、
「ちょっと待て!その言い方はイヌネコを侮辱する差別的言動だ」と、とのの怒りに油を注いでしまった。
「IPS細胞の研究にとやかく注文付けるわけではないにしろ、ヒトの意識レベルの低劣さに目をつむって、遺伝子ばかりいじっているうちに、とんでもない怪物を生むことにならなければいいんだけど」
 とのの弁にも、差別的内容が若干含まれているような気もするのだが。(2013.5.22)
 
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はなはネコ?

2013年05月22日 11時57分15秒 | ファンタジー

 以前にも書いたことがあるが、一倍体(一組の染色体)の生物というものはよくわからない。たとえばミドリムシ。体が二つに単純分裂してどんどん増えていく。倍々の増殖効率は、二が一を複製する雌雄異体の生殖、いわゆる雌雄合体して子を作るのに比べ、格段に優れている。生物が進化するにつれ、こんなに効率がいい増殖方法を捨て複数体へ移行するのは、生活環境が悪化しいったん病気になると、同じ遺伝子を持つ一倍体生物はひとたまりもないという理由だけなのだろうか。
 そのことよりもっと理解しがたいことがあると前に書いた。分裂し続ける一倍体生物には個体の死はないのだけれど、つねに自分が半分に分裂する連続運動を余儀なくされる。自分が分裂して二つの自分になるというのは、どういうことなのか。そのときこれまでの自分はどこへ行くのか。自分が何かをしたいと思っても、分裂したらそれもできなくなるやもしれない。当然、親も子も兄弟姉妹も誰が誰やらわからなくなる。何という混沌か。底知れぬ孤独に陥りそうだ。今日はこんなことを書こうとは思っていなかった。たまたま書きかけの記事を見つけたので、寄り道をしてしまった。
 タイトルに沿った話題をひとつ。はなの記事はとのに比べ、格段に少ない。とのと出会って、今年で二十六年目、はなとは八年のつき合いしかないからなのだろうか。
 実は、とのは母さん子だった。父さんは遊び相手。一方、はなは、母さんに甘えることはほとんどなく、いつも父さんの動きを気にしている。父さんに対して、親に抱く意識をいくらか持っているような気がする。ところが、先日、母さんが旅行で一週間ばかり家を空けたとき、はなの行動は普段とまったく違っていた。父さんが家にいる間、ほぼ父さんにくっついているか、鳴いているかのどちらかなのだ。この様子は、とののときとまったく同じ。やはり、はなも母さんがいないと寂しくてたまらないのだ。
 ところで、はなには、動物的な勘というものが感じられない。大きめの地震が起きても、えっなあに?とけげんな顔をするだけで逃げようともしない。夜遅く、夫婦ヒトが会話し始めると、ヒトふたりとネコ一匹が三角形の頂点に陣取る形になる。はなは、その位置で耳や鼻をぴくぴくさせている。ネコというより、もう少しヒトに近いような、ヒトの理性を理解できるような、まもなくしゃべり出しそうな、そんな気がする。これからどんな変貌を遂げるか、逐一お知らせしたい。(2013.5.22)




 
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いよいよの手づくり本

2013年05月14日 11時48分13秒 | ファンタジー

 個人出版社を立ち上げようという意気込みについて、四月五日付けのブログに書いた。七面倒な諸手続きをクリアし、いよいよ書籍出版にこぎ着けられそうだ。記念すべき一冊目のタイトルは「黒猫とのの冒険」(ユメミテ書房刊)とし、「冒険」と「帰還」の二作を収録した。定価は七百八十円。販売書店は未定。
 すべて手作りで、和紙で巻いた表紙の手触りが何とも麗しい。本を作ってみて思ったのだが、私は本づくりの作業がこの上なく好きだ。文章を書くより数倍楽しい。残念なのは、作る時間がぜんぜんないこと。この調子だと、月に数冊作るだけで精いっぱいだ。(2013.5.14)

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ネコ国通信 生きた化石

2013年05月10日 15時13分53秒 | ファンタジー
 ついさっき、とのからメールが届いた。内容をそのまま登載する。

 昨日、シーラカンスの話を読んで、ネコ国の「生きた化石」のことが頭に浮かんだ。
 昨今のネコ国の某政治ネコ、若いくせにまさに文字どおりの化石ネコだ。ネコ国が過去に、他国に攻め入った行為を侵略ではないと言い張ったり、他国から武力攻撃にさらされる事態が想定されるときは、ネコ国自ら先制攻撃を仕掛ける必要があるなどと公式の場で述べて、物議をかもしている。こんな突拍子もない歴史認識や、国の外交と子供の喧嘩を混同した発言を恥ずかし気もなく繰り返し、興奮状態に陥っている。その仕草がなんだか子どもっぽくて、こっちの方が恥ずかしくてたまらない。百年も前のネコ清、ネコ露戦争前夜にいるような幻覚を見ているんだろうか。そもそも歴史認識とは、百年も千年も思いつきで一気にさかのぼるのでなく、時代の変遷を丹念にたどって事実関係や意識の変化を解きほぐしていく作業のことを言うのだ。
 現行のネコ国憲法は、他国との紛争解決のために武力を行使してはならないという、絶対平和を基本理念にしている。あちこちの地域で戦争が起きているのに、なんちゅう能天気な憲法だと揶揄する輩がいるが、この憲法が公布されてから約七十年もの間、好戦的なネコどもが武力紛争を一度も起こさないでやってこられたのは、この平和憲法の理念のたまものと言って間違いない。
 他国からのささいなちょっかいに刺激されるとすぐ、ヒステリックに騒ぎたてる連中には、歴史を見通し、確かな理念に到達する余裕も能力も身に付けられるわけがない。自国のネコたちの生命を守る役割をほったらかして、自説に酔ってパフォーマンスを繰り返す政治ネコによって、この国を振り回されるのは、まっぴらご免だ。(2013.5)
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シーラカンスの生き方

2013年05月09日 15時44分35秒 | ファンタジー
新聞記事からの話題 
 シーラカンスのゲノム解読に関し、米ブロード研究所のジェシカ・アルフォルディ氏がフランス通信(AFP)に説明した内容とは。
「シーラカンスは、他の魚類や陸上の脊椎(せきつい)動物と比べて、全ての遺伝子で進化の速度が極めて遅い」
 研究チームはアフリカのコモロ諸島で捕獲されたシーラカンスについて、人間とほぼ同じ三〇億の塩基対(えんきつい)の配列(遺伝子情報のパターン)を調査。このうち、他の生物とも共通する二五一個の遺伝子配列の変異(進化)した跡を調べた結果を元に、魚類のほか、哺乳類や鳥類など、陸上で生活する四肢動物と比較したところ、シーラカンスは進化がほとんどみられなかった。これにより、両生類と同様に肺呼吸を行う肺魚の方が、シーラカンスより四肢動物に近いことも初めて分かった。
 また、シーラカンスの遺伝子情報には、まだシーラカンスが備えていない胎盤や指の形成に関わる部分も確認された。実際には進化していく可能性があったのに、あえて進化を避けるかたちで数億年にわたって「種」の保存を果たしたとも言えそうだ。
 適者生存が原則とされる厳しい生命の歴史の中で、シーラカンスはなぜ、ほとんど進化することなしに、今日まで生き延びられたのか?
 ブロード研究所のカースティン・リンドブラッドトー研究員は、シーラカンスが深海の洞窟などの極端に安定した環境に生息し、大きな進化を遂げる必要がなかったのではないか、と分析している。
 進化しない生き方というのはどんな感じがするのだろう。
 自分を複製して増殖する一倍体生物ならいざ知らず、異なる生体(雌雄)の遺伝子を選び合って繁殖してきた二倍体生物が、何億年経っても大昔の姿形とまったく違わないなんて、不自然すぎるのではないか。普通ならそんなに長い間じっとしていたら、退化の坂を転がり落ちて滅亡してしまう。案外、見つかったシーラカンスは、死を義務づけられた二倍体生物なのに、一倍体生物の不老不死をかちとって、何億年も生きながらえている個体だと考えた方が理屈に合いそうだ。(2013.5.9)

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美術館行き

2013年05月07日 14時47分35秒 | 美術系

 四月の下旬から昨日にかけて、数えてみると、四つの美術館を巡った。東京駅前の三菱一号館美術館で開催中のクラーク美術館展、渋谷東急の文化むらミュージアムでやっていたルーベンス展、明治の日本画などを収蔵する明治神宮外苑の聖徳(せいとく)記念絵画館(写真)には四月、札幌芸術の森美術館の生誕一〇〇年佐藤忠良展には冷たい驟雨の昨日、よろよろしながら行ってきた。
 ルーベンス展に行ったのは開催最終日の日曜だった。厚着をした人波に押されながら、大小の人の頭越しに通り過ぎる絵の連なりを見るうちに、中世ヨーロッパの古く暗いイメージが思い起こされた。
 クラーク美術館展は、モネ、ルノアールなど、一九世紀印象派の有名な画家の絵が、壮麗な洋館造りの三菱一号美術館の迷路のように続く部屋という部屋に、ゆったりとかけられていた。モネたちの光りと色彩のあふれた絵の中に、どこにでもありそうな田舎の風景画があった。そのバルビゾンという村の絵に、ルソーの名前が記されているのを見つけたとき、私は一瞬わけがわからなくなった。私が知っているルソーは、ピカソもお気に入りのアンリ・ルソーだけだったので、かのルソーがこんな印象派風の風景画を描くのだろうかと、そのときの私は激しく動揺した。というより、拍子抜けした。
 参考までに、アンリ・ルソーは一八四四年、フランス、マイエンヌ県ラヴァルに生まれた。彼の絵は一見稚拙で子どもでも描けそうに見える。目を皿にしてのぞき込むほどに、何と解釈していいか混乱を引き起こすような、つかみどころのない絵ばかりだ。まともな風景画なんてあろうはずがない。
 その美術展の絵は、テオドール・ルソーと銘が打たれていた。テオドール・ルソーは、一八一二年生まれのフランスの画家で、一八三〇年代以降、バルビゾンという村に画家仲間とともに長期滞在し、もっぱら風景を描き続けた。一九世紀後半の印象派の台頭に先立って活躍した彼らを指して、バルビゾン派といい、トロワイヨン、ドービニーをはじめ、ミレーもこの派に含まれるという。同じルソーでも、一方の印象が強烈すぎると、もう片方の影は限りなく薄くなり、私のような浅学の者から、名前さえ間違えられてしまう。
 翌日、東京での用事を済ませ、たまたま神宮外苑方面を通りかかったとき、堅固な石造りの巨大な建物が見えた。それが聖徳記念絵画館だ。建物に入ってはじめてその由来を知って驚いた。一九二六年建設、明治天皇の生涯の事跡を、多くの日本画と洋画によって顕した美術館なのだ。日本画には、前田青邨が肩の力を抜いて描いたような、薄ぼんやりの色調を帯びた絵や、鏑木(かぶらぎ)清方が明治天皇の皇后を描いた、匂い立つような美人画が印象的だった。
 実は、私は彫刻作品をゆっくり鑑賞したことがない。昨日見た佐藤忠良の作品には金属の彫像から受ける堅さや冷たさは微塵もなかった。彫像の中から各々の個性の輝きといったものが、にじみ出してくるように感じられた。子どもの彫像からは溢れんばかりのやんちゃな生命力が伝わってくるようだ。絵などと違って、作品に頬を擦り付けられるほど間近で、三六〇度の方向から彼ら彼女らを見られるのも、親近感が沸く一因なのかもしれない。
 こんな風に、今年のゴールデンウィークは光陰矢のごとく、飛んでいってしまった。(2013.5.7)
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