自宅をくまなく探しても、小説の単行本(文庫本ではない)はほとんど見当たらない。全集本はいくらかある。筑摩の明治文学全集およそ30冊、岩波版志賀直哉全集全巻、講談社の世界文学全集5,6冊くらい。ところが、なぜか古井由吉氏のS46年出版の芥川賞受賞作の「杳子 妻隠(ようこ つまごみ)」、その前年に出た「円陣を組む女たち」の2冊が、書庫ではなく居間の書棚の上の段に収められている。彼の書いたものは、ほかにも「雪の下の蟹」「男たちの円居」など、内容はすっかり忘れたが読んだ記憶がある。
その2冊のほかに、古井氏が翻訳したヘルマン・ブロッホ「誘惑者」を収めた本がある。これも書棚のいちばん上、白川(静)先生の著作といっしょに並んでいる。40年以上前、この「誘惑者」を読んでみようと思ったのは、古井氏の翻訳だったからだ。ちゃんとそのことを覚えている。
私は、この本をとても気に入り、時間をかけて読んだ。あまりにおもしろかったので、東京近郊に住んでいた高校の同級生に贈った。なので、今ある「誘惑者」本は、そのとき購入したものではない。贈った本は、大手出版社の文学全集の1冊で、確かムージル・ブロッホの2人の作品が入っていたような気がする。その後、何かの折に、東京でその同級生に会ったとき、彼はブロッホのおもしろさがまったくわからないと言った。
もう10年くらい前になるだろうか、突然、彼の言葉が私の脳裏をよぎった。釈然としない気持ちが抑えられなくなり、40年前に買った本をネットで探した。届いた本はS42年筑摩書房版の世界文学全集56。ところが、本の感触が記憶のものとは違っていた。ムージルの作品が入ってないし、版は一回り小さいような気がした。訳者は確かに古井氏で、巻末には古井氏によるブロッホと本の解説がついていた。
今回、調べてみたら、筑摩書房は世界文学大系というシリーズも出していて、その64巻(S48年刊)に「ムージル ブロッホ」があった。半世紀近くも前の若き日に手にした本の装幀を憶えているとは、ほんとうに信じがたい。
本を贈った同級生と会ったのはそれきりだった。彼は私が知らないうちにこの世を去っていた。30年も前のことだ。(2020.4.29)