十 その後のとのとヴァロン
とのの家からヴァロンの家までは二十キロメートル以上も離れており、猫の足では行き来ができなかったので、とのはときどき嫌いな車に乗せてほしいと暁彦に頼んだ。そのころのヴァロンは、とのの体の半分くらいにやせて外に出ようとしなくなり、とのが「遊ぼうよ」とちょっかいを出しても乗ってこなかった。ちなみに、とのの体型は、最盛期の七キログラムの体重のときに比べるとスリムになったが、それでも平均的なネコより太って見えた。
「ねぇ、ヴァロン、少しやせたんじゃないか。食欲がないのかい?」
ヴァロンに寄り添ったとのは、元気なころのヴァロンがいつも背中に馬乗りになって押さえつけてきたことを思い出し、「どうだい。またやってみないか。」と背中をヴァロンに押しつけると、ヴァロンはニヤッとして、骨張った手を片方だけとのの背中に置いた。その手は、とのがはっとするほど軽かったが、しばらくの間、とのの背中から離れなかった。
平成一三年六月、ヴァロンは十四才になってまもなく、体調を崩して死んだ。あっけないほど急だったので、とのはヴァロンの死に目に会えなかった。ヴァロンの家族も体調が思わしくなく、ていねいに面倒をみてやれなかったことを悔やんだ。とのの盟友ヴァロンは静かにいさぎよく逝った。
翌一四年六月初め、とのは突然オレンジ色の小便をした。しばらく前から体重が少しずつ減り始め、体力が落ち、暁彦たちが寝る前にベッドに行く回数が増えていた。急にめまいがして倒れることがあったが、とのは誰にもそのことを言わなかった。奈月は、初めて見るオレンジ色の小便に驚き、何か重大な病状の進行を感じ取った。すぐ、近所の動物病院の女医さんに相談し、小さなころ骨の発育不全の治療に通った札幌の病院で診てもらうことにした。その病院は、札幌の中心街を流れる広々とした河川に沿って住宅が密集する一角にあり、十数年前と場所は同じだったが、建物はきれいに建て直されていた。暁彦と奈月は、とのがおとなしく座っている診察台を囲んで、医者の診断を待った。「痛いかい。」というように、医者はとのの腹を押しながら、顔の変化を看ていた。「………」とのは無言で表情を変えることはなかった。肝臓の機能を表す数値が異常に高いので、肝臓か胆のうの機能低下か、あるいは胆管の詰まりによる障害が想定された。はっきりした診断のためには腹部を切開しなければならないが、十四才という年齢では大きなリスクが伴い、開腹しても根本的な治療はできないかもしれないというものだった。
奈月は、この一年ほど、とのを健康診断に連れて行ってなかったことが心に引っかかった。いっしょに暮らしているからなのか、とのは老年期にさしかかってもいつも元気で若々しく見えた。近所の女医さんは、一年前、初めてとのを見たとき、壮年のネコと見間違ったそうだ。だからといって検診を受けさせなかった言い訳にはならないと、奈月は自分のうかつさを責めた。
彼女はいったんは落ち込んだが、小さなとのの命を救ってくれた病院から厳しい診断が申し渡された今となっては、後悔しても何ひとつ解決するわけではなく、とのの生命力と家族の看護によって危機を乗り切るしかないと思い直した。とのは、「ボクはだいじょうぶだよ。」と何も起きていないような平静な様子だった。
その日から近所の病院に通い、毎日三時間以上の点滴治療が開始された。女医さんは、とののレントゲン写真を見て、「との君の骨はほんとに薄かったんですね。」と、驚きを抑えながら奈月に言った。奈月は、とのの骨の治療は十年以上も前に終わっていると思いこんでいたので、女医さんの言葉は意外だった。こんな薄い骨で元気に生きてきたとのが、今さらながら愛しかった。
とのは、病院が好きではなかったが、女医さんが次々訪れる患者たちに心やさしく対応する姿を見ていると心が落ち着いた。女医さんは日曜日を返上して点滴してくれた。長い点滴を終えて家に戻ったとのは、腕に入っている点滴の針が煩わしいだけで、体のどこかが痛むわけではなかったが、体の力が抜けたような感じがして、日がな一日寝ている状態だった。せっかく用意してくれた大好きなボイルエビやゆで立てのカニの身の匂いにも食欲がわかなかった。便を排泄する力さえ入らなかった。腹が次第にふくれてきてお尻の方から腹水がしみ出し、少し気持ちが悪かった。
暁彦と奈月は、「外に出たいよ。」と言うとのの体を厚いタオルに包み、かわるがわる抱いて、家の周りや小学校の校庭などの散歩コースをゆっくり巡った。その年の七月は、風に当たると体が冷えるほど気温が低かった。とのは、小学校の裏庭に下りたくなり、タオルの外に手を出して芝生に軽く触ってみた。すると、氷のように冷たい芝生の感触が肉球に伝わってきて、思わず身震いした。
そのころ、暁彦は、公私ともに相変わらず忙しかったうえに、ワールドカップサッカーが日本と韓国で同時開催されているときで、遅い時間に仕事から帰るとすぐ、居間のテレビの前のテーブルに陣取り、夕食を美味そうに食べながら、サッカーの試合にかじりついた。とのは、体調を崩してから暗い場所に隠れるようになったので、居間とトイレに近い部屋のテーブルの下にとのの寝床を作ったのだが、暁彦は、すぐ近くのとののことなどまったく忘れているようだった。
「とののことが気にならないの?」
暁彦の食事とサッカー観戦が一段落したところで、奈月が不機嫌な口調で言った。
「今、様子を見に行こうと思っていたんだ。」
暁彦は弁解するように言い、とのが寝ている部屋にあわててかけ込んだ。とのの容態を一日中気に病んでいる奈月の気持ちは、暁彦の無神経な態度によって逆なでされた。暁彦も、とののことが気にかからないはずはなく、仕事をしていてもずっと気持ちがふさいでいた。意気地のない彼は、家に帰ると、やつれ果てて骨と皮になったとのを見るのがつらくてたまらず、とののもとにまっすぐ行く勇気がなかったのだった。
七月中旬までの約四十日間、点滴に通ったが、とのの容態が良くなることはなかった。奈月は思い切って女医さんにとのの病状を聞いた。女医さんは声を落として、「これ以上点滴を続けても快復は望めないでしょう。」と言った。奈月が、点滴をやめたらどのくらい保つのか質問すると、一週間くらいという診断だった。奈月は、こちらを見ているとのの視線を感じた。「心配しなくてもいいよ。」と言っているかのような穏やかな目だった。奈月は翌日からの点滴を断り、とのをしっかり抱いて家に帰った。
一歩も歩けないと思っていたとのが、目を離した隙に、トイレまでの数メートルの距離を移動しようとして力尽き、途中で失禁してしまった。「トイレでおしっこしたい。」と言うとのをトイレに抱いていくと、ほっとした様子で排尿した。夜になると暁彦と奈月は交代でとのに添い寝した。
点滴を中止して二日後、暁彦が出張で一泊、家を空けた。「事情が許せば断るところなんだが。」と言いながら出かけたその夜、とのは何度か苦しそうに荒い息づかいをしたが、奈月は、その度に「父さんが帰ってくるまで頑張るんだよ。」と言い聞かせた。暁彦は金曜日の夜遅く帰宅して、とのの傍に寝た。とのの反応はかなり鈍くなっていたが、光をほとんど失った目でこちらを見ようとする気配が感じられた。今夜がとのの最期になったとしても、自分の気持ちをしっかり持って対応しようと思った。
翌平成一四年七月二〇日、朝から二人してとのの様子を見守った。水さえ自力で飲めない状態のとのに、スポイトの水を近づけると、彼はおいしそうに喉を鳴らして飲んだ。その日は、とのがやってきて十五年目の、秋と間違うほど涼しい日だった。午前十一時半ころ、とのは息づかいが荒くなり、奈月の腕に抱き上げられると、子猫が甘えて両前足の肉球を交互に母猫の胸に押しつける仕草をした。目を薄く開け、「ねぇ、母さん、ずっといっしょにいてよ。」とでも言っているように思えた。そして、息苦しそうに口を数回大きく開けた直後、静かに息を引き取った。苦しそうにしてから、わずか数秒間のあっという間の出来事だった。
とのの亡骸は、隣町のペット霊園の火葬場で焼いてもらった。薄っぺらで頼りなげだったはずのとのの骨は、目が覚めるほど真っ白で美しく、整った形をしていた。とのの遺骨を抱え、帰宅した暁彦と奈月は、家の中にとのがいないことが信じられず、しばらくぼう然と立ちつくした。とのの遺骨を納めた小さな箱を居間のテーブルの上に置き、見るともなく部屋を見渡したとき、その空間が不自然なほど広く、そこが自分の家だとはとうてい思えなかった。
ふと、とのはもう少し生きていたかったのではないだろうかという思いがよぎったが、とのの安らかな臨終の場面を思い出し、その考えを打ち消した。自分たちの大切な息子だったとの、そして、とのと過ごした十五年間、その記憶は永遠になくなることがないのだから、そんなに悲しまなくていいと何度も自分自身に言い聞かせたが、あふれる涙を止めることはできなかった。
とのの遺骨は仏壇の横の祭壇に置かれた。奈月は、生きているとのにするように、毎日その遺骨に向かって話しかけた。翌年の春になり地面の凍結がゆるんだころ、いつまでもかたわらに置いておきたかったが、居間のガラス窓のすぐ下にある花畑の隅に小さな穴を掘って、とのの遺骨を埋めた。(黒猫とのの冒険了)
<追伸> えりなから、「Tono Forever」という言葉を添えて、微笑むとのの姿を描いた小さな板絵が送られてきたのは、翌年1月の奈月の誕生日だったと思う。そのときから8年もの歳月が経過するというのに、とのといっしょに行きつ戻りつする不思議な旅を、時間の流れにあらがい、これからも続けていくのだろうか。
とのの家からヴァロンの家までは二十キロメートル以上も離れており、猫の足では行き来ができなかったので、とのはときどき嫌いな車に乗せてほしいと暁彦に頼んだ。そのころのヴァロンは、とのの体の半分くらいにやせて外に出ようとしなくなり、とのが「遊ぼうよ」とちょっかいを出しても乗ってこなかった。ちなみに、とのの体型は、最盛期の七キログラムの体重のときに比べるとスリムになったが、それでも平均的なネコより太って見えた。
「ねぇ、ヴァロン、少しやせたんじゃないか。食欲がないのかい?」
ヴァロンに寄り添ったとのは、元気なころのヴァロンがいつも背中に馬乗りになって押さえつけてきたことを思い出し、「どうだい。またやってみないか。」と背中をヴァロンに押しつけると、ヴァロンはニヤッとして、骨張った手を片方だけとのの背中に置いた。その手は、とのがはっとするほど軽かったが、しばらくの間、とのの背中から離れなかった。
平成一三年六月、ヴァロンは十四才になってまもなく、体調を崩して死んだ。あっけないほど急だったので、とのはヴァロンの死に目に会えなかった。ヴァロンの家族も体調が思わしくなく、ていねいに面倒をみてやれなかったことを悔やんだ。とのの盟友ヴァロンは静かにいさぎよく逝った。
翌一四年六月初め、とのは突然オレンジ色の小便をした。しばらく前から体重が少しずつ減り始め、体力が落ち、暁彦たちが寝る前にベッドに行く回数が増えていた。急にめまいがして倒れることがあったが、とのは誰にもそのことを言わなかった。奈月は、初めて見るオレンジ色の小便に驚き、何か重大な病状の進行を感じ取った。すぐ、近所の動物病院の女医さんに相談し、小さなころ骨の発育不全の治療に通った札幌の病院で診てもらうことにした。その病院は、札幌の中心街を流れる広々とした河川に沿って住宅が密集する一角にあり、十数年前と場所は同じだったが、建物はきれいに建て直されていた。暁彦と奈月は、とのがおとなしく座っている診察台を囲んで、医者の診断を待った。「痛いかい。」というように、医者はとのの腹を押しながら、顔の変化を看ていた。「………」とのは無言で表情を変えることはなかった。肝臓の機能を表す数値が異常に高いので、肝臓か胆のうの機能低下か、あるいは胆管の詰まりによる障害が想定された。はっきりした診断のためには腹部を切開しなければならないが、十四才という年齢では大きなリスクが伴い、開腹しても根本的な治療はできないかもしれないというものだった。
奈月は、この一年ほど、とのを健康診断に連れて行ってなかったことが心に引っかかった。いっしょに暮らしているからなのか、とのは老年期にさしかかってもいつも元気で若々しく見えた。近所の女医さんは、一年前、初めてとのを見たとき、壮年のネコと見間違ったそうだ。だからといって検診を受けさせなかった言い訳にはならないと、奈月は自分のうかつさを責めた。
彼女はいったんは落ち込んだが、小さなとのの命を救ってくれた病院から厳しい診断が申し渡された今となっては、後悔しても何ひとつ解決するわけではなく、とのの生命力と家族の看護によって危機を乗り切るしかないと思い直した。とのは、「ボクはだいじょうぶだよ。」と何も起きていないような平静な様子だった。
その日から近所の病院に通い、毎日三時間以上の点滴治療が開始された。女医さんは、とののレントゲン写真を見て、「との君の骨はほんとに薄かったんですね。」と、驚きを抑えながら奈月に言った。奈月は、とのの骨の治療は十年以上も前に終わっていると思いこんでいたので、女医さんの言葉は意外だった。こんな薄い骨で元気に生きてきたとのが、今さらながら愛しかった。
とのは、病院が好きではなかったが、女医さんが次々訪れる患者たちに心やさしく対応する姿を見ていると心が落ち着いた。女医さんは日曜日を返上して点滴してくれた。長い点滴を終えて家に戻ったとのは、腕に入っている点滴の針が煩わしいだけで、体のどこかが痛むわけではなかったが、体の力が抜けたような感じがして、日がな一日寝ている状態だった。せっかく用意してくれた大好きなボイルエビやゆで立てのカニの身の匂いにも食欲がわかなかった。便を排泄する力さえ入らなかった。腹が次第にふくれてきてお尻の方から腹水がしみ出し、少し気持ちが悪かった。
暁彦と奈月は、「外に出たいよ。」と言うとのの体を厚いタオルに包み、かわるがわる抱いて、家の周りや小学校の校庭などの散歩コースをゆっくり巡った。その年の七月は、風に当たると体が冷えるほど気温が低かった。とのは、小学校の裏庭に下りたくなり、タオルの外に手を出して芝生に軽く触ってみた。すると、氷のように冷たい芝生の感触が肉球に伝わってきて、思わず身震いした。
そのころ、暁彦は、公私ともに相変わらず忙しかったうえに、ワールドカップサッカーが日本と韓国で同時開催されているときで、遅い時間に仕事から帰るとすぐ、居間のテレビの前のテーブルに陣取り、夕食を美味そうに食べながら、サッカーの試合にかじりついた。とのは、体調を崩してから暗い場所に隠れるようになったので、居間とトイレに近い部屋のテーブルの下にとのの寝床を作ったのだが、暁彦は、すぐ近くのとののことなどまったく忘れているようだった。
「とののことが気にならないの?」
暁彦の食事とサッカー観戦が一段落したところで、奈月が不機嫌な口調で言った。
「今、様子を見に行こうと思っていたんだ。」
暁彦は弁解するように言い、とのが寝ている部屋にあわててかけ込んだ。とのの容態を一日中気に病んでいる奈月の気持ちは、暁彦の無神経な態度によって逆なでされた。暁彦も、とののことが気にかからないはずはなく、仕事をしていてもずっと気持ちがふさいでいた。意気地のない彼は、家に帰ると、やつれ果てて骨と皮になったとのを見るのがつらくてたまらず、とののもとにまっすぐ行く勇気がなかったのだった。
七月中旬までの約四十日間、点滴に通ったが、とのの容態が良くなることはなかった。奈月は思い切って女医さんにとのの病状を聞いた。女医さんは声を落として、「これ以上点滴を続けても快復は望めないでしょう。」と言った。奈月が、点滴をやめたらどのくらい保つのか質問すると、一週間くらいという診断だった。奈月は、こちらを見ているとのの視線を感じた。「心配しなくてもいいよ。」と言っているかのような穏やかな目だった。奈月は翌日からの点滴を断り、とのをしっかり抱いて家に帰った。
一歩も歩けないと思っていたとのが、目を離した隙に、トイレまでの数メートルの距離を移動しようとして力尽き、途中で失禁してしまった。「トイレでおしっこしたい。」と言うとのをトイレに抱いていくと、ほっとした様子で排尿した。夜になると暁彦と奈月は交代でとのに添い寝した。
点滴を中止して二日後、暁彦が出張で一泊、家を空けた。「事情が許せば断るところなんだが。」と言いながら出かけたその夜、とのは何度か苦しそうに荒い息づかいをしたが、奈月は、その度に「父さんが帰ってくるまで頑張るんだよ。」と言い聞かせた。暁彦は金曜日の夜遅く帰宅して、とのの傍に寝た。とのの反応はかなり鈍くなっていたが、光をほとんど失った目でこちらを見ようとする気配が感じられた。今夜がとのの最期になったとしても、自分の気持ちをしっかり持って対応しようと思った。
翌平成一四年七月二〇日、朝から二人してとのの様子を見守った。水さえ自力で飲めない状態のとのに、スポイトの水を近づけると、彼はおいしそうに喉を鳴らして飲んだ。その日は、とのがやってきて十五年目の、秋と間違うほど涼しい日だった。午前十一時半ころ、とのは息づかいが荒くなり、奈月の腕に抱き上げられると、子猫が甘えて両前足の肉球を交互に母猫の胸に押しつける仕草をした。目を薄く開け、「ねぇ、母さん、ずっといっしょにいてよ。」とでも言っているように思えた。そして、息苦しそうに口を数回大きく開けた直後、静かに息を引き取った。苦しそうにしてから、わずか数秒間のあっという間の出来事だった。
とのの亡骸は、隣町のペット霊園の火葬場で焼いてもらった。薄っぺらで頼りなげだったはずのとのの骨は、目が覚めるほど真っ白で美しく、整った形をしていた。とのの遺骨を抱え、帰宅した暁彦と奈月は、家の中にとのがいないことが信じられず、しばらくぼう然と立ちつくした。とのの遺骨を納めた小さな箱を居間のテーブルの上に置き、見るともなく部屋を見渡したとき、その空間が不自然なほど広く、そこが自分の家だとはとうてい思えなかった。
ふと、とのはもう少し生きていたかったのではないだろうかという思いがよぎったが、とのの安らかな臨終の場面を思い出し、その考えを打ち消した。自分たちの大切な息子だったとの、そして、とのと過ごした十五年間、その記憶は永遠になくなることがないのだから、そんなに悲しまなくていいと何度も自分自身に言い聞かせたが、あふれる涙を止めることはできなかった。
とのの遺骨は仏壇の横の祭壇に置かれた。奈月は、生きているとのにするように、毎日その遺骨に向かって話しかけた。翌年の春になり地面の凍結がゆるんだころ、いつまでもかたわらに置いておきたかったが、居間のガラス窓のすぐ下にある花畑の隅に小さな穴を掘って、とのの遺骨を埋めた。(黒猫とのの冒険了)
<追伸> えりなから、「Tono Forever」という言葉を添えて、微笑むとのの姿を描いた小さな板絵が送られてきたのは、翌年1月の奈月の誕生日だったと思う。そのときから8年もの歳月が経過するというのに、とのといっしょに行きつ戻りつする不思議な旅を、時間の流れにあらがい、これからも続けていくのだろうか。